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倒れた醤油瓶から液がとめどなく漏れるように、父はしゃべった。 ミハルちゃんが大学にいきたかったことも結婚したい人がいたこ とも私は知らなかった。知りたくなかった。父はずるい、と思った。 ここにひとりでくる勇気がなくて、私を連れてきて、思い出話を 勝手に私に聞かせて、それで自分は少し気分が楽になるかもしれない。 けれど私はどうしたらいいのだ。(*1) 喪われゆく 光景への哀惜が味噌、または味噌汁をともなって描かれていく。角田光代(かくたみつよ)さんの「夜をゆく飛行機」のそれぞれの味噌描写を書きとめた次第でしたが、実はより興味を惹かれたのは醤油の登用の仕方でした。味噌汁同様、のどかな郷愁を担って描かれている醤油なのですが、そこには明らかな段差が認められるのです。 ひとりの作家によって味噌と醤油が並べ描かれることは、有りそうでいて実はなかなか見当たりません。どちらかに固執するのが普通です。以前このブログで取り上げた中で、両刀遣いに数えられるひとは唯一向田邦子(むこうだくにこ)さんだけです。(*2) 向田さんのエッセイと角田さんのこの小説の共通点は何か、焦点を絞って眺めると面白いものが見えてきます。母親、祖母、姉妹といった“女性の記憶”と味噌汁は連結し、“父親の記憶”とは醤油が連結して見えます。組み合わせがあるのです。 台所で立ち働く女性、卓袱台でふんぞり返っている男性というテリトリーは確かに影響するでしょうけれど、もっと根深く繊細なものが仮託されて見えます。 例えば上に掲げた角田さんの引用は実に見事で、僕たち読み手の気持ちに波紋を起こしますね。醤油から与えられる様々な心象が重層的に次々連結していきます。覚醒(興ざめ)、汚れ、破壊的、染み、トラウマ。それに父親、男性といったものが直結していき、末っ娘の蒼白いこころ模様を瞬時に伝達することに成功しています。 こんな記述も劇中に見つかります。 「ほらほらモトちゃん、ブラウスの裾にお醤油がつくわよ、 あーあーおとうさん、グラスを倒さないで」「リリちゃん、 カンパチ好きでしょ、これひとつあげるわよ」「ちょっと お醤油、お醤油とってったら」「あーもうコトちゃんうるさい、 ガリでも食ってな」「モトちゃん、女の子が食ってなはない でしょう、食ってなは」「りー坊はいくつになったんだ、 おまえいくつになったら酒飲めるんだ」「もうおとうさん、 高校生にお酒つぐのやめて」(*1) 醤油が衣服に接触しそうになる危機的なイメージの立ち上げ以降、喧騒はエスカレートして男言葉が飛び交い、女性らしいしなやかさが瓦解していきます。おんなと味噌、男と醤油というイメージの固着がやはり読み取れるのです。 青息吐息でいる町の酒店の側に巨大なショッピングセンターが遂に開店し、酒店の母親と娘が偵察にいく場面があるのですが、そこでは三千円という法外な値段の醤油とそれに対して嘲弄する会話が取り込まれてもいます。「お尻がむずっとする」と笑うおんなたちは明らかに醤油という存在を軽んじています。(三千円の味噌だったらどうでしょう。案外よくよく手に取り吟味したのじゃないかしら) ここで向田さんに続き、山本文緒さんを思い出してもいいですね。衣服に醤油の染みを鏡で見止めた瞬間にパニックに陥った、情事の後の若い女性を描いた「恋愛中毒」。あの情景の深いところにも醤油=男性という連鎖が潜んでいたのかもしれません。(*3) “母親”の味という永遠の夢を味噌汁に思い描く男たちと、その反対に汚すもの、単純なもの、破壊者、左程の価値を認め得ないものとして“男たち同様に”醤油を見下すおんなの視線が僕たちの日常ではそれとなく交錯しているということでしょうか。 夫婦なり同棲中の男女なりが暮らし始める家屋において、醤油と味噌がやがて買い揃えられて調理の根幹におかれ、混然一体となって使われていくわけですが、各々に託された別々な密やかな眼差しを想うと慄然とするものがあり、また、笑ってしまうものがあります。なるほどよく出来ている、そうも思えます。 