2011年11月18日金曜日
“反抗するその力よりも”
脚本家の山田太一(やまだたいち)さんが八雲八雲(こいずみやくも)さんのことを書いた「日本の面影」も合わせて読んでいる最中だけれど、予想通り味噌と醤油に関する特段の記述はないですね。古い全集をひもときながら想いをめぐらした気ままな散歩も、そろそろお終いみたいです。
食べもの”について触れたものではないのですが、最後に備忘録をかねて書き写しておきたい箇所があります。“結局この文章に出会うために読み進めてきたのではなかったかと思わせる、とても刺激を含んだ内容です。文頭に“東京、1904年8月1日”とありますから八雲さん晩年の一篇ですね。当時の日本はロシアとの戦争の只中にありました。前年の明治36年の12月21日にロシアの満州侵略に対し抗議を提出し、同28日には連合艦隊が編制されている。年明けて2月10日に開戦、たちまち海も山も砲火に砕け、戦死者の山を築いていく。
そのような暗澹たる世相にあって、東京という街が、そこに住まう人がまるで何事もないように動き、微笑み、ざわめく様子に八雲さんはひどく驚いているのです。理解しようと努め、どうにかこうにか思案を取りまとめていくのですが、読んでいると随所に不協和音が感じられる。困難なテーマに立ち向かっている証拠です。百年以上も前の考察ながら、あの三月の震災後に生きる僕たち“現代の日本人”を考える上で有益な言葉を多く含んでいるように思えます。
東京、1904年8月1日(中略)
日本にとっては、恐らくは、その国民的生命の無上の危機である。(中略)経験に乏しい人の観察には、日本人はいつもと異なったことは、何ひとつしておらぬように見えるであろう。(中略)心配あるいは意気沮喪(そそう)の情態を示すものとては実際にまったく何ひとつ無いのである。それどころか、国民一般の自信が喜ばしげな調子を見、また幾度の捷報(しょうほう)に接しても、国民の自負心が感心なほど制御されているのを見て誰しも驚く。西からの海流が、日本人の死体をその海岸に撒き散らしたことがある。鉄条網の防備のある陣地を襲撃して幾連隊の兵士が絶滅したことがある。幾艘の戦闘艦が沈没したことがある。だが、いかな瞬間においても、国民的興奮は微塵だもこれまで見ない。人々はまさしく戦前通りに、その日日の職業に従事している。物事の楽しそうな様子は、正しく戦前と同じである。芝居や花の展覧は戦前に劣らず、贔屓(ひいき)を有っている。市外の生活は何の影響もこうむらず、ほかの年の夏同様に、花は咲き、蝶は舞っているが、外見では、東京の生活はそれと同様に、ほとんど戦争の事件の影響をこうむっていない。(中略)この戦争の話はすべて悪夢だと思い込むことが出来るくらいである。(*1)
“捷報(しょうほう)とは戦闘に勝ったことを知らせる報道のことで、そういった報せに関してすら大騒ぎしない様子に八雲さんは首を傾げている。誰からも号令をかけられていないのに、まるで「悪い夢」のよう、「無いこと」のように誰もかれもが振る舞っている。なぜここまで統制されていくのか、不思議を感じている訳です。八雲さんは十四年間の暮らしで習得した知識を総動員して、この謎を解こうと躍起です。
古昔(こせき)、この国民は、その情緒を隠すばかりでなく、精神的苦痛のいか圧迫の下にあっても、楽しそうな声で物を言い、愉快そうな顔を人に見せるように訓練されたのであった。そして彼らは今日もその教訓を守っている。陛下のため、祖国のために死ぬる者どもを亡くした個人的悲哀を現すのは、今なお、恥辱と考えられているのである。(*2)
一般公衆は、あたかも人気のある芝居の舞台面を見るように、戦争の事件を観ているように思える。興奮はせずして興味を感じている。そして、彼らの異常な自制心は「遊戯衝動」の種々な表現に特に示されている。(*3)
日本の武家社会には士農工商といった厳格な身分制度や教育機会の不平等、それから男尊女卑や家長制度などが縦横に張りめぐらされていて、人間の思考はさながら蜘蛛の巣に捕まった羽虫のようなもの。前進も後退もままならない。感情を表に出すことを恥と捉える風潮も重なって、完全に手足をもがれた格好になったのだと八雲さんは(それを悪いこと、遅れたことと単純には否定はしていないのですが)推察するわけです。心の奥に渦巻く軋轢は吹き抜ける穴を探して“娯楽”の形にやがて変幻していき、お芝居や子供の遊び、歌や衣装といったもので花開いていく。深刻な討論や表現が回避され、華やいで笑いが寄り添う分野で“無上の危機”が盛んに玩(もてあそ)ばれる。八雲さんはそれを日本の国に巣食う独特の「遊戯衝動」によるものと捉えている。
