2009年9月5日土曜日
正岡子規「墨汁一滴」(1901)~黙つてこらへて居るのが一番苦しい~
僕は子供の時から弱味噌(よわみそ)の泣味噌(なきみそ)と呼ばれ
て小学校に往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれて居ると
右の方に並んで居た友だちがからかひ半分に僕を押して来る、左へよけ
ようとすると左からも他の友が押して来る、僕はもうたまらなくなる、
そこでそのさい足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ
機会を得て直(ただち)に泣き出すのである。そんな機会はなくても
二、三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいぢめる奴が
あつた。しかし灸を据ゑる時は僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕を
いぢめるやうな強い奴には灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりする
のが多かつた。これはどつちがえらいのであらう。(*1)
「墨汁一滴」は新聞の連載(*2) です。体調と意気の許すがままを前提としていますから、日によって行数の変動も大きいし内容は多種多様となっています。唐突に始まり終わる上の文章もその前後を割愛したものではなくって、とある一日をなんとか生き残った“証し”を刻むものとして形を為している訳です。正岡子規(まさおかしき)さんはこれを明治三十四年の四月八日に書き、およそ一年と五ヵ月後には天に召されます。享年三十六。世界は“どうにもならぬ事”に満ち溢れていることを想わない訳にはいきません。
どのような気持ちでこのような回想に没入し、なぜに幼少時の醜態を多くの読者の目に曝したものか。憤懣、慙愧、復讐、焦燥、その逆の快活、満足──病人の胸中に去来する複雑な息吹が伺えて、こちらの胸までだんだん重苦しくなりそうです。
正岡さんの研究者や愛読者には“こじつけ”と笑われそうですが、この四月八日の少し前に別の“味噌”に関する文章を読むことができて、僕はその間にほんの僅かながら結ばれた糸のようなものを感じてしまうのです。
背中や腰に開いて膿を流す傷口がちょっと動くだけでも激痛を発する過酷な毎日となっていて、よいしょと身体を起こすことすらが儘ならない。“生きること”の主軸に“食べること”を据え替えて、日々をどうにか繫いでいます。二月二十八日に会席料理のもてなしを受け、気の置けない友人に囲まれての愉しい時間を過ごしているのですが、宴席から幾日か経った三月二日に書かれているのが実に面白い内容なのです。「五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し」に続いては、いつも通りに丹念な料理や具材の名称列記となるのですが、その筆頭に“味噌汁”が来るんですね。
味噌汁は三州(さんしゅう)味噌の煮漉(にごし)、実(み)は
嫁菜(よめな)、二椀代ふ。(中略)飯と味噌汁とはいくらにても
喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちび
やる。(*3)
順列は偶然ではないのです。宴において“味噌汁”をめぐって引っかかることが起きたのです。翌日の掲載分として随分とボリュームのある記述が境界を経ずして連なっていきます。客人との間で交わされた言葉に正岡さんは驚いて大いに思考が活性したらしく、筆に勢いがあります。少し写しましょう。
料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましひは味噌汁に
ある由(よし)、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まる
といへば我らの毎朝吸ふ味噌汁とは雲泥の差あることいふまでも
なし。味噌を選ぶは勿論(もちろん)、ダシに用ゐる鰹節(かつお
ぶし)は土佐節の上物(じょうもの)三本位、それも善き部分
だけを用ゐる、それ故味噌汁だけの価(あたい)三円以上にも上る
といふ。(料理は総て五人前宛なれど汁は多く拵(こしら)へて
余す例(ためし)なれば一鍋の汁の価と見るべし)その汁の中へ、
知らざる事とはいへ、山葵(わさび)をまぜて啜(すす)りたるは
余りに心なきわざなりと料理人も呆(あき)れつらん。この話を
聞きて今更に臍(ほぞ)を噬(か)む。(*4)
ここから正岡さんは茶道、俳句の作法へと想いを展開していきます。病臥する静謐な長き時間に味噌汁談議をふつふつと醗酵させて、あれこれ自問自答を繰り返して得た結論はどのようなものであったのか──
何事にも半可通(はんかつう)といふ俗人あり。茶の道にても
茶器の伝来を説きて価の高きを善しと思へる半可通少からず。
茶の料理なども料理として非常に進歩せるものなれど進歩の極、
堅魚節(かつおぶし)の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を
争ふに至りてはいはゆる半可通のひとりよがりに堕ちて余り好ま
しき事にあらず。凡(すべ)て物は極端に走るは可なれどその
結果の有効なる程度に止めざるべからず。(*4)
