2011年3月4日金曜日
村上龍「村上龍料理小説集 Subject 22」(1988)~舌を刺した~
その年のクリスマスが終わった日、十二社の店で、もう会えない、
と彼女は言った。何か言おうとしたが声が出なかった。彼女も
理由を一切喋らなかった。二人とも無言のまま、小海老の前菜と、
鯖の入った椀と、蒸し鮑を食べ、ギヤマンのアンティーク器で
濁り酒を飲んだ。
「冬だけど、あれを作って貰えないかしら」
彼女がそう言うと女将は頷き、しばらくして見たことのない料理が
運ばれてきた。しゃもじの上に、表面が焦げた味噌が乗っている、
ただそれだけのものだ。味噌は薄く貼り付いていて、香ばしい匂いが
している。削り取って口に入れると、強い味が舌を刺した。(中略)
山椒の実を混ぜた焙(あぶ)り味噌の匂いは、ずっと私のどこかに
残っていたあの煙草の火が毛を焼く匂いをいつの間にか消してしまった。(*1)
表紙が臙脂に染めた文庫本を久方ぶりに書棚から引き出し、奥付を見てみると“1991年10月”とありました。頁に挟まった新刊紹介のリーフレットにも同じ年の記載が見つかるので、やはりその時期に書店で買い求めたのでしょう。ほぼ二十年も前に一読して、その後はすっかり忘れていました。
読んだ当時を思い返せば、淡々と日々を過ごしている市井の人間たちとはまるで無縁の空気が全篇を覆って感じられたものでした。自分のいる世界や意識とはひどく乖離した場処に思えて、面食らった覚えがあります。「料理小説集」と銘打った掌編が三十余り並んでおり、いずれも人生の機微や恋情、性愛といったものと料理の香味を融合することで官能の極みを演出しようと目論んでいるのだけど、なにか、その両輪が共に借りもののように感じられてしまい、嘘っぽいな、と勝手に断じて書棚に仕舞った訳なのでした。
一度しか開かなかった頁は硬く締まった感があり、めくった際に鳥の羽ばたきのようなやや高い音を立てました。
あれから二十年の歳月のなかで人様の何十分の一、いや、もしかしたら何百分の一かもしれないにしても、僕として経験するものがあったからでしょう、隅の部分を小さく三角形に折っていた味噌の登場する頁をこうして読み返してみれば、胸を圧すものが在ったのです。ちょっと驚きました。日記(このブログのこと)に記すまでのものではないだろうと長年無視を決め込んでいたのでしたが、こうして動揺するものが確かにある以上はいつも通りに書き写しておこうと思います。
二十四歳の広告業界で働く男が九つ上のおんなと出逢い、一年と少しの間だけ交際します。出逢った際におんなに連れていかれた思い出の店で、おもむろにおんなの方から別れを切り出されてしまいます。そこに山椒を加えた味噌を直火で焙ったものが登場して、若い男の感傷を峻烈なものへ補強していくのでした。
生きていることの実感を摑む寄す処(よすが)に飽かず繰り返していた性戯の諸相や、その際に認め合った互いの身体が放つ薫りや味といったものが、食のもたらす圧倒的な刺激で儚く霧散していく様子はなんとも過酷で切ない一瞬となっていました。さらに、戸外に場所を移したふたりの最後の時間は、何をどうやっても新たに積み上げることは出来なくなっていたのです。口腔、鼻腔をいたく刺激する飲食、接吻、嘔吐を延々と連ねていっても、その度に山椒と味噌の交じり合った強い記憶の残渣が山のように立ちはだかって、先に過ごした小料理屋へとずるずると引き戻されてしまうのでした。
誰もいない山下公園で、私達は寒さに震えながらシャンパンを飲み、
売れ残りのケーキを食べた。
二人共、何も言わず、夜が明けるまで舌を吸い合った。シャンパンを
飲んでも、ケーキを食べても、キスを繰り返しても、涙があふれてきても、
嘔吐しても、あの、焙った味噌に混じった山椒の実の香りと舌を刺す
強い味は消えることはなかった。(*1)
こうしてこの物語の男女は別れ別れになってしまいました。幻想の色合いが強くて力に満ち溢れた秀作ではないのだけれど、魂と食物が相互干渉していく展開は数限りなく人間ににじり寄った末に作者が克ち得た洞察力の賜物でしょう。技量なり経験値を認めないわけにはいかない。
文末で別れたおんなのことを男はほんの少しだけ思い返しています。あの山椒の交じった焙り味噌を口にしなかったならば、そのように思い切れなかったのじゃなかろうか。忘却を約束するそんな焼き味噌がもしも作られ店頭に並んだならば、需要はさぞ多かろうと想います。
(*1):「村上龍料理小説集」 村上龍 集英社 1988 手元にあるのは集英社文庫 連作集に収まった各掌編には決まった題名が付されていません。こうして一話のみを独立したものとして取り上げることは作者の意に反するかもしれないですね。尚ここ以外には味噌、醤油は見当たらなかったと記憶しています。
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