刻下の世界震盪(しんとう)的なる事件のうちにあって、歌舞を見て感ずると同一様な楽しみを感じ得る、その不思議な度量を見ると──誰しもこう訊(たず)ねたくなる。『国民的敗北をしたなら、その精神上の結果はどうであろう』と。……思うに、それは事情如何(いかん)によることであろう。クロパトキンが日本に侵入するという。その軽率な威嚇を実行し得るなら、日本国民は恐らく擧(こぞ)って起つであろう。然しそうでない、どんな大不幸を知っても雄雄しく耐え忍ぶであろう。いつからと知れぬ太古からして、日本は異変の頻繁な国であった。一瞬時にして幾多の都市を破壊する地震があり、海岸地方の人口ことごとくを一掃し去る長さ二百里の海嘯(かいしょう)があり、立派に耕作された田畑の幾百里を浸す洪水があり、幾州を埋没する噴火があった。こんな災害がこの人種を鍛錬(たんれん)して甘従(かんじゅう)と忍耐とを養い来たっている。そしてまた戦争のあらゆる不幸を勇ましく耐え忍ぶ訓練もまた十分に為し来たっている。これまで日本と最も近く接触し来たっている外国国民にすらも、日本の度量は推量されないままで居た。攻撃を耐え忍ぶその力は、攻撃に反抗するその力よりもあるいは遥かに勝っているかも知れぬ。(*4)
“クロパトキン”とはロシア満州軍総司令官アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキンのことです。“海嘯(かいしょう)”とは、ここでは大津波のことを指しています。日本人の寡黙、微笑み、どんな不条理な事態に面しても憤然とすることなく決して拳(こぶし)を振り回さない“おとなしさ”は、天変地異に幾度も襲われ、そのたびに耐え忍び、生き延びてきた歴史の産物ではないか──そのように八雲さんは考えるのです。
八雲さんが言う“頻繁な異変”とはどんなものか。来日してから亡くなるまでの期間、どのような災害が我が国を襲ったかをここで振り返ってみましょうか。(*5)
【1890年(明治23)】~八雲来日の年~
2月27日 浅草の大火(約1500戸焼失)
9月5日 大阪の大火(約1800戸焼失)
【1891年(明治24)】
12月30日 鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)
【1892年(明治25)】
4月10日 東京神田の大火(約4000戸焼失)
【1893年(明治26)】
3月29日 伊勢松坂町の大火(約1000戸焼失)
【1894年(明治27)】
1月24日 鹿児島市大火(503戸焼失)
5月27日 山形市の大火(1200戸焼失)
6月17日 横浜市の大火(約1000戸焼失)
【1895年(明治28)】
6月2日 越後新発田の大火(約2000戸焼失)
【1896年(明治29)】
4月13日 越前勝山町の大火(1200戸焼失)
6月15日 三陸地方に大津波(死者2万7122人、流出・破壊1万390戸)
7月7日 富山県下の大水害(流失3000戸)
8月26日 函館の大火(約2220戸焼失)
【1897年(明治30)】
4月22日 八王子の大火(約3100戸焼失)
【1898年(明治31)】
6月5日 直江津の大火(約1600戸焼失)
【1899年(明治32)】
8月12日 富山市の大火(約5000戸焼失)
8月12日 横浜開港以来の大火(約3200戸焼失)
9月15日 函館の大火(約2000戸焼失)
【1900年(明治33)】
4月19日 福井の大火(約1700戸焼失)
【1902年(明治35)】
3月30日 福井市で大火(約3000戸が焼失)
8月7日 鳥島が大爆発、島にいた125人全員が死亡
9月28日 関東・東北地方に大暴風雨(足尾銅山の山崩れで死者34人、不明170人)
【1904年(明治37)】~八雲急逝の年~
5月8日 小樽の大火(2481戸焼失)
これは酷い。なるほど毎年のように大きな火事があり、その度に何千もの家屋が焼け落ちています。今回の被害を語る際に話題によく上る三陸地方の大津波も、八雲さんはすごく身近に感じていたんですね。ここまで大きな災害がくり返されると、八雲さんの言わんとすることも当たっているような気になって来ます。喜んでいるのじゃありませんよ、逆に困惑している、心配になってくる。
ウェブを介して情報を収集する手癖の付いてしまった人には、はっきりとした触感となって感じられる話なのですが、海外の視線はまさに八雲さんが書いたこの“不思議な度量”に今なお注がれていていて、むしろ勢いは強まっている。一挙手一投足を睨(ね)め付けるかの如しです。“反抗するその力よりも遥かに勝っている”日本人の“耐え忍ぶその力”に対して唖然とし、いや、そろそろ愕然とする域に踏み込んで見えます。