僕にはたいした読解力がありませんから、まるで見当違いの読み取りをしていたらゴメンナサイなのですが、この後に連なる言葉も含めて正岡さんの言いたいのは人から与えられた話を鵜呑みにして喋り散らしてはいけない、また悪戯に内心を晒さず韜晦(とうかい)することの清々しさを諭しているらしい。もっともな話です。見落としがちな大事な事ですね。
この味噌汁談議と後日書かれた(冒頭紹介の)“弱味噌、泣味噌”が、正岡さんのなかで連結するのかどうか、幾らか連想を引き出したりしたものかは、もはや誰にもわかり得ない。ただ共通する反骨の思い、なにくそ、負けんぞ、という“みそっかす”の気概はそこに透けて見える。「我らの毎朝吸ふ味噌汁」のどこが悪いのだ、偉そうに何だという熱気が感じ取れて、ぶるぶる共振するところがあります。
正岡さんの病状はこの後好転せず、痛々しい記述が目につくようになります。むごたらしいのは、苦しみを減ずる手段はいよいよ限られてしまい、感覚と思いのたけを“泣くこと”に集束していくしか無くなって来ることです。正岡さんは“泣味噌”を否定するような肯定するような微妙な四月八日の記述の後に、“泣くこと”をすっかり受け入れてしまい、それにすがり付いて見えます。
をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。しかし痛の烈しい時には
仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙つてこら
へて居るかする。その中で黙つてこらへて居るのが一番苦しい。
盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。(*5)
“動かしようのない事”に真正面から対峙するには“泣味噌たる自分自身”の受容が是非とも必要になる。そのプロセスとして一連の思念の流れがあったように見て取れます。これまで取り上げてきた“みそっかす”“泣きみそ”と同じですね。(*6)
媒体も何もかも違うけれど、「墨汁一滴」はおよそ百年前のブログのようなものです。“黙つてこらへて居るのが一番苦しい”という人間の普遍的な性質は昔も今も変わらない。余命一年半の男、三十なかばの男が、現状に諦めず、現状に満足せずに生きて行け、そして泣く時は泣けよとひとりごち、こうして見知らぬ他人である僕たちに声掛けしてくれている。
“まなざし”はぐるぐると世界を包んでいます。こうして地をまたぎ、時を越えて連なっていくひとの思念を僕は不可思議で面白くって、やはり奇蹟の連鎖なのだと信じています。人が懸命に残した言葉を、今このときに読む意味を少し考えたりしています。
(*1): (四月八日)
(*2):正岡子規「墨汁一滴」 1901年1月16日より新聞「日本」にて連載 中4日だけ除き連載は164回。なお引用は青空文庫さんの頁を参考にしています。http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1897_18672.html
(*3): (三月二日)
(*4): (三月三日)
(*5): (四月十九日)
(*6): さらに僕がたいへん揺さぶられたのは、次の日記でした。
昨夜の夢に動物ばかり沢山遊んで居る処に来た。その動物の中に
もう死期が近づいたかころげまはつて煩悶(はんもん)して居る奴が
ある。すると一匹の親切な兎(うさぎ)があつてその煩悶して居る
動物の辺に往て自分の手を出した。かの動物は直(ただち)に兎の
手を自分の両手で持つて自分の口にあて嬉しさうにそれを吸ふかと
思ふと今までの煩悶はやんで甚だ愉快げに眠るやうに死んでしまふた。
またほかの動物が死に狂ひに狂ふて居ると例の兎は前と同じ事をする、
その動物もまた愉快さうに眠るやうに死んでしまふ。余は夢がさめて後
いつまでもこの兎の事が忘られない。(四月二十四日)
ファイティング・ポーズを崩すことなく、“泣くこと”にしても“死ぬこと”にしても遠回しに間接的に想いを伝えていく正岡さんの、現実世界に向う姿勢には感服してしまう。このような夢の光景を書き留めてから、さらに長い長い闘いを為し遂げた男に対して、ただただ唸り、そして慎ましく頭を垂れる気になるのです。
なお正岡さんの“弱味噌、泣味噌”への言及は坪内稔典(つぼうちとしのり)さんの「子規のココア・漱石のカステラ」(2006 NHKライブラリー)で知りました。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」にも在ったわけですが完全に忘れてましたねえ、歳ですねえ。こちらの坪内さんのも良い本でしたね。最期は病気を楽しもうとした子規の「共生の思想」や、単独で生まれ単独で死ぬ人間ではあるけれど、生きるということは他の人々と「類として生きる」のだ、独りではないよ、というマルクスの言葉などで綾織られて気持ちが和みます。NHKの出版物に適うわけですから色彩は推して知るべし、といったところですが、合わせてご紹介申し上げます。
最上段の写真は正岡さんの自筆画像。自分の墓碑銘を考えて指示しています。四十を越えられないと悟っていて哀しい内容ですね。こちらから拝借しています。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/cat334/
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