僕たちの胸の奥の洞窟は深く、広く、時に真空になり、時に身を切るような風が吹き荒れますよね。持て余すことも間々ありますが、けれど素敵で素晴らしいものだと信じます。すれ違い、反撥、衝突も日常の調味料、匙加減ほどに軽く受け止め、醤油のように舐め干し、味噌のようにしゃかしゃかと“こころの鍋”に溶かしながら暮らしていかないといけませんね。 さてさて、いよいよ重い雪が降り始めました。庭木にもたちまち白いベールがかかって、重そうな、けれどその重さがちょっと嬉しそうな、そんな顔をして見えます。 今年はほんとうにありがとう。 たくさんたくさん助けられた気がしています。 どうかよい年をお迎えください。 (*1):「夜をゆく飛行機」 角田光代 初出は「婦人公論」2004年8月より連載、翌年2005年11月まで。 現在、中公文庫で入手可。 (*2): http://miso-mythology.blogspot.com/2009/06/1981.html (*3): http://miso-mythology.blogspot.com/2009/11/1998.html
お店から戻ってきた母は切れ目なくしゃべりながら食堂を横切り、 台所にいく。素子(もとこ)が人数分の味噌汁を運び、大皿に のった海草サラダを運んでくる。 「おとうさん今日会合でしょ?あんまり飲まないほうがいいよ、 どうせあっちでもお酒出るんだから」(*1) 夜空に月を見上げるのが柄にもなく好きです。見詰めながらあれこれ想いを巡らす、小さな隙間の時間をとても大事にして暮らしています。三々五々同僚が帰ってしまい、独り残された仕事納めの昨日夕刻、外に出て、涼しく澄んだ空気を胸の奥まで吸ってみました。締め括りのこの一瞬に肺腑を満たした夜気はひりひりと凍みて、目尻に熱いものが湧きました。天頂近くに月は丸くあり、その形を、その白さを、その光を僕はただただ嬉しく愛しく感じました。 月齢カレンダー(*2)によれば30日は十五夜、元日の夜が満月とのこと。新しい年が満月に照らされて始まるなんて、ちょっと素敵ですよね。これを読むすべての人にとって、暗き夜道にも月光が指し届く、そんな足元の明るい一年となりますように心から祈っています。 月のわずか下を銀色に雲を引きずりながら、赤い灯火をにじませた米粒のような飛行機が右から左へ飛んでいくのを見送りました。そうそう、二階から屋根に突き出た物干し台から夜毎に空を眺め、飛行機を探し見つめる女の子を主人公にした小説を調度読み終えたばかりです。 角田光代(かくたみつよ)さんのこの「夜をゆく飛行機」ほど、味噌と醤油が意識的に散りばめられた小説は無いように思われます。さりげなく随所随所に味噌と醤油を登用することで物語の湿度や香りを上手く調節していますね。僕はこれまで角田さんの作品を丹念に読み込んだことはなかったのですが、物語を理詰めで構築する人だということを窺わせる緻密なバラマキが為されていて、とても楽しく読了した次第です。 昔ながらの商店街に創業当時からの顔付きのままで収まっていた個人経営の酒店が舞台です。両親と年頃の四姉妹が肩を寄せ合い暮らしていたのですが、近くに巨大なショッピングセンターが建設され開店間際となり、一点にわかに掻き曇り、といった感じの緊迫した大気を冒頭から孕んでいます。これを案ずる父親はもう気が気ではなくなり町内会の会合に毎夜足を運んだりするのですが、そんな事をしたってどうしようもないことは本人も家族も百も承知です。また、子供たちは各々変革の時期に差し掛かりもしていて、出たり入ったりの動きが活発になっていく。末っ子の視線を通じてひとつの家族と家屋の変貌していく様子が紹介されていきます。 2004年から書き始められたこの小説の時空は、1999年から翌年2000年をまたぐ“近過去”に設定されています。その事からも端的に分かるように物語の肝となっているのは、遡及し得ない一度限りの浮世の苦しさです。後戻りの利かない人生の哀しさを見据えた上での、記憶の嬉しさ、温かさを静かに顕現してみせて、僕たち読者ひとりひとりにおのれの過去を“振り返らせる”ことを角田さんは目論んでおられる。 