2010年10月19日火曜日

高瀬志帆「恋の秘伝味噌!」(2002)~フザけんなー~

 
 高瀬志帆(たかせしほ)さんの「恋の秘伝味噌!」(*1)は、かいつまんで書けばこんなお話です。

 
 結婚に踏み切れない男の気持ちをおんなが探っていくと、それが実家のホルモン屋の窮状に関わることが分かってきます。狂牛病騒ぎで多額の借金を負った店主(男の父親)が継続を諦めかけており、それを見かねて会社勤めからの転進を図ろうとする。債務を背負っての再出発に愛しいひとを巻き込んでいいのかを思い悩み、打ち明けられぬままに時間が過ぎていく。

 それを知ったおんなは「フザけんなー」と啖呵を切り、店に乗り込んで配膳の手伝いを始めます。焼鳥屋として改装なった狭い店でささやかな結婚披露宴が行なわれ、気のおけない友人たちの祝福を受けて喜色満面のふたりなのでした。



 “結婚”をテーマにした雑誌(*2)に掲載なったものらしく、あとがきに筆者は「ククリに苦しんだ末、イカれた話に」なったと明かしています。単行本には5篇収められていて、どれもこれもがうら若き男女の恋愛譚なのだけど確かにいちばん空転した印象を抱かせます。ほかの収録作の放っている治まらぬ動悸、汗まみれの切実さ、荒々しさと比べていかにも優等生っぽい仕上がりです。


 死に至るまでが旅の途上にあり続ける“魂のこと”を、結婚をゴールと断じて集束していくことに違和感が生じるのだし、土台無理があるのですね。山なり谷なりの起伏が結婚に至るみちすじにはあるものだし、感情の衝突、計算、逡巡もあれば諦観もあって平坦なものでは決してない。“しあわせな”という冠が付いた結婚を描くとすれば、なおさら紙面なり文章をたくさん割いて向き合わないといけない。それを作者の高瀬さん自身が誰よりも先に気付いている、気付いていながらもペンを走らせねばならない。因果な商売です。


 代々受け継がれた“味噌タレ”にしても二つの魂の行方を変針させるには役不足であり、その肝心な部分を共感できない僕のこころは一向に波立たないのでした。ずいぶん前に買い求めた本であったのだけど、これまでこの日記に取り上げなかったのはこの“味噌タレ”がピンと来ないからでした。


 では何を思ってこの場に載せようとするかと言えば、興味深い絵が単行本の表紙を飾っているからなのです。これがなかなかの“みそ汁”で記録に値する怖さ、面白さです。


 華やかな晴れ着に飾られたおんなが小振りのお椀を胸元に掲げている。褐色のどろっとした液体が覗くその中に、白色のキュービックが3個浮き沈みしている。無理をすれば汁粉(しるこ)に見えなくもないけど、桃色に縁取られたタイトル文字との兼ね合いから言って十中八九これは豆腐の“みそ汁”です。そして、今まさにその“みそ汁”の器から汗だくになりながらひとりの男が這い出ようとしているのだったし、悲鳴を上げたり、転倒しながら一目散に逃げ出そうとしている若い男の群れが手前に配されている。


 おんながキングコングほども巨大なのでなく、男たちが矮小化されている。右往左往して逃げ惑う男たちを睥睨するおんなは、間もなく緑色の箸をぞわり動かして男の身体をつかみ上げ、ぶわっと裂け開いた唇の奥の奥へと押し込むに違いない。


 よくよく観察すればこの表紙画は、カバー裏の中央を飾るおんなの横顔と一対になっています。素裸にエプロンを羽織ったおんなが手に持っているのはオタマであって、これはおんなが“みそ汁”調理の只中にあることを示しています。

 金属質の輝きを放つオタマのへりを下唇にじっとり押し当てたおんなは、薬にやられて虚空を睨むベット・ミドラーさながらの洞穴(ほらあな)みたいな眼つきになっており、完全に幻影の虜(とりこ)です。おいおい…



