●台所(朝)
セーターにスカーフをきりりとしばったまり子が朝食の支度。
トントンとおぼつかない手つきで、みそ汁の実を刻んでいる。
起きてくる忠臣。
忠臣「ほう。おみおつけの実はおねぎかい」
まり子「あ、お父さん、おはよございます」
忠臣「はい、おはよ」
まり子「割合いとごゆっくりなんですね。お父さん、年寄りは早起きだ
なんておどかすからもっと早いのかと思ったら……」
忠臣「(小さく)へ、手加減しているのが判らんのかねえ」
まり子「は?」
忠臣「いえいえ。あのごはん……」
まり子「今、スイッチ切れました(電気釜)」
忠臣「あ、そう、おみおつけのダシは……」
まり子「はい。ゆうべのうちに煮干しお水に漬けときましたから」
忠臣「結構結構、で、おみそは」
まり子「はい。仙台みそと八丁みそを……」
忠臣「ちゃんとまぜたのね」
まり子「はい」(*1)
ご自宅で調理にいそしむひとは数限りなくおられます。同居人への提供もさることながら、“自分自身”の味覚や嗅覚を満足させたい欲求から後押しされる事が多い、そういう実感を先日知人から教わりました。自分が食べたいものを自分の手で仕上げる、その作業の一環に家族への食事の提供が付随していくものだ──。確かにそうです、もっともな話です。
マーケットの惣菜コーナーやベーカリーで何がしかの調理品、例えば馬刺しであれをアップルケーキであれを買い込み、それを手っ取り早く皿に取り分け並べて夕食や何かの支度を済ませることがあっても、その選択には“自分自身”を慈しみ、愉しませるものをもちろん含んでいます。
つまり献立は、そして調理とは自己本位なわけです。自分が美味しいと思うものを作り振る舞うのが基本。家庭料理の多くが調理する者の嗜好に委ねられていき、“味噌汁”もまた作り手の好みに左右されるのが当然な訳だから、独自の希釈割合や具材との組み合わせが圧倒的に優勢を占めていくのは自然の理(ことわり)です。
話を性差別っぽく固めるつもりはないのですが、家庭での調理の現状は主に女性が担っています。これは取りも直さず、味噌汁がそのおんなのひと独自の味付けになっていくという事でしょう。塩辛さや甘さ、苦さ、温かさといったものが複雑に絡み合って、彼女らしい個性を獲得していくということです。最終的には百人百様に似た多彩な面持ちを得る仕組みです。
百人百様であることは、僕たちが発しているシグナルでも同様です。鼻腔をほのかに刺激する体臭、口づけ等を経て知る粘液などに対し、その都度に多彩な個性を僕たちは感じ取っています。またまた変な方向に話に振っていると笑うかもしれませんが、ふざけている訳じゃありません。
母親は自分の赤ん坊の体臭やうんちの臭いを、他の子供のものとしっかり嗅ぎ分ける能力があります。その逆もしかりです。まだ十分に意識されないにしても、母乳は個性的な、まさにおふくろの味となって、呑む赤ん坊の日常の多くを占めています。運動して汗を吸った複数の青年の下着を採取し、何人もの女性被験者にそれぞれ順繰りに嗅がせて好き嫌いを判断させたところ、多くの女性がもっとも整った顔立ちの男子の匂いを好ましいものと判断したという実験結果もあるそうです。(*2) かように人と人の間には微妙な味や香りが重要なシグナルとなって介在しているのであり、ならば塩のひと振り、砂糖の匙加減だって同じような絶大な効果をもたらす理屈です。味噌や醤油だってそうでしょう。
そうして“味噌汁”は調理を司る彼女の嗜好と体調に合わせた薫りと味を、薄絹のベールをふわりと纏(まと)うがごとく具えていく。給仕されるのが子供であるなら、間違いなく世界にひとつだけの“おふくろの味”となっていく。味噌汁をおふくろの味と讃えることは、だから実際間違っていないのでしょう。