僕たちの身体に染み入ってしまった忍従の力が、かえって“国民的生命の無上の危機”へと僕たちを追いやっていないか、真剣に考える必要がありそうです。現代のクロパトキンの侵入は軽率な威嚇程度では済まない。“甘従(かんじゅう)と忍耐”では抗しきれない相手のように思えます。
八雲さんの遺した言葉を日本人礼讃と捉え、美しい態度、素晴らしい姿じゃないか、さあ頑張ろう、いっしょに耐えていこう──そのようにまとめるのが普通かもしれないけれど、僕にはどうしてもそうは思えないんですね。きっと八雲さんも望まないように思えます。
(*1): The Romance of the Milky Way and other studies and stories(天の河縁起そのほか)「日本からの手紙」 小泉八雲 1905 大谷正信訳 全集第7巻 485-487頁
(*2):同487-488頁
(*3):同488頁
(*4):同506-507頁
(*5): http://meiji.sakanouenokumo.jp/
2011年11月17日木曜日
“無味に思える”
蛙(かえる)の冷たい、しっとりと湿った、緊(は)りの無い天性
に関して斯(か)く詩人が無言でいるのを怪しんでいる間に、突然
自分の胸に浮かんだことは、自分が読んだ他の幾千という日本の詩歌
に、触覚に関して詠(よ)んだものが全く無いという事であった。
色、音、匂いの感じは、精緻驚くばかりにまた巧妙に表わされている。
が、味感は滅多に述べて無い、そして触感は絶対に無視されている。
この無言もしくは冷淡の理由は、これをこの人種の特殊な気質または
心的慣習に求むべきかどうかと胸に問うてみた。が、まだ自分はその
疑問を決定することが出来ずにいる。この人種は、西洋人の舌には
無味に思える食物で幾代も生活し来たっていることを憶(おも)い
起こし、また、握手とか抱擁とか接吻とか或いは愛情のほかの肉体的
表明とかいう動作を為せる衝動は、極東人の性質が実際全く知らずに
いるものということを憶い起こすと、愉快なものにせよ、不愉快なもの
にせよ、とにかく味感と触感とは、その発達が日本人は我々よりも
遅れているという説を抱きたくなる。(*1)
小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんが書かれた文章です。八雲さんは身も心も日本に投じ、この地で独自に発達を遂げた文化や思想を貪欲に吸収していきました。微に入り細を穿って書き留められた光景は、伝説やおとぎ話も含めて美しく、機微を含んでずいぶんと胸の奥深くまで沁みわたるのだけど、なぜか“食べもの”だけが蚊帳の外に置かれて見える。一体全体それはどうしてなんだろう、と先日来くずくずと考え続けて来た訳です。
先におこなった抜き書きからは八雲さんが日本の食事に物足りなさをどうやら感じ、それを悔しく思っていた様子が読み取れたのでしたが、上の文章を読むと嫌悪とまでは言いませんが、和食に対してかなり辛辣でどんと突き放している雰囲気があります。出版された時期から察するに、来日して七年か八年が経過していた頃でしょう。十分に風土に慣れ親しみ、四季を通じて多彩に変化していく日本の食料事情も飲み込めた時期です。そんな日本通の八雲さんから“西洋人の舌には無味に思える”と僕たちの食生活を評されてしまうと、いささかショックです。
隣国である大韓民国が小学校の給食にキムチを添えることを義務付けたりした理由がそうなのだ、と教わりましたが、味覚というものは幼年期に完全に組み立てられ、その時期に刷り込まれないと生涯にわたって“美味しい”とは感じ取れなくなるものらしいのです。人間の味覚、嗅覚の仕組みというのは実に不思議です。家庭の事情や根っからの異邦人という生来の体質から、地球のあちらこちらを転々として過ごしてきた八雲さんにとって、その四十年間に刷り込まれた食文化の情報量はさぞ激烈で膨大なものだったでしょう。そんな彼にとって日本での食事(醤油、味噌も含めて)は、正直言って味気ないものだったに違いありません。これが案外真相なんでしょうね。
そろそろ八雲さんをめぐる“食べもの”の話はやめにしましょう。いえ、何も和食をぞんざいに言われて気分を害した訳ではなくって、八雲さんの視点の面白さをもっと書き留めたくなっただけです。上の文章にある“触感”の話などきわめて面白いですよね。百年前の記述なのだけど、時代を超越した日本人論になって胸に迫ります。
