2009年9月29日火曜日
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」(1933-34)~あのどろどろの~
けだし料理の色あいは何処の国でも食器の色や壁の色と調和するように
工夫されているのであろうが、日本料理は明るい所で白ッちゃけた器で
食べては慥(たし)かに食欲が半減する。たとえばわれわれが毎朝たべる
赤味噌の汁なども、あの色を考えると、昔の薄暗い家の中で発達したもので
あることが分る。私は或る茶会に呼ばれて味噌汁を出されたことがあったが、
いつもは何でもなくたべていたあのどろどろの赤土色をした汁が、覚束ない
蝋燭のあかりの下で、黒うるしの椀に澱んでいるのを見ると、実に深みの
ある、うまそうな色をしているのであった。その外醤油などにしても、上方
では刺身や漬物やおひたしには濃い口の「たまり」を使うが、あのねっとりと
したつやのある汁がいかに陰翳に富み、闇と調和することか。また白味噌や、
豆腐や、蒲鉾や、とろゝ汁や、白身の刺し身や、あゝいう白い肌のものも、
周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。(中略)かく考えて来ると、
われわれの料理が常に陰翳を基調とし、闇というものと切っても切れない
関係にあることを知るのである。(*1)
こうして一部を書き写していると、中学に入りたての時分に戻ったみたいです。それに、あまりにも有名な作品を取り上げるのは照れ臭い感じがしますね。でも、仕方ありません、とりあえず押えておかないと。
僕の短絡した斜め読みは、作意からはひどく外れているかもしれません。けれど、谷崎さんの筆が躍って見えたのは建具や家屋の構造に関する言及ではなくって、黒髪、素肌、装束といった女性美についてだったと感じます。妖艶なおんなの美粧を点描し、ねっとりとして分厚い暗闇のなかでずるずる連ねていく箇所は凄絶この上なく、床にどっと押し倒されそうな気分になります。おしろいの尖った匂いを幻嗅してしまい、ごほごほごほ、とむせ返ってしまいそう。「経済往来」なんて本に載ったわけだし、なんと言い繕おうが助平な男向けの読み物に違いありません。
聖林映画にのめり込み、横浜の居留地に淫夢を追った谷崎さんは、そこに宿り息づいていた女性たちの涼しげな容貌や洗練された身のこなしから目が離せない。「頭の先から指の先まで、交じり気がなく冴え冴えと白い」素肌に息を呑み、日本人は体型においても「西洋婦人のそれに比べれば醜い」と捉え切っていた谷崎さんが、強いてその気持ちに蓋をし、日本の女性美をそびえ立つ塔と成すべく挑んだ、それが「陰翳礼讃」の実験的側面であるのでしょう。
それには精神的な鎖国を行なうより他なく、結果的に家屋の奥たる「内側」に篭もることでしか闘えなかった。敵兵を避けて篭城するがごとき思考のなかで、内なる場処を支え励ますために味噌、醤油を登用して異文化を強引に際立たせていく、今日の小説にも連綿と引き継がれている戦術が垣間見れるのです。
よくよく読んでご覧なさい。ここでの味噌、醤油は主役たる“おんな”に寄り添うまでに至らず、湯気や芳香が感情、恋情にそよいでいるようには読めません。どこか茫洋とした印象を留めるだけで終わってしまう。
行数こそ確かにまとまっているのだけれど、谷崎さんは本気で傾倒していくわけでは全くなく、それどころか「いつもは何でもなくたべているもの」という見方を最後まで崩していません。「うまそうな色をしている」、けれど、「うまい」とは絶対に書かない。
「あのどろどろの」、「あのねっとりとした」という形容詞も、そのような見方からすれば何やら意味ありげで哀れを催しますし、一種涙めいた諦観すら漂ってきそうです。味噌、醤油を書いているようで書いておらず、ひとりの男の動揺がその実はまざまざと書かれている、そんな展開に読み取れます。
“日本文学”という舞台上での味噌、醤油の佇むべき“バミリ”が容赦なく印付けられているようで、興味深い一篇だと僕には思われてならないんです。
(*1): 「陰翳礼讃」 谷崎潤一郎 1933-34 中公文庫にて入手可
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