2011年8月15日月曜日
大塚英志「三ツ目の夢二」(2008)~味気ねぇなぁ…~
人の手に掴まれ宙に浮いた陶製の醤油差し
ドボ ドボ ドボ…と黒い液体が注ぎ口から流れ出る
朝日が射し込むリビングルーム。テーブルを囲む家族
醤油を注ぐ男(大杉)は傍らの新聞を読むのに忙しい
野枝「あなた かけ過ぎですよ」
大杉「ああ スマン スマン」
野枝「最近 なんでも濃い味にしてしまって…
お体にさわりますよ…」
大杉、意に介さずに醤油でべっとりとなった料理、肉か
刺身か分からぬものを箸でひと切れつまみすると、パク…
と口に放り込む
大杉「味気ねぇなぁ…」
パリーンという皿の割れる音!(中略)
向かい側に座った野枝が投げた皿が大杉の額を直撃
野枝「せっかく作ったお食事を 味気ないなどと!!」(*1)
いまから90年ほど前、1923年9月に首都圏を襲い、死者、不明者10万人以上を出した“関東大震災”。その惨状をつぶさにスケッチした絵の展示会が、今月末より墨田区横網町公園にある復興記念館で催されます。描き手は抒情作家としてつとに知られた竹下夢二(たけしたゆめじ)さんです。(*2)
女性の繊細さ、快活さを表現して絶大な人気を得た夢二さんでしたが、震災時には混沌とした街なかに飛び出して現実を活写していたのですね。お近くのひとはどうぞ足をお運びください。僕はなかなか都合が付かずにいますが、ゆったりとそんな夢二さんの絵と向き合えたなら、きっと意味深く濃厚な時間になるでしょう。
上に引いたのはちょうどその頃、つまり震災前後の夢二さんと彼の周辺を題材に選んだ漫画(*1)の一部です。亡き恋人への想い断ちがたい夢二さんは、ずるずると煩悶を重ねたあげくにおんなの面影を追って黄泉の国まで降り下ってしまいます。紆余曲折を経てなんとか生還するのだけど、以来、おぞましい霊能力をそなえてしまうのです。あまりにも荒唐無稽な幕開けです。
死んだはずの夢二さんが舞い戻ったため現世は時間の歩みを止めてしまい、やがて暮らしの諸相はあるべき歴史からふわふわと乖離を始めるのでした。僕たちの見知った記憶や知識と微妙に顔付きを異にしていき、大震災の発生がどんどん“先送り”ともなって、大正はそのまま文化の爛熟を極めていく。
第三の恋人お葉さんや、彼女の胸に抱かれて共に絵のモデルを務めた黒猫といったものにとどまらず、川端康成さんや田川水泡さんといった実在の人物が入れ替わり立ち代りしながら顔を覗かせ、夢うつつの出来事がつづられていく、という、まあ、かなり無茶苦茶なお話なのです。普通なら綺麗さっぱり忘れてしまう類いの絵空事なのですが、最終話に“醤油”を描いた箇所があったものだから急に磁力を増して来ました。
家族の団欒が描かれていますね。屈強そうな男が朝食の席で醤油を大量に使い、妻らしきおんなに叱責されている。読んでいるのはどうやら英字新聞(いや、巴里から持ち帰った仏字新聞かもしれません)で、手元には味噌汁椀も置かれています。これは大杉栄(おおすぎさかえ)さん、なんですね。
僕が抱える大杉さんのイメージはもっと線が細くて、叩(はた)かれて舞うおしろいにぼんやり包まれるような、それとも艶めかしい芳香が首筋あたりにゆらめく風であり、かつて映画(*3)の中で細川俊之(ほそかわとしゆき)さんが演じてみせた際の印象が絶対的に強いのだけど、こっちの腕は馬鹿みたいに太いし、胸板も無駄に厚そうで、なんかチャールズ・ブロンソンかミッキー・ロークを彷彿させます。盛り上がった額、張ったアゴ、険しい目つき。攻撃的な男の体臭がぷんぷんして来ます。
叱られているのが大杉さんなら、テーブルの反対がわで声を張り上げているのは伊藤野枝(いとうのえ)さんとなり、ぐるり囲んでいるのは彼らの子供たちになります。“無政府主義”を唱えて時の権力に監視され続け、大震災のどさくさに紛れて偶然連れ立って歩いていた幼い甥っ子ともども拘禁され、肋骨を何箇所も折る容赦ない拷問に遭い、その果てに絞殺されてしまう大杉さんと伊藤野枝さんなのですが、時空が歪んだしまったこの漫画世界では地震がいつまで経っても起きません。きっかけを失って、彼らはおかしな具合に“生き永らえてしまっている”のです。
崩壊を免れた浅草十二階が夜空にそびえ、満艦飾に彩られた街路に嬌声が飛び交う。“有り得ない繁栄”は大杉さんたちの生活も底上げしているのであって、実際はこんな風ではなかった。あの有名な日蔭の茶屋(ひかげのちゃや)事件以降、評伝を読む限りにおいては彼らの生活の実態は相当にきびしかった。言論を封じられて元々収入が不安定だったのだけど、事件以来愛想を尽かして仲間が次々と離れていったのが何と言っても響いた。