海外での生活経験が豊富な友人から“握手”の話を聞かされたことがあります。出逢いや別れに際して交わされるあれですが、日常の何気ない儀礼に過ぎないと思われることなれど、そこで取り交わされる感情の綾は相当なものらしい。正のものもあれば負のものもありますが、実に多彩で大量のものが“触れ合い”を介して瞬時に行き来し、互い互いに汲み取っていく。文中にある“肉体的表明”という語句は古めかしい感じを与えるけれど、閃光にも似たまばゆい面持ちの、昂揚を誘う時間を築いている。
好感や信頼、融和、解放、休意、深慮、はたまた求心なり恋慕──実際のところはそんな単語をずらずらと述べていたわけではありませんが、数秒間に過ぎなかった一度の握手について、手のひらに宿る体温の印象やそこから派生する揺らぎや安息、土台に眠る気質や知性の奥行き、互いの状況と将来の展望といったことについて嬉々として語ってやまない友人を見ていると、「触感」は日本人の完全に出遅れてしまった分野だと素直に認めない訳にはいかない。対人間の交感や情報のやり取りを、ほんとうに真摯に積極的に捉えている印象を受けました。こりゃ敵わない、これが海外の基準だとすれば日本人の日常など“無味”で“遅れている”、空洞化していると揶揄されても仕方ないかな、と思います。
いつか上に書いたようなあざやかな、めくるめく明るさに充ちた“握手”が僕にも出来たらいいな。それにはもっともっと修練が必要だな──そんなことを夢想しているところなのです。
(*1): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「蛙」 小泉八雲 1898 大谷正信訳 第5巻 419-421頁 引用箇所には続きがあって、八雲さんは日本人の指先の器用なことを褒めたたえ、超絶技巧の工芸品を例に引いて後段を締め括っています。鈍感というのではなく、方向が違うのだと言いたいのでしょう。叱られないよう、そちらも合わせて書き写しておきましょう。(でも、日本食の味気なさについて補完する言葉は、最後の最後までないんですよ!)
──日本人の手業(てわざ)の成功は、幾多特殊な方向に発達している触覚の、ほとんど比較にならぬほど精緻なことを確証している。この現象の生理学的意義は何であろうとも、その道徳的意義は極めて重要である。自分が判断し得ただけのところでは、日本の詩歌は、我々が美的と呼んでいる高等な感性に微妙極まる訴えを為しながら、劣等な感性は普通これを無視しているのである。この事実は、他の事は何ひとつ表示しておらぬにしても、“自然”に対する最も健全な最も幸福な態度を表示しているのである。(中略)日本人だけが百足虫(むかで)の形態を美術的に使用し来たっているという事実は意義のないことであろうか。……模様のある革の上をば炎の小波のごとく 走っている金の百足虫(むかで)!が附いている京都製の自分の煙草入れを読者諸君に見せたいものである。
2011年11月11日金曜日
“朝食は汁と魚と”
朽ちかけた背表紙に手のひらを茶色くし、舞い散る粉でソファを汚しながら古い全集を読み進めるうちに、一枚の“忘れ物”を見つけました。図書館の本には思いがけないフロクが付いていることがあります。
四つ折りにされたわら半紙(今ではなかなかお目にかからない)が頁と頁の間に挟まっています。「生活設計表」と上に書かれてある。おとなの字です。謄写板によるものか、黒いインクがところどころ霞んだり滲んだりしながら几帳面にびっちりと罫線が引かれており、横軸には等間隔で左から右に6,7、8──と数字が刻んであります。硬い鉛筆で書かれた幼さの残る文字が行間で踊り、「起る」だの「飯」、「学校」だのと読めます。時どき「○○○公園にいった」とか「子どもの日で外出」とあります。どうやら小学校高学年か中学生による一行形式の日記のようです。生活習慣を意識付けるための宿題だったのでしょう。
「テレビ」は夜に限って1時間ほど観ています。就寝はほぼ毎日一定で9時です。昨今の傾向からすれば随分と早い時間です。紙そのものから染み出た油か何かが本の頁を真四角に染めており、両者が長い歳月ぴたりと寄り添っていたことが察せられる。ワードプロセッサーもなかった時期のものです、かれこれ四十年ほども遡った頃の日記でしょうか。“2年5組№13”と書かれた下に名前が読めます。落とし主は男の子ですね。彼がこの全集が明るい場所に並んでいた頃の最後の読者だったのかもしれません。