 男とおんなの恋情をめぐる、喰うか喰われるかの駆け引きが象徴的に表されていると共に、女性が内側に潜めている肉欲、支配欲、観察眼、非情さ、たくましさが乱反射しています。“みそ汁”に託されがちな家庭の団欒、おんならしさ、母性を蹴散らす勢い。間違いなく「魂の食べもの」として登用された“みそ汁”が、白い湯気を昇らせながら中空に浮かんでいるのですが、ここまで妖しく色めいて描かれることは稀有なこと。


 怖いですねえ、作者の高瀬さんも、これを当たり前の漫画として頷く女性たちも。
 ほんとうに怖い、怖いけれど愛しい、困ったことながらそう思います。


 所詮、男は食べられる宿命、なのかもしれないですねえ…


(*1):「恋の秘伝味噌!」 高瀬志帆 2002 同題単行本 大都社 2003 所載 
(*2):「結婚しようよ」 ぶんか社 2002 詳細不明 

“こもごも”

 食事中の方、ごめんなさい。尾龍(びろう)な話になります。


 同僚の女性が泣きそうな顔で訴えるのです。トイレの排水が上手くいかない、屋外に位置するマンホールが詰まって溢れて大変なことになっている…。大騒ぎされても困ります、状況が状況なので誰も来ないようにお願いしてから長靴を履き、軍手をかけて単身現場に向かいました。ひゃあ!確かにこれは大変な事態。


 新潟三条で堤防が決壊して、大量の川の水が住宅や事業所に押し寄せてしまったことが以前ありましたね。下水も当然ながら逆流してきてとんでもない状況に陥ったことを、あの時あの場所におられた取引先の担当の方が真剣な目つきと声で語ってくれたものでした。言葉を選んで静かに、けれど諭すようにして話してくれた彼の面影がふと蘇えりました。ああそうか、こんな具合だったのか。そりゃ、だよね…


 業者を呼んで対応しても良いのですが、早々に来てくれるとは限らない。来てくれたにしても、その人がやる事と僕がやる事に違いはないでしょう。いつか起こるだろう災害時の予行練習と思えば、ちょっとは背中を押されるところもあるのでした。なんちゃって、無理してらあ…


 
 孤軍奮闘の末、障害になっていた物体がいよいよ姿を現しました。いや~驚きましたね。

 写真家ダイアン・アーバスさんの人生の転機を題材にした幻想的な映画(*1)がありましたが、あのとき彼女が詰まった配水管を清掃して見つけたものはおびただしい量の体毛でした。アパートメントの上の部屋に越してきた男が多毛症という設定で、浴室の排水溝から流れ行った長い体毛が何らかの拍子に途中で次々と溜まっていったのです。あの時の二コール・キッドマンの唖然とした表情と僕の顔付きは多分同じだったはず。



 それは植物の“根”でした。小学校の時分に球根の水耕栽培ってやりますよね、ヒヤシンスとかクロッカスの。あんな感じの細く長い根がびっしりと束になって育ち、配管の幅いっぱい一杯に茂っていたのです。下水道内部に侵入した根自体はか細い針金みたいなものでしかなく、それは塀越しに隣地からヨタヨタと地中を進んで延び入ったらしいのも凄いのだけど、そんな一本の細い根の先っちょに習字の筆を何百倍にしたような毛細状の根を貯えていく植物のしたたかさ、粘り強さが驚異としか言いようがない。


 ウェブで検索するとこの手のトラブルは割合多いようです。5年に一度くらいは意を決してマンホールを覗き、紛れ込んだ根っこを取り除いてしまうことをお奨めします。




 散々厭なイメージを植え付けてしまいましたから、それらを払拭(忘却)するためにも別な話題を。先日ドライブして古い洋風建築を観てきたところです。二箇所に足を運んだのでしたが、いずれも内部は歴史資料館になっていました。オルガンや鉱山用ヘルメットなどの無駄に凝った意匠が楽しかったですね。物のありがたみが滲(にじ)み出てくるような感じで、きっと大事に大事に使ったのでしょうね。

 防寒具を重ねまとった人形も淋しげだけど幸せそうです。無人のフロアにはどこからか迷い込んだ一匹のスズメバチが飛び、出口を探しあぐねてコツコツと天井に当たっていく、その微かな音がするだけ。



