2011年8月16日火曜日
宮崎駿「コクリコ坂から」(2011)~ドボドボ注ぐ~
○コクリコ荘・食堂
開いたガラス戸から、降りて来る人の姿が見える。朝の挨拶。
割烹着姿で釜敷におろした釜から、熱い飯をおひつに移して
いる海。牧村が配膳を手伝う。(中略)
味噌汁を椀にすばやく注いでいく海。
牧村がお盆に移し変えてテーブルに運ぶ。納豆に醤油をドボドボ
注ぐ北斗。
牧村「わあ、またそんなに醤油入れて!」
北斗「これがいいんじゃない」
平然とかきまわす北斗。(*1)
暑さの質感が変わり、網戸越しの夜風が乾いてきました。夢にうなされたのか、それとも捕食者の不意の出現に慌てたのか、蝉が、ぎゃっぎゃっぎゃっ、と不意に大声を立てます。もしかしたら天に召される時が来たのかもしれない。秋の虫がもう盛んに鳴いています。少しずつ少しずつ季節は変わっていきますね。皆さんお住まいの町の雰囲気はいかがですか。まだまだ夏は居座っていますか、それとももう引越しを始めていますか。
そろそろ寝なきゃいけないのですが、仕事の関係で連休を謳歌出来ない僕としてはビール片手の夜更かしが気分転換には欠かせないところがあって、たまにはこうしてズルズルとみっともない文章を叩きたくもなるのです。
先日、公開されて間もないアメリカ映画(*2)を観ました。ブラッド・ピットが父親を演じた話題作ですが、遅い時間のレイトショーとは言え、わずか三人しか観客がいないのが不思議でした。まあ、ゆったり出来て嬉しいのだけど。
今では落ち着いた年齢となった“息子”の視線が物語を一直線に貫いているから、僕みたいな中年男としてはそれだけでびんと結線されてじんじんと伝わるものがある。けれど、性差や年齢を越えて共振を誘う仕掛けが盛りだくさんに作り込まれているからね、映像に愉しみや安らぎを感じるひとであれば、誰でもきっと充実した時間を過ごせるのじゃないかな。是非ご覧なさい、これは凄い。
なにもそういう自分を売り込みたいのじゃなく、なんていうか、この映画の突き抜け方をどうにかして伝えたいだけなんだけど、まったく困るぐらいに泣かされました。三人だけで良かったよ、ほんと。恥ずかしくってなかなか席を立てなかったもんね。
食卓の場景が幾度か映し出されます。最近のアメリカの映画は美術や小道具の発言力がほんとうに凄くて、パスタとかケチャップとかいずれもささやかなものなのだけど、人物の感情を左右し、逆に心象を雄弁に語ってみせたりして度肝を抜かれることが度々あります。この作品もきっとそうなんだろうなあ。アメリカに住まう人には劇中出てくる家族のふところ具合が手に取るように分かり、また、堆積した味覚、嗅覚の記憶を総動員して劇世界に溶け込んでいけるのでしょうね。豆料理が印象的でね。あの意味、ずっと考えているところです。
その点、日本の映画は料理を使って人物の造形につなげてみせる辣腕家は何人もいるけど、観客を当てにしないというか、信用しないというか、味の薄い会話で補ってしまう悪い癖があるように思えます。
たとえば上に引いた宮崎駿(みやざきはやお)さんの「コクリコ坂から」なんかも勿体ないというか、一歩出しゃばり過ぎの感じがするよね。北斗(ほくと)という名の研修医が“醤油をドボドボ”と使う。これまで見たようにその行為は男なら“父性”と結びつき、女性の場合(*3)には“男勝り”“ユニ・セックス”へ傾かせる効果があるのだけど、そういった事を思い巡らす受け手側の時間をまるで許さず、間髪入れずに「わあ、またそんなに醤油入れて!」と台詞を詰め込むのは昨今の世界基準からすれば大いに見劣り、聞き劣り(そんな言葉あるのか)するところです。
さてさて、そろそろ寝ましょう。もういい加減酔ってますし。
皆さん、おやすみなさい。楽しい夢を、ゆったりした眠りを。
(*1):「脚本 コクリコ坂から」 宮崎駿 丹羽圭子共著 角川文庫 2011
最上段の画像は映画から 監督 宮崎吾朗 2011
(*2): The Tree of Life 監督テレンス・マリック 2011
(*3):以前こんな作品がありましたね。姉妹のなかでおんなおんなしていない娘が醤油をドバドバ使っていました。
吉田秋生「海街diary」(2006-)
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/diary2006.html
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