百年前に亡くなった小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの八十年前に出された全集に、四十年前の日記が挟まって眠っている。歳月を跨いで先人との会話が再開されていく、溝がさっと埋まって交感がさんざめく感じが嬉しいし、愉快です。
僕がこうして書き綴っているブログという名の吐息や囁きも、いつしか“落し物”となって忘れ去られ、40年後なり100年後に偶然に読まれるものだろうか。そのとき、子孫たちはどんなまなざしを向けてくれるものだろうか。そんな夢想もしてしまうのでした。
28.8年とか30年とか、はたまた2万4千年という年数を眉根ひそませ考えることを僕たちは今、(はた迷惑な話で怒りも湧きます)強いられています。ですから、未来を想うことはどうしても複雑な心境になります。もしかしたら怨嗟に満ちた目線でこの文章だって読まれるのかもしれない。どうして逃げなかったの、どうして手荷物ひとつで旅立たなかったの、そもそも何であんな未完成な機械に頼ってしまったの────。図書館の忘れ物のように気持ちをなごませる、微笑ましさと懐かしさを感じさせるもので在って欲しい、そんな穏やかな将来であって欲しいと願わずにはいられない。
脇道にそれちゃいましたね、話を戻しましょう。八雲さんの物語にどうして醤油や味噌が見えないか、その正確な理由は結局分かりません。臭いとか不味いと疎(うと)んじる気配もない。でも、全集のなかから食事に関する記述(節子夫人の懐旧談も交じる)を抜き書きしてみると、八雲さんの筆のためらいがなんとなく分かるような気になります。もしかしたら八雲さんにとって食事は、乗り越えられぬ大きな壁であり、そっと意識から外したかったのかもしれません。
学校から帰ると直ぐに日本服に着換え、座布団に座って煙草を
吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。
何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りま
した。西洋風は嫌いでした。西洋風となるとさも賤(いや)しんだ
ように『日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似を
しますか』という調子でした。(節子夫人のはなし *1)
決して一度も、西部日本の何処ででも、西郷に居た時ほど居心地が
よかったことは無い。薦められて行った宿屋には、客は友と自分と二人きり
であった。(中略)食物は驚くばかり上等で、珍しいほど変化に富んでおり、
欲しければセイヨウリョウリ(西洋の料理)を──フライにした馬鈴薯添
えてのビフテキ、ロースト・チキンその他を──注文してよいと言われた。
自分は旅行中は純日本式食事を守って手数を避けることに決めているから、
その申出を利用はしなかった。(中略)日本全国のうちで一番原始的な
土地へやって来たのだから、近代化するすべての勢力の範囲外はるか遠く
に自分を見出すことと想像していたのであった。だからフライにした馬鈴
薯添えてのビフテキを思い出させられたのは幻滅であった。(*2)
1891年6月 松江にて(中略) 私は私自身の弱点を白状するのは
非常に恥じ入ったことではありますが、しかし事実は申し上げなくては
なりません。実は私は十ケ月間というものは日本食ばかりを食べていて、
他にはいかなる食物も口に入れなかったので、つい肉食を腹一杯食べる
ように余儀なくされたのであります……たった二日間だけの肉食生活
ではありましたが……。そしてその結果病気にかかってしまいましたので、
日本食で養生することが出来なくなりました──鶏卵でいくら勢いをつけ
ても駄目なんです。私は牛肉、鳥肉、ソーセージ、フライにした固形物等を
驚くばかり貪食し、あまつさえビールを鯨飲しました──これというのも
私は一人の外国人の料理人を松江で僥倖(ぎょうこう)にも見出したから
であります。私は大いに赤面しております。しかしこれは私の罪でもなけ
れば日本人の罪でもありません。皆私の祖先の罪なのです──すなわち
北方人類の凶暴にして狼のごとき遺伝的本能とまたその傾向とに原因して
いるものであります。父およびその他の人達の罪悪なんです。(*3)
食物には好悪(こうお)はございませんでした。日本食では漬物でも、
刺身でも何でも頂きました。お菜から食べました、最後に御飯を一杯だけ
頂きました。洋食ではプラムプデインと大きなビフテキが好きでございま
した。(節子夫人のはなし *4)
1893年10月13日(中略)午前七時──朝飯。極めて軽い物──
玉子と焼きパン。ウイスキー小匙入れたレモナードと黒コーヒー。妻が