瀬戸内晴美(せとうちはるみ)さんは著書のなかで、当時の彼らの日々を丹念につなぎ直して僕たちに提示しています。史実にのっとり整理された資料的価値の高い労作なのだけど、大杉さんたちを襲った窮乏ぶりがどれほどであったかを次のような逸話でもって簡潔に説いている。
赤ん坊の生れた直後、有楽町の服部浜次の娘の清子が母親に
いいつけられて手伝いに来たことがあった。若いぴちぴちした
娘は、二日もいると、黙って逃げ帰ってしまった。
「まあお清、どうして帰ったの」
「だっておっかさん、あの家ったら、なあんにもないんだもの」
「なあんにもって何が」
「お台所のものよ、お米でしょ、お醤油でしょ、お砂糖でしょ、
なあんにもないの」
清子は訴えながら笑い出してしまった。
「お米がありませんよ、買って下さいっていっても、だあれもおあしを
くれないんだもの、どうやって料理するのよ、あたし困るわ」
母親もそこまで徹底した貧乏だったのかと呆れてしまった。(*4)
ドボ ドボ ドボ…と料理にかける醤油など、どこにも無かったのです。白いテーブルに可愛らしいお揃いの洋服、食べ切れない程の食事、それはすべて夢以外の何ものでもなく、狂って停滞する時間のなかで大杉さん、野枝さんがどれだけリアルな地平から逸脱してしまったかが読者に分かるよう、あえて滑稽と思えるほどの誇張が施されていたのです。何気ない光景で読み流してしまいそうですが、案外に意味深な描写になっている。
この事、つまり“有り得ない繁栄”にどうやら勘付いてしまった大杉さんは、本来の時間へ飛び去る決意を密かに固めるのでした。命運を共にした野枝さんと甥子さんを虚構の世界に残し(そのまま彼らは生き永らえさせて)、ひとりきりで震災のあった時空、すなわち拷問され、絞殺されると決められている無慈悲で残酷な現実へと旅立っていくのです。
苦境を回避させ、絶望を緩和し、奇蹟を連続させる。創作とはまるで魔術です。誰もがそれを望むし、僕だって空想にしばしば耽溺します。この漫画は大杉栄という稀代の思想家が透徹した目線でそんな魔術(“夢”)を打ち砕き、創作による救済を踏みにじり、現実世界に堂々と殉じていく、つまり天命に身を投じていくという点で徹底しており、どこまでもある意味醒めている。醒めていながらも生き生きと昂揚するものがあって、余韻が後を引き、やんわりと鼓舞されるところがあるのです。
フィクションに逃げ込んでいながら、そのフィクションを登場人物が拒絶していく、そんな姿に考えさせれ、勇気付けられもします。切れ味抜群という訳ではないけれど、なかなか考えさせる構造になっておりました。
一瞬顔を覗かせた醤油は典型的なイメージの分担“男らしさ、父性”とここでは結びついており、そこから内奥にそっと息づく家族への深慮を下支えすると共に、ここでは夢からの「覚醒」のきっかけとなって起動している。作者の大塚英志(おおつかえいじ)さんと作画担当のひらりんさんがどこまで意識して“醤油”を登用したのかは分からないけれど、醤油が醤油らしく存在を主張して、物語を補強する柱のひとつになっていたように僕には思えます。ごちそうさまでした。
細川さんの演じた大杉さんも最後に貼っておきましょう。う~ん、やっぱりこっちの方が艶があって、僕は惹かれちゃいますねえ。
(*1):「三ツ目の夢二」 原作大塚英志 作画ひらりん 徳間書店 初出「月刊COMICリュウ」2008年10月号-2010年11月号 引用は単行本2巻最終話「第伍絵 パノラマ」175頁及び185頁 紹介した醤油の描写はしたがって厳密には2010年のようですが、連載物の慣例にしたがい表題には2008年をここでは掲げてあります
(*2): http://www.tokyoireikyoukai.or.jp/event/
(*3):「エロス+虐殺」 監督吉田喜重 1970
(*4):「諧調は偽りなり」 瀬戸内晴美 初出「文藝春秋」1981年1月号~1983年8月号 手元にあるのは「瀬戸内寂聴全集 第12巻」新潮社 2002 引用箇所はその359頁。ちなみに「諧調は偽りなり」の前段にあたる「美は乱調にあり」(1965)では伊藤野枝さんが大杉さんと出会う前の様子がやはりつぶさに書かれていますが、そこでは前夫の辻潤(つじじゅん)さんとの生活を支えるため、野枝さんが隣家から味噌や醤油を借りている様子が挿入されています。「この提案にはらいてうも有難がり、早速、野枝の近所の上駒込の妙義神社の近くへ引越してきた。この頃の辻家の裏隣には垣根ひとつへだてて野上彌生子と豊一郎の家もあり、野枝はへかけこんで野上彌生子の家へかけこんで、醤油をかりたり、味噌をかりたりしながら、休速に親しくなっていた。」(同全集12巻193頁)
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