 時間が止まったような光と匂いが、日頃のせわしなさや“こもごも”を忘れさせてくれます。
 

(*1):Fur: An Imaginary Portrait of Diane Arbus 2006

2010年10月14日木曜日

みやわき心太郎「白い日日」(1972)~三十四(みそし)る~


  狭い電話交換室でひとり機械に向かっている章子

  その肩をポンと叩く者あり。三歳年長の同僚が箱を差し出して

同僚「おそまきながら お誕生日おめでとうござんす」

章子「(包みを受け取り)まあ ありがとう」

同僚「そうスンナリ喜ばないでよ 恐怖の三十(サント)リーオールドよォ~~」

章子「あ~~っ ひど~~いん」

同僚「ウイヒヒヒヒ」

章子「いいわ 来年三十四(みそし)るプレゼントしてやるから」

同僚「(笑顔で部屋を出ていく)なんのなんの」

章子「ありがとう……………」

  ドアが音をたてて閉まる。背を向けて押しだまる章子

章子「……… ……… ………」(*1)


 人生には思いがけない出会いがあります。その出会いを通じて未知の本や映画、音楽、風景と見(まみ)えることは実に嬉しく愉しいこと。人からひとへと敬愛するものが伝播していく、そこには生きていることの手応えがあります。

 偶然なのか必然なのか知り合えたひとがいて、彼はある著名な“作り手”のアシスタントとして活躍された方なのでしたが(前にも書きましたね)、思い切ってお家に遊びに行かせてもらった時に教わったのが“みやわき心太郎(しんたろう)”さんでした。

 僕のこれまでの道のりに、みやわきさんは居ないに等しかった。失礼とは思うけど本当のことです。書棚から出していただいた単行本、「花嫁」(*2)だったか「あたたかい朝」(*3)だったかの表紙や最初の数カットを見ただけで、繊細な息づきや天才肌の筆づかいがにわかに感じられて強い焦りを覚えました。この年齢まで知らずにいた、読まずにいたことに対する焦りです。

 駅前や繁華街を流れる雑踏や、絵画教室に集い素描に励む若者たち。背景描写に過ぎないそんなひとりひとりに生命が吹き込まれて見えます。また、カメラに相当する目線が俯瞰気味に主人公を眺めたり、背後にぐるり回ってみたり、足元に降りて地面から見上げるなど自在にコマが展開していながら、いささかも絵に狂いが生じていない。さりげなさを装いながら人物の心象をそうっと託した深慮あふれた構図が続きます。上手だな、凄いな。唖然として見惚れてしまいました。

 原作者を別に置いて作画のみを担当された(扇情的なタイトルの)作品がみやわきさんの代表作にあり、それをもって頑迷に彼の全作品を遠ざけていた自分を恥じました。帰宅後すぐに古書店やオークションを通じ、入手可能なだけの単行本を探し求めた次第です。


 「白い日日」と題された28頁の小編は三十歳になったばかりの独身女性の話です。故郷を強引に飛び出して今はアパート住まい。仕事は会社の電話交換手で、騒音を避けるために重い扉に閉ざされた小部屋に朝から晩までこもって過ごしています。外からの電話を取り次ぐだけで飛ぶように時間が過ぎていく。

 通勤中の彼女を見初める男が現れます。堰き止めていたこころが決壊して寄り添う仲となり、やがて結婚に至ります。空しい時間からようやく解放されるのです。ところが、雑誌編集に携わる働き盛りの夫の帰宅は真夜中になったり泊り込みが常であり、ぽつねんと捨て置かれた章子の状況は形を変えはしても実質は同じだった。

 ある日、風邪をこじらせ早帰りした夫に対して章子は医者を呼び、自身もかいがいしく介抱に努めます。髭(ひげ)を剃るのを手伝い、果物の皮を剥いて食べさせる毎日。診断によれば初期段階の肺炎で数日もすれば快復するはず、なのに、不思議と夫の症状は足踏みを繰り返します。

