2011年10月24日月曜日
井伏鱒二「黒い雨」(1965)~さむけ~
上に貼ったのは映画「黒い雨」(*1)のポスターです。主演を務めた女優田中好子(たなかよしこ)さんが震災から一ヵ月後に亡くなり、また、世間の原発事故に対する動揺とも共鳴するものがあって一時期ずいぶんとクローズアップされました。原作(*2)は1965年から翌年にかけて連載された井伏鱒二(いぶせますじ)さんの小説です。
恥しいことにこれまで僕はこの本を読んでおりませんでした。今回初めて手に取り、就寝前や交通機関で長時間移動する際に読みすすめた次第なのですが、当然ながら他人事ではなく、憂いをもって臨まなければなりませんでした。
このブログは味噌や醤油というものがどのように日本人の読んだり観たりする娯楽に関わり、そこでどのような役割を担ってきたかを読み解く目的があります。事故をめぐって僕の内奥にはもろもろの残響が居座っているのだけど、とりあえずそれらを吐き出すつもりはありません。「黒い雨」中の“味噌”について絞り込んでメモしておこうと思います。
閑間重松(しずましげまつ)とその妻シゲ子、それに親戚から預かっている年頃の姪矢須子(やすこ)の物語です。彼らは原子爆弾が炸裂した広島の街を命からがら逃げ延びた過去を持ちます。お話の上での現在は“終戦後四年十箇月目”(*3)といいますから、昭和25年(1950)の6月ということになりますね。
矢須子の縁談がいくつか流れた背景にあるのが被爆への偏見と考えた重松は、己が終戦後書きとめた「被爆日記」と矢須子の日記を清書して相手に渡すことが最良と思い立ち、机に向かって一心不乱に文字を写していくのでした。矢須子はあの光線や炎を直接浴びてはいない、四年経った今もこうして元気に、いや一層艶やかに花咲くように暮らしているではないか──
しかし、この詳細な記憶の掘り起こし作業と前後して矢須子の体調は急速に悪化していき、当初の思惑とは離れた展開になっていくのでした。縁談うんぬんはすっかり霧散し、生命(いのち)のともし火を守るための険しい闘いに入っていく。ふたつの日記に妻シゲ子の綴る更にふたつの記録、すなわち“戦時下の食糧事情”と「高丸矢須子病状日記」が加わって、彼らを襲った災厄の詳細が浮き彫りになっていくのでした。
味噌についての記述を抜き書きし、これを時系列的に並べ直してみます。そうすると重松と家族、および、当時の人々より味噌に向けられるまなざしの質が分かりますし、味噌が担った役割も見えて来ます。
まず重松の幼少のころ、そして、会社員になった頃のエピソードに味噌が顔を覗かせています。味噌は重松に寄り添い、たいへん印象深い顔立ちを見せています。
この仲三さんは小畠村の谷口屋という屋号のうちのもので、僕は
子供のころ、この人の父親から鰻(うなぎ)の穴釣の仕方を教わった。
そのとき釣の余興として、竹藪から取って来た筍(たけのこ)を河原の
焚火(たきび)で焙(あぶ)って食べることを教わった。筍を皮の
ついたまま焚火で焙って皮を剥き、最寄(もより)の家で貰って来た
味噌を湯気の立つ筍に塗って食べるのだ。(*4 )
次に、会社の運営を円滑にするために、被服支廠に対して人聞きの
悪い奉仕をする。こちらとしては出血作戦をしているようなもので、
先方としては濡手(ぬれて)に粟(あわ)である。
僕はそんなことで厭な思いを何度も経験した。最初は入社して間も
なく味噌を仕入れたときである。備後府中町の松岡という味噌醸造所
から、四斗樽(だる)入りの味噌五十樽を買ったとき、その半分の
二十五樽は被服支廠へ譲った。(*5)
妻シゲ子によるノートからは戦況の悪化が読み取れます。物資の流れが思うようにならなくなり、工夫して乗り切っていく様子がうかがえます。穀物や野菜が入手しにくい中で、なんとか腹を満たし、食欲を封じる手段として味噌や醤油の活用が描かれる。ここで味噌はずいぶんと褒められています。
それからまた、米に大豆を入れたのを配給されることが
ありました。でも、大豆を混入して飯を炊(た)くと臭みが
移って食べにくくなりますので、大豆は選り出して、一合
あまり一夜(よる)水にひたしまして、翌朝、擂鉢(すりばち)
で磨(す)りつぶして木綿布で漉した汁を、味噌汁や醤油汁に
入れたりいたしました。また汁だけを豆乳として、多少糖分を
入れて飲むこともありました。ときたま、大豆のしぼり滓は
醤油で煮て副食物にもしておりました。
代用食のパンは焼いて味噌をつけ、または味噌をつけて焼いたり
