2009年8月28日金曜日
幸田文「みそっかす」(1948-49)~棄てがたい~
とうとう或る朝、正直にいやだといって廊下へとことこ逃げだした。
虫のいどころが悪かったのか父はおこって迫って来る始末に、家内中が
総(そう)に立って遂に便所の前でつかまえられた。(中略)
強情っ張りのみそっかすは、この事件からオバ公さんによって文子の
冠詞として定着された。(*1)
ちばてつやさんの漫画に先行すること十五年、別の「みそっかす」が上梓されています。明治から大正にかけて活躍した小説家幸田露伴の娘、文(あや)さんにより描かれたのは、ちばてつやさんの世界とどこか通底するひとつの家族の生々しい実相でありました。
胸を病んで早世する母、河の氾濫により泥に浸かる住宅、祖母や叔母への愛着と重圧、美しかった姉の病死、継母との同居で一気に緊迫していく日常、いがみ合う父と母、火鉢から投げ付けられる鉄瓶、かかる熱湯、白く蒸気をあげる着物、露に濡れ茂る庭に独りきりで横たわる夜──。
選び抜かれた言い回しがうつくしく、胸に迫る内容となっています。武家の末裔、文人の家といった特殊性はもちろんありますが、おとなたちの都合で翻弄され続ける子どもの苦痛や哀しみ、男女が一つ家に寝起きすることの難しさなど人生の普遍が切々と詠われていて、あれこれと考えさせられることしきりでした。
幸田さんのこの本が、ちば漫画の原動力のひとつとして恐らくは機能したのでしょう。上条茜(あかね)という少女と幼い日々の文さんの姿が随分と重なって見えます。 もっとも、こちらの少女は叔母さんから“みそっかす”と具体的に呼ばわれる日々です。活きた言葉として“みそっかす”は頑然として在って、それが叔母さんの喉もとから発せられる度に少女はひどく萎縮し、かなしみの絵具で胸中を暗く染めていきます。
アメリカの映画を観ていると卑語を随分と耳にしますよね。会話に抑揚を付けることが目的のように狂ったように連射されることもあり、意味らしい意味をすっかり失って聞こえます。大概の場合、字幕だって直訳を避けます。何てこった、ふざけんな、馬鹿やろう──と文字は並びますが、実際はとんでもない言葉が舞い踊っている訳です。例えば、そうですね───いや、止めておきましょう。まあ、ご承知の通りです。
そのようにして卑語、蔑称は本来の意味合いを徐々に薄めていくものかもしれません。生き残っていくうちに叱責や侮辱、嘲笑する際の記号や刻印に化けてしまい、口にする方も聞かされる方も字面にいちいち左右されなくなる。
ですからこの日本独特の“みそっかす”という蔑称を四角四面に受け止め、その意味や生い立ちを探ることは滑稽なことかもしれません。ほとんどの人は気にも留めないものでしょう。“馬鹿”と言われて馬と鹿はどっちがより馬鹿なんだろ、その頭や脚力の順列にうんうん頭を悩ます人はいません。
ですが、幸田さんは血の所以なのか、当時も、そして、長じてからも大切にこれを自問し続けたのですね。連載されたものを単行本としてまとめる際に書かれた文章でしょうか。題名の由来に触れて幸田さんは、かなり実直な表現で“みそっかす”という言葉への印象を語っています。書き写してみます。
『大言海(だいげんかい)』をあけて見た。そこにはみそっかすという
ことばは載っていなかった。そうか、無いのか、──重いその本をもとの
棚へかえして、なお余情がたゆたい纏(まと)わり、鐘の尾に聞きいると
きに似ていた。(中略)
みそっかすなんていうことばは、もう無い方がいい。辞引(じびき)に
もない方がいいし、なくしてしまいたい。ほんとうに私はそう願う。現在
すでにこのことばは消えている。(*2)
記憶を辿り、辞書を繰ってまで何かを掴もうとするなんて──。ちいさな胸をどれだけ痛め、どれほど悶々と苦しんだかがうかがい知れる何気なくも厚味のある所作です。口にした叔母さんにしても、まさかここまで姪っ子が思い悩んでいくとは想像もつかなかったでしょう。
言葉はとてつもなく重たいものです。未来は幾らかなりとも変えられるかもしれませんが、過ぎ去りし過去は訂正がきかない。後悔先に立たず。心して暮らしたいものです。
さて、それでは幸田文さんは怨嗟と苦渋に満ちた回想を繰り返すばかりだったものでしょうか。“みそっかす”は忌まわしき濁点となって彼女の記憶に残り、僕たち読者の気持ちも暗く捕えていくものでしょうか。呪われた言葉として文学史を汚したものでしょうか。
とはいえ、──と暗く考える。そういう扱われかたでいじける児が一人
もいなくて済む世の中が、はたしていつ来るものだろうと思うと、私は
みそっかすの響に棄てがたい愛を感じる。はるかに遠く鐘を惜しむ心を
もって、あえてこの題をえらんで送るのである。(*2)
味噌っかすはかすなりに味噌漉(みそこし)の目に生きのこって、から
くも父をみとり終り、強情っ張りはどうやらこうやら浮世に棹(さお)を
突っ張り通してやって来たとは、われながらめでたいことだったと、
みそっかすの弁である。(*1)
幸田さんがめくった辞書には見つかりませんでしたが、その代わり見事に僕たちの国で育まれた“みそっかす”という言葉への立ち位置を示してくれている。身をもって証し立ててくれている。
「落ちこぼれ」といった断定的で冷酷な口調でもなければ、たとえば「負け“犬”」と称して人をひととも思わない差別的で屈辱を上塗りするような響きを含まない。“みそっかす”は存在を真っ向から全否定する表現ではない。
判官贔屓と笑われそうですが、僕は悪い印象を抱けないのです。慎ましく、独特の眼差しを含んだ言葉が“みそっかす”なのだと幸田さんは教えてくれています。
(*1):「みそっかす」 幸田文 単行本は岩波書店から出された 1951
(*2): 「みそっかすのことば」 幸田文 1951
なお最上段の写真の出自は以下の頁
http://oak.way-nifty.com/radical_imagination/2005/07/post_3d10.html
0 件のコメント:
コメントを投稿