2009年8月16日日曜日
青臭い夜~日常のこと~
世はいずこも盂蘭盆であります。妄言はつつしみ、僕たちを形づくった先祖に感謝の意を唱えなければならない。慎ましく夕を過ごし、おさおさ自重怠りなく、家族を愛し、全世界を愛して夜の闇を越さねばならぬ。ああ、それなのに、ただいま午後十時を回り、僕は独りで酔おうとしています。ワインを開けようと思ったら栓抜きがなく、誰かが開栓したままに見捨て置いた焼酎を飲み始めています。なかなか好い具合です。口当たりは悪くないです。
晩酌して酔うという慣習をもたない僕ですが、少し酩酊したい気分の夜もあります。先程レイトショーで観たウディ・アレンの新作が尾を引いています。そんなもの観たってどうしようもないのに、答えが欲しくて仕方がない。生きることの答えがないから、人は生きていくのであって、何を見ても、何を読んでも仕方がない夜ばかりがあるのに、外れるに決まっている宝くじを買うようにして僕は映画館の客席に座り、本を探して読んだりしています。
なかなかこれは、この原酒は効きますね。酔いが深まる前に書き写さないと!“地獄”について考えています。盂蘭盆だから、ではありませんが、偶然にもそういう時期にそういったことを考えることを愉しんでいます。
1937年生れの映画監督実相寺昭雄が1970年に安定した職場を何もかも投げ捨て撮入したのが「無常」でした。引き算すると70-37で33、え、33歳だったんだ。ひゃあ!33歳!う~む。酔いが一気に醒めます。ウソ、やっぱり徐々に気持ちよく酔いが回っているよ。
そのようにして若き実相寺が僕たちに撮って残した作品の一部に、次のようなくだりがありました。うまく打てるかな。まだ二杯目なのに、36%は確かに効きます(笑) よし、持って来ました、「アートシアター」79号です。田村亮と、えーと、これは誰だ、司美智子か。二人とも余計な衣を脱ぎ捨ててしかと抱き合っています。田村亮、俳優の方ですよ!顎髭と口髭が素敵です。(待ってろよ、いつか僕だって髭ぐらい生やしてやる。)
人にはそういう愛する者と抱き合い、自身の在り様をしかと確認する時間が本当に必要です。それは生物としての揺るぎない仕組み、だと思いますね。そういう時間のない人生は、どこか狂っている──。まあ、いいでしょう。書き写しましょう。
96 古 寺
⑥坐り2FF移動左右に
正夫 子供の頃やった。誰が置いていったのか、家の倉庫に、一冊、地獄絵の古い画集が転がっていて、それも大掃除の時、偶然、見つけたのです。あの時の驚きは、今も忘れません。一体、あの世、この余に拘らず、こんな悲惨があるとは、どういう意味なのか?もし本当に、こんな世界があるのなら、人間なんかはじめから存在しない方が良いのではないか。……私は何度も自問しました。(中略)
そのうち私は、地獄絵があるからには、極楽の絵もあるに違いない、と思って、そうです、あれは中学に入った頃でした。仏教画のうち、極楽に関する画を集めた本を手に入れたのですわ。……そして、驚きました。地獄絵が。阿鼻地獄、無間地獄、ありとあらゆる種類の地獄を克明に掻き分けてあるのに、極楽の絵は、実は単調なんですわ。アミダと蓮の葉と……それだけです。(中略)
そしてハタと思い当たりました。こいつは当たり前のことや。極楽の画に快楽のあろう訳がない。……何故なら、快楽は欲を充たした時に得られるものやが、欲を充たす言うことは、正に、悪に他ならないからです。……極楽に快楽のあろう筈はない。(中略)
……極楽に快楽はありえない……じゃ、他に何があるのか?荻野さん、一体、極楽には何がありますのやろ。
よかった、書き写せた。
いやあ、酔いと拮抗するのは面白いですねえ。本音と建前が整理されて、すっきりするものがあります。酔ってはいけない思いと、酔いたい自分が真正面からぶつかって面白いです。
以上が実相寺昭雄、脚本石堂淑朗の「無常」1970の禅問答のくだりです。
──ここで酔いつぶれて、寝てしまいました(笑)、ただいま起床、6時ちょっと前です。確かに焼酎は酔い覚めがいい。こうしてキーを叩いても軽快で嬉しいばかりです。今更すべてを観直す意義も感じないとっても青臭い内容の「無常」ではありますが、この地獄極楽論だけは気持ちに引っ掛かり、その後の読書を導くものになりました。不健全なものとレッテルを貼られるものにずっと惹かれてきたのは、幾らかそのせいかもしれません。
先日、調べもののために図書館に行って、美術書の棚で「西脇順三郎の絵画」(1982恒文社)というのを見つけて手に取り、嘘や躊躇のない純然たる絵画を見詰めました。誰のためでもない、自分自身のために描かれたであろう風景や女性像に羨望を覚え、自由に生きることの大切さを教わったような気がします。
末尾には彼の美術や絵画に関しての評論がまとまって載せられており、それを追う内に吸い寄せられるようにして目に止まった一文がありました。書いた当時70歳を過ぎていたらしい西脇なのですが、最近絵筆を持つことが少なくなってきた、とつぶやきます。自分の内側に“地獄”が無くなってきたからだ、と詩人らしい言葉で内面を解析している。
蒼く柔らかなタッチで染められた山も町も、川辺に小さく描かれたぽつねんと座る若い男の影も、草原に精霊のようにたたずむ白いおんなたちも、何もかも皆が“内なる地獄”を発火点として描かれたものだと言い、老いてその“地獄”が薄らぎ、絵筆を持つ必要が無くなったと言う。
生きるということ、創造するということは“地獄”を認識し、自然体で向き合うことなのだとさらりと言いのける詩人に深々と首を垂れたい気持ちでいます。聖人君子を装い、天国を無理矢理に演出する必要などない。地獄は地獄とありのままに捉え、その摩訶不思議な諸相を味わっていくのが生きていくことなのだと思います。
さあ、バスタブにお湯を張って、素裸になって過ごそう。外はみんみんみんと蝉たちが盛んに鳴き叫び、彼らの生と性を懸命に全速力で唱えています。いい夏だと信じます。
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