2011年5月27日金曜日
江國香織「「おみそ」の矜持」(2010)~じっと、ちゃんと、~
「おみそ」でいることは、私の性に合っていた。それはおそらく、
私にとって、周囲となんとか折り合いをつける術だった。
以来、いまに至るまでずっと「おみそ」だ。(中略)
こうなったら「おみそ」の矜持を持ち、それを貫くほかにない。
「おみそ」の矜持とは何かといえば、それは「最後まで観察者たること」
だと私は思う。ときどき参加させてもらえるとしても、それはほんとうの
ことじゃない(子供の遊びで言うところのノー・カウント)。「おみそ」は
そこにいるのにいない者であり、その本分は、あくまでも世界の観察に
あるのだ。じっと、ちゃんと、観察し続けることに。
小説家は、だから「おみそ」向きの職業である。(*1)
会合が7時過ぎに終わり、予定していた映画のレイトショーまでちょっと時間が出来ました。幹線道路沿いの書店に飛び込み、ふわふわ回遊して過ごします。新刊コーナーで後ろ髪引かれる題名の本を手に取って覗いているうちに、江國香織(えくにかおり)さんのエッセイ集と出会いました。食べものをめぐっての小文を一冊にまとめたものです。
料理レシピ本や食べ歩きのリポートを否定するのではありません。写真にときめき、涎(よだれ)を誘い、胃袋を刺激して楽しいのだけれど、こっそりと下意識に左右したり、魂を官能から情動へと橋渡しする、そんなやや奥まった食物(味噌、醤油)の役割を僕は追い求めてしまっている。だから、この手の食べもの系エッセイは自然と避けているのだったし、普段は買い求めてまで読むことはありません。
目次のなかに「おみそ」とあって、そんな訳であまり期待せずに頁を開くとなかなかどうして悪くない内容だったのです。味噌を引き合いに出しながら江國さん自身の記憶や哲学が述べられていて、これは名文ではないかと思いました。
「注文したお味噌がきょう届いた」。江國さんはこんな言葉で口火を切ったのでした。気に入りの味噌が無くなると困るから、時折取り寄せなければならないが、この取り寄せがなかなか難しい。そんな不器用な自分を振り返り、「子供同士で遊ぶとき、年下で、みんなと完全におなじことができず、いろいろと大目にみてやる必要のある子のことを、「おみそ」と呼んだ」ことを唐突に思い出します。支離滅裂なんて書くと叱られそうですが、イメージが横すべりして次々と発光していく感じがちょっと可笑しい。
どんどん連想は膨らみます。「おみそ」が「みそっかす」の短縮形と知らぬうちは意味がまるで分からなかったと振り返り、いつしか当時の味噌屋の店頭風景が頭に浮かび、「おみそ」という言葉が身近にあったがゆえに味噌自体が好きで、なにかしら親近感を抱いていたと懐旧します。
そうして江國さんは今の自分は「おみそ」ではないか、友人知人より許されて共に居させてもらう、そんな一歩半程度距離を置いた自分の性分は「おみそ」になっていると考え、けれど、それを爽やかに肯定してみせるのでした。引用したのは締めの部分ですが、「おみそ」を語ってここまで凛とし、誇らしげなものを僕はこれまで読んだ記憶がない。
もちろん、ここでの「おみそ」は味噌でも味噌汁ではない。「みそっかす」という愛称と蔑称の中間にある愛らしく、妙にこころに響く呼び名なのだけど、僕にはそれ以上のイメージが湧いて止まらないのです。“味噌”という地味で目立たない存在が、料理においても、さらには日本という国にあっても確かに「そこにいるのにいない者であり」、その本分は、「最後まで観察者たること」ではないか。世界を食卓や台所からそっと観察して、尽きぬ想いを見えない言葉に綴って届けている「小説家」ではなかろうか。
辞書で“矜持(きょうじ)”を引くと「自負、プライド」とあります。まなざしに強さと厚みをもたらす素晴らしいタイトルですね。元気をもらえた気がします。
(*1):「「おみそ」の矜持」」 江國香織 初出は「週刊文春」号数は把握していません 「やわらかなレシピ」 文藝春秋 2011所収 引用は115-116頁
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