うねうねと曲がりくねる道。乗用車二台がかろうじてすれ違える程度の幅。右手は急な崖になっていて、谷をはさんで扇(おおぎ)型の切り立った山稜がひろがる。終わりかけではあるけれど紅葉に染まって美しい。眼福と言うしかないが、なんだか現実感を失ってしまいそう。“扇”を連想させたのは、そうか、灰色の岩筋が何本も縦に走っているせいだ。なかば白骨化した指が紅蓮の山肌をぎゅっと押さえ付けているみたい。美しさと怖さが同居した光景で胸に迫る。
天空を貫く岩壁が、不意を打って目の前に現れる。これは思わず声が出ちゃうなあ。万年雪が山頂に宿り、朝日を浴びて全体が白く輝いているのだけれど、印象としては逆に“目隠し”されたようなショックがある。猟奇映画によくある、背後から大きな手のひらが伸びて来て視界を黒く塞いでいく、そんな感じだな。圧倒的な力、震えを起こさせるものが嘘でも大袈裟でもなく潜んでいる。その神々しさ、禍々(まがまが)しさは画像でも文章でもきっと伝わらないな。見ないと決して分からないものって世の中にはある。
登攀に挑んだ老若男女の、あらゆる種類の想いや費やされた時間の束が揮発し切って消失するのでなく、いまだに山霧(ミスト)にまぎれて点々と浮いて漂っているみたいに感じる。深呼吸を繰り返す僕はそれを吸い込んでしまった。肺腑の奥に哀しみも喜びも、悔しさも快楽も、夢と絶望とがあまねく滑り込んで、じくじくと浸潤を始める。妙な実感をそなえた夢想がひどく湧き立ってくる。ベンチに腰掛け微動だにせず、山を仰ぎ続ける年輩の男性が見える。登山靴に登山帽。彼のこれまでの時間に何があったのだろう。
陶然と佇んだ後、ずるずる道を引き返して三角屋根の無人駅にたどり着く。季節はずれの山道も駅も、本当に人影はまばらで静寂が支配している。駅に至っては誰もいない、誰も追ってこない。寒い待合室を後にしてガラガラと荷物を引きずり、長く暗い階段をいよいよ下りていく。
静寂?、いやいや絶えず音はしていて意外だった。山肌を伝う清水なのか、コンクリ壁を割って滲み入った地下水なのか、階段脇の左右に穿(うが)たれた急傾斜をべたべたぬるぬるりと水が流れ続けて、次第にちょろちょろ、終いにはざあざあ、ざわざわと洞内に音が渦巻き折り重なって、自分の靴音などはぺしゃんこに押しつぶされる。異様な騒々しさと泣きたくなるような淋しさを同時に産み落としていて、心細いことと言ったらない。さすがに寒気がしてコートを羽織る。
湿り気を帯びたプラットホームに到着する。幾つもの蛍光管が湾曲した壁をぼうっ、ぼうっと間隔置いて照らし出し、そこだけ薄っすらと苔が息づいて緑色に染まったりしてるのも奇観で気色悪く、誰か早く来てくれないかと願う。さりげなく会話が出来る相手が欲しいのだけど、いつまで経っても誰も降りてこない。怖い。変なことを考えちゃ駄目だ。「だれかいる、何かいる」なんて弱気のスイッチが入ったら最後、急激に尿意を催しそうで目線をそらす。
横目でそっと覗けば、ホーム脇の古びたトイレは扉が開け放たれ、じゃぼりじゃぼりと水が垂れ流しになっている。流れ下ってきた清水をうまく利用しているに違いなく、そうと頭で解かっていても「何かいた、だれかいた」ような“気配”を感じ取りそうになって、慌てふたむき反対方向へ逃げ出すしかない。追いつめられるようにしてホームの先端に立ち、鉄路の銀色になまめかしく伸びいく先に黒々と口を開いた真闇(まやみ)を見つめていると、身体がずいと吸い込まれるようだ。
一本の道をたどってここまで高低差を見せつけられる空間は珍しい。段差が物凄くって、どうしようもなく観念的になってしまう場処だと思う。
精神の高揚と沈滞、魂の上昇と落下が現実に寄り添ってもいた。若い肉体と生命を次々と呑み込み、毎年真新しい名前が慰霊碑に刻まれる一種の“聖地”である。手を合わせて冥福を祈る。
登山を生きがいとする友人の言葉に従い、カバンには旅館から買い求めてきた酒の小瓶が一本。栓を切って傾け、石碑のあちらこちらに手向けながら人の生きていくことの不思議と奇蹟、面白さ、一過性を想わずにはいられなかった。
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