主人公の記憶や感情に味噌や醤油がまとわり付きます。姉のひとりが泣き出した様子を見て「私はなんだか、この廊下がタイムマシンで、十五年前に戻ってしまったような気がした」のですが、その過去と現代を橋渡しする情景として味噌汁がふわりと浮上いたします。 朝の光が廊下に延び、味噌汁のにおいが廊下に漂っていた。(*1) と、こんな具合です。物語の最後のあたりにはこんな記述も見つかります。 谷島酒店で働く、まだおばあちゃんにはなっていない祖母が、 知っている光景みたいに思い浮かんだ。味噌の樽や駄菓子の 入ったガラスケースが並んだちいさなお店、割烹着を着た祖母、 前の道を走る古めかしい自動車と舞い上がる土埃。ちいさい 子どもだった父や祥一おじさんが、あわただしく店から飛び出し てくる様まで、昨日見たように思い浮かんだ。(*1) “味噌の樽”というのはどうです、珍しいでしょう。小道具としてかなり特殊ですよね。映画「赤いハンカチ」では新しい流通システムが根こそぎ古い商業形態を駆逐し、そこに寄り添っていた人情や絆を破断させていくという時代の転換点が舞台になっていました。失われていくものを代表するイメージとして、自転車の豆腐売りと味噌汁がセットになって象徴的に取り上げられていた(*3)のでしたが、あれに似た状況設定と手法が「夜をゆく飛行機」には確かに認められます。取り返しのつかない過去に味噌汁は連結させられていくのです。 劇中天寿を全うする祖母の存在は、懐かしくも喪われていく風景と同じ立ち位置に在るのですが、そんな老女を描く際にも角田さんはこっそり味噌を挿し入れてみせる手堅さを見せています。 「あの子は一番下な上、女の子でみそっかすだったから、 あんたたちを見ると、長女気分になれるんだろ。ねえ、 あんたたち、お願いがあんのさ」祖母は袂に手を突っ込んで、 ごそごそしている。(*1) “みそっかす”という耳にしなくなって久しい形容が突如ここ、2004年の作品で顔を覗かせるのは、僕には到底偶然とは思えません。 このような味噌や醤油から記憶の共有や共感を導く手法は幼少の頃に外国暮らしをした人や海外のひとには通じない、僕たちここに産まれここに住む者の深層にのみ訴える、ある意味偏狭な日本固有の小説技巧だと思われます。海外での翻訳を見据える村上春樹さんや大江健三郎さんは避ける泥臭いやり方なのでしょうけれど、僕たちが僕たちのこころと向き合い、僕たちの社会とは何かを考えるときにはとても有効であるし、実に奥深くて面白い顕現だと思えるのです。 失われるものと寄り添い、共に失われていく宿命を帯びた味噌汁。そんな切実なイメージを作家は投げ掛けてくるのですが、そのような食べ物は他には見当たらないように思えます。これに対して違和感なく眼差しを注ぎ続ける僕たち日本人のこころの傾き具合も、奇妙で不思議なものに思えます。永別を果てしなく意識しながら、大豆や小麦を醗酵させたスープを呑む民族、それが僕たちなんですねえ。可笑しいよねえ。 (*1):「夜をゆく飛行機」 角田光代 初出は「婦人公論」2004年8月より連載、 翌年2005年11月まで。 現在、中公文庫で入手可。 (*2): http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/moonage.htm (*3): http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964_30.html
