2011年4月15日金曜日
谷口ジロー「センセイの鞄」(2008)~闇の中で わたしたちは~
そのような訳ですから、僕は谷口ジローさん描くところの「センセイの鞄」(*1)をとある街の古書店で見つけて最初に購読し、その後になって川上弘美さんの原作(*2)へと遡ったのでした。
よく手入れされた盆栽みたいな枯れた風情がいよいよ増して来ている谷口さんの絵ですが、初期の犯罪ものや探偵ものの頃には奔放にコマは配され、太い線が紙面を横切り、随分と尖って荒れた印象がありました。年数を経るに従い洗練されていき、誰とも違った独自の世界を築くに至っている。そのゆるやかな変貌ぶりに意識を向けると、ひとりの創作者の発芽から開花、結実を目撃し得たという深い愉悦に行き着きます。同じ時代を並走し、同じ世相を体感することが許されたごくごく限られた読者に訪れる“収穫の喜び”が在ります。
妻に去られ子供や孫とも疎遠となって久しい元教師とかつての教え子が再会し、静かに交感する時間を育てていきます。類縁、似たもの同士と互いを認め、やがて無理なく寄り添うようになっていく。ふたつの魂の淡い航跡が交差していく様子が抑制の利いた谷口さんの筆つきとすごく合って、とっても好い感じです。
味噌と醤油がしめやかな恋情と絡んで点々と顔を覗かせることにびっくりして、原作本の記述を確認しないではいられなかった。直ぐに近所の書店まで足を運び川上さんの文庫本を入手しました。そんな流れだったのです。
さて、川上さんの原作を読み、谷口さんの漫画に再度目を転じてみると味噌や醤油に対する描写がやや減じているのが分かります。谷口さんは昔から“舞台”を大切にするひとで背景の描き込みは緻密を極めますし、そこに味噌と醤油はちゃんと存在するのだけれど、ピントは必ずしも合っていない。
台詞も極力小説の中から写し取っているし、人物の造形も巧みで申し分ない。原作の雰囲気を壊さないように細心の注意を払っているのがよく分かる。「センセイの鞄」という小説の視覚化は漫画であれ映画であれ、今後有りえないと思わせるほど完成度は高いのです。よくよく思案した上での刈り込みであるでしょうから文句はないのだけれど、両者の比較を通じて「事象の捉え方」が人によってこうも違ってくるのかと驚かされもするのです。と言っても不満じゃなく嬉しさを従えた驚きなのですが。
もともと僕は「原作本」と“台本”、そして“台本”と「舞台」を比べ視ることを愉しみにしてきました。例えば芝居や映画を観たことで原作まで読み切ったように捉える人がいますが、三者はまるで違った顔をしているのが普通です。どれだけ忠実になぞらえても、多彩な感情を抱え、千差万別の育ち方をした人間を介在する限り、何かしら違った伝達が起きてしまう。
同じ音楽を聴いても、同じ絵画を眺めても受け止める人によって色々な印象を刻むのは避けようがない。気が合う二人であれば等しい反応に手を叩いて小躍りするかもしれないし、逆に違った受け止め方を新鮮に思い、相手へ注ぐまなざしの量を倍化させて、結果的に愛情はより深まるかもしれない。ひとつの事柄を各人が自由に、様々に解釈することは世界を輝かせる土台になっている。
川上さんの世界が谷口さんの世界と連なり、けれど両者は重なり交わりながらもひとつ身にならず、優しく互いの背中に腕をまわし、しかと抱擁し続けているようで素敵でした。“ひとつ”ありながらで他者でもある感じが、連綿と歌われる恋歌のようで心地好い。そんな幸せな二作品だと捉えました。
脇道にそれてしまうけれど、合わせてこんな事も思います。大きさ、硬さ、彩りを変えて意見や感想は噴石のように宙を舞い、雨あられのごとく地上に降り注いでいく。それが人の世の常なのだと好意的、楽観的に捉えようとする僕なのですが、さすがに今回の発電所事故に関しては困惑させられ続けです。
起きていることは“たったひとつの事”なのに、どうしてこうも違った意見が飛び交い、情報が錯綜し、明らかに間違って見える伝達が起きてしまうのか。また、異なる少数意見を封殺する方向へ見えざる舵がぐいぐい切られているようにも思え、それはそれでひどく薄気味が悪いのです。気持ちがざわめくのです。
広大な大地を毒で侵され、水や食べ物を汚された悲しみと怒りは日増しに膨れるばかりだけれど、それ以上にこの狭い国土で寄り添い暮らす僕たちのこころを二分し、自尊心に泥を塗り、猜疑心ばかりを煽り肥らせてしまったブラウン管の向こうの人たちを僕は恨めしく思います。他者でありながら“ひとつ”である感じを終に醸成出来なかったマイク越しの人たちの下手な演出を哀しく思います。
僕たち、多彩な感情を抱え、千差万別の育ち方をした人間たちが“ひとつの事柄”である「電力不足」にこれから挑まなければならない。発電所事故に関する報道や避難誘導という舞台はひどい役者のオンパレードだったけれど、今度は僕たちが舞台に登る番になります。今度こそ“他者でありながらひとつ”になれれば嬉しいですね。
先週の大きな余震により僕の住まう場処では長い停電がありました。その停電は何人もの弱い人たち、病気の人たちの命を奪い去りましたから、軽率に喋ってはいけない事柄が“電気”であると十分に僕は認識しているつもりです。
けれど、あの停電で仕事場から急遽呼び出され、夜明けまであと2時間といった時間にようやく解放されて家路に着き、漆黒の闇に寝入った町を貫いている本当に墨汁の流れのような真っ黒の舗装路に独り佇んで、疲れ切った身体をうむうむ、と伸ばして仰いだ天頂に、満点の星々のそれこそ隅々まで敷きつめられて神々しく輝いているのを僕は見ました。電気を失ったゆえに得るものも十分に有るのだという強い感慨を抱き、豊穣の時間を得た思いがあったのです。
電力会社もブラウン管の人たちもこぞって“電気”の恩恵を訴え、供給量の安定こそが世の幸福の鍵であると言葉巧みに誘導することでしょう。家電品を使わず、電灯を消す行為は文明の退化であると思わせたいところでしょうね。けれど、闇になってようやく見えるものが確かにあり、それは必ずしも酷薄な様相ばかりをしていないと僕は信じています。豊かなものがきっと微笑むだろうと信じます。
(*1):「センセイの鞄」 原作川上弘美 作画谷口ジロー 双葉社 2009‐2010 初出は「漫画アクション」2008-2009
(*2):「センセイの鞄」 川上弘美 詳しくは11日の日記参照
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