2009年6月28日日曜日
浦沢直樹「PLUTO」(2003-09)~忘れられない~
二ヵ月後・東京国際空港──
お茶の水「ようこそ。久しぶりだね、ホフマン博士。」
ホフマン「調査団以来ですね、お茶の水博士。あ……紹介します。」
ヘレナ「ゲジヒトの妻のヘレナです。」
お茶の水「この度は……何と申し上げればよいか……
何かお力になれることがあれば……」
ヘレナ「いえ……お招きいただいて本当に感謝しています。ゲジヒトは、
私とまたゆっくり日本に来ることを楽しみにしていました。
あの日ももう日本行きの予約を入れていて……」
お茶の水「………」
職員「長官、マスコミにかぎつけられる前に早く……」
お茶の水「あ……ああ、そうだな。」
(ヘレナ、職員に先導されてお茶の水とホフマンから離れる)
ホフマン「彼女、ずっと気丈に……」
お茶の水「やはりゲジヒトは一連のロボット破壊事件の犠牲者では……」
ホフマン「はあ……ユーロポールも結論を出しかねています。
我々の命も、まだ狙われているかも……」
(ヘレナ振り返る)
ヘレナ「お茶の水博士。」
お茶の水「ん?」
ヘレナ「ゲジヒトの言った通りです。」
お茶の水「何がだい?」
ヘレナ「日本の空気には、ほんの少しお醤油の成分が含まれているって……」(*1)
イラン政府が改革派の抗議デモを弾圧し、その渦中で若い女性が亡くなる様子がYouTubeで配信されています。胸元を撃たれて路上に倒れ、周囲の人の懸命な止血の甲斐なく死に呑まれていく。衝撃的で痛ましい映像です。別の投稿ではデモの様子を遠目に見ながら歩いている生前の様子もあり、やや幼さが残るその後姿との段差が哀しくって遣り切れなくなります。真夜中に何度か繰り返して観守りながら、胸の奥でわんわんと反響するものがありました。生はもろく、とてつもなく儚いものだと感じます。
もっとも、いくら観たところで中東の情勢が変わるものではありません。何ひとつ現地の政治の構造や歴史を知らない身ですから、憤然とここで抗議の言葉を書き殴ったところで感情論にしかならない。改革派という政治集団が勢力を強めていくことが市民に恒久的な平穏をもたらす保証はどこにもない。逆に悪化しないとも限らない。何が善で何が悪かの判断基準を持たぬ僕は、彼女のきょとんと当惑するような表情と、その刹那にたちまち輝きを失っていく美しい両の黒い瞳と、とめどもなく唇と鼻腔から溢れ出る鮮血を脳裏で繰り返し再生していくしかない。黙って胸に沸き上がるものを解析し、己の生活に反映させていくしかありません。
目、鼻、耳、舌、その他もろもろの器官を僕たちは総動員して、日々膨大な情報を現実から受け取っています。加えて上の映像のようにして他者からもたらされる通信や紙面が、そのボリュームは倍化していきます。送られて来るものは精度をぐんぐん増し、生々しいバーチャルのそれは五感による体験と近似したインパクトをもたらし始めてもいます。僕たちのメモリーには限界があって、何もせずにいればいずれ壊れてしまうでしょう。取捨選択の仕組みがなければ成り立たない。“捨てる”または“忘れる”というプロセスなくしては到底常軌を保てそうにない時代が来つつあります。
でも、往往にして“捨てるべき”ものを捨てられず、“忘れるべき”ものを忘れられない不器用な存在が人間ってやつです。何を捨てるべきか、何を忘れるべきかでこころの中は堂々巡りを繰り返すばかりで、踏ん切りは早々には付きません。“記憶”そして“記録”というものは素晴らしいものであると同時にこの上なく厄介なものです。
今回取り上げる浦沢直樹さんの「PLUTO」(プルートウ)は、巨匠手塚治虫の「鉄腕アトム」を骨格として、多発する猟奇殺人とロボット同士の死闘を中核に据えた連載漫画です。ドイツ製の刑事ロボットであるゲジヒトがその謎を解くお話がメインストーリーであるのですが、巻を重ねるにつれてそんな事はあまり重要視出来なくなる。それよりも挿話ごとに生れ落ちる突然の“別れ”や“喪失”が、遺された者の感情を烈しく揺さぶっていく様が僕たちの視線とこころを強固に捕らえていきます。“記憶”の取捨選択の問題に直結し、テクノロジーのもたらすソフト面、つまり、こころの問題に警鐘を発すると共に、僕たち生身の人間が常に抱える撞着や依存心を振り返りして人生の意味を問い詰めるところにまで切り込んで来ます。