正太「ただいま──! あ~~~腹へった。」 留吉「鍋に味噌汁が残っている。」 (戻ってきた正太に対し、左官で父親の留吉は背を向けたままで 茶碗酒をあおっている。正太、ひとりで黙々と食事をはじめる。) 留吉「また、一葉(いっぱ)とかいう女のところで字書きして きたのかい。」 正太「一葉(いっぱ)じゃなくて一葉(いちよう)だよ ……樋口一葉。」 留吉「どっちでもいいけど 字じゃ飯は食えないぞ。」 正太「おいら字が好きなんだ。例えば風って字を書いていると ほんとに吹く風を感じるんだ。」 留吉「けっ!」 正太「父ちゃん、働いとくれよ。美味(うま)いものを食べたいとは 思わないけど 新しい硯(すずり)が欲しいんだ。」(*1) 終着駅のホームに速度をぐっと落とした新幹線が滑り込みます。痛むお尻を座席からえいっ、と離して立ち上がり、ほかの客と列なしてぞろぞろ通路を進んでいくと、あちらこちらに読み終えた漫画雑誌が捨て置かれているのが目に飛び込みます。連載物ならば二十頁少しのものが多いようですが、そこに費やされた知恵と労力を想うといささか複雑な気持ちになります。けれど、出版業は買われ捨てられてこその商売ですからね、わずか数時間でざっと眺め放られてこそ役割を全うしたとも言えるわけで、ならばそんな雑誌の姿は立派な最期であるわけですね。 短時間で捨てられるためにある漫画は、コマからコマへの軽快な跳躍こそが第一に求められているのであって、何か引っ掛かるものがあってはならない理屈です。だから、僕のような天邪鬼が流れに抗ってする“コマの凝視”は行き過ぎであり、迷惑な行為かもしれません。けれど、やはりねえ、僕は駄目ですねえ。 エドガー・ドガの評伝(*2)に収まったバレエダンサーの絵を眺めていると、同じ姿かたちの娘たちが右へ左へ位置を替えていくのが楽しく感じられます。どこに描くか、どう描くか、何と何を組み合わせるか。たった一枚の絵画にさえ物象のいちいちに画家の恣意が働き及んでいるのです。いわんや大量のコマで成り立つ漫画においてをや。そう思うものですから、どうしても舐めるように描線を追ってしまうし、余白や行間に気持ちが入ってしまう。あれこれ想う気持ちは止められないのです。 読者の視線はコマを追い台詞を読み、上から下、右左と目まぐるしく行き来を繰り返します。作者の筆先に宿っただろうひそやかな思惑を、だから大概は拾い切れてはいないものでしょう。精読されることを送り手はさほど期待していないかもしれませんが、僕はやはり飛ばし読みは無理なんだよね。困った性分です。 さて、つげ義春さんの「隣りの女」に現れた空っぽの味噌汁椀(*3)と似た表現が、他の作家の作品でも認めることが出来ます。1986年に四十半ばで夭折した上村一夫(かみむらかずお)さんの文芸物「一葉裏日記」のなかで味噌汁にお呼びが掛かりました。クローズアップされることもなく淡々と描かれているのですが、天井方向から覗き込む構図の真ん中に見せ置かれた味噌汁椀のその底は、つるりと真っ白で、実に空っぽでありました。 正太は血色のいい育ち盛りの少年です、あっと言う間にきれいに平らげてしまったのでしょうか。そうでないことは上にひも解いた場面に続くコマが教えてくれます。少年はさらに椀を口もとに抱え直して、その中身を懸命に掻き込む姿を僕たちに見せているのです。つまり正太少年は最初から何も入っていない椀を傾げ、何ら箸でつまむことなく、この貧乏長屋での食事の場景を自然に(けれど不自然に)僕たちに提示しているのです。 作者の上村さんはもしかしたら意図して落語風に描いたのかもしれません。手ぬぐいや扇子を巧みに使い分けて観客の目を獲り込み、日常を彩る雑貨や食物を幻視させる。そんな名人芸にならった可能性も多分にあります。妻に先立たれて暮らしの張りを失い、天気も良いのに昼間から酒に浸っていた男が息子の訴えに心揺さぶられていく。失意の淵から脱却し、少しずつ生きること、暮らすことを再開していくという湿度ある人情噺です。この頃の上村さんの作品は形式的で硬い風情を帯びているものが多いですから、落語のスタイルを踏襲したとしても違和感は起きてきません。 けれども、やはりここでの“見えない味噌汁”とは形式美ではなくって、貧窮した父子家庭の実状を描く手段なのでしょう。底辺の暮らし向きに巣食うひもじさを描く上での奥の手が“見えない味噌汁”だったのだと僕は思います。味噌汁しかない食卓の、その味噌汁をも排除することで僕たち読者のこころを静かにいざない傾斜させるものがあります。「鍋に味噌汁が残っている」と告げられた瞬間に巻き起こる連想を逆手に取って、空腹感を増幅させる小さな仕掛けが紙面に仕組まれているのです。 