2011年6月2日木曜日
高野文子「黄色い本-ジャック・チボーという名の友人」(1999)~買い行ったの~
留美「実(み)ッコちゃん おかえりー!」
実地子「たらいまー 留(る)-ちゃん」
留美「ラーラちゃん 借りてます」
実地子「どうぞ」
留美「伯母ちゃん 醤油買い行ったの 留―ちゃん るすいしったの」
実地子「そか」(*1)
高野文子(たかのふみこ)さんは、僕にとって気になる書き手のひとりです。
うずたかく堆積なった生活がまずあり、そのぱっとしない地層の間から飾り気のない心根(こころね)がそっと顔を覗かせる。憤懣であったり、憧憬であったり、羨望、諦観、覚悟というように場合場合で異なるのですが、希薄ながらも鮮烈な心情のかずかずをさりげなく提示していく高野さんの技量には定評があって、寡作ながらも根強いファンを形成していますね。
高野さんのお話の際立った特徴のひとつに、特定の日用品(マヨネーズの容器だったり、電気ポットであったりで特別なものではない)に気持ちがつよく引かれて立ち止まってしまい、視線を大量に注いでいくくだりがあります。双眼鏡を顔面にぺたり貼り付けて家のなかを歩き回るような感覚です。読んでいるこちらの目も丸くなり、つい息を止めてしまう、地球の自転すら止まってしまうような瞬間があるのです。それが妙に色っぽい。
おおらかなフェティシズムというか、スケベこころのない窃視(せっし)症というか、とにかく不思議な凝視が劇中に訪れる。僕たちの周りを構成している“モノ”に執念深く挑んでいる気迫があって、そんなこだわり抜く高野さんの筆先が“醤油”を描いて何事か語るのであればきっとそれは傾聴に値すると思うのです。
作品「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」の中には「醤油を買いに行く」という台詞がありました。学校から帰宅した主人公を姪っ子が玄関まで迎えに出ます。そうして舌足らずの口で、懸命に家族が外出していることを伝えるのでした。伯母ちゃんは醤油を買いに出かけたのです。
色眼鏡をかけて見ているせいもあるけれど、“醤油を買いに行く”という行為と響きには他の買い物にはない、平坦でのどかな印象が寄り添って感じられますよね。最近では変り種の“醤油”、たとえば「たまごかけ醤油」や「だし醤油」といったものもたくさん開発されていて、その手の他の食材や香辛料を付随させたものとなれば話は違って来るのですが、“単なる醤油”を買いに行くという動きはのっぺりとなだらかなイメージを瞳の奥に映じていく。
洋服や靴を買いに行く、化粧品を店頭で選んでいく際に去来する切なさ、華やかさに到底「食べもの」は追いつけないわけですが、そんな食べものでも、たとえばオレンヂ、アイスクリーム、パスタを買って来る、旬の魚を選択するといった事々には尾ひれが付いてひらひら舞い立つイメージがある。誰と食べるのか、どんな匂いがするのか、歯ごたえはどうか、脂はのっているのか。幸せなのか、壁に突き当たっているのか。昼間なのか夜なのか、食べてからどうなるのか、何が起きるのか、たちまち連想は拡がっていき、台本の出だしぐらいは書けそうです。
“醤油を買って来る”ということは次元がやや違っている。ひとの多くはそのまま醤油を飲んだりしません。するのは一部の狂ったマニアか生真面目な業界人だけであって、当然ながら熱燗にしたり水割りにロックアイスを浮かべて楽しんだりはしない。醤油を誰と味わうのか、どんな匂いがするのかなんて考えたりしない。
幸せかどうかをやんわり推し量るのにも向かない。どんなときにも居座るのが“醤油”だから。婚礼の席でも葬式でも醤油は卓上に置かれてしまう。昼間なのか夜なのか、これも関係がない。寝つけにひと匙(さじ)醤油を舐めないともう駄目なの、わたし、とても寝れないのよ、へんねえ、困っちゃうわ、どうしても毎晩欲しくなっちゃうの、なんて人はいません。朝から晩まで手元に置かれてちょこちょこ触られて節操がない。つまりは連想の口火にならない、醤油単体ではドラマが起動しづらいのです。
高野さんの「黄色い本」をむりやり簡潔にまとめれば旅立ち、自立の物語と言えます。学校や家庭といったゆりかごから労働の場へと追い立てられる刹那の、言い知れぬ淋しさ、苦しさ、焦燥が描かれていました。主人公の佇む境界線の右と左に広がったふたつの世界をコントラスト鮮やかに描く上で、“醤油を買いに行く”行為はある役目を担っていたのでしょう。
それはたとえば“大いなる停滞”、“変わらぬことがもたらす安息”、“思案せずにいられる嬉しさ”、“成長も老化もない静止した空間”“無垢であることの許される時間”というもの。伯母ちゃんが花を買いに出かけてしまえば、変化が生じて世界が揺らいでしまう。「醤油を買いに行く」という行為はかなり意図的なものだと僕は考えています。
醤油の本分とは、理想の醤油とはそういうものかもしれないですね。模様替えしない、整頓しないでいい部屋も確かに人生には必要みたいです。そういうのって、わりかた大事でおろそかに出来ないのです。
(*1):「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」 高野文子 同名単行本所収 講談社 2002。初出は「アフタヌーン」1999年10月号
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