給仕する、私は妻にも少し食べさせようとする。しかし妻は少ししか
食べない──あとで一同の朝飯の時にも顔を出さねばならぬから。(*5)
二番目の旅行記と三番目の手紙などを読むと、身も心も日本に染まろうと願う余り、身体の要求を無理やりに八雲さんは抑圧していて、裂け目やひずみを来たしてしまった印象を受けます。また、こちらも旅行の記録ですが、八雲さんが日本の食の慣習に触れ、少なからぬ興味を示しているくだりがあります。
老主人が私を湯殿へ案内して、私を子供扱いに主人自ら強いて、私を
洗ってくれた間に、主婦は米、卵、野菜、菓子などの旨い小さな、ご馳走を
私のために調理した。私が二人前ほど食べた後でも、彼女は私に満足を
与えなかったということをひどく気にして、もっと沢山料理を作りかねた
ことを大いに詫びた。
彼女は『今日は十三日で、盆祭の初めの日で御座いますから、魚があり
ません。十三日、十四日、十五日には誰も精進致します。十六日の朝は、
漁師が漁に出かけますので、両親とも生きている人は、魚を食べてもよろ
しいのです。しかし、片親のない人は、十六日でも食べられません』と
言った。(*6)
東洋の信仰には“食を控えること”で精神的な高みを目指したり、霊的な交信を願う根強い流れ(*7)があって、断食修行や即身成仏がその究極のものとしてあります。日本という国に魅了され、その文化をとことん愛し貫いた男が和食のみで健常な心身を保つことがならず、西洋料理を定期的に摂取せねばならなかったことは恥辱とまでは言いませんが、硬いしこりを彼の精神中に育てたように思われます。(*8)
午前三時半── 一睡もできなかった──夜更けて山から下りてきた
連中や、参詣のため到着した者共で夜中のどさくさ──下女を呼ぶ手の
音が絶えない──隣室は飲めや歌えの大騒ぎ、折々どっと哄笑(こうしょう)
が起こる……朝食は汁と魚と御飯。(*9)
小泉八雲さんの全集でようやく見つかったのは、味噌汁でもなければお吸い物でもない、ただの“汁”でした。前夜の不眠にいらだつ気持ちもあったでしょうが、なんとも淋しく直截な表現です。汁、たしかにスープなんだけど、こんな書き方は珍しいですよね。
日本を舞台に選び、日本人の生活を描けば、自ずと味噌汁や醤油が現われて腋をかためるというのでなく、書き手のこころの有りよう次第で違ってくる。劇中それらが闊歩すると僕たちは“自然なこと、普通の場景”と受け止めますが、書き手によっては底なしの作意をこめて描くことだってある訳です。また、意識すればこそ、想いが強ければこそ書けないことって人間にはあるものです。八雲さんの見えない味噌汁はその証しとなっている。味噌汁の記述は結局なかったけれど、番外編ということで書き残しておきます。
八雲さんの物語には“転生譚”が多い。今度どこか別の世で八雲さんと逢えたら、と思います。僕たちがこれからどう生きるべきかの助言も欲しいし、味噌汁や醤油に対する感想もそっと耳打ちしてもらいたいですね。
今年の夏に冷房を我慢したせいもあるのでしょうか、ここ半月の気候に僕の身体はついていけません。体温調整が利かず、いくら重ね着しても寒くて寒くて仕方ない。
そちらはどうですか。寒くしていませんか。
どうか元気に、気持ちも身体もあたたかく、
あたらしい季節の幕を開けてください。
(*1):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 308頁
(*2): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第23章 伯耆(ほうき)から壱岐(おき)へ」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 第3巻 740-741頁
(*3):「チェムバリンに」 小泉八雲 金子健二訳 第9巻(書簡集) 523-524頁
(*4):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 333頁
(*5):「ベーシル・ホール・チェムバリンに」 小泉八雲 大谷正信訳 第10巻(書簡集) 358頁
(*6): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第6章 盆踊」 小泉八雲 1894 第3巻 171頁
(*7):これは上村一夫さんの作品にも顕著でしたね