ところがところが、そこに不可思議な横槍が入ってくるのですね。上記の台詞は向田邦子(むこうだくにこ)さんの初期の連続ドラマ「だいこんの花」から書き写したものですが、ここでは伝承や教育の名のもとに上の世代が下の世代の嗜好を無視して、調理をがんじがらめにしていく様子が描かれています。森繁久弥さん演ずる七十歳の父親が、次男誠(竹脇無我さん)と妻まり子役である石田あゆみさんを帝国海軍式に教育していきます。漬け物への執着も相当なものなのですが、味噌汁作りの監督は輪を掛けて粘着的に劇中繰り返されました。
忠臣「お前は判ってないんだよ。女にとって、主婦にとって台所仕事というものは」
誠「あのねえ、お父さん」
忠臣「(言わせない)毎度引き合いに出してなんだけれども、うちの繁子……
亡くなった家内ね、この人は実に包丁さばきのいい人だったねえ。
朝布団の中で目をさます。みそ汁の匂いがプーンとしてトントントントン……
包丁の音が聞えてくるんだよ」
目を閉じてうっとりとなる忠臣。
誠「それはね、昔のハナシなんだよ。オレたちはね、朝はパンとミルク(言いかける)」
忠臣「アタシは、ごはんとおみおつけにしていただきたいね。それにアンタ、
一週間にいっぺんは大根の実でないと。大根てのはこの、ジアスターゼが」
誠「あのね」
忠臣「そのアンタ、大根がですよ、こんな(まり子の切ったの)十六本じゃあ、
アタシはやだねえ」(*3)
どんどん核家族化が進んでいますし、同居した二世代間にしてもここまで無遠慮な指導は影を潜めているようにも思いますが、それでも多かれ少なかれ味噌汁への個人教授は根強くあるように感じます。僕たちの世界で味噌汁というものが、相当に象徴性を帯びた立ち位置を家庭で与えられているのが分かります。
さて、よくよくそうして見るならば、上の世代の嗜好を遺伝子か細胞壁の奥に潜むミトコンドリアのよう承継した味噌汁とは、一体全体、誰の味、なのでしょう。おふくろの味と僕たちは気安く呼称するそれは、こうしてこだわり眺めれば随分と混沌したものだと判ります。
味噌汁が“おふくろの味”と共に“故郷の味”としてイメージされる背景には、地勢と気候によって各地に今も根付いている多種多様なご当地味噌の存在によるものが大きいのですが、しかし、それだけでなく一族郎党のレシピが蛇のようにずるずるとのたうち連なっていることにも由来しているのでありましょう。
別におかしくないわよ、それはそうよ、当たり前よと鵜呑みにせずに立ち止まってもらいたいのだけれど、あれれ、と思うのは、つまり僕たち男がはげしく惹かれてしまい、もはやひれ伏す想いを抱くばかりの甘く重たいあの体臭や、口づけで知った何とも形容し難い、脳髄を痺れさせるかぐわしきものに連なるはずの、誰とも替え難い愛しいおんなの作る“おんなの味”は何処に行ってしまったのだろう、ということです。おふくろの味が残り、おんなの味が跡形もない。
先日の桃井かおりさんのエッセイに見受けられた動揺や躊躇はこのあたりの不可解さ、煩わしさを承知した上での本能的、官能的なものであったのかもしれませんね。女性が味噌汁を作るという事の背景には何という暗い淵が覗いているものか。僕たち男はずいぶんと呑気に生きていると思い、また、味噌汁の椀に目を凝らして見えてくるのは日本の男たちの不可解さだけでなくって、日本のおんな達の闘う姿でもあるのだと感心しているところです。
慈愛と献身、無私と無欲の全力疾走。女性の体現する愛の、ほんの少し痛みを宿した情景として味噌汁が今日もことことと鍋で煮られ、次々にお椀に盛られていきます。
(*1): 「だいこんの花」第22回 向田邦子 1974-75 新潮文庫 後篇に収録
(*2): 先日並べ記した四冊の中にありました。どれだか忘れちゃいました。
(*3): 「だいこんの花」第13回 向田邦子 1974-75 新潮文庫 前篇に収録
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