2011年5月21日土曜日
岡本かの子「老妓抄(ろうぎしょう)」(1938)~その頃は嫌だった~
柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなった。
むかしの男たちへの罪滅しのために若いものの世話でもして
気を取直すつもりかと思っていたが、そうでもない。近頃この
界隈(かいわい)に噂が立ちかけて来た、老妓の若い燕(つばめ)と
いうそんな気配はもちろん、老妓は自分に対して現わさない。
何で一人前の男をこんな放胆な飼い方をするのだろう。(中略)
縁側に出て仰向けに寝転ぶ。夏近くなって庭の古木は青葉を一せいにつけ、
池を埋めた渚の残り石から、いちはつやつつじの花が虻(あぶ)を呼んでいる。
空は凝(こご)って青く澄み、大陸のような雲が少し雨気で色を
濁しながらゆるゆる移って行く。隣の乾物の陰に桐の花が咲いている。
柚木は過去にいろいろの家に仕事のために出入りして、醤油樽の
黴(かび)臭い戸棚の隅に首を突込んで窮屈な仕事をしたことや、
主婦や女中に昼の煮物を分けて貰って弁当を使ったことや、その頃は
嫌(いや)だった事が今ではむしろなつかしく想い出される。(中略)
彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのでは
ないかと考え始めたりした。(*1)
岡本かの子さんの短編集「家霊(かれい)」(*2)に収まっていた別の作品から引用しています。「永年の辛苦で一通りの財産も出来、座敷の勤めも自由な選択が許されるようになった十年ほど前から、何となく健康で常識的な生活を望むようになった」(*2)ひとりの老妓が、大工に連れられ家に来た柚木という若い電気工に住まいと資金を提供しようと申し出ます。「発明をして、専売特許を取って、金を儲け」たいという男の言葉に気持ちが動き、突然に思い立ったのです。
親子ほども年齢の違うふたりのやりとりに、ちょうど年頃となった老妓のひとり娘が加わって、何とはなしに華やいだ時間が連なります。目立って凄いことが起きるでもなく、陽射しはゆるやかに明暗して夢のごとき時間が過ぎていく。
しかし、発明で食べていくという夢想がどうやら現実的でないと分かってきた男の、そんな幼い精神はやがて時間を持て余して蒙昧し、徐々に生彩を失っていくのでした。いつしか住居兼仕事場から街中へと出奔する日が目立って増えていく。奇妙でぼうっとした連帯は当然に瓦解していき、朝露のそっと消えなくなるように終わりを告げるのでしたが、それで三人のこころに救いがたい傷痕が残るではありませんでした。なんて静かな幕引き。
若やいだ気分に包まれたり、上を向いて過ごすことがここ数年に渡って僕には在ったと振り返る訳なのですが、3月11日の午後以降(こころに)降り注ぐ雨に打たれ過ぎたものか、背中は丸まり目線は下がった感じがします。
岡本さんの描く老境の男女にそんな気分も重なるのでしょう、共振しちゃうところがあって、このお話の抱える淡い影、微かな震え、沈んだ月の残照が浮き立たせる航跡の次第に見えなくなっていく、そんなしっとりと淋しい面持ちが随分胸に来るのでした。
上に紹介した場面は男の心変わりした瞬間を表わしたところで、そこに“醤油”がほんの僅かに、けれど強烈な薫りをともなって使われていました。老妓の世話になる前の、電線を張ったり電球を交換したりした細々とした仕事を懐かしく思い出していく。「こんなつまらない仕事、パッションが起らない」と散々うそぶいていた癖して、板敷きの湿った床に這いつくばって半身を突っ込み突っ込みした台所の棚の奥での、醤油とカビの匂いが入り混じって重くのたうつのを鼻腔の奥にありありと再現してしまって、若い男は大いに動揺しています。
僕たちの思い出に巣食い、時に勇気付け、時には哀憫(あいびん)の淵に突き落とすのが嗅覚の記憶です。ここでの“醤油”の臭いは単調な日常、愉楽や欲望の封殺、無私の時間、派手ではなく地道、無視出来ぬ生計といった、硬性ガチガチの言葉を山のように想起させ、ややネガティヴな印象をもたらしています。さらには「覚醒」という文字も明滅しますね。醤油は恋情に陥ったこころを覚醒させるための小道具として小説世界に多用されるのだけど、ここでも男の妄念をすっかり振り払う局面にまざまざと薫って、目覚ましの役割を果たして見えます。
隷属を嫌って飛び出した農奴が走り疲れて立ち止まり、思い返して暗い林をとぼとぼと農園に引き返していくように、男は“醤油”の香りを追い求めておんな(老妓)の視線の届かぬ場処へと帰っていく。うーむ、どうにも色香のない、くそったれの結末です。
洒脱な会話、自律した時間、注がれる視線と交わる想い、そういったものから逃げ帰って「生活」の現場に戻っていく男は、果たして目覚めたと言えるのか。やはり逆だったように思えます。真に追い求めるべきものを見失い、本質的な覚醒へ至ることなく男はステレオタイプのしがない現世に戻っていく。これから恋愛をしていく若い人には見習って欲しくない顛末ですね。
人生の終幕近くにあった岡本さんらしい、諦観と狂おしさに満ちた男女観が花咲いている。語り口の上手下手を越えた、なんとも深いものがテーマに選ばれていて堪能しました。
(*1): 「老妓抄」 岡本かの子 初出は昭和十三年(1938)の「中央公論」十一月号
(*2): ハルキ文庫 2011 引用箇所はその27-28頁
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