2010年2月23日火曜日
上村一夫「関東平野」(1975)その2~上村一夫作品における味噌汁(7)~
卑弥呼「いい男だねぇ……先生は……
だんだんああいう日本人がいなくなっちまうんだろうねぇ……
あんたもいいひとに引きとられたよ……」
金太「………」
卑弥呼「たべる?」
金太「いいえ 結構です………」
卑弥呼「先生なら黙って食べてくれるよ」
金太「………(味噌汁のかかったご飯をザッザッと掻き込む)
(ゴクッと呑み込んで)ごちそうさま」
卑弥呼「どう?……あたしの味噌汁の味は?」
金太「はあ……まあまあだと思います」
卑弥呼「やっぱり駄目かなあ……子供を産まないと味噌汁らしい
味噌汁はつくれないのかなァ…… あんたのお母さんに
なれば上手につくれるかしら?」
金太「え!?」
卑弥呼「先生の奥さんになればってことよ……」
金太「…………」
卑弥呼「誘われてるのさ……いまの商売をやめて家へ来ないかって…!
だけど だめだよ…柄にもなく照れちまって……」(*1)
結婚式に招ばれた帰りに、式場近くにある美術館に足を向けました。この日は企画展示がなく常設だけだったのですが、それは二の次、たいした事ではありません。なんとなく独特の空気を胸に吸い込みたい、そんなときってあるものです。まだ冬から抜ききらない小さな町の、瀟洒な2階建ての白い建物には例によってお客さんはいませんでしたから、悠々と空間を独り占めして絵と対峙することが出来ました。嬉しい時間です。
荒々しい山稜ばかりを巨大な画布に叩きつけるようなタッチで描く画家の作品が、二十点ほどいかめしく並んでいました。麓の雑木林や白い湖面を小さく底辺付近に配しています。そこから目を上方へと転じていくとやがて森林限界線を越えてしまい、黒い岩肌がごつごつと現れてきます。
上限ぎりぎり、額縁にぶつかりそうな場処に屋根(おね)が描かれ、奥に鈍い洋赤色(カーマイン)に染まった空が垣間見えるのだけれど、視線がたどり付くまでには延々岩ばかりを這い登らなければなりません。狂ったようにうねり連なる筆の痕(あと)を追ううちに、(お酒のせいもあるでしょうけれど──)頭の奥の方からくぐもった音が響いてきました。老いた魔女の口にする呪詛のつぶやきか、それともあやかしの啼き声かは分からないけれど、ぐつぐつ、ぐわんぐわんと幻聴されるようなのでした。
静かな誰もいないはずの空間ながら、とても騒々しい気配を受け止めました。耳を澄ませる気概があれば絵というものは大いに多弁となる時があり、沈黙を解き、何倍もお喋りを始めるものなのでしょう。
“食”という視点から振り返れば、上村一夫(かみむらかずお)さんの「関東平野」も絵画と対峙するような案配で饒舌になります。なるほどしっとりと焦点が合わさって情念の明滅する様がうまく結像していく。今、そんな感じを独り味わっては酩酊に遊んでいるところです。
上に引いた箇所は味噌汁にかかわる記述です。元子爵令嬢で今は二丁目に身を墜とした綾小路卑弥呼という名のおんなが、編集者の目に止まって画家柳川大雲の家に紹介されて来ます。絵のモデルとして選ばれたのです。金太は大雲から封筒に包まれたモデル代を託され、教わった住所を頼りにひとり二丁目まで足を運んだのでしたが、調度仕事の前の食事時であったのでしょう、卑弥呼は店先に七輪を出して味噌汁を作っている最中なのでした。
ここで交わされる台詞は味噌汁を巡っての典型的な顔立ちをしています。家庭という内側へ外側から飛び込むに当たり生じる困難、違和感、妥協、そういった段差を象徴する小道具として登用されています。けれど、どうでしょう、指し示されているのはそれだけでしょうか。