して食べまして、主食を延ばす貴重な材にしておりました。
パンのときには、つくづくバタやコンビーフの味覚を思い出す
ことでした。しかし味噌は東洋在来の調味料として、塩や醤油に
較(くら)べて実に堂々たるものだと思うようになりました。
戦時下になってから漸(ようや)くそれに気がついたのでございます。(*6)
さらに食糧事情は悪化の一途をたどり、味噌すらも底を突く勢いとなります。そんな中での原子爆弾の投下──。九死に一生を得ての逃避行の先々で、かろうじて蓄えられていたものが床下や納屋から取り出されて一行の口を悦ばせていきます。
重松は好太郎さんがコブツを仕掛けるとき、ひとりごとのように
ぶつぶつ云いながら鎌で割竹を削っていたのを思い出した。
「ほんまに、どえらい食糧難じゃ。糧秣廠の炊事部ですら、味噌の
配給が間に合わんちゅうて、おろおろしておった。明日は塩汁にするか
味噌汁にするか、見当がつかんそうな。献立表を書こうにも書けん
そうな」と云っていた。あのころはお互にひどい食生活であった。(*7 )
古江に着いたのは午前六時半ごろ。農家はまだ雨戸をしめて
いたが、能島さんの奥さんの生家ではお父さんとお母さんが、
蔵の戸を明けて私たちを待っていて下すった。私たちは荷物を
卸して土蔵に入れた。能島さんの奥さんは念のためだと云って、
私たちに荷物引換の証文を書いてくれ、私たちは母屋(おもや)の
座敷にあげて茶菓子の代りに味噌を添えた胡瓜を出して下すった。
みんな親切な人ばかりである。(*8 8月6日)
僕は敗残の百姓一揆(いっき)のようだと思ったが、竹槍を
つきながらシゲ子に脇(わき)を支えられて坂を登って行った。
そのとき初めてシゲ子が頭の髪を焦がしていることに気がついた。
「いつ髪を焼いた」と訊(たず)ねると、六日の空襲のとき焼けた
らしいと云った。
昼飯は携帯餱糧(こうりょう)の焼米で、お菜は菜種油で
煠(いた)めた味噌である。その他には桜の花茶が添えてあるだけ
だが、我家の料理としてはこれでも最上の部類に入るのだ。
(*9 8月8日)
矢須子は岡持ちのなかのものを一つ一つ食卓に載せた。会社の食堂で
仕出したものは、桑の葉の天麩羅(てんぷら)五枚、なめ味噌と食塩、
お新香二片、フスマを混ぜた麦飯の丼(どんぶり)である。これが四人
ぶんあった。桑の葉は炊事部の社員の発案で、工場の横の桑畑から採取
したものであるそうだ。戦争のため農家では養蚕を中止して、桑の枝を
刈込んで野菜の間作をやっている。今、桑は切株から土用芽を出して、
食べころの若葉をつけているそうだ。(*10 8月13日)
朝飯はフスマを入れた麦飯と微塵切(みじんぎ)りの芹の
味噌汁で、昼の弁当は同じ飯のお握りと貝の佃煮である。芹は
四月すぎると蛭(ひる)の卵や幼生が附着しているから、
普通なら食べないことになっている。
僕の隣の席にいた中田君という中年すぎの工員が、食事運びの
女の雇員に、
「味噌汁はよく煮たのか」と聞くと、「いつもの倍くらい長く
煮てあります」と云った。
横合から僕が「弁当の貝の佃煮は蛤(はまぐり)かね」と聞くと、
「潮吹貝です。潮水で煮たのを闇屋が持って来たので、調理場さんが
お醤油で煮詰めました。皆さんの昼食のお菜です」と云った。
(*11 8月14日)
終戦をもって重松の「被爆日記」は途切れます。原子爆弾が炸裂したとき頬に裂傷を負った重松は自身の健康を気遣い、何を食べるべきか、どんな療法を続けるべきか模索する毎日です。“終戦後四年十箇月目”の日常には味噌が静かに寄り添っていました。
もう一人の仲間の浅二郎さんは、庄吉さんと同じく自発的に
勤労を買って出た奉仕隊員として広島に出かけていて被爆した。
(中略)この人の栄養の摂りかたは、巡回診察医の指示には従わないで、
お灸の先生に教わった安あがりの方法に従っている。食事は三度三度、
油揚と切干大根を入れた味噌汁を二杯と生卵を一つ必ず吸って、
一日に一回はニンニクを食べている。手当としては週に一回お灸を
すえる。(*12)
重松は箱膳(はこぜん)の前に坐って、茶色の液体が入っている
ボテボテの茶碗を取りあげた。これは夕食前の重松の飲みもので、
内容は、乾燥させたゲンノショウコ、ドクダミ、ハコベ、オオバコを
煎じた汁である。
膳の上のお料理は、ミツバの根を刻んで入れた舐味噌(なめみそ)と、
卵焼と、沢庵と、それから鰌(どじょう)の浮いている味噌汁である。
「こりゃあ豪勢だ」と重松は、鰌