2011年7月30日土曜日
山田太一「舌の始末」(1975)②~味ごときでごたごた言っている~
微妙な味覚というものに、私は長いこと反感があった。
味についてごたごたうるさい事をいう男を見ていると、目の前で
刺身にケチャップをつけて食べたくなるというようなところが
あった。それは、あきらかに戦争中の初等教育、戦中戦後の食糧
難がはぐくんだもので、今でも教科書にのっていた西郷隆盛(さい
ごうたかもり)・従道(つぐみち)兄弟のエピソードなどが、心理
的圧迫としてはたらいていることに気づいたりするのである。(中略)
老女中が箱膳(はこぜん)のようなものに朝飯をのせて持って
来る。その“おみおつけ”がうまくないと従道さんが文句をいうの
である。薄すぎるというような事だったと思う。(中略)
従道さんが文句をつけると、老女中はあやまるのである。今なら
「やめさせてもらうわ」という所であろうが、明治だからあやまる。
しかし、老女中の練達とでもいうか、ただではあやまらない。一言
つけ加えるのである。「お兄さまがなにもおっしゃらなかったので」と。
そこで従道さんは、パタリと箸をおとし「さすが兄上」男子たる
ものがおみおつけの味ごときでごたごた言っているようでは出世し
ないと奮起したというような話なのである。(中略)以後二十数年、
食べ物に文句は言わないぞ、(中略)という気持ちで戦後を生きて来た。
山田太一(やまだたいち)さんが70年代に書いたエッセイから、もう一箇所“おみおつけ”に言及しているところを抜き書きしました。食べることがそのまま生きることに直結し、とりあえず食悦を封じて懸命に腹を埋めることに注力しなければならなかった山田さんたち世代にとって、手の込んだ料理や微妙な匙加減といったものはあくまで人生の二次的な、瑣末な事象であり、男子たるものが軸足を置いて良い場所ではなかった。まずは言葉を尽くした人間同士の交流なり交歓があり、誰もが社会で躍進することを関心の上位に置いていた、いや、そうあるべきだと叩き込まれたのです。
僕はこれまで食べ物と創作世界との関わりについて、ずいぶん意識を傾斜させた時間を過ごしてきました。元々山田さんが描くホームドラマは刺激的に目に映り、気懸かりな作家のひとりとして追跡をしてきたつもりだったのですが、気付いてみれば山田さんの描く世界に味噌なり醤油なりの影はとても薄いのでした。それはご自身が上に引いたような教育を受け、そんな暮らしを実践してきた結果だったのかもしれないですね。
本当を言えば山田さんの言葉はこの後もつづき、“心理的圧迫”に左右される身の上に疑問を抱き、このままで良いのだろうかと押し問答した末に尻切れ蜻蛉のあいまいなかたちで筆を置いておられる。整理しきれぬ在りのままの心を綴っていて、とても人間くさい文章です。
作品世界での味噌、醤油の記述はほとんど見受けられない山田さんですが、内奥には明暗を雑居させた“おみおつけ”が見つかってしまうのは興味深いですね。また、子供たちのその後の暮らしぶりを硬い枠にはめていき、極端に節制することを強い、不満は噛んで呑み下すことを賞賛する戦前、戦中の教育の現場に“薄味のおみおつけ”があったことも、味噌汁と日本人の魂とが癒着する広さ、根深さを思わせて面白い。
ひるがえって僕たちの今をかえりみれば、国中に汚染された肉があふれ、不明瞭で後ろ向きの基準値に即した作物がどんどん流通して食卓へ、学校給食へと販売されていきます。海外のメディアが疑問視する国民のおだやかな沈黙、異様とも言える従順さというものが、山田さんたち世代から、いや、さらにずっと以前からの教育訓練の結果なのかな、なんて想像も働いてしまうのです。
事態は“味が薄すぎる”というようなレベルではないのですから、ひとりひとりが言いなりにならず、“食べ物に文句を言うべき”なのです。疑問や希望を告げるべきときは告げて、日々の“食”をことさら大切にしていかねばならない。
行政や経済のトップに座るのは似たような訓練を経て“出世”した人たちでしょう。数値についてごたごたうるさい事をいう奴を見ていると、目の前で刺身にケチャップをつけて食べたくなるというようなところがあるでしょうが、意に介さず勝手に食べさせておけばよいのです。
毅然として僕たちは食べない、そういう時間がこれから大事になると思いますね。
(*1): 「舌の始末」 山田太一 1975 「路上のボールペン」冬樹社 1984 所載。手元にあるのは 新潮文庫 1987
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