2009年9月30日水曜日
遺された手~日常のこと~
一時間ちょっとの余裕があったので、即身仏を安置するという寺院を目指しました。橋のたもとで地元のおばさんに会ったので窓を開けて道を尋ねてみると、昔はよく歩いて行ったものだよと笑いながらの返事です。なかなかどうして、ずいぶんと急な道を延々と登り切った果ての集落の外れに寺はあって、車で来たのはどう考えても正解でした。ここを往復していたのかと想像すると、土地の人たちの健脚には頭が下がります。
さて、目当てのお堂には人の気配がまるでなく、予約なしの拝観は受け付けない旨を書いた張り紙が一枚入口に貼ってあるのでした。う~ん、残念。又の機会と早々に諦めて、来る途中に看板があった古刹に寄って帰ろうと思い立ちました。
狭い石段を登る途中に緑色をしたマイクロバスが一台止まっているのが木立の向こうに見え、団体客の騒々しさを脳裏に描いて一気に興が冷めてしまったのでしたが、実は彼らは県の博物館の主催する学術ツアーの一行だったのです。予想外の展開になってきました。
普段は堅く扉を閉めていて、巡礼の者とて格子戸越しに外から拝むしかない堂の内部なのですが、あたふた出入りする人の動きが盛んにあるのです。これを幸いと僕も御堂の内部に潜り込んでみました。
電線とて来ていない辺鄙な山ふところにあって、堂の内部は昏くって、説明を行なう学芸員さんが持つ懐中電灯の光の輪があちらこちらと陽炎のように浮遊して怖い雰囲気を煽ります。相当ひりひりする感じの空間です。
格子戸の向こうから僅かに射し込む柔らかい陽光に救われます。突然の闖入者に驚いたようにして小さな仏像がぽつりと白日に照らされている。素朴な彫り痕です。角の取れ切った丸みのある土着信仰を感じさせ、ほんの少しだけ心が和みました。
奥のすっかり闇に包まれている辺りで、何やらどたどたとした動きが起こっています。なんと“秘仏”として一般公開されていない本尊を特別に見せてくれるのだそうで、これにはツアーの参加者たちも色めき立って当然でしょう。錆び付いた南京錠がなんとか開けられ、歪み始めて重たくなった戸を数名でよいしょよいしょと押しやる様子です。
入れ替わり立ち替わりしての狭い空間で、奇妙などよめきが発せられています。お相伴にあずかって僕もおそるおそる拝観させてもらった訳でしたが、仏様は、窓のない四畳半ほどの場所に居られました。二メートル程も背丈があってそびえておいでなのですが、頭の先から足元までの全身が猛火に焼け爛れていて、顔といわず胸といわず大火傷を負ったようにでろでろごわごわに黒く炭化しているのです。これはもはや悪霊ではないか、祟られそうだ、怖い怖いとつぶやく声も囁き出て当然の、無残この上ない姿であったのです。
学芸員の照らす光にぼうと浮かぶのは、シルエットからかろうじて判別なるに過ぎないのだけれど、両の手を腰元で合わせ結んだ“印”なのです。元は千手観音であったらしいこの仏の、かざし広げて庶民の苦痛をねぎらっただろう千の掌は、次々と炎が燃え登ってじゅうじゅうと焼失していき、最後の最後に、たった一つのこの“印”だけが残ったのでしょう。
神像仏像は四肢、頭部の欠損によって力を増すことがあります。真黒き仏の、遺されたひと組の手のひらにこころを余程摑まれ、そこに気持ちを傾けてきた人がいたのでしょう。焼け落ちたかつての本堂の残骸の中から取り出されたこの真っ黒の怪物を、秘仏と称して信仰を繋ぎ留め、1200年という悠久の歳月をこの土地に刻んで来た名も無き信者たちの眼差しを感じました。
喪うことで得るものがある、というのは言葉のアヤであって、やはり喪うことに伴う苦しさや哀しみはひとを容易に粉砕し尽くす破壊力を秘めています。だから、こんな昼行灯の僕であっても言葉を慎重に選んでしまうのだけれど、それにしても、と思わせる黒く奇怪な仏の、とても数奇な運命なのでした。
帰りがけに外から格子の前に立ち戻れば、足元には生卵とカップ酒が置かれています。心ばかりのお供えなのでしょう。人間って、人の想いってとても不思議ですね。
写真はここしばらく携帯で撮り貯めたものです。一度掲載して、その後、何となく気まずくなって消したものも含んでいます。
せいぜい自転車しか通れない狭い吊り橋がありました。これの直ぐ脇50メートル離れたところには、鉄筋コンクリートの頑丈な橋が造られている最中です。無用の長物となり、壊されてしまうのは時間の問題です。ちょっと淋しいですね。
秋はいよいよ深まります。どうぞ温かくして、インフルエンザに十分に注意して、素敵な宝物をお探しください。
ではでは。
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