2009年11月6日金曜日
山本文緒「恋愛中毒」(1998)~一刻も早く~
水無月(みなづき)さんは、ふいにそこで口を閉じた。
一分待ち二分待ち、おや?と思って彼女の顔を覗き見る。水無月さんは泣いては
いなかった。けれども彼女はサワーのグラスに手をかけたまま、放心したように
テーブルの一点を見つめていた。そこにはただ醤油差しと空になった器がある
だけだった。(*1)
社員数名の小さな編集部に勤める四十代の水無月さんが、恋情のトラブルを会社に持ち込んだ若い男子社員、井口君をいさめるために居酒屋のテーブルで対座しています。かれこれ十年程も前、三十を少し越えたばかりの時に起きた自分の離婚体験を語るうち、昏く淀んだ記憶の淵に水無月さんはダイブを始めてしまい、異様な放心状態に陥ります。若者は微動だにしないおんなの姿に恐れおののきます。
一体全体どうして作者は、ここで“醤油差し”を持ち出さなければならなかったのか。読者は禍々しいものの到来を予感しつつ頁をめくっていくことになるのですが、なるほど、そういう事か、僕たちを待ち受けているのは典型的かつ繊細な醤油の記述だったのです。
水無月さんは離婚による痛手を抱えて独りアパートの自室に蟄居していたのですが、数ヶ月を経てなんとか社会へ復帰し、親戚が探し与えた弁当店でのアルバイト業にいそしむことになります。ある日、カウンターでの応対中、客として訪れたタレント兼文筆家の創路(いつじ)功二郎に見そめられてしまいます。高校生の時分から熱心な読者であったことも背中を押して、教わり知った彼の自宅を散歩がてら訪ねてしまう。寿司を一緒に食おうと強引に誘われ、勢いづくままに男が仕事部屋として常時押えてある高層ホテルの部屋に二人して向かうと、そのまま身体を重ねてしまうという展開です。
幽かなまどろみを経て目覚めた男がテレビ番組か何かの打ち合わせのためにいそいそと退室してしまい、おんなは独りベッドに取り残されます。予想だにしなかった夢のような半日に戸惑い、どう次に行動していいか思考が停止して判断が付きません。
私はそれからしばらく服も着ずにぼうっとしていた。カーテンを開けた
ままの大きな窓の向こうがだんだん夜になっていく。やがて私はのろのろと
ベッドを出た。椅子の上に放り投げてあったポロシャツとジーンズを身につけ、
先程彼が使っていた櫛(くし)を取り上げ髪を梳(と)かした。近所にちょっと
散歩に出掛けるつもりで家を出たので、私は何も持っていなかった。化粧直しを
しようにも口紅一本持っていない。鏡に向かっていたら、ポロシャツのおなか
あたりに醤油の染みがついているのを見つけた。
私は鏡から目をそらし、一刻も早くここを出ようと思った。カードキーは
彼が持って行ってしまった。ということは一度ここを出てしまったら、私は
自力では二度とこの部屋には入れないということだ。だから彼はルームサービスを
取れと言ったのかもしれない。(*1)
“醤油の染み”や匂いが閃光のような烈しい覚醒作用を登場人物と読者にもたらし、それまでの世界観を瞬時に破壊してしまうことがあると以前書きました。そのお手本のような情景描写です。夢と現実の段差が日常の食卓(ここでは寿司店での男との昼食に際して付着したものでしたが、店は“ごく普通の”と設定されています)──を司る醤油を挿し入れて表現されていく。淡いロマンスをたちまち氷結させ、粉微塵にしていきます。
醤油はのぼせ上がった気持ちに水を差す宿敵なのでしょうか。おんなは哀れな遁走を開始します。午前零時の鐘の音が耳をつんざき、慌てふためき階段を転がり下りたシンデレラのような感じです。
醤油の染みのついたポロシャツと何年も穿(は)いているぼろぼろのジーンズ姿
