2010年6月2日水曜日
村上春樹「1Q84 BOOK3〈10月-12月〉」(2010)~なぜかいつもうまかった~
そのようにして海辺の「猫の町」での天吾の日々が始まった。
朝早く起きて海岸を散歩し、漁港で漁船の出入りを眺め、それ
から旅館に戻って朝食をとった。出てくるものは毎日判で押した
ように同じ、鯵の干物と卵焼きと、四つ切りにしたトマト、
味付けのり、シジミの味噌汁とご飯だったが、なぜかいつも
うまかった。朝食のあとで小さな机に向かって原稿を書いた。
久しぶりに万年筆を使って文章を書くのは楽しかった。(*1)
実を言うなら、読み始めた当初は困惑するものがありました。行を目で追いながらもあれこれ思い返すものがあって、集中するのを妨げてしまうのです。
僕には若い時分からすこぶる敬愛し、丹念に読み続けていたひとりの作家がありました。けれど“最後の小説”と冠した物語を上梓してしばらく後に、臆面も無く再度執筆活動に入ったことから気持ちがどうにも乖離してしまって、以来新聞紙面に寄稿する小文を眺める程度に興味はとどまっています。また、故郷の蒼い星を守るために捨て身の突撃を為し、無惨に息絶えていく宇宙飛行士を主人公とする漫画がかつて在ったのだけど、これも劇場大ヒットに乗じる形にて数ヵ月後にはブラウン管で“生き返って”しまったものでした。 「1Q84 BOOK3」は一度区切られてしまった想いをなし崩しにして始まる点で、それ等ととても似ているのです。
小説であれ映画であれ、根幹にあって無視出来ないのは売上げです。ファンの一部を犠牲にしても部数を伸ばし、興収を上げてようやく一人前。器用に、そして逞しく泳いでいく商売上手のそんなしたり顔を、僕ほどにも年齢を経てしまった大人が疎(うと)んじ、ぼやくのは子供じみていることは百も承知なのだけど、当時の苦さ、渋さを口腔に再現してしまって落ち着かなかった。
けれども、ようよう読み通して静かに頁を閉じてみるならば、顛末は十分納得されるものだったし、提示される情景のいちいちは気高く爽やかなものがあって、決して不快な澱(おり)が胸底に沈み込んではいかない。まあ、好いように作者に弄ばれている気もしないではないけれど、幕引きの直前に融合を目指すふたつの魂の描写には、気持ちを捕らえられて胸踊り、また、素直に胸に来て、随分と嬉しかった。
僕の人生を左右する決定的な何かを含んでいた──なんていうロマンチックな言いぐさは、年齢的にもはや似合わないけれど、この年齢なればこそ解かるところもあったし、実生活のあれこれのモノの見方に陰影が少し増したような清清しく澄んだ感覚があって、読後感は上々でしたね。 二つ三つ若返ったみたいです。
さて、以前もこの場にメモした訳だけれど、このBOOK3においても相変わらず“味噌汁”が顔を覗かしてくれるのです。これまではアパート等でこつこつ自炊する際の献立にまぎれていたものが、いずれも戸外で供されていることがちょっと興味深いですね。“境界”に立ち現われるのが“味噌汁”とするならば、天吾という青年の抱える境界線が大いに揺らいでいた証拠かもしれない。
階段を降りて食堂に行くと、そこには安達クミがいた。田村
看護婦の姿はなかった。天吾は安達クミと大村看護婦と同じ
テーブルで食事をした。天吾はサラダと野菜の煮物を少し食べ、
アサリとねぎの味噌汁を飲んだ。それから熱いほうじ茶を飲んだ。
「火葬はいつになるか?」と安達クミは天吾に尋ねた。(*2)
実際の僕たちの食卓においては味噌汁の出現回数は徐々に減っている感じが明瞭なのだけれど、若者がこぞって読み進めるこの話題のベストセラー本に、その香りと旨味がしかと送り込まれている。それも否定的にではなく“うまかった”と評され、また、とても意味深く精神的な場面にも座がそっと設けられている。有ってもなくてもどうでもよいモノではなくって、物語の構築に不可欠な情景として明確な意図のもとで味噌汁の椀が顕われている(ように思う)。
“シャルル・ジョルダンのハイヒール”なんかと一緒にシジミやアサリの味噌汁が組み上げている“1Q84”の作品世界がいじらしくって、素敵なバランスだな、と思うんです。他愛のない事なのでしょうけれど、なんか嬉しいから書き残しておきます。
(*1):「1Q84 BOOK3〈10月-12月〉」村上春樹 新潮社 2010
第3章(天吾)みんな獣が洋服を着て 57頁
(*2):第21章(天吾)頭の中にあるどこかの場所で 447頁
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