米の一粒、汁の一滴をも素知らぬ顔で残酷にも省いてみせた上村さんの底知れぬ作為と巧妙な手わざに対して、また、そのような仕打ちに対して笑顔で椀を傾け、空気をお腹に呑み下しながら「美味(うま)いものを食べたいとは思わないけど」という台詞を語る少年の気丈な芝居に胸打たれます。フィクションとは何か、創作とはなにかを自問自答し続けた男の、見事なまでの空隙が椀に満たされている。ある種の畏怖すら湧き上がるのを禁じ得ません。 よくよく見直してみれば、同じように驚かされるものが「一葉裏日記 たけくらべの頃」には潜んでもいます。 何ら家具らしきものがない父子の住まいが最初に描かれ、少年が食事する際に食卓代わりにしたものはその大きさと手の行った造りから父親の左官道具の入った木箱に違いなく、愛するおんなを喪った男の茫然自失の有り様をあぶり出しているのです。その後、場面転換を経て再度その部屋が登場すると、いつの間にか妻の位牌を載せた小箱が片隅に産まれ、また、少年の背丈に見合った小さな机も明るい窓辺で見つけることが出来るのです。酔った背中で子供の声を受け止めながら、少しずつ少しずつ回復していった男の変化が一切の身体的な表現を用いることなく、さりげなく顕わされています。筆先の囁きが控えめに耳朶を打ち続ける、そんな抑えに抑えた上村さん晩年の秀作ですね。 見せることと見せないこと、それを読み取れるか読み取れないか、漫画というジャンルを決して侮ってはいけませんね。雨、雲、虹、すすき、あぜ道、砂浜、海風、待宵草──。夜道、屋上、星空、アスファルト、雷鳴、雷光、暗雲、粉雪──。情念を代弁するヒエログリフとして様々な物象が登用されてあります。いわんや味噌汁においてをや。 さてさて、いよいよですね。皆さんも僕もひとつ年を取りますね。 けれどどうでしょう。僕はここに至って年齢を重ねていくことに嬉しさを感じています。もう絶対に若い頃に戻りたいとは思わないな。これを読むひとに哀しいことがないように、辛いことがないように祈る気持ちに嘘はありませんが、けれど、年をとることは哀しいこと、辛いことではなくって素晴らしいことだと信じます。僕にとってもあなたにとっても、なくてはならない大事なことだと信じます。 良き年を迎え、良き年齢を重ねてください。 (*1): 「一葉裏日記 たけくらべの頃」 上村一夫 1984 「上村一夫 晩年傑作短編集1980-1985紅い部屋」 小池書院 2009所載 (*2): 「ドガ・ダンス・デッサン」ポオル・ヴァレリィ著、吉田健一訳 新潮社 1955 (*3): http://miso-mythology.blogspot.com/2009/12/1986.html
この週末は小旅行をいたしました。いつもと違って予定をあえて組まずに来ましたから、こころも身体もずいぶんとゆったりと過ごせました。 ホテルの19階の部屋から見下ろす街は、思いのほかこじんまりして見えました。年齢と共に感動というものは薄まっていき、穏やかな受容ばかりの毎日になっていく、そんな感じかな。いかんイカン、元気をもらうために此処まで来たのに最初から縮こまってはいけないイケナイ。 これは朝の9時30分の光景を写したものなのだけれど、逆光で絞り込まれて暗くなっていますね。かえってそれで上の方の、この白いところがお日様だと解かるでしょう。もう随分と宙に登っていて、さらにゆるゆると飛行船のように浮上を続けているところです。 こんな年齢になって初めて見たような気がするのだけれど、そんな高い位置に太陽がまばゆいにもかかわらず、地平線はひとすじの帯を流したように朱に染まっているのでした。 日の出や日没直後に地平線の奥の奥、さながら地底から天空へと差し出されたような光が産みこぼす、おごそかな鮮血の時間に何千、何万回も足を止め、僕は紅蓮の空を見ては来ましたが、遙か頭上から差し出された光で街だけが紅く染まっていく光景があるなんて知らなかった。 嘘うそ、何万回も夕焼けは見れないよ。僕の年齢に365をかけたところで大した数字にもなりません。半分が晴れた日で、その半分に外にいて空を見上げていたところで、さらに運良く目に飛び込んだろう夕焼け空など千回程度に決まっています。 