パソコンの恩恵に預かるようになって分るように、機械は人間が“削除”の指示を出さぬ限り、能力の続く限り記憶し続ける仕組みです。「PLUTO」の舞台となる未来世界では、僕たちと外観上寸分違わぬ骨格や皮膚を持ち、格段に向上した人工知能を持ったロボットが人間と共存しています。膨大な生活情報を統合することで感情すら起伏するに至ったロボットたちは、その世界で延々と“記憶”に翻弄されていくのです。人間でさえ制御不可能な“記憶”の問題が、“忘れられない”“捨てられない”ことで拡大、暴走していきます。
夫であるゲジヒトを破壊されたヘレナが始めて日本の地を踏みます。それが上の場面です。「PLUTO」の挿話のなかで“醤油”が登場する唯一のシーンですが、僕が最も好きな回でもあります。
へレナはゲジヒトにまつわる膨大な(鮮明で磨耗することない)記憶を抱え、必死で気持ちの統制を図ろうとします。“忘れようとして、楽しそうに振る舞い”ますが、その一方では真逆の意思も湧き上がっている。心労を気遣うホフマン博士からデータの一部消去の申し出があるのにそれを断って“あの人の思い出を消さないで”もらいたいと返答しています。ヘレナというおんなの中で、僕たち同様の逡巡が渦巻いているのが分かる。データが膨大で磨耗しない分だけ想像を絶する衝突があるのでしょう。
そうして、ついに「処理しきれない」状態になって破綻しかけます。「悲しみの量」が膨大になり、さらに「どんどん どんどん鮮明に……私……どうしたらいいか……」と顔をしかめ、身を縮ませるおんなの姿に僕はこころを打たれました。“忘却”こそ神が与えた恩恵であるのではないか。その“忘却”を軽視し、“記憶”と“記録”が価値在るものと断じて悪戯に強化する技術をどこまでも積み上げ、社会に浸透させることに誰もが躍起になっていますが、それって危険ではないかと浦沢さんは訴えている。
決して遙か未来のロボットの話ではない。誰もがポケットやバッグに録画装置を持ち歩き、声と姿を際限なく残しています。子供たちは生まれる前から記録されて成長の都度に撮られていく、そんな時代になりました。遺された者のダメージは、その映像と音声で癒されるとは限らない。
イランで殺された若い娘を襲った暴力は、次に遺族を、恋人を襲うことになります。憤激にかられ、それともイラン政府かYouTubeの管理運営者による削除を怖れてなのか、彼女の映像は次々と複製され増殖しています。こうなると延々と残ってしまい、消え去ることはなさそうです。つまりは“忘れられない”“捨てられない”状態に陥ってしまったのです。彼女の近親の人たちに今後どれほどの苦痛を与えるかを想像すると、何とも言い難い重たいものが胸を覆ってしまいます。
だから、「PLUTO」は極めて“現実的”なのです。あなどれない物語、僕たち自身がまな板に乗っている物語なのだと捉えています。
話が変な方向に行ってしまいましたね、ごめんなさい。さて、我が国に“醤油”の香りが満ちているのかどうか、海外のひとがそれを意識するものかどうか僕はよく分からないし、また、ここでそのような会話を挿し入れる浦沢さんの意図が読み切れずにいます。醤油と味噌が日本独自のものとするイメージはいくらか狭い感じもしますし、読者におもねった感じがしなくもありません。
ヘレナという存在が、人間が感知し得ないレベルで物事を記録していく繊細さを持ち合わせている、ということを訴えたかったのかもしれませんが、もう少し考えないと分りませんね。月末には最終巻が店頭に並びます。まずはそれを読み終えてから再度考えたいと思っています。
(*1):Act.47「本物の涙の巻」 第6巻174頁 ( )のト書きは僕の勝手に補ったもの
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