2009年9月1日火曜日
壺井栄「二十四の瞳」(1952)~うてばひびくように~
仁太(にた)がいればいまごろはもう、十人の新入生の家庭事情は
さらけだされ、めいめいのよび名やあだ名までわかっているだろう。
その仁太や竹一(たけいち)や正(ただし)は、そして、磯吉や
松江や富士子(ふじこ)は、と思うと、かれらのときと同様、いちず
な信頼をみせて、きょうあたらしく門をくぐってきた十人の一年生の
顔が、一本松の下にあつまったことのある十二人の子どものすがたに
かわった。(中略)
大石先生はそっと運動場のすみにいき、ひそかに顔をととのえねば
ならなかった。そういうかの女に、早くもあだ名ができたのを、かの女は
まだ知らずにいた。岬の村に仁太はやっぱりいたのである。だれが
先生の指一本のうごきから目をはなそう。
かの女のあだ名は、なきみそ先生であった。(*1)
舞台となる小豆島は地勢的にも経済的にも関西に取り込まれており、教え子のひとりも大阪の親戚に引き取られて島を去っています。そんな関西圏にある小さな町の分校で、女性教師に“なきみそ”のあだ名が付けられました。“なきみそ”という蔑称が関東に限らず、列島にあまねく分布し使われていたことを示しています。
原作が世に出て間もない1954年には映画化(*2)されるのですが、劇場にこぞって足を運んだ観客が暗闇の中で瞳を濡らし、涙を縷々流し続けたことはよく知られたところです。子どもたちの涙、彼らが長じてからの涙と共に、女性教師の嗚咽する様が涙腺を決壊させる呼び水となって働きました。
もちろん、泣いてどうなる事ってほとんどありません。気持ちのもつれが生じても、そこで泣いてすがったところで醜悪さが増すばかりです。目覚めて剥がれ落ちかけた魂のフレスコ画が、涙を糊と為して修復出来ることはそうそう有りません。人を元気づけ陽気にし、動かしていくものはやはり笑顔と決まっているものです。泣くぐらいなら動かないといけません。笑わないといけません。
おなじような夫の墓を思いながら、あちこちと春草のもえだした
中からタンポポやスミレをつんでそなえると、ふたりはだまって
墓地を出た。もうないてはいなかったが、うしろからぞろぞろつい
てくる子どもたちは、あいかわらずよびかけた。
「なきみそ、せんせえ。」
すると、うてばひびくように、大石先生はふりかえりざまこたえた。
「はあいい。」
おどろいたのはミサ子だけではなかった。子どもたちのやんやと
わらう声をうしろに、先生もわらいながら、まだ知らぬらしいミサ子
にいった。
「どうも、へんなあだ名よ。こんどはなきみそ先生らしい。」(*1)
子どもたちに晴れやかな笑顔を差し示す女性教諭の姿があります。笑いを第一と考え、明日を繋いで行こうとしています。笑おう、笑うことが人生。
と同時に“なきみそ”を受容する態度もしっかり提示されています。ここで幸田文さんの「みそっかす」を引き合いに出したくなる訳ですが、“なきみそ”を拒絶するのでなく、受け止め、そんな自分を積極的に慈しもうという気概が透けて見えます。
確かに人を元気づけ陽気にし、動かしていくものは笑顔と決まっていますが、もはや人を元気づけられもせず、陽気にすることもならず、どうにも動かし難いことに対峙した際には泣くしかない、という一種の安全弁が示されているのでしょう。
貧困から家族と散り散りとなる生徒、戦地で息絶え、あるいは傷つき眼球を失う男子。遊里に流れ着き、独り孤高の闘いを強いられる女子。始終お腹を空かして歩き回り、未熟な果実を口にしたあげくに病んで死んでいった我が娘───。人生にめぐり来てしまう動かし難いことに対して唯一残される所作が“泣くこと”なのだ、それは恥ずかしいことではないのだよ、そのように人生というものの断面を捉えて見えます。子どもたちのからかいを臆することなく「はあいい」と肯定する笑顔には、僕たち誰の胸にも隠れ潜む“なきみそ”をゆるやかに抱き止めてくれる明確で揺るがない眼差しがあります。
“泣き虫”先生、であったなら、つまり、はさんで捨てなければならぬ“泣き虫”の先生であったなら、幾らか物語の面持ちは違っていたろうと僕は想像します。“なきみそ”であるがゆえに、子どもたちと教師は対等になれる。生きていく限りにおいて誰もがいつでも道の半ばにあり、何らかのかたちで“みそっかす”なのだという強い信念が女教師の笑い声には描かれているようで、見事と言うしかない凝縮した一瞬だと感じています。
(*1): 「二十四の瞳」 壺井栄 光文社 1952
(*2): 「二十四の瞳」 監督 木下恵介 1954 上段の写真も
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