まあ、ようするに人間は達観や諦念、先入観に埋もれながら暮らしていて、実は人生をよくよく見切ってなどおらず、したがってまだまだ知らないことだらけなんだ、ということだね。 傾いだ光が大気を切り裂いていくときに浮遊する粉塵や水蒸気にて拡散し、紅い光だけが選びとられるが如く滞留する、それが夕焼けであり朝焼けである訳だから、天空に駆け上がりながらも同様の現象は起きるのが確かに理屈。 足元の街をざんざんと斜めの陽射しが突き刺す。そこに暮らし憩う人びとの吐息と、窓々から立ち上る湯気と、夢や不安を載せて走る車の排気で拡散されて、紅く紅く街を染めていく。僕たちの一日は気付くか気付かないか分からない、そんな朝焼けに彩られて始まっている。 ちょっと素敵。 公園のベンチに座って池の鴨を眺めていたら、偶然隣りに座ったカメラおじさんと仲良くなって蛍石レンズの話も聞けたし、逢いたいと念じ続けていた人にもようやく逢えて、とても愉しく御飯もいただいた。 美術館の性と生と聖に関する展示も、じわじわじわりと胸に迫って来るものがあって、とても得難い時間にもなったと振り返っているところです。 ありがとう、そんな気持ちが本当にあります。ありがとう。
夕食はイカの刺身を中心にしたものだった 野菜の煮物が少々と卵焼は皿にペタンと一枚 はりついているだけで 刺身は薄くすけてみえそうなものだった それらを少年が一ツ一ツ無言で運んできた ☆ ☆ ガチャン ☆ カラカラ 味噌汁は鍋ごと運んできた 私「きみ シャモジを落としたみたいだね 洗ってこなかったみたいだね そうだろ! やりきれんなア もう 風呂にでも入って寝ちまおう」(*1) 最近、漫画家のつげ義春(つげよしはる)さんに対する認識をすっかり改めさせられました。「ねじ式」(*2)、「紅い花」(*3)、「沼」(*4)といった幻想的な作品群と、等身大の日常を淡々と描いた「義男の青春」(*5)、「懐かしいひと」(*6)などでつとに知られたつげさんなのですが、迷走する世相とは隔絶して見える素朴な描線と柔和な語り口、多くても年に数本しか発表しないという寡作の人ということもあって、僕は“産みの苦しみ”を感じ取れずにいたのです。 評論家との間で、実に半年を費やしてのロング・インタビュが為されました。それが分厚い上下巻の単行本(*7)に収まっていて、就寝前や出張の移動時間に読み進めていたのです。ようやくにしてつげさんの作品が苦闘の産物だったことを知りました。まったくもって迂闊、創造することの道程に例外はなかったのです。 じりじりと緊迫する行程を記憶とメモから丹念に掘り返して吐露していくのですが、言葉は説得力に満ち満ちているし、何よりも驚かされたのは氏の多弁さです。のほほんとした作風から想像し得ない饒舌に息を呑みます。どんなに穏やかな風合のものに仕立てていても、“作り手”というのは火花のような激しいものを抱え込んだ存在なのですね。驚きがあればこそ読書は愉しいわけですが、それにしてもこれだけ予想を裏切られると嬉しさを遥かに越えて何やら恥ずかしくなってしまいます。 さて、そのインタビュのなかで自作「リアリズムの宿」に触れて、つげさんは味噌汁(正確には付随する道具なのですが)に少し言及しています。物語のあらましはこうです。商人宿のわびしさに憧れる主人公がたどり着いたのは哀しいまでに貧窮し切った場末の民宿でした。こりゃいかん、と逃げ出そうとする主人公はおかみの必死の懇願に負けて一夜を過ごすのだけれど、予想以上にあれこれ散々な目に遭ってしまうのです。宿の少年の手伝う配膳はお世辞にも誉められたものではありません。部屋の手前の廊下で騒々しい音がいたします。何か床に落としたに違いない。 Youtubeに断片を写し取ったものがありますね。合わせて貼っておきましょう。未読のひとも感じは掴めるのじゃないかしら。 こういう宿屋に事実泊まってしまったけれど、 こんな悲惨な父親がいたわけじゃないです。 でも、男の子が味噌汁のしゃもじを洗わなかったのは 事実です(笑)(*7) えっ、重箱の隅を楊枝でほじるのもいい加減にしろ、あなたはそう仰る。