2011年7月30日土曜日
山田太一「舌の始末」(1975)①~そもそも汁という言葉が~
味噌汁(みそしる)という言葉が、私はどうも気にくわない。
朝のさわやかさがない。実も蓋もないという気がする。鼻汁を連想
するといえばいいがかりをつけているようだが、そもそも汁という
言葉が嫌いなのである。「おみおつけ」といいたい。しかしいま、
会話ならともかく文章の中で「おみおつけ」と書くと、やや普通で
ない印象をあたえるような気がする。味噌汁が大勢を占めている。
「おみおつけ」にこだわると、偏屈という感じになる。(*1)
仕事から帰ってテレビを点けると、ちょうど衛星放送で映画(*2)が始まったばかりでした。山田太一(やまだたいち)さんの幽霊譚を原作としていて、これは封切りの際に確か観ています。
はてさて、どこで観たのだったか──。調べてみれば二十三年も前に作られている。当時働いていた郊外の町の古びた映画館だったか、それとも電車をわざわざ乗り継いで出かけた街の大きな劇場だったものか。人の多く行き交う気配をおぼろに感じはするけれど、詳細はもう蘇えっては来ません。人間の記憶なんてあやふやで儚いものですね。人生の転機となった瞬間や既成概念をぶち壊してまばゆい覚醒をともなうものでもなければ、どんどんと霞んで消えてしまう。
その頃の僕は経験値がまるで低かったものだから、映写幕からばあっと反射してくるものは当然少なくって、特段の感慨をこの現代の怪談噺に抱くことはなかった。二十数年を経て再度こうして向き合ってみると、今度はあろうことか食い足りなさを覚えてしまう始末。映画や小説の色艶(いろつや)、膨らみというやつは、送り手と受け手の“噛み合わせ”次第だとつくづく感じます。
もっとも興味深く、面白くは観たのです。なにより大震災を経たばかりだし、弔いは身近に連なっています。生命を奪われる瞬間であるとか人生の意義とか、人がひとを葬送する意味なんかをあれこれ考えながら観れましたから、相応に密度ある時間だったのだけど、このところ“しがらみ”の茂り具合がぐんと増してきた我が身には、劇中の風間杜夫さん演ずる四十男の無責任感、浮遊感がやや鼻に付き集中を妨げるものがありました。
いつの時代にも心労の種、苦しみの河は日常に潜みます。誰ひとり得心しない、矛盾や不満を抱えながら死んでいく、それが世界の内実じゃないかとも思います。この映画の作られた頃にしたって悩みや哀しみが世間に渦巻き、むなしさは人のこころに巣食っていたはず。僕にしたって例外でなく、鬱々として苦しい毎日でした。だから、僕たちのいま住まう環境をいたずらに特別視するのは、傲慢なことにきっと違いない。
しかし、それにしたって、ここまで閉塞感に包まれた現況、半端でなく未来を覆う“しがらみ”の大量発生というのは強大なものがあって、人間の視線ってやつをすっかり変質させてしまうように感じます。こころの奥底に広がるが池はさわさわと波立ち、昏い光に染まってしまう、水面(みなも)を寄せ渡る風はどこか微妙に焦げ臭い気がしてならない。
過去に林立する創作劇の根幹を揺さぶり、場合によっては鋸(のこぎり)引きして蹴倒しかねない、そのぐらいの心境の変化が訪れている。赤々と目をつらぬく落ち日と、蒼白き雷光にでろでろと照らされながら黄泉の境を越えていく、哀れないくつかの魂を映画の奥に看取りながら、世界が新たな局面へ足を踏み入れた実感を想わないではいられませんでした。
話が余計な方へと流れました。そうそう、山田太一さんのことでしたね。若い頃に綴られたエッセイのなかで「おみおつけ」に言及しているくだりがあります。上に引いた箇所で山田さんは、「おみおつけ」が僕たちの深層に不潔感や貧乏臭さ、不味さといった負の印象を刻みがちな理由のひとつは“味噌汁(みそしる)”という響きにあるのではないか、と指摘しています。
味噌汁を人間の“汗(あせ)”と絡めて書いたもの(*3)はありましたが、ずるぺちゃとした“鼻汁”を臆することなく並列してみせるのだから、さすがに山田さんです。なるほど「汁(しる、じる)」という響きはあまり僕たちのなかで“さわやか”なイメージを結ばない。郷土料理にはナントカ汁と呼ばれる鍋が多いから、それこそいいがかりをつけるなと叱られそうだけど実際そうなんだから仕方がない。
顔から同じように流れ出る粘液でも、唾液(だえき)と鼻汁(はなじる)では雲泥の差があります。長く情熱的に接吻を交わした果てに唾液まみれになるのはうっとりとして良いばかりですが、鼻汁まみれになるのは厭です。不思議ですね、鼻くそでなく鼻汁ならば、成分だって唾液とそんなに違わないでしょうに。うまい“つゆ”に舌鼓を打ってもそりゃ良かったねで済むけど、うまい汁(しる)を吸うと軽蔑されて後ろ指を差されたりもしますね。
味噌汁に仮託される人情の機微は実に多彩であり、複雑です。これに対して醤油をベースとする“お吸い物”はドラマのなかでなかなか活きて来ない。もわもわとした濁りや排泄物に近似した色、汗のような匂いが人間の混沌とした内奥ときつく線を結ぶのかもしれません。
山田さんに刃向かうつもりは毛頭ありませんが、こと創作の世界においては「おみおつけ」でなく「みそしる」の方がずっと良いように僕は感じています。
(*1):「舌の始末」 山田太一 1975 「路上のボールペン」冬樹社 1984 所載。手元にあるのは 新潮文庫 1987
(*2):「異人たちとの夏」 監督 大林宣彦 1988。最上段の絵は劇中登場する前田青邨(まえだせいそん)の「 腑分け」
(*3):「イン ザ・ミソスープ」 村上龍 1997
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/07/1997.html
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