2011年11月11日金曜日
“朝食は汁と魚と”
朽ちかけた背表紙に手のひらを茶色くし、舞い散る粉でソファを汚しながら古い全集を読み進めるうちに、一枚の“忘れ物”を見つけました。図書館の本には思いがけないフロクが付いていることがあります。
四つ折りにされたわら半紙(今ではなかなかお目にかからない)が頁と頁の間に挟まっています。「生活設計表」と上に書かれてある。おとなの字です。謄写板によるものか、黒いインクがところどころ霞んだり滲んだりしながら几帳面にびっちりと罫線が引かれており、横軸には等間隔で左から右に6,7、8──と数字が刻んであります。硬い鉛筆で書かれた幼さの残る文字が行間で踊り、「起る」だの「飯」、「学校」だのと読めます。時どき「○○○公園にいった」とか「子どもの日で外出」とあります。どうやら小学校高学年か中学生による一行形式の日記のようです。生活習慣を意識付けるための宿題だったのでしょう。
「テレビ」は夜に限って1時間ほど観ています。就寝はほぼ毎日一定で9時です。昨今の傾向からすれば随分と早い時間です。紙そのものから染み出た油か何かが本の頁を真四角に染めており、両者が長い歳月ぴたりと寄り添っていたことが察せられる。ワードプロセッサーもなかった時期のものです、かれこれ四十年ほども遡った頃の日記でしょうか。“2年5組№13”と書かれた下に名前が読めます。落とし主は男の子ですね。彼がこの全集が明るい場所に並んでいた頃の最後の読者だったのかもしれません。
百年前に亡くなった小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの八十年前に出された全集に、四十年前の日記が挟まって眠っている。歳月を跨いで先人との会話が再開されていく、溝がさっと埋まって交感がさんざめく感じが嬉しいし、愉快です。
僕がこうして書き綴っているブログという名の吐息や囁きも、いつしか“落し物”となって忘れ去られ、40年後なり100年後に偶然に読まれるものだろうか。そのとき、子孫たちはどんなまなざしを向けてくれるものだろうか。そんな夢想もしてしまうのでした。
28.8年とか30年とか、はたまた2万4千年という年数を眉根ひそませ考えることを僕たちは今、(はた迷惑な話で怒りも湧きます)強いられています。ですから、未来を想うことはどうしても複雑な心境になります。もしかしたら怨嗟に満ちた目線でこの文章だって読まれるのかもしれない。どうして逃げなかったの、どうして手荷物ひとつで旅立たなかったの、そもそも何であんな未完成な機械に頼ってしまったの────。図書館の忘れ物のように気持ちをなごませる、微笑ましさと懐かしさを感じさせるもので在って欲しい、そんな穏やかな将来であって欲しいと願わずにはいられない。
脇道にそれちゃいましたね、話を戻しましょう。八雲さんの物語にどうして醤油や味噌が見えないか、その正確な理由は結局分かりません。臭いとか不味いと疎(うと)んじる気配もない。でも、全集のなかから食事に関する記述(節子夫人の懐旧談も交じる)を抜き書きしてみると、八雲さんの筆のためらいがなんとなく分かるような気になります。もしかしたら八雲さんにとって食事は、乗り越えられぬ大きな壁であり、そっと意識から外したかったのかもしれません。
学校から帰ると直ぐに日本服に着換え、座布団に座って煙草を
吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。
何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りま
した。西洋風は嫌いでした。西洋風となるとさも賤(いや)しんだ
ように『日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似を
しますか』という調子でした。(節子夫人のはなし *1)
決して一度も、西部日本の何処ででも、西郷に居た時ほど居心地が
よかったことは無い。薦められて行った宿屋には、客は友と自分と二人きり
であった。(中略)食物は驚くばかり上等で、珍しいほど変化に富んでおり、
欲しければセイヨウリョウリ(西洋の料理)を──フライにした馬鈴薯添
えてのビフテキ、ロースト・チキンその他を──注文してよいと言われた。
自分は旅行中は純日本式食事を守って手数を避けることに決めているから、
その申出を利用はしなかった。(中略)日本全国のうちで一番原始的な
土地へやって来たのだから、近代化するすべての勢力の範囲外はるか遠く
に自分を見出すことと想像していたのであった。だからフライにした馬鈴
薯添えてのビフテキを思い出させられたのは幻滅であった。(*2)
1891年6月 松江にて(中略) 私は私自身の弱点を白状するのは
非常に恥じ入ったことではありますが、しかし事実は申し上げなくては
なりません。実は私は十ケ月間というものは日本食ばかりを食べていて、
他にはいかなる食物も口に入れなかったので、つい肉食を腹一杯食べる
ように余儀なくされたのであります……たった二日間だけの肉食生活
ではありましたが……。そしてその結果病気にかかってしまいましたので、
日本食で養生することが出来なくなりました──鶏卵でいくら勢いをつけ
ても駄目なんです。私は牛肉、鳥肉、ソーセージ、フライにした固形物等を
驚くばかり貪食し、あまつさえビールを鯨飲しました──これというのも
私は一人の外国人の料理人を松江で僥倖(ぎょうこう)にも見出したから
であります。私は大いに赤面しております。しかしこれは私の罪でもなけ
れば日本人の罪でもありません。皆私の祖先の罪なのです──すなわち
北方人類の凶暴にして狼のごとき遺伝的本能とまたその傾向とに原因して