なので、非常階段か何かでこっそり外に出たかったが、それも帰って目立つ気がして
やめた。仕方なく乗ったエレベーターで、外国人のカップルにちらちらとこちらを
見られて死ぬほど恥ずかしかった。エレベーターを下りると、顔を伏せてロビーを
早足で突っ切った。逃げるようにして私はホテルを出た。(*1)
コーヒーをこぼしたスカートやパンツというものは相当に羞恥を誘い、始末に困ってじたばたと慌てさせられるものです。醤油もまたコーヒーと同類。排泄物に近しい色合いのせいで、本能が警報を鳴らさずにおかないのかもしれません。動揺はずるずると尾を引き、自宅に帰り付き、扉を閉め、その服を脱ぎ捨てるまで鎮まらないものです。悪魔のようなそんな茶色の染みと独特の臭いをまとわり付かせたおんなは“外国人の”二人連れの視線を過剰に意識して、哀れで汚い日本人となって逃げ帰っています。
恋情からの覚醒と人種をめぐるコンプレックス。一滴の醤油の染みを登用して、僕たちの深い部分に二重に迫り来るものがあります。さらにここでは、甘く苦く、芳ばしく香る愛の記憶を十年もの長い年月を経ても“醤油差し”越しに無言で見つめ続ける視線があります。表舞台からでは触れられない裏側からの世界へのアプローチがそっと示されてもいて、何て素敵な構図だろう、なんて日本的な奥行きのある図柄だろうと感心することしきりです。
さっと読み通してしまえば瑣末な点に過ぎぬものばかりですが、線で結んでたどってみれば鮮やかな魂のシュプールが頁をまたいで描かれていく。山本文緒(やまもとふみお)さんという人が相当な滑り手であり、文学賞の授与も当然だなと頷いた次第です。
さてさて、再び週末ですね。余暇を満喫できる方は行楽の秋、スポーツの秋を、お仕事柄それに邁進される方はちょっとだけ寄り道しての芸術の秋をお過ごしください。
その間、もしも万一お醤油が大事なお召し物を汚したなら、ちょっとだけ僕のミソ・ミソでの妄言を思い出し、まあいいさ、たまにはこんな事もあるさ、私たちは誰もがシンデレラの末裔なのさと大きなお口で笑ってください。悪戯にめげずに美しい時間を、大事なひとと重ねていってください。
(*1): 「恋愛中毒」 山本文緒 角川書店 1998 現在は角川文庫で入手可能
2009年11月4日水曜日
向田邦子「だいこんの花」(1974)~ちゃんとまぜたのね~
●台所(朝)
セーターにスカーフをきりりとしばったまり子が朝食の支度。
トントンとおぼつかない手つきで、みそ汁の実を刻んでいる。
起きてくる忠臣。
忠臣「ほう。おみおつけの実はおねぎかい」
まり子「あ、お父さん、おはよございます」
忠臣「はい、おはよ」
まり子「割合いとごゆっくりなんですね。お父さん、年寄りは早起きだ
なんておどかすからもっと早いのかと思ったら……」
忠臣「(小さく)へ、手加減しているのが判らんのかねえ」
まり子「は?」
忠臣「いえいえ。あのごはん……」
まり子「今、スイッチ切れました(電気釜)」
忠臣「あ、そう、おみおつけのダシは……」
まり子「はい。ゆうべのうちに煮干しお水に漬けときましたから」
忠臣「結構結構、で、おみそは」
まり子「はい。仙台みそと八丁みそを……」
忠臣「ちゃんとまぜたのね」
まり子「はい」(*1)
ご自宅で調理にいそしむひとは数限りなくおられます。同居人への提供もさることながら、“自分自身”の味覚や嗅覚を満足させたい欲求から後押しされる事が多い、そういう実感を先日知人から教わりました。自分が食べたいものを自分の手で仕上げる、その作業の一環に家族への食事の提供が付随していくものだ──。確かにそうです、もっともな話です。
