2010年7月8日木曜日
奥浩哉「め~てるの気持ち」(2006)~からくないですか?~
奥浩哉(おくひろや)さんは戦術に長けた作家です。ひとの情念が“食べもの”を起点としてはげしく隆起するのを承知し、そっとメニューを変更する。読者にもたらす心理的な効果をさりげなく増幅してみせるのです。それが「GANTZ(ガンツ)」(*1)という作品に垣間見れた訳だけれど、同じ時期に別な雑誌に掲載されていた漫画「め~てるの気持ち」(*2)にも“食べもの”が意識的に登用されていたことが視止められます。
十五歳の時分から実に十五年間も自宅に引きこもってしまった青年“慎太郎”を主人公とする小品です。父親の小泉安二郎は定年を間近とする会社員で、妻の死後、部屋に篭(こも)り切りになった息子の面倒をずっと看て来ました。開幕してすぐに安二郎は大病を患いあっけなくこの世を去ってしまうのですが、後妻となっていた“吉永はるか”という若干二十三歳の娘が、今度は安二郎に代わり義理の息子の自立を促がすために一念発起いたします。
若く美しい義母が突如出現し、異性との接触をまだ知らぬ容姿端麗な男子のこころを氷解させて広い世界に導いていくというストーリーラインは取り立てて目新しいものではないのだし、枠にはまって見える娘はるかの言動や物腰を同姓の読者が目にすれば、きっと憤懣やるかたなく、大きくチッと舌打ちするに違いない。まあ、正直言えば読んでいて苛立ちを覚えもする場面が目白押しの困った漫画です。
けれども、顛末のあちらこちらにさりげなく“食べもの”が顔を覗かせ、僕ら読み手の共振を巧みに誘ってくるところは技術的にとても面白くって、結局最後まで読み切ってしまったのでした。
例えば、慎太郎より恋慕の念を告白されて動揺したはるかが、衝撃の余りに満足な調理が行なえなくなり、おかずもなく、箸さえも添えられていないご飯と味噌汁だけの奇妙な朝食を配膳してしまう件(くだり)(*3)などは、まさにこの劇が“食べること”と“精神”とを二人三脚と為して歩んでいることを如実に現わしていましたし、劇の終わりにようよう自立を果たした慎太郎が、終に摑み取った職業が食堂(ラーメン店)であったことも意味がある訳です。堂々たる背骨がまっしぐらに物語を貫いている。しっかりと練り込まれ、丁寧に構築されているという感触を抱きます。
父親が毎日自室に運んでくるコンビニエンスストアの弁当から始まり、さまざまな“たべもの”が列を為して劇中に現れては消えていきますが、「和食全般で、普通に焼魚とかお味噌汁とか納豆とか…」(*4)──が好きなはるかが登場したことも、だから偶然ではないのだし、自室に立てこもった慎太郎と扉越しに食事をしながら、「どうですか?お味噌汁、からくないですか?」とはるかが廊下で声を張り上げる辺りも相当に煽動的。僕たちの懐(ふところ)の奥深くで“共振”を誘発せんと目論む作者の深意がびんびん伝わってきて、妙に可笑しくなってしまうし、また臆面なく仕掛けてくる情熱には感心もさせられる。(*5)
ここでの味噌汁には明確に“母親”“母性”が重なっており、これもまた定型でありきたりのものなのだけど、同じ旋律を飽くことなく奏で続ける頑固なピアノ弾きか粘り強い歌い手みたいな雰囲気が作者の奥浩哉さんには感じ取れるのです。またかよ、しつこいなあ、と唇の端で笑いながらも、いつしか根負けしてしまう。
唇をつぐみ頬づえを突きながら耳をそばだて、本気になって聞き入っている自分に気が付き驚かされる、そんな流れなんですね。こういう書き手も出て来てるんだなあ、まったく油断できないし、嬉しいなあ。
(*1): 「GANTZ(ガンツ)」奥浩哉 2000年~ 「週刊ヤングジャンプ」(集英社)連載
(*2): 「め~てるのきもち」奥浩哉 2006‐2007「週刊ヤングジャンプ」(集英社)連載
(*3):第12歩「他人のことも!」 第2巻所載
(*4):第9歩「言える!」 第2巻所載
僕はここで、石井隆さんの映画のなかに時折顔を覗かせる意味深な“階段”を連想しました。神は細部に宿る。“情念”と“世界”とがニワトリと卵のような関係になっている、要するにそういう造り込まれた世界が好きなんだよね。
(*5):第8歩「めちゃくちゃ」 第1巻所載
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