(*8):三月以前は口にする必要も何もなかった横文字の物質をひっそりと赤身や脂に紛れ込ませた牛肉を“驚くばかり貪食”している僕たちの今を、いったい彼ならどのように見てどのように感じるものか。『現代の便利な物』である汽車を嫌い、電話を家に引くのを断乎として許さなかった男の目に、ふたたび光を増した夜の街がどのように映るものか。100年前に独り煩悶していたこの心根(こころね)の誠実過ぎる男に対して、僕は申し訳ない気持ち、恥ずかしい気持ちでいます。
(*9): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「富士山」 小泉八雲 1898 落合貞三郎訳 第5巻 281頁
最上段の写真は今やっている展示会のポスターです。行きたいなあ。
2011年11月10日木曜日
“二三の料理を”
イタリアの伝記映画を観終えると、正午をちょっと回った辺りです。まだお腹も空いていませんから、その足で真っ直ぐ図書館に行きました。
パソコンで蔵書検索をかけ、小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの全集(*1)を出してもらいました。別巻一冊を加えると全部で18冊、かなりの分量です。80年以上前の本ですから革の背表紙部分に崩壊が始まっている。クッキーが割れて粉々になるような具合です。手が汚れるので気を付けてください、重いのでどうぞこのまま、と親切な館員の方から言われ、整理作業用のワゴンに載せたまま館内をきゅるきゅる押して歩きます。なんか普通でなくって、少しだけ得意な気分。
フロアには割合にひとの影があります。けれど、こちらの気のし過ぎかもしれないのですが、糸のほつれた感じというか、やや剣呑な空気が漂っている。館員から何事か注意された男性が辺りはばからずに大声で意見してみたり、長く沈んだ溜め息を繰り返すひと、呼吸器系の発作かと心配になるひどい咳き込みを重ねる人などが耳に障り、気持ちを泡立てます。あれだけの天災と混乱を経たのです、誰の身にも疲労なり心配は蓄積なっているのだと思います。
窓際のソファに腰を下ろして外を見やれば、灰色の空に雲が蛇のようにぐわりと逆巻き、たなびいている。以前観た「怪談」という映画(*2)を思い出します。八雲さん原作のあの「怪談」です。あれには物凄い空が描かれていましたね。
いよいよ小雨がぱらつき出しました。誰でもそうなのかもしれないけれど、僕は“幽霊”の夢をときどき見てしまい、わっと叫んで跳ね起きることがあります。長い髪のおんなだったり、見知らぬ中年男だったり日によって違うけれど、部屋に無表情でするすると入って来たり、寝ている僕にがばりとのしかかってくる。こんな年齢になっても恐怖映画が苦手で逃げ回っているのは、どこかで超自然のことを信じているせいかもしれません。
けれど、「怪談」に代表される八雲さんの世界は別物です。多くが悲恋を土台にしているので全篇がうつくしい旋律に彩られ、経験値の少ない唐変木の僕にも熱く迫って来るもの、強く揺さぶるところがある。甘っちょろいと思われそうだけど、奇蹟とか運命とか、魂のことってやはりこの世に有るように思えて八雲さんの書くものがどれもこれも本当と感じられる。
こうして全集をひもとき書簡集も含めて読み進めていくと、さらに彼の人柄や性格も手のひらにしっくり伝わるような感じでこころ強いというか、どこか励まされるような気持ちになりました。あくまで現実とは違う次元であって、生きた友人同士が膝を寄せ合い談笑する嬉しさ、愉しさには遠く及ばないにしても、人間の“核”(と書くと今は胸騒ぎするところがあるのだけど、でも“芯”とか“核”という強い響きとイメージにすがり付きたい時もあります──)に触れ合うような悪くない時間になりました。
わざわざ足を運んで八雲さんの道程を探った理由は、もちろん“味噌”や“醤油”の記述の有無、表現なり反応に対する好奇心に外なりません。結論から言えば(僕の目がふし穴でなければですが)八雲さんの視界に味噌や醤油はまるで無いんですね。落胆を通り越して不思議であり、とても興味深く思えました。婦人の懐旧談で漬け物(奈良漬)なんかが不意にクローズアップされたりはしますが、味噌と醤油はまるでこの世に存在しないかのようです。
明治23年(1890)、四十歳のときに横浜に上陸して以来、十四年間に渡って日本に居住してやがて心臓を患い、愛妻節子さんの側で眠るように亡くなってしまう八雲さんでしたが、驚嘆させられるのは執拗で飽くことなき日本文化への探求、その凄まじさ、その厚み、堆積です。
───蝉(せみ)、蜻蛉(とんぼ)、蝶といった小さきものと文人との関わりかた、仏具のかたちとそこに込められた意味、日用食器の装飾と由来、儀式、言葉、神話、日本人の骨格、瞳なり髪といった部分の特性、売り子の声、子供の遊び唄、それに派生し絡まっていく宗教観と死生観、聖書との交差、呼び覚まされた記憶から爆発的に連なっていく欧州文化に対する意識改革、視野の拡大──八雲さんの旺盛な好奇心は全方位に駆け巡り、まぶしく連射され続けます。
込み入った内容のはずなのに、愛着と憐憫が泉のように溢れてたゆたい、至極おだやかな面持ちの文面になっている。硬軟交互に綾織られた言葉を目で追うと、とても知的で趣味もいい友人とおしゃべりしているような気分です。
博覧強記の八雲さんが全身全霊をあげて漁にかかった日本で、その網に不思議と“醤油、味噌”が入ってこない、というより、“食べもの”への執着がすべからく薄い。たとえば「舞妓(まいこ)」と題された随想には悲しい因果話が挿入なっています。旅人が山峡で道に迷い、偶然見つけた家に一晩だけ厄介になる。主(あるじ)は妙齢のうつくしい女性であって、その容姿と立ち居振る舞いが高貴な血筋を連想させ、男のこころを虜にしていく。腹を空かせた男におんなは出来る限りのもてなしをするんですね。
飢えていた旅人は、この勧めを非常によろこんだ。若い女は小さな火を
焚いて、黙ったまま、二三の料理を調(ととの)えた──菜の葉を煮たもの、
油揚、干瓢、それに一杯の粗飯──それから、その食物の性質について、
詫びながら、手早く客の前へ出した。が、彼の食事中、女は殆ど物を言わ
なかったので、その打解けぬ様子は彼を困惑させた。彼が試みた二三の質問
に対し、彼女は単に頷いたり、あるいは僅かに一語の返答をするに止まる
ので、彼は間もなく談話を控えてしまった。(*3)
同様の場面が泉鏡花(いずみきょうか)さんの作品(*4)にもありました。ほぼ同時代の作品なのに、鏡花さんのものと比べると八雲さんの筆が“食べもの”に関してびっくりするぐらいぞんざいなのが分かります。“飢え”を抱えた人間と真正面から向き合うものになっていない。斜(はす)に構えた調子が独特です。
旅行記の一節にはこんなくだりがあります。これなんかも世界を構成するほかの要素から“食べもの”だけが剥離しているというか、どうも上手く噛み合っていないように感じられる。
その宿屋は私に取っては極楽、そこの女中達は天人のように思われた。
それは私があらゆる『現代の便利な物』のある欧州式のホテルで安楽を
もとめようと試みた一つの開港場から丁度逃げ出したところであったから
である。それ故もう一度浴衣(ゆかた)を着て、冷(すず)しい畳の上に
楽々と座って、よい声の若い女達にかしづかれて、綺麗な物に取りまかれ
て居るのは、十九世紀のすべての悲しみの償いのようであった。筍や蓮根
が朝飯に出て、極楽のかたみに団扇(うちわ)を贈られた。(*5)
天女に給仕される無上の想いに酔いながら、八雲さんは極楽での食事を書き飛ばしています、まるで怖れるように、まるで逃げるように──。とても奇妙な後味を残します。
(*1):小泉八雲全集 第一書房 1926-1927 次回も含め引用はすべて当全集より 当用漢字に直したり旧仮名遣いを変更したり手を入れてある
(*2):「怪談」 監督 小林正樹 1964 予告編を下に貼っておきましょう
(*3): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第22章 舞妓について」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 全集第3巻 680-681頁
(*4):「高野聖」 泉鏡花 1900
「さて、それから御飯の時じゃ、膳には山家(やまが)の香の物、
生姜(はじかみ)の漬けたのと、わかめを茹(う)でたの、
塩漬の名も知らぬ茸の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころ
ではござらぬ。
品物は侘しいが、なかなかの御手料理、飢えてはいるし、
冥加(みょうが)至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に
肱(ひじ)をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。」
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/12/1900.html
(*5): Out of the East: Reveries and Studies in New Japan(東の国から)「夏の日の夢」 小泉八雲 1895 田部隆次訳 全集第4巻 15頁