マーケットの惣菜コーナーやベーカリーで何がしかの調理品、例えば馬刺しであれをアップルケーキであれを買い込み、それを手っ取り早く皿に取り分け並べて夕食や何かの支度を済ませることがあっても、その選択には“自分自身”を慈しみ、愉しませるものをもちろん含んでいます。
つまり献立は、そして調理とは自己本位なわけです。自分が美味しいと思うものを作り振る舞うのが基本。家庭料理の多くが調理する者の嗜好に委ねられていき、“味噌汁”もまた作り手の好みに左右されるのが当然な訳だから、独自の希釈割合や具材との組み合わせが圧倒的に優勢を占めていくのは自然の理(ことわり)です。
話を性差別っぽく固めるつもりはないのですが、家庭での調理の現状は主に女性が担っています。これは取りも直さず、味噌汁がそのおんなのひと独自の味付けになっていくという事でしょう。塩辛さや甘さ、苦さ、温かさといったものが複雑に絡み合って、彼女らしい個性を獲得していくということです。最終的には百人百様に似た多彩な面持ちを得る仕組みです。
百人百様であることは、僕たちが発しているシグナルでも同様です。鼻腔をほのかに刺激する体臭、口づけ等を経て知る粘液などに対し、その都度に多彩な個性を僕たちは感じ取っています。またまた変な方向に話に振っていると笑うかもしれませんが、ふざけている訳じゃありません。
母親は自分の赤ん坊の体臭やうんちの臭いを、他の子供のものとしっかり嗅ぎ分ける能力があります。その逆もしかりです。まだ十分に意識されないにしても、母乳は個性的な、まさにおふくろの味となって、呑む赤ん坊の日常の多くを占めています。運動して汗を吸った複数の青年の下着を採取し、何人もの女性被験者にそれぞれ順繰りに嗅がせて好き嫌いを判断させたところ、多くの女性がもっとも整った顔立ちの男子の匂いを好ましいものと判断したという実験結果もあるそうです。(*2) かように人と人の間には微妙な味や香りが重要なシグナルとなって介在しているのであり、ならば塩のひと振り、砂糖の匙加減だって同じような絶大な効果をもたらす理屈です。味噌や醤油だってそうでしょう。
そうして“味噌汁”は調理を司る彼女の嗜好と体調に合わせた薫りと味を、薄絹のベールをふわりと纏(まと)うがごとく具えていく。給仕されるのが子供であるなら、間違いなく世界にひとつだけの“おふくろの味”となっていく。味噌汁をおふくろの味と讃えることは、だから実際間違っていないのでしょう。
ところがところが、そこに不可思議な横槍が入ってくるのですね。上記の台詞は向田邦子(むこうだくにこ)さんの初期の連続ドラマ「だいこんの花」から書き写したものですが、ここでは伝承や教育の名のもとに上の世代が下の世代の嗜好を無視して、調理をがんじがらめにしていく様子が描かれています。森繁久弥さん演ずる七十歳の父親が、次男誠(竹脇無我さん)と妻まり子役である石田あゆみさんを帝国海軍式に教育していきます。漬け物への執着も相当なものなのですが、味噌汁作りの監督は輪を掛けて粘着的に劇中繰り返されました。
忠臣「お前は判ってないんだよ。女にとって、主婦にとって台所仕事というものは」
誠「あのねえ、お父さん」
忠臣「(言わせない)毎度引き合いに出してなんだけれども、うちの繁子……
亡くなった家内ね、この人は実に包丁さばきのいい人だったねえ。
朝布団の中で目をさます。みそ汁の匂いがプーンとしてトントントントン……
包丁の音が聞えてくるんだよ」
目を閉じてうっとりとなる忠臣。
誠「それはね、昔のハナシなんだよ。オレたちはね、朝はパンとミルク(言いかける)」
忠臣「アタシは、ごはんとおみおつけにしていただきたいね。それにアンタ、
一週間にいっぺんは大根の実でないと。大根てのはこの、ジアスターゼが」
誠「あのね」
忠臣「そのアンタ、大根がですよ、こんな(まり子の切ったの)十六本じゃあ、
