2012年2月12日日曜日
夏目漱石「草枕」(1906)~通じねえ、味噌擂(みそすり)だ~
「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ一人前じゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」
「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その後(のち)発憤して、陸前の大梅寺へ行って、修業三昧じゃ。
今に智識(ちしき)になられよう。結構な事よ」
「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前なんざ、
よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――
女ってえば、あの狂印(きじるし)はやっぱり和尚さんの所へ行くかい」
「狂印と云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、味噌擂(みそすり)だ。行くのか、行かねえのか」
「狂印は来んが、志保田の娘さんなら来る」
「いくら、和尚さんの御祈祷(ごきとう)でもあればかりゃ、癒(なお)るめえ。
全く先の旦那が祟ってるんだ」
「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」
「石段をあがると、何でも逆様だから叶(かな)わねえ。和尚さんが、
何て云ったって、気狂(きちげえ)は気狂だろう。――さあ剃れたよ。
早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行って賞(ほ)められよう」
「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼だ」
「咄(とつ)この乾屎(かんし)けつ」
「何だと?」
青い頭はすでに暖簾(のれん)をくぐって、春風(しゅんぷう)に吹かれている。(*1)
ハードディスクプレイヤーに録り溜めした長編映画(*2)を昨日一気に観たおかげで、頭の芯が痺れたようになっています。昨年の春の震災とそれに続く事故は、ひとの生命や生活を粉微塵にし、見通しの利かない借り住まいを余儀なくされている人も大勢います。どうしてもそんな状況と物語を重ね観てしまうものだから、気持ちが入ってしまって仕方ありませんでした。計7時間という長編ということもあるけれど、あれこれ考えながらの時間となったのが痺れをもたらした原因でしょう。
戦禍が日常に及び、暮らしの趣きをことごとく変えていく、そのような激動の時代に生れずに済んだことを感謝していた僕でしたが、この度の震災は世に例外はなく、遅かれ早かれ誰も彼もが艱難辛苦との対峙を迫られることをはっきりと諭されたように感じます。テレビジョンや雑誌の送り出すものが精彩を失い、替わってこれまでは絵空事にしか見えなかった物語世界が我が身の未来を予見するやもしれぬ黙示録にも見えてくる。古い小説が新訳されたり、色の褪せた映画が丹念にリストアされてスクリーンに蘇えり、濃淡ありありと眼前に広がるようにして、急速に息吹を増してくる。世界がはげしく伸縮して感じられる。
先日観たグレン・グールドのドキュメンタリー(*3)に触発され、年甲斐もなく手に取ったのが「草枕」でした。百年以上も前に書かれた話ですが、やはりこちらも胸に響いた。こんな年齢で漱石(そうせき)作品に触れるのは滑稽を越えて哀れな感じがして、とても恥ずかしく、余程書き留めるのをためらったのだけど、生きて暮らしていることの記録として残しておこうと思います。グールドが関心を寄せただろう芸術論も面白く読みましたが、当時の世間をくまなく覆っていた戦争の暗い影(日露戦争)とこれが狂わす人間の運命が切実で、厳粛な気持ちで頁を繰りました。
上に引いた箇所は物語の中段に登場する床屋の様子です。山奥のひなびた宿に逗留している主人公が、村の理容店を訪れて頭を刈ってもらいます。後から入って来た寺の小僧と店主との間で交わされるのがこんなやり取りなのでした。話題の主は主人公の泊まる宿の出戻り娘で“那美(なみ)”というおんなであり、また、かつて彼女に懸想した挙句に行方をくらました若い僧“泰安”のことです。謎めいた面持ちの那美に深い関心をよせる主人公は、横でそのやりとりにそっと耳を澄ましている。
麹(こうじ)や大豆の硬い粒が残る味噌をすり鉢に入れてはごりごりと擂(す)って、舌触りをなめらかにしてから利用することが往時の家庭では当たり前だったのでしょう。今では想像しにくい家事のひとつですが、寺社にあってはそのような調理前の下ごしらえを目下の者が行なうのが常でした。これが転じて半人前の僧を“味噌擂り(小僧)”と称するらしい。“みそっかす”とも通じる風合(身近から追い出さない、逃げ道が設けられた柔らかな印象)があります。
会話の最後に登場する“咄(とつ)”とは舌打ちした時の音「ちぇっ」とか「ちっ」の意味であり、“乾屎(かんし)けつ”とは、厠(かわや)に備えられた木のへらの事です。専用の紙が無かった時代に各人が各人のしりの汚れをそれを使ってぬぐっておりました。“味噌擂(みそすり)”という蔑称に対する少年側からの逆襲なわけで、ここで両者は対となって一種の“クソミソ”的表現になっている。「ちぇっ、クソ取りべらめ」という意味ですからね、それにしても随分な悪態です。
“乾屎(かんし)けつ”について気になって調べてみれば、禅話によく登場するものらしく、小僧の口から飛び出したのも日頃和尚から聞かされている法話が影響しているのでしょう。ウェブのあちこちにある解説を読めば分かりますが、決して悪い言葉ではないのが分かります。狭くて娯楽もない小さな山の村にあって、寺の小僧と店主はそんな“邪気のない悪口”をたたきながら日々の溜飲をさげているわけです。
抗い難い世の流れにあって、想いを交わす人はちりぢりになり、時にはどちらかの生命が無情にも奪われさえします。例外のない一生はない。それと静かに向き合いながら、諦観を湛えながら人は言葉を探し、互いを鼓舞していくものなのでしょう。詮無いことと決めつけず、今後もあれこれと他愛もないお喋りをして行きたいものです。時には“邪気のない悪口”を言い合って、肩を叩き春風に吹かれたいものです。
(*1):「草枕」 夏目漱石 初出「新小説」1906(明治39)年9月 手元にあるのは新潮文庫138刷 引用は74‐75頁
(*2): ВОЙНА И МИР 監督 セルゲイ・ボンダルチュク1965-67
(*3):Genius within: The Inner Life of Glenn Gould 2009 監督ミシェル・オゼ、ピーター・ レイモント
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