次は終幕間際に現れたものです。こちらは味噌汁ではなく生味噌の状態ながら、たいへん似た「心境の錯綜」を呼び寄せています。絶食の末に自ら命を絶った大雲が荼毘に付され、金太と銀子が故人の願いに副(そ)うべくゆかりの地、椿村に頭骨の一部を埋めようと足を運びます。田んぼの中の一本道で農家の家族に出会うのですが、それが幼少の折にあれこれあった同級生の石松だったのです。石松とその妻、そして彼らの赤ん坊は並んで道にござを敷き座ると、そこで農作業の合間の食事を始めます。
金太「石松……幸せそうだな」
銀子「憎いほど羨ましい………」
金太「やつのムスビ……見たかい?」
銀子「うん」
金太「味噌がたっぷり塗ってあって…恐ろしいほど大きかったな」
銀子「お味噌……奥さんが作ったんだって」
金太「……!」
銀子「うう……」
金太「なんだよ…ベソなんかかいて」
銀子「だって……だって あたしのような人間はああいう暮しを
望んでも無理なんだもの」(*2)
ここで再び民俗学者の神埼宣武(かんざきのりたけ)さんの本を引きます。
テレビドラマにおける食事シーンに注目したことがおありだろうか。気をつけてご覧になれば、そのシーンの多さに気づかれることであろう。(中略) 海外では、およそこうした例はない。そこで、知人の某テレビマンにたずねたところ、視聴者が潜在的にそれを要求しているからだ、というのである。食事のシーンがないと自分たちの生活と縁遠いようで不安である、という視聴者の意見が多いらしい。(*3)
もう一冊、今度は雑誌編集者から劇画原作者となり、上村さんと数多くの共著を送り出してきた岡崎英生(おかざきひでお)さんの本を書き写します。
上村は、当時の劇画が決して主人公にしなかったような人物を主人公にすえる。彼ら、あるいは彼女たちは自分ではコントロールできない謎を抱えている。だから、その行動はつねに非合理的で、わかりにくいといえばわかりにくい。上村はそういう登場人物の言葉ではとてもいい表せない心情にまで深入りする。そして物語の中では、苦しませ、悶えさせ、時には(中略)破滅させる。(*4)
最初の卑弥呼は春をひさぐ女として、また、金太の幼なじみの銀子は男の身体を持ったおんなとして造形された“決して主人公にしなかったような人物”であり、多くの読者とは“縁遠い”存在です。彼らは味噌汁、味噌を引き金とする思念の奔流に叩き落され苦しんでいるのであって、ホームドラマを見入る僕たちとは真逆に「食事のシーンがある」と大いに「不安」をもよおして動揺するのです。
「やっぱり駄目かなあ……、だけど だめだよ…」「だって……だって あたしのような人間はああいう暮しを望んでも無理なんだもの」と煩悶する際の駄目や無理とは味噌汁の味付け、おむすびに付された味噌の自家製法である訳は当然なく、味噌(汁)をレンズとして広がる「日常、生活、家庭」という“異界”への転進が駄目であったり、無理難題となって立ち塞がろうとしている。
上村さんの劇画においての“食”や“食べもの”とは、だから「ある家庭から別な家庭」「ある生活から別な生活」へ平行的に移動することの象徴といった生やさしいものではなく、森林限界線に似た険しい斜面に引かれたものであって、扱いを誤れば「時には破滅させられる」類いのものだと分かるのです。植生も違えば、環境も驚くほど異なっている世界の両者が“食”や“食べもの”を間に置いて睨み合っている図式なんですね。そして、中でも味噌が極めて先鋭的に境界上に置かれてある、そういうことなんですね。
(*1):「関東平野」 上村一夫 1976-1978 双葉社 初出は「ヤングコミック」
VOL.22 赤線、青線、灯る街角
(*2):VOL.44 埋骨
(*3):「「クセ」の日本文化」 神埼宣武 日本経済新聞社 1988
(*4):「劇画狂時代「ヤングコミック」の神話」 岡崎英生 飛鳥新社 2002
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