アタシはやだねえ」(*3)
どんどん核家族化が進んでいますし、同居した二世代間にしてもここまで無遠慮な指導は影を潜めているようにも思いますが、それでも多かれ少なかれ味噌汁への個人教授は根強くあるように感じます。僕たちの世界で味噌汁というものが、相当に象徴性を帯びた立ち位置を家庭で与えられているのが分かります。
さて、よくよくそうして見るならば、上の世代の嗜好を遺伝子か細胞壁の奥に潜むミトコンドリアのよう承継した味噌汁とは、一体全体、誰の味、なのでしょう。おふくろの味と僕たちは気安く呼称するそれは、こうしてこだわり眺めれば随分と混沌したものだと判ります。
味噌汁が“おふくろの味”と共に“故郷の味”としてイメージされる背景には、地勢と気候によって各地に今も根付いている多種多様なご当地味噌の存在によるものが大きいのですが、しかし、それだけでなく一族郎党のレシピが蛇のようにずるずるとのたうち連なっていることにも由来しているのでありましょう。
別におかしくないわよ、それはそうよ、当たり前よと鵜呑みにせずに立ち止まってもらいたいのだけれど、あれれ、と思うのは、つまり僕たち男がはげしく惹かれてしまい、もはやひれ伏す想いを抱くばかりの甘く重たいあの体臭や、口づけで知った何とも形容し難い、脳髄を痺れさせるかぐわしきものに連なるはずの、誰とも替え難い愛しいおんなの作る“おんなの味”は何処に行ってしまったのだろう、ということです。おふくろの味が残り、おんなの味が跡形もない。
先日の桃井かおりさんのエッセイに見受けられた動揺や躊躇はこのあたりの不可解さ、煩わしさを承知した上での本能的、官能的なものであったのかもしれませんね。女性が味噌汁を作るという事の背景には何という暗い淵が覗いているものか。僕たち男はずいぶんと呑気に生きていると思い、また、味噌汁の椀に目を凝らして見えてくるのは日本の男たちの不可解さだけでなくって、日本のおんな達の闘う姿でもあるのだと感心しているところです。
慈愛と献身、無私と無欲の全力疾走。女性の体現する愛の、ほんの少し痛みを宿した情景として味噌汁が今日もことことと鍋で煮られ、次々にお椀に盛られていきます。
(*1): 「だいこんの花」第22回 向田邦子 1974-75 新潮文庫 後篇に収録
(*2): 先日並べ記した四冊の中にありました。どれだか忘れちゃいました。
(*3): 「だいこんの花」第13回 向田邦子 1974-75 新潮文庫 前篇に収録
セーターにスカーフをきりりとしばったまり子が朝食の支度。
トントンとおぼつかない手つきで、みそ汁の実を刻んでいる。
起きてくる忠臣。
忠臣「ほう。おみおつけの実はおねぎかい」
まり子「あ、お父さん、おはよございます」
忠臣「はい、おはよ」
まり子「割合いとごゆっくりなんですね。お父さん、年寄りは早起きだ
なんておどかすからもっと早いのかと思ったら……」
忠臣「(小さく)へ、手加減しているのが判らんのかねえ」
まり子「は?」
忠臣「いえいえ。あのごはん……」
まり子「今、スイッチ切れました(電気釜)」
忠臣「あ、そう、おみおつけのダシは……」
まり子「はい。ゆうべのうちに煮干しお水に漬けときましたから」
忠臣「結構結構、で、おみそは」
まり子「はい。仙台みそと八丁みそを……」
忠臣「ちゃんとまぜたのね」
まり子「はい」(*1)
ご自宅で調理にいそしむひとは数限りなくおられます。同居人への提供もさることながら、“自分自身”の味覚や嗅覚を満足させたい欲求から後押しされる事が多い、そういう実感を先日知人から教わりました。自分が食べたいものを自分の手で仕上げる、その作業の一環に家族への食事の提供が付随していくものだ──。確かにそうです、もっともな話です。
