2009年10月20日火曜日
桃井かおり「氷の味噌汁」(1993)~味噌汁なんか~
“男ってね”と、先輩はグラスを傾けながら
“男…なんてね?”と、ひとしきり話し終えると
“あんた、お味噌汁作れるの?”と、突然聞いたんだった。
“……味噌汁なんか……作れない、です。”
“あんた味噌汁も作れないで、これから女やろーっていうの?
ダメ!ダメ!作り方教えるからホラ覚えナ。“(中略)
“お椀に山もりにするんじゃないわょ!具はそうだナ…
うん、これくらい!わかった?”
飲み屋のカウンターで、水割りのグラスに氷をガラガラ入れて、
“そうそう、こんなもんだね!”と一人納得していた。
“好きな男に味噌汁くらい飲ましてやりたくない?
ねェー飲ましてやろうよォ~”
多分、あれがヤイコと口を利いた最初だ。あの頃私はどうにか
二十(はたち)で、彼女はまだ今の私なんかよりずーっと若かった。(*1)
回想録や伝記映画などをひも解いてみても、女性は全身全霊を尽くして愛する相手(子どもを含む)との時間を捻出し、魂の新天地を守ろうとする生きものであるのが分かります。冷静沈着で計算高く想われるけれども、その内に秘めた熱情は男性を遥かにしのぎます。
瀬戸内寂聴さんが新聞に連載されていた随筆(*2)が先日より再開され、美空ひばりさんの思い出に触れておられたのですが、そこでも女性らしい献身について書かれていました。江利チエミさんと雪村いづみさんが相次いで結婚され、焦る気持ちから時の人気スターと結婚した顛末が語られているのですが、「徹底的に尽くしましたよ」というひばりさんの言葉に継いで、次のように寂聴さんはおんなの想いを補っています。
天下のひばりが、小林旭のために、自分で味噌汁を造り、
靴下まで、穿かせたという。
家事と育児といった日常のことも全て含めて「徹底的に尽くしていく」。自分の為に費やす時間は細切れになり、日によっては全然無かったりもしますよね。仕事で席を並べる女性を見ていると、早朝から深夜まで全力投球であるのがよく分かりますし、単身で仕事と育児をこなすひとに対しては、ただただ平伏するばかりです。
家事の諸相は待ったナシで、なおかつ多角的で複雑です。同時にそれを行なうことを可能とするのは女性特有の脳の作りと、エストロゲンを主体とするホルモンの影響であると示唆する科学者もいます。いずれにしてもわたしたち男にはこらえ切れそうにない大量の雑事を、ほんとうにてきぱきと切り抜けていき見事としか言いようがありません。下支えする熱情に天賦の才が組み合わさった化学反応が家事の核心であって、実はなかなかにスゴイことなんですね。扉の陰でひっそりとではあります百花繚乱に咲き誇っている、女性はやはりそんな花なのだと思います。
そのような忙しい毎日の狭間においては、味噌汁というメニュー単体に対してスポットライトを浴びせて精神的な何事かを託そうとする方が土台無理な話です。ですから、味噌汁に対しての色めく言葉は男から発せられることが自然多くなるのであるし、その延長で男性の本能や官能をあぶり出す場面も増えてくるのでしょう。
かくして男たちの味噌汁幻想は文壇やフィルムの上にて純粋培養され、肥大化し、妖しげな様相を帯びていきます。親元を旅立つ間際まで呑まされ続けてきた味噌汁を“おふくろの味”と称して神聖化していく様は、乳房を遂に離しそこねた巨大な赤子を連想させるのですがそれは僕の言い過ぎでしょうか。興味深いのは、そんな奇態な男たちを今度は若々しいおんなたちが母親から引き継ぎ、自らの胸に抱き止めるという図式なんですね。愛した弱みなのか、それとも愛された悦びなのか知りませんが、おんなたちは「徹底的に尽くして」味噌汁を造っていくのです。
上に掲げた桃井かおりさんの短篇なんか、よくよく冷静に考えてみればかなり不思議でヘンテコな展開じゃないですか。味噌汁を作れることが妻や主婦、おんなの必須条件なのよと酒の肴に取り上げられていますが、カウンターで真向かういいおんな二人はそれを肯定しているような、斜め目線のような、どっち付かずの感じで語っています。どうやら実際に交わされた会話らしいのだけれど、書き手である桃井さんには聞き流せない、妙な引っ掛かりが残響したのじゃないのかな。
グラスをお椀に見立てて、ロックアイスで急ごしらえされた幻影の味噌汁。紫煙漂う闇のなかで、スポットライトを乱反射させながら白く浮かんでいます。とても洒落た感じもするけれど、おんなたちのしたたかさとずっしりした胆力を如実に表わしているようで、そこだけなんだか、とても怖いような気もいたします。
(*1):「氷の味噌汁」 桃井かおり 1993 「まどわく」 集英社 2002所載
(*2):「奇縁まんだら」107回(10月18日) 瀬戸内寂聴 日本経済新聞日曜版で連載
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