新聞の紹介記事に背中を押されて、探索がてらのドライブです。連なる峰の白く輝ける稜線の彼方に、雲ひとつない空が拡がっています。澄み渡るその蒼さを仰ぎ見るだけでも、生きている実感を覚えます。
どこまでも伸びていく雪野を黒く道が貫いており、そこをひた走る爽快感もなかなかのもの。窓から額に吹く風も実に心地よくって、充電するものがありました。
「天道」「人道」「阿修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」の様相をまとめた六道絵(ろくどうえ)を見に行くところです。なんでも今月末まで公開しているとのことで、奇抜で生々しいものに惹かれてやまない僕には恰好の目標です。FM波で届けられるのはバーブラ・ストライサンドの80年代の名曲。何てミスマッチかと思い、けれどそれも楽しく聴きながら目指す寺院を探していきます。
出かける前にウェブで検索した地図を頭に叩き込んだつもりでしたが、二度三度曲がるべき道を間違えて、侘しく細い路地をのろのろ行き戻りします。けれど、そういう迷い路もまた愉しいものです。赤くペンキに塗られた半鐘(はんしょう)に突然出会ったり。おとなの背丈ほどで町角のあちこちに佇む彼らが、なにやら森に棲む“物の怪(もののけ)”に見えてきます。せわしい日常からふわりと浮遊して遊ぶ、そんな時間は有り難いですね。
“寒煙迷離(かんえんめいり)”と書くと苔むした屋根が傾き、朽ち果てる寸前みたいで怒られるでしょうか。立派なお寺で手も行き届いた感じなのですが、ほかに見学者もおらずに異界めいた雰囲気に包まれているのです。霊気に覆われた境内を独り進みますが、何となく身もこころも迷い込んでいくような妖しい感じなのです。
重い扉をがらがら開いて声掛けしても返事はなく、見通しの利く長い廊下はしんと静まり返っているばかり。線香の煙が希釈されてちりぢりに浮遊するようで、鼻腔の奥をむずかゆく刺激します。淋しさひとしおとなって、怖さも薄っすらと湧いて出ます。
見つけたインターホンを押してやり取りをすれば、どうぞ自由に入ってくれとのお許しです。廊下を進み、ガタガタようやく押し開いた黒い木戸の向うに広がる本堂は無人であって、例によってしばしの間、地獄絵とひとりで対峙することになりました。以前斉藤茂吉さんゆかりの寺で似たようなものを見ていますが、こちらはずっと大きなものです。寒さと状況の異様さに震えてダウンのコートの襟をきゅっと合わせながら、それでも30分ほど異次元に遊びました。
山岳宗教とも通じるのですが、西洋のものと比べて日本の仏教の地獄極楽図は階層や境界が曖昧なのが特徴ですね。絵の上端からは罪人が悲鳴をあげて降ってきて、口を開けた大釜へと向かって一直線に墜ちていきます。大きな竜の体表から放出される紅蓮の炎に包まれた黒い大釜には、ぶくぶくと熱湯が煮えている様子です。
その一方、絵の最下端からは、今度は死者たちが険しい階段や坂をひたすら登り、眉間にしわ寄せ冥府の入口を目指していくのです。僕たちの精神世界における地獄の在り様は明瞭でなく、墜ちるのか、登るのかまるで判然としない訳です。
それは不合理で未成熟な国民性や文化度の低さを表わしているものかと言えば、僕はそうは思わない。むしろ現実的で人間的だという気がします。
階層や境界がない黄泉の世界にある魂は、少し姿勢を変えてやることで好転も脱出もたやすいということを示唆しています。階段や坂道をさらに降りていけば光明が見えてくる。ダンテの地獄もありますからよくよく調べれば皆無ではないでしょうけれど、西洋の宗教画にはそんな逃げ道、おいそれとは見出せないものです。また、六道絵の地獄の諸相を境い作っているのは壁でもなければ岩でもない。黒くたなびく霧でしかありません。手探りでも歩いていけば厚みのないその霧はやがて突き抜けてしまい、新しい次元が待っている。極彩色のこの絵は現世の僕たちに地獄とて有限であること、夜の闇の濃さには限度があると説いてくれている。
底なし沼でもなく、牢獄でもない。上下左右どちらかに動いていけば違った光景にいつかはたどり着く。牛頭馬頭(ごずめず)や悪鬼ばかりがうごめくのではなく、阿弥陀如来もまた同じ階層で待っていてくれる。そんな曖昧模糊な魂の彼岸には“救いの可能性”が歴然として在って、僕は素敵だな、日本的だなと感心する次第なのです。
帰路は日帰り温泉で熱い茶色いお湯にどっぷり浸かり、浮世のあれこれの一部を少しの間忘れ去り、一部は愛しく鮮明に想い返しながら、のんびりとした時間を過ごしました。
ささやかではありますが、良い休日となりましたよ。
2010年1月25日月曜日
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