2010年6月1日火曜日
花めぐり~日常のこと~
山桜もすっかり散り逝きて、こんどは色とりどりの花が我先にと咲き乱れる、そんな季節になりました。
隣りに住まう老婦人は生け花の師範です。だから、この時期のお庭は植物園とも見まがうばかりの艶やかさで、僕のような無粋な男でもついつい心奪われて歩みを止めてしまうほどです。先日の訪問の際にもずいぶんと目の保養をさせてもらいました。
強烈な色彩を矢のように放って寄越す鉄線(てっせんclematis)や都忘れ(China aster)に交じって、奇妙なかたちの花があちらこちらに立ち上がって見えます。これは何という花なのかと問うと、婦人はそんなことも知らないのかと幾らか呆れた顔ながら熱心に説明をして下さいました。日本名では“苧環(オダマキ)”と呼ばれているそうな。
帰ってから調べてみれば、“苧環(オダマキ)”とは“麻糸を空洞の玉のように巻いたもの。おだま”とあります。機織(はたおり)の道具に糸を巻きつける四角もしくは六角形のものがありますが、その器具の名前でもあるらしい。また学名の方、Aquilegia(読み方はアクイレギア、アクレギアなど)の由来は漏斗(じょうご)や鳥の嘴(くちばし)から来ているようです。そのような多彩な連想を誘うような不可思議なかたちをこの花はまとっている。
ウェブで見つけた説明文を引用します。──「姿・形 花は5枚の萼(がく)と筒状の花びらからなっており、がくの後ろ側には距(きょ)が角のように突き出ています。」(*1)
大きな“がく”がぶわっと大きく開き、内側の花とで折り重なって満面の笑みを浮かべている。その笑顔の裏側には“きょ”が吹流しのようにシュルシュルと突き立っているのです。極めて立体的な構造になっていて、そのパーツのいちいちに隙間が生じているために華奢で不確かな感じも受けますし、また、本来バラバラにあるものが何か見えない磁力のようなもので、シュッ、と引き寄せられたような奇妙な錯覚ももたらされます。庭木や花に詳しいひとには何ら珍しいものではないのでしょうが、僕にはひどく新鮮でした。
正直に書き記してしまえば、(もともと華にはそんな性質があるのだけれど)密やかな男女の房事を障子の隙間から覗いてしまったような、そんな妖しい発光が目の奥に宿りました。二重になった“がく”と“花”が積極的にあるイメージを招き寄せるわけですが、加えて宙空にすらりと伸びた“きょ”が寝台にて入り違いに重なる二対の脚に見えてしまい、気持ちを揺さぶる訳です。きわめてエロティックな形を具えています。
僕のそんなハシタナイ妄想は、婦人の説明を背中に受けてさらに勢いを得ます。このオダマキは繁殖力が旺盛なのよ。こちらの塀沿いに赤、こちら側に白とこんなにも離して植えておいたのに、ほら、ここに生えているでしょう、赤と白と色を交えたのが。どんどん交雑して増えていくのよ。
惑ってばかりの僕のような人間は、現実を忘れてふわり浮遊を始めてしまうのでした。白い陽光を全身に浴び、また蒼い月の光に染まりしながら、あの異様な肢体を具えた花が盛んに交雑を繰り返していくことを想うと、素直に驚嘆し、胸打たれるものがあるのです。
生きるということの根幹にあることは、そんな原初的な勢いなのでしょう。遮二無二生きていく。こころと身体を深く重ねて子孫を産み育てていくことの、オダマキのほとばしるような “生きていく勢い”に圧倒されてしまうのです。
花の名前とその由来、花言葉、花弁の色かたち、甘ずっぱい匂い──。そんなことにはこれまで一切執着しなかったのに、最近は立ち止まって凝視する時間が増えています。加齢や生活の諸相の変化が、これまでとは違った切り口で世界を捉え直させようとしている。十年周期で細胞は入れ替わると言われますが、僕がもう一人別な僕になろうとしている、そんな感触が少しありますね。
物言わぬ植物や花に共振し、そこに人生を重ねようとする。動物の時間から植物の時間へと針が進んだのかもしれません。
例えばこの前の日曜日だったのだけれど、友人の薦める山奥の湖に独り車を駆って遊びに行ったのですが、そこでも植物はこれまで以上に雄弁となって僕に囁くものがありました。頭上に浮かんだ雲が落とした影によって少しずつ変幻する湖面の、静謐で繊細な色合いにうっとりしつつ、また、カーステレオから悠々と流れるエリック・サティに全身を包まれての、誰にも気がねしなくていい小旅行は生きる歓びを強く認識させてくれたのだけれど、ハンドルを操作しながら気になって気になって仕方ない「色」が時折視界に飛び込んでくる。
劇場の緞帳のように四方を遮る緑色の木立のなかに、ぽつりぽつりと野生の藤(フジ)が咲き誇っているのです。その紫の色がしきりに僕を手招きする。ゆらゆらと車を路肩にとめて、僕は野原を踏み分けて近づくことになります。小川沿いの、幾らか陽射しの強い場処でした。細い枝を左右に広げた藤が一本佇んでいて、数珠繋ぎになった紫の花弁をたくさん頭上から落としている。
それは森の奥の小川で水浴する美女に出逢った旅人のような塩梅であって、夢のなかをさ迷う心地なのでした。 こういう非日常の一刻は嬉しいですね。
しかし、それ以上に面白いと感じたのは藤の生き方の別な局面です。杉なのか檜なのか、天を衝いて伸びる巨木に藤が寄り添い、蔦を絡めて一心同体となっている。藤の花びらの紫は雄々しい緑の枝葉をくまなく飾り付け、まるで一本の木がすべて紫に染まったようなものさえ在る。
まったく異種の、男とおんな以上にも違ったもの同士が絡み合い、風雪を耐え抜き、同じ雨に打たれ、同じ虹を見上げ、同じ鳥のさえずりを聞きながら、大いなる何かに与えられた宿命を懸命に明日へと繋いでいます。
土底から吸われて上へ上へと駆け上っていく樹液のあえかな流動音を、彼らはひっそりと感じ合っているものだろうか。運命共同体となりながらも自律した仲なのか、それとも依存する依存された間柄なのか。互いを重たく感じるものだろうか。その重みは歓びだろうか、それとも苦しみが伴なうものだろうか。
人とひとが出逢い、会話し、同じ歳月を過ごしていくことの不思議をその巨木と藤の、肌と肌を重ねる様子に二重写ししながら、感慨深くしばし見上げてまいりました。
いい休日でしたよ。
下の写真はトコロ変わって、現在改修中の東京駅です。屋根が完全にスケルトン。鉄骨を組み変えての大仕事ですね。第二東京タワーもいいけれど、これって実は凄いもの、百年に一度の光景を目撃してるのかも。こちらも有意義で忘れられない生きた時間でしたよ。
(*1): http://www.yasashi.info/o_00001.htm
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