マーケットの惣菜コーナーやベーカリーで何がしかの調理品、例えば馬刺しであれをアップルケーキであれを買い込み、それを手っ取り早く皿に取り分け並べて夕食や何かの支度を済ませることがあっても、その選択には“自分自身”を慈しみ、愉しませるものをもちろん含んでいます。
つまり献立は、そして調理とは自己本位なわけです。自分が美味しいと思うものを作り振る舞うのが基本。家庭料理の多くが調理する者の嗜好に委ねられていき、“味噌汁”もまた作り手の好みに左右されるのが当然な訳だから、独自の希釈割合や具材との組み合わせが圧倒的に優勢を占めていくのは自然の理(ことわり)です。
話を性差別っぽく固めるつもりはないのですが、家庭での調理の現状は主に女性が担っています。これは取りも直さず、味噌汁がそのおんなのひと独自の味付けになっていくという事でしょう。塩辛さや甘さ、苦さ、温かさといったものが複雑に絡み合って、彼女らしい個性を獲得していくということです。最終的には百人百様に似た多彩な面持ちを得る仕組みです。
百人百様であることは、僕たちが発しているシグナルでも同様です。鼻腔をほのかに刺激する体臭、口づけ等を経て知る粘液などに対し、その都度に多彩な個性を僕たちは感じ取っています。またまた変な方向に話に振っていると笑うかもしれませんが、ふざけている訳じゃありません。
母親は自分の赤ん坊の体臭やうんちの臭いを、他の子供のものとしっかり嗅ぎ分ける能力があります。その逆もしかりです。まだ十分に意識されないにしても、母乳は個性的な、まさにおふくろの味となって、呑む赤ん坊の日常の多くを占めています。運動して汗を吸った複数の青年の下着を採取し、何人もの女性被験者にそれぞれ順繰りに嗅がせて好き嫌いを判断させたところ、多くの女性がもっとも整った顔立ちの男子の匂いを好ましいものと判断したという実験結果もあるそうです。(*2) かように人と人の間には微妙な味や香りが重要なシグナルとなって介在しているのであり、ならば塩のひと振り、砂糖の匙加減だって同じような絶大な効果をもたらす理屈です。味噌や醤油だってそうでしょう。
そうして“味噌汁”は調理を司る彼女の嗜好と体調に合わせた薫りと味を、薄絹のベールをふわりと纏(まと)うがごとく具えていく。給仕されるのが子供であるなら、間違いなく世界にひとつだけの“おふくろの味”となっていく。味噌汁をおふくろの味と讃えることは、だから実際間違っていないのでしょう。
ところがところが、そこに不可思議な横槍が入ってくるのですね。上記の台詞は向田邦子(むこうだくにこ)さんの初期の連続ドラマ「だいこんの花」から書き写したものですが、ここでは伝承や教育の名のもとに上の世代が下の世代の嗜好を無視して、調理をがんじがらめにしていく様子が描かれています。森繁久弥さん演ずる七十歳の父親が、次男誠(竹脇無我さん)と妻まり子役である石田あゆみさんを帝国海軍式に教育していきます。漬け物への執着も相当なものなのですが、味噌汁作りの監督は輪を掛けて粘着的に劇中繰り返されました。
忠臣「お前は判ってないんだよ。女にとって、主婦にとって台所仕事というものは」
誠「あのねえ、お父さん」
忠臣「(言わせない)毎度引き合いに出してなんだけれども、うちの繁子……
亡くなった家内ね、この人は実に包丁さばきのいい人だったねえ。
朝布団の中で目をさます。みそ汁の匂いがプーンとしてトントントントン……
包丁の音が聞えてくるんだよ」
目を閉じてうっとりとなる忠臣。
誠「それはね、昔のハナシなんだよ。オレたちはね、朝はパンとミルク(言いかける)」
忠臣「アタシは、ごはんとおみおつけにしていただきたいね。それにアンタ、
一週間にいっぺんは大根の実でないと。大根てのはこの、ジアスターゼが」
