1971 マリア
1973 狂人関係
1974 離婚倶楽部
1975 サチコの幸
1976 すみれ白書
1976 関東平野
1976 津軽惨絃歌
1977 春の雪
1977 60センチの女
1978 星をまちがえた女
上村一夫(かみむらかずお)さんのある時期の作品を、ほぼ発表順に読み進めてきました。今度は簡単な図に起こしてそれ等を並べながら、いったい“食(べもの)”の登用で何が起きていたかを整理してみます。
「マリア」では家庭から離脱して“食事”を回避し、蜜柑、干し柿、猪鍋といった顔かたちの分かる“食べもの”に固執していきます。けれどもマリアはそれすら満足に口に運ばず、長い放浪を続けていくのでした。想いの深さや昂揚が“食事”という状景を劇から追いやってしまう気配が読み取れました。
「狂人関係」では人参を齧る行為と狂恋が並行して描かれ、“食べもの”と“観念”との二人三脚が露わになりました。“生活”とはかけ離れた孤絶した世界でふたりの魂は爆発的に燃焼を繰り返しています。そこに至る直前には家庭を懐旧する視線が在り、“蕗味噌(ふきみそ)”が脈絡なく浮上して主人公の青年捨八(すてはち)の気持ちを攪乱しました。
「離婚倶楽部」では “食事”を通じて“家庭”が象徴的に描かれましたが、料理は具材が認められないあやふやな“のっぺらぼう”になっていました。それは真情をともなわない“まねごと”であったからでしょう。“食べもの”が具体的な名前とかたちを与えられた場景には、まねごとではない激情や切望なりが吐露なっている瞬間と捉えて良いことが読み取れます。また、“家庭”の奥に潜む暗い闇を覗くような、なんとも不穏な感じを与えるエピソードでした。
「サチコの幸」では“味噌汁”が象徴的に登場しました。情念の虜になった外界のおんながサチコたちの“生活”に侵入しました。その際、店の入口に置かれた“味噌汁”は鍋ごと引っくり返っています。また、外界で新たな“生活”を始めたサチコは調理にいそしみますが、まるで“味噌汁”にて禊(みそぎ)をするような具合でした。
「すみれ白書」の長い道程を通じて、最も幸せな空間は“世帯”という名の非日常のものであり、それは生活臭のしない遠い北国の温泉宿に灯っています。そこでの“食事”は上村劇画では稀有な、何とも言えぬ安らぎと喜悦に満ちていました。
「関東平野」でも味噌汁が現れています。血の通わないおんなと少年が味噌汁碗を交わして急接近していく、厳かで意味ありげな場景がありました。また、視力を失った画家が“食事”を投げ捨てて生命を削っていく姿も丹念に描かれました。上村さんの劇画に縊首、自傷、入水、投身といった死の選択が多く、このような“食事”を投げ捨てる行為には作者の強い思い入れを感じます。
「津軽惨絃歌」では寒村を飢餓寸前までに追い込む妖女が登場しました。愛憎入り混じった想いを村長に抱くこのおんなは、村人の生きる糧である“魚”を海に追いやる毎日でした。「春の雪」では、この時期の上村さんが“食べもの”で情念を描写することに執着している様子が窺えました。
「60センチの女」では向き合う男女に両極端な“食べる行為”を割り振り、愛の不在を強い調子で謳い上げています。たった60センチに過ぎない両者間の距離は、無限の広がりと薄い空気を感じさせて恐ろしいほどでした。「星をまちがえた女」では女性ばかりで劇が構成されて恋情が影を潜め、その途端に食卓は彩りを豊かにしています。ただし調理はロボットにより為されていて、もはや何事かのメッセージも食事には託されてはいませんでした。
もちろん作図の工程では僕なりの主観が挟まっています。多作であられた上村さんを論ずるにはサンプルもいささか足りないかもしれないけれど、こうして眺めるとしっくりと寄り添い見えてくるものがあります。
ひとつは気球や飛行船が上昇する際に砂袋やタンクのバラストウォーターを放出するように、上村さんの創った人物は“食”を上手く使っていること。捨てること、捨てさせることで高揚を図っている。
またひとつには、家庭や生活から離脱する際にはまるで重用されないのだけれど、逆に新たな生活、世帯、家庭の門を叩く際には「関守」のようにして“味噌汁”やそれに付随したものが置かれていることです。「境界標」のようにして外界からの入口に“味噌汁”が忽然と現れている面白さです。
0 件のコメント:
コメントを投稿