同じように僕だって思っていましたよ、落としたしゃもじを素知らぬ顔で届けた少年に焦点は合っているのであって、特段記憶に値する味噌汁はこの「リアリズムの宿」には描かれていない。そう読み取っていればこそ僕はものの見事に失念してしまい、これまで何ら取り上げずにいました。 しかし、上に掲げたインタビュ本を読み終えてみると、「リアリズムの宿」には確実に味噌汁が描かれているし、それもかなりの作為を秘めたものだと言い切れる。 試しに少し大きな書店に足を運んで文庫版の全集をめくってご覧なさい。紀行であれ下宿生活であれ、はたまた同棲の顛末であれ、日常を淡々と描く物語内の食生活に目を凝らして見るならば、そこには味噌汁が不自然なぐらい見当たらない。そうか、なるほど作者は味噌汁を“描きたくない”のだと解かるのです。畳の敷かれた小部屋、汗を吸って重くなる下着、太陽光を弾く白い路面、薄い影をしっとり落とすパラソル、おんなの流し目、男の凝視──日常風景をとことん描写しながらも味噌汁の登場を徹底して回避していく。その瞬間の作者の意図に想いを馳せるとき、つげ義春さんの創造する世界とはすべからく“非日常”だったのだと気が付きます。 実際の商人宿となりますと、いい宿屋ってないんですよね。 実際はかなり生活臭さが漂っているんです。本当は、そういう 生活臭さが漂っているというのは自分としては好きなんですがね。(*7) 本当は、好きなのだけれど、“生活臭”の排除こそが己の漫画作術の原則、あえかな情感の生育に繋がるのだと信じ、普段あるべき味噌汁が巧妙に排除されていくのですね。もわもわと“生活臭”を湯気立てる味噌汁を描くことで世上からの遊離感や旅情が破壊されるとすごく警戒している。 ならば「リアリズムの宿」の唐突な味噌汁の登場は何だったかと言えば、これは僕の推測以外の何ものでもないのだけれど、事実を足掛かりとして物語がぐんぐん立ち上がってしまった、普段は排除に努めていた味噌汁なのだけれど、もう元に戻せない、こうなったら、ええい、ままよ、“生活臭”をどんどん詰め込んでしまおう、ぎゅうぎゅうの“生活臭”が飽和状態を越えてしまえばリアリズムは急速に損なわれるのが道理だろう。その先には“非日常”が再度頭をもたげてくるにきっと違いない──。そんな感じの裏技だったのじゃないのかな。 つげ義春さんは味噌汁を原則的に描かない、それは味噌汁を強く意識することの裏返しなんですね。生活の場において味噌汁が濃厚な存在感を勝ち得て、ひとりの天才の活動を左右していたことを証し立てています。 形になっていないからといって、存在しないということではない。人の世の諸相や精神の深い淵にはよくある話です。意識し続けていればこそ、かえって結晶化ならぬことってまま在りますよね。まあ、きっとそういう事です。 さて、いよいよあと半月程で2009年も終わりです。 気持ちにトゲを残したままで年を跨ぐのは、なんとも息苦しいものです。もちろん深く根を張り抜けないトゲは有るのだけれど、そっと引き抜けるものは外して身軽になりましょうか。心をアーティキュレイションしないと! 来週以降はほんとうに身動きが取れそうもないから、欲張った気持ちになります。せかせか動くとろくな事はない訳ですが、まあ頑張ってみましょう。僕も転ばないように気を付けますが、どうか皆さんも足元に十分注意してください。階段なんかで蹴躓いて宙を飛んだりしないようにどうかお願いいたしますね。 (*1):「リアリズムの宿」 つげ義春 「漫画ストーリー」(双葉社)初出 1973 (*2):「ねじ式」 つげ義春 「ガロ増刊号・つげ義春特集」(青林堂)初出 1968 (*3):「紅い花」 つげ義春 「ガロ」(青林堂)1967 10月号初出 (*4):「沼」 つげ義春 「ガロ」(青林堂)1966 2月号初出 (*5):「義男の青春」 つげ義春 「漫画サンデー」(実業之日本社)初出 1974 (*6):「懐かしいひと」 つげ義春 「終末から」(筑摩書房)初出 1973 (*7): 「つげ義春漫画術(上・下)」 つげ義春/権藤晋 ワイズ出版 1993