誠「あのね」
忠臣「そのアンタ、大根がですよ、こんな(まり子の切ったの)十六本じゃあ、
アタシはやだねえ」(*3)
どんどん核家族化が進んでいますし、同居した二世代間にしてもここまで無遠慮な指導は影を潜めているようにも思いますが、それでも多かれ少なかれ味噌汁への個人教授は根強くあるように感じます。僕たちの世界で味噌汁というものが、相当に象徴性を帯びた立ち位置を家庭で与えられているのが分かります。
さて、よくよくそうして見るならば、上の世代の嗜好を遺伝子か細胞壁の奥に潜むミトコンドリアのよう承継した味噌汁とは、一体全体、誰の味、なのでしょう。おふくろの味と僕たちは気安く呼称するそれは、こうしてこだわり眺めれば随分と混沌したものだと判ります。
味噌汁が“おふくろの味”と共に“故郷の味”としてイメージされる背景には、地勢と気候によって各地に今も根付いている多種多様なご当地味噌の存在によるものが大きいのですが、しかし、それだけでなく一族郎党のレシピが蛇のようにずるずるとのたうち連なっていることにも由来しているのでありましょう。
別におかしくないわよ、それはそうよ、当たり前よと鵜呑みにせずに立ち止まってもらいたいのだけれど、あれれ、と思うのは、つまり僕たち男がはげしく惹かれてしまい、もはやひれ伏す想いを抱くばかりの甘く重たいあの体臭や、口づけで知った何とも形容し難い、脳髄を痺れさせるかぐわしきものに連なるはずの、誰とも替え難い愛しいおんなの作る“おんなの味”は何処に行ってしまったのだろう、ということです。おふくろの味が残り、おんなの味が跡形もない。
先日の桃井かおりさんのエッセイに見受けられた動揺や躊躇はこのあたりの不可解さ、煩わしさを承知した上での本能的、官能的なものであったのかもしれませんね。女性が味噌汁を作るという事の背景には何という暗い淵が覗いているものか。僕たち男はずいぶんと呑気に生きていると思い、また、味噌汁の椀に目を凝らして見えてくるのは日本の男たちの不可解さだけでなくって、日本のおんな達の闘う姿でもあるのだと感心しているところです。
慈愛と献身、無私と無欲の全力疾走。女性の体現する愛の、ほんの少し痛みを宿した情景として味噌汁が今日もことことと鍋で煮られ、次々にお椀に盛られていきます。
(*1): 「だいこんの花」第22回 向田邦子 1974-75 新潮文庫 後篇に収録
(*2): 先日並べ記した四冊の中にありました。どれだか忘れちゃいました。
(*3): 「だいこんの花」第13回 向田邦子 1974-75 新潮文庫 前篇に収録
2009年11月2日月曜日
ローズ・ジョージ「トイレの話をしよう」(2009)~ギジオブツ~
ゴーリーはどれにも満足しなかった。最後に、だれかがあるメーカーの味噌を
買ってきた。見た目も、浮き方もぴったりだと考えたのだ。「人の便を触って
調べたわけではありませんよ。社員のなかに子持ちの者が何人かいて、彼らが、
密度も、水分の含み具合も本物らしいと判断したのです」(中略)
ゴーリーのほうは、テスト媒質を改善する必要があった。味噌ペーストは、
密度や重さの点では申し分なかったが、便器が汚れるし、再利用できないという
欠点があった。そこで技術者が「コンドームに砂を入れてはどうです?」と提案
した。砂は、便とは似ても似つかないが、この言葉をきっかけに、ゴーリーはある
ことを思いついた。そして、潤滑剤を塗っていないコンドームを一箱買って研究室
に戻ってきた。同僚たちは懐疑的だった。「それじゃあ強度不足じゃないか、
と言われました」。そこでゴーリーは、コンドームに味噌を詰めて壁に投げつけた。
強度は充分だった。(*1)
何てこった、ああ、神さま、こんなところにも味噌が!