 処方された薬を章子が隠したのです。空白の日日を埋め戻すために。重篤な状態になるまで二ヶ月間も放置され、遂に夫は絶命します。


 三十歳を過ぎた辺りで肉体的にも精神的にもいよいよ円熟し、花弁を思い切り開くようにして僕たち男を外貌、内実ともに圧倒しまくる現代女性と比べると、章子というおんなはずいぶんと弱々しく自律していない感じがします。隔世の感につくづく襲われる物語なわけですが、男とおんなという枠を外せばどうでしょう。“草食系男子”を擁する当世にも十分に通じる気配があります。このような孤絶感や虚しさは誰の胸にも幾度か去来するものだし、喉を掻きむしられるような“白い日日”は僕の記憶の底に潜んでいる。都会に住まう地方出身者の懊悩や内省ぶりが、実にたよやかに等身大にて描かれていて、あっさり気持ちを持っていかれました。軽々と時代を超えて胸に迫りくる、その普遍性がすばらしい。

 上に掲げた場面は年齢を重ねていくことの不安、疎外感を的確に描いてみせた幕開け直ぐの描写です。“三十四(みそし)る”と発した瞬間に章子というおんなの脳裏に何が瞬(またた)いたのか、その響きはプラスマイナスどちらに針を振ったのか、見た限りにおいては分かりません。三十路(みそじ)と“みそしる”とを重ねる単純な言葉遊びです。気の置けないおんな同士の洒落の応酬であり、特段の意味は含んでいないかもしれない。

 ただ、帰宅後ひとりで呷るしかない酒を贈り贈られ、祝いの品に到底ふさわしくない“みそしる”を(たとえ冗談であったにせよ)口にする独身同士なのです。その乾燥した笑いを交えた応酬は硬直して型にはまってしまった章子の日常を裏打ちしていて、大いに憐れみを誘って見える。実際、押し寄せる無言の波に章子はひとり溺れ沈んでいくようであり、直前に為された会話がなんとも言い難い寂々たる音調となって、交換室の狭い空間でわんわんと残響していくようなコマが連なっていく。

 ですから、ここでの“みそしる”にはややマイナスのイメージが付されている。嘆いているのではありません。うまく魂に喰い込んでいる、役どころとして決して悪くないと思うのです。哀しくて存在感のある“みそしる”が刻まれているのであって、こんな登用は誰でもが出来るものではない。みやわきさんらしい発想だと唸るのです。

 人生の機微を見つめ続け、丁寧に、とても大事にひとコマ、ひとコマを描いていかれた。奇抜さやはったりが無く、仰天させる見開きや突き抜けたものは見当たらないのだけど、上質の和菓子か冷酒をいただいたような充ち足りた読後感がありました。“三十四(みそし)る”に代表される日常の光景の、幸福と不幸せが混濁して同居するような一瞬をさらさらと紙面に残していった行為は、一見のどかに見えながら、自律した大人のきびしいまなざしに貫かれていました。諭されるものがとても多い、骨の通った作風でした。

 同時代的に追いかけることはありませんでしたが、不思議な縁で紹介されてこの時期に深く読み進められたことを感謝しつつ、到底届かない言葉ながら贈らせてもらいます。



みやわきさん、素敵な物語をたくさん有り難うございました。今度は僕が紹介する番ですね。「良い本があるよ、もう君は読んだかな」、そうやって若いひとに薦めていこう。どうぞゆっくりとお休みください。


(*1):「白い日日」 みやわき心太郎 1972 初出「トップコミック」
  「潮風のルフラン」道出版 2004 所載  下段のコマも同作から
(*2):「花嫁」 みやわき心太郎 朝日ソノラマ 1976
(*3):「あたたかい朝」 みやわき心太郎 朝日ソノラマ 1977

2010年10月12日火曜日

傾斜面



きっとこの辺りの小学生にはハイキングコースなんだろう、けど、なかなかの急傾斜で息を切らしながらの小登山。中年男にはいい運動と気分転換になりました。熊はいなかったけど蛇は会ってくれましたよ。薄い緑色の肌が秋の陽にぴかぴか光って綺麗だった。まだまだその気になれば不思議な場所ってあるものです。

2010年10月9日土曜日

神の池~その二~




それも、この風景にひとりきりで対峙できるなんて──

波長の合う人と一緒に向き合うことが出来たら、
生涯忘れられない時間になるだろうな、きっと。

そんな厳かな場処でした。