2010年12月10日金曜日
泉鏡花「高野聖」(1900)~居心のいい~
「さて、それから御飯の時じゃ、膳には山家(やまが)の香の物、
生姜(はじかみ)の漬けたのと、わかめを茹(う)でたの、
塩漬の名も知らぬ茸の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころ
ではござらぬ。
品物は侘しいが、なかなかの御手料理、飢えてはいるし、
冥加(みょうが)至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に
肱(ひじ)をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。」(*1)
なるほど、百万石の城下町だけのことはあります。古都金沢をはじめて訪れた際、気持ちが洗われる事しきりでした。重厚な町並みと悠々たる史跡群がとても目に映えて、歩いていてとても爽快でしたね。再訪が許されるなら真っ先に足を運びたい場処は、尾張町にある泉鏡花(いずみきょうか)さんの生家跡あたり。さっぱりとした風情の、けれど中身の詰まった記念館が建っています。
幼少時分の鏡花さんを脳裏に描き、痩せた背中を追いかけるようにして細く曲がった坂段(“暗がり坂”そして“あかり坂”)を下って行く。やがて川沿いに広がる茶屋町の内懐(ふところ)にふわり降り立つその時の、気分の好さと言ったらもうたまらない。静謐な路地にとろりとした色香があふれて、何とも言えぬ雰囲気がありました。
寺山修司さんの監督したもの(*2)や宮沢りえさんが出ていた映画(*3)の原作で知られた鏡花さんですが、僕には何より「夜叉ヶ池」(*4)、ですね。艶やかにして妖しげな霊気にすっかり捕縛された僕は、それこそ蛇に睨まれたカエルになって席を立てなくなりました。坂東玉三郎さんの演じた魔界の姫にノックアウトでしたね。あの頃の映画館は入れ替えも指定席もありませんでしたから、そのまま二度、三度と見入ってしまった記憶があります。後日テレビで放映されたものも録画して、飽かずに繰り返し観たものでした。懐かしいなあ、久しぶりに観直してみようかしらん。
上に紹介したのは著名な「高野聖(こうやひじり)」の一節です。旅の途中で知り合った僧と言葉を交わす仲となり同じ宿に泊まることになった“私”は、寝物語に僧侶から奇怪な体験談を聞かされます。ずいぶんと若いとき、眉目秀麗でういういしかった頃のお話です。
山で道に迷います。葉陰に潜んで待ち構える蛇や蛭(ひる)といった醜悪なモノにさんざ驚かされた末に、這う這うの体で一軒家に逃げ込みますと、そこを仕切っているのはひとりの美しいおんなでした。山の幸に彩られた夕餉が振る舞われ、心ばかりの歓待を受けるその様子が先の引用箇所ですね。素肌をそっと重ねていく夢幻の時間が過ぎていき、若い僧のこころは振り子のように揺れ動いていきます。しかし、おんなの正体は実は……。「夜叉ヶ池」にもどこか通じる幻想譚ですね。
ここでの“味噌汁”は目の前にざっと並べられたおかずのひとつに過ぎません。特段の発色なり発光を味噌汁椀にだけ見出すことは難しい。それは他のおかずにも当てはまります。記録めいて淡々としている。では、意味なく列記されたのかと言えば、どうやらそうではないようです。ずらずら書かれた料理の献立には、妙な手触りが感じ取れる。
ほかの鏡花さんの作品を読むと分かるのだけど、「高野聖」ほど食事の場景に傾注しているものは見当たらない。たとえばこんな件(くだり)も最初の方に出てきます。どうです、ちょっと粘っこい言い回しでしょう。
亭主は法然天窓(ほうねんあたま)、木綿の筒袖の中へ両手の先を
竦(すく)まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁(おやじ)、
女房の方は愛嬌のある、一寸(ちょっと)世辞の可(い)い婆さん、
件(くだん)の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、莞爾々々(にこにこ)
笑いながら、縮緬雑魚(ちりめんざこ)と、鰈(かれい)の干物(ひもの)と、
とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取成(いいぶりとりなし)
なんど、如何(いか)にも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心の
可(い)いと謂(い)ったらない。(*5)
生まれて初めて降り立つ駅から夕闇に包まれてとぼとぼ歩き、たどり着いた旅館で振舞われた食事です。旅路における淋しさ、心細さ、恐怖、虚しさといったものが一気に払拭されていく。それ以前のよるべなき時間と、しかと守られて人心地ついた今の時間が料理の詳細を挟んで強調されていく。怯える気持ちと手足伸ばしての安らぎが共に増幅されて見えます。
日常の食事というものは弛緩を誘います。後ろ髪をぐいぐい引かれ、身を引き裂く過去への想いや、将来に対する漠たる不安から一時的であれ解放してくれる。鏡花さんはそんな魂の仕組みをよく見透して、上手く利用している。張られた弦を締めたり“たわめたり”して物語を奏でるのです。音色はきりきりと泣き叫んだり、無限の優しさを帯びたりと変幻自在でついつい惹き込まれてしまう。
もっとも鏡花さんが本当に描きたいのは日常世界に首をにょろり突き出す“魔”であったり、胸の奥の洞窟から突如湧出する“情念”でありましょうから、ここで引いた料理や味噌汁はどこまでも背景の役割なんでしょう。不安定な場処(山中、異界、逢う魔が時、盂蘭盆など)で渦巻きぶつかり合うこころ模様を存分に描きたいがために、どうやら補助的に登用されている。
“色気より食い気”という言葉があるけれど、さあ、あなたなら選ぶのはどっちと笑顔で差し出されているみたい。脇役ながらも大切な役割(=日常=情念を封じる)を担った味噌汁が湯気を上げています。(*6)
(*1):「高野聖」 泉鏡花 1900 手元のものは新潮文庫 2009 77刷 引用は61頁。最上段の絵は鏡花作品に心酔していたという鏑木清方(かぶらぎきよかた)の筆によるもの。
(*2):「草迷宮(くさめいきゅう)」 監督寺山修司 1979
(*3):「天守物語」 監督 坂東玉三郎 1995
(*4):「夜叉ヶ池」 監督 篠田正浩 1979
(*5):上記文庫 12頁
(*6):魔の世界に住まうおんな達が何をどのように食するかに視線を注げば、この「高野聖」が“食べ物”をどれだけ意図的に使っているか分かります。日常と非日常の綱引きが、食べものを巻き込んで凄絶に展開されている。両者間の強烈なコントラストは上村一夫(かみむらかずお)さんのドラマ、「狂人関係」なんかに連なりますね。
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