日常の煩雑さを逃れて過ごす密やかなひと時を、さらにゆったり安穏としたものにするために購入した尾篭この上ない本であったはずなのに──。(そうさ、僕はお下品な話が大好きなのさ!)
なのに、パンツを下ろし腰掛けてクスクスと笑いながらページをめくっていたら、突如味噌が顔を覗かせてしまうのです。もうビックリして引っ込んじゃったよ。
カナダのウォーターエンジニアのビル・ゴーリーさんは水洗式トイレのメーカー別機種別の技能比較に長年疑念を抱いていました。使用される物体が“リンゴ”であったり“スポンジ”であったりして、現物とえらく乖離しているので正確な判断が付かないと考えていたからです。日本のメーカーではギジオブツ(擬似汚物)というものをかねてより使用し、節水や汚れの残存付着率を減らすことに心血を注いでいたのですが、北米においてはもってまわった上品な検査の仕方を長年変えられず、各メーカー品のどれもこれも改良が遅れておりました。
ゴーリーさんと仲間は“現実的なサンプル”こそが改善の鍵と捉え、ギジオブツの製造に着目、仲間と共に試行錯誤を開始しました。そこに味噌が登場するのです。250gの味噌を詰めたコンドームは形状や弾力、浮力共に申し分なく、これが各社の便器の性能を客観的に見直す契機となって、飛躍的進歩を業界にもたらしたのです。
ご承知の通り、今後世界は枯渇していく清澄な水をめぐって国家間、部族間の陰惨な紛争を繰り返すだろうと予測されています。改善が施されなかった古いタイプの便器では一度に使用される水量もたいへんなもので、不順な天候がもたらす一過性の水不足を解決するためにも、また、長期的な展望から言っても水洗トイレの改良が社会的に強く求められてもいました。段違いの節水を可能とする便器の改良にゴーリーさんの考案したギジオブツは貢献したのであって、その陰の主役である味噌は、人類を救い世界の環境を保守するという素晴らしい役割を担ったと言えるわけです。
にもかかわらず、“クソミソ”という言葉がリアルな風景と共に目に浮かび、なんとも言いようのない複雑で重苦しい気持ちに僕はなってしまいます。ゴーリーさんの慧眼と実行力には感心し敬意さえ抱きますが、しかし、その発案はやはり海外の人のものだと感じます。
もしかしたら日本のメーカーで使われているギジオブツだって、日本であるゆえに味噌と深い直接的な関わりがあるのかもしれず、ですからゴーリーさんの発案したものに難癖を付ける事は滑稽千万なことかもしれない。しかしながら、僕のなかでは良しとしない想いが強く湧き出してくるのです。何もそんな風に扱わなくたって、と思い、理屈が分かれば粘土だって良いはずなのに最後まで味噌にこだわり抜いていく、それがちょっと引っ掛かる。
まあ、どうしようもないですね、仕方ありません。“クソ”と“ミソ”は誰の目にも似たもの同士に見えてしまうものです。国境を越え、人種を越えてこの連想は広がり留めようがないのです。
改めて思うのは、味噌というものの不思議な多層性です。一方では母の味、郷里の味とすがり付かれ、片やクソの代用品としてコンドームに詰められ、壁に叩きつけられ、便器の穴にボトリと落とされていく。聖と俗を共に内包した極めて特殊な食べ物だということです。こんな食べ物は他にあるでしょうか。僕はざっと見渡す限り、こんなブレの大きなものはやはり味噌以外に無いように思います。
それを毎日のように口に運ぶ僕たちも、ずいぶんと特殊な位置にいるようにも思います。
(*1):「トイレの話をしよう 世界65億人が抱える大問題」 ローズ・ジョージ NHK出版 2009 このギジオブツのことは、第一章に掲載されています。第二章以降は現在読み進めているところです。僕の通じは至極順調なのでトイレでは数行しか進めないからね、持ち出しました。いまは枕元に置いて丹念に読んでいます。また味噌が出て来たら報告いたしますね。尚、原著は2008年に上梓されております。