いるものであります。父およびその他の人達の罪悪なんです。(*3)
食物には好悪(こうお)はございませんでした。日本食では漬物でも、
刺身でも何でも頂きました。お菜から食べました、最後に御飯を一杯だけ
頂きました。洋食ではプラムプデインと大きなビフテキが好きでございま
した。(節子夫人のはなし *4)
1893年10月13日(中略)午前七時──朝飯。極めて軽い物──
玉子と焼きパン。ウイスキー小匙入れたレモナードと黒コーヒー。妻が
給仕する、私は妻にも少し食べさせようとする。しかし妻は少ししか
食べない──あとで一同の朝飯の時にも顔を出さねばならぬから。(*5)
二番目の旅行記と三番目の手紙などを読むと、身も心も日本に染まろうと願う余り、身体の要求を無理やりに八雲さんは抑圧していて、裂け目やひずみを来たしてしまった印象を受けます。また、こちらも旅行の記録ですが、八雲さんが日本の食の慣習に触れ、少なからぬ興味を示しているくだりがあります。
老主人が私を湯殿へ案内して、私を子供扱いに主人自ら強いて、私を
洗ってくれた間に、主婦は米、卵、野菜、菓子などの旨い小さな、ご馳走を
私のために調理した。私が二人前ほど食べた後でも、彼女は私に満足を
与えなかったということをひどく気にして、もっと沢山料理を作りかねた
ことを大いに詫びた。
彼女は『今日は十三日で、盆祭の初めの日で御座いますから、魚があり
ません。十三日、十四日、十五日には誰も精進致します。十六日の朝は、
漁師が漁に出かけますので、両親とも生きている人は、魚を食べてもよろ
しいのです。しかし、片親のない人は、十六日でも食べられません』と
言った。(*6)
東洋の信仰には“食を控えること”で精神的な高みを目指したり、霊的な交信を願う根強い流れ(*7)があって、断食修行や即身成仏がその究極のものとしてあります。日本という国に魅了され、その文化をとことん愛し貫いた男が和食のみで健常な心身を保つことがならず、西洋料理を定期的に摂取せねばならなかったことは恥辱とまでは言いませんが、硬いしこりを彼の精神中に育てたように思われます。(*8)
午前三時半── 一睡もできなかった──夜更けて山から下りてきた
連中や、参詣のため到着した者共で夜中のどさくさ──下女を呼ぶ手の
音が絶えない──隣室は飲めや歌えの大騒ぎ、折々どっと哄笑(こうしょう)
が起こる……朝食は汁と魚と御飯。(*9)
小泉八雲さんの全集でようやく見つかったのは、味噌汁でもなければお吸い物でもない、ただの“汁”でした。前夜の不眠にいらだつ気持ちもあったでしょうが、なんとも淋しく直截な表現です。汁、たしかにスープなんだけど、こんな書き方は珍しいですよね。
日本を舞台に選び、日本人の生活を描けば、自ずと味噌汁や醤油が現われて腋をかためるというのでなく、書き手のこころの有りよう次第で違ってくる。劇中それらが闊歩すると僕たちは“自然なこと、普通の場景”と受け止めますが、書き手によっては底なしの作意をこめて描くことだってある訳です。また、意識すればこそ、想いが強ければこそ書けないことって人間にはあるものです。八雲さんの見えない味噌汁はその証しとなっている。味噌汁の記述は結局なかったけれど、番外編ということで書き残しておきます。
八雲さんの物語には“転生譚”が多い。今度どこか別の世で八雲さんと逢えたら、と思います。僕たちがこれからどう生きるべきかの助言も欲しいし、味噌汁や醤油に対する感想もそっと耳打ちしてもらいたいですね。
今年の夏に冷房を我慢したせいもあるのでしょうか、ここ半月の気候に僕の身体はついていけません。体温調整が利かず、いくら重ね着しても寒くて寒くて仕方ない。
そちらはどうですか。寒くしていませんか。
どうか元気に、気持ちも身体もあたたかく、
あたらしい季節の幕を開けてください。
(*1):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 308頁
(*2): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第23章 伯耆(ほうき)から壱岐(おき)へ」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 第3巻 740-741頁
(*3):「チェムバリンに」 小泉八雲 金子健二訳 第9巻(書簡集) 523-524頁
(*4):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 333頁
(*5):「ベーシル・ホール・チェムバリンに」 小泉八雲 大谷正信訳 第10巻(書簡集) 358頁
(*6): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第6章 盆踊」 小泉八雲 1894 第3巻 171頁
(*7):これは上村一夫さんの作品にも顕著でしたね
(*8):三月以前は口にする必要も何もなかった横文字の物質をひっそりと赤身や脂に紛れ込ませた牛肉を“驚くばかり貪食”している僕たちの今を、いったい彼ならどのように見てどのように感じるものか。『現代の便利な物』である汽車を嫌い、電話を家に引くのを断乎として許さなかった男の目に、ふたたび光を増した夜の街がどのように映るものか。100年前に独り煩悶していたこの心根(こころね)の誠実過ぎる男に対して、僕は申し訳ない気持ち、恥ずかしい気持ちでいます。
(*9): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「富士山」 小泉八雲 1898 落合貞三郎訳 第5巻 281頁
最上段の写真は今やっている展示会のポスターです。行きたいなあ。
0 件のコメント:
コメントを投稿