2011年10月31日月曜日
“ひとり観”
前からも後ろからも真ん中あたりの列、中央寄りの席に座っています。国家元首か大富豪がプライベートの上映室にワイン片手に陣取った風でもあり、見た目には豪華な感じがしないではありません。夕方の回なのに、いや、夕方の回だからなのか分からないけれど、結局誰も入って来ないのです。百席ほどの館です。スクリーンを前に最初から最後までひとり切り、独占状態で映画を観ました。こんな経験はそうそうなく、生まれて此の方三度目ですね。
三度というのが多いのか少ないのか、僕には判断がつきません。もっと田舎の映画館ではそんな光景が日常茶飯なのかもしれないし、存外都会だってよく起きる事かもしれない。大した話じゃないかもしれないけど、書き留めたくなる話もそうそう無いしね。まあ、とにかく久しぶりの“ひとり観”だったわけです。
お客はひとりと考えて暖房費をケチったのではないのでしょうが、どうも肌寒くてたまらない。映画館という場処は適度に人の気配やざわめき、体温や吐息、咳き込んだり笑ったり、鼻すすったり、音や画面に驚いて傾いだり、そういう要素がないと妙に淋しく、ひどく寒々しいものですね。暖房が切られたせいじゃなく、“ひとり”ということが身にこたえるのです。奇妙な体験に胸躍らせていた前の時とは違って、あまり嬉しい気分じゃありません。
途中遅れて入ってきた客が指定の席に座ろうとしてじたばたし、他の客の足を踏んでちょっとした騒ぎを起こしてみたり、隣りに座った観客のクスリと笑う気配を好ましく思ってみたり───。ささやかな事ですが、人間って面白いな、素敵だな、と感じます。つまりはひと恋しさを埋める効果も劇場には確かにあって、単に映画を眺めにいく処ではないのでしょう。でなければホームシアターなりベッドルームの液晶テレビに役目をとうに譲っているはずだもんねえ。
ホットコーヒーにすれば良かった。脇の椅子からコートを取って首から胴まですっかり覆い、大きな茶色い照る照る坊主になりました。さらにその下で自分の身体をきゅっと抱きしめながら見ていました。
映画はスペインの作品(*1)でした。いのちの炎のまさに消えかかろうとする男が主人公です。特殊な状況下で神経のひどく研ぎ澄まされていく最後の二ヶ月間を、残される家族の身の末や自分に関わるひとの自活の行方を自問自答しながら、懸命に、ぼろ布(きれ)みたいになりながらも生き抜いていく、そんな内省的な内容でした。
日常の“食事”の光景がとても丁寧に取り上げられていたし、生きながらえることで訪れてしまう切なく胸をふさぐ場景も逃げず果敢に描かれている。僕の置かれた状況とリンクする(いや、不治の病と闘っている訳じゃないです)ところもあって、それはそれで悪くありませんでした。整頓し切れぬまま乱雑を極めてしまった胸の奥の部屋を、数名のボランティアの援けを借りながらことこと掃除していく、そんな風な“双方向の感覚”があって映画鑑賞自体は“充ちた時間”であったと思います。
けれどねえ、ひとりで、連れがいないという意味でなく、本当に“ひとり”で映画館で映画観てるって、人間の生活としてどうなんだろう。身に沁みて考えさせられる時間になりましたね。
夜風に身をすくませながら車に乗り込み、FMから流れるクラシックを大音量にします。さびしさを紛らわせたい一心です。今番組表で調べてみたら、どうやらラフマニノフのピアノ協奏曲。映画を反芻し、あれこれ想いながら走りました。
秋はいよいよ深まります。
どうか早め早めに一枚羽織り、指先、足先まで温かくして過ごしてください。
生命(いのち)の炎を意識しながら、大事に大事に歩みを続けてください。
すばらしい錦秋を、すばらしい四季の移ろいを──
(*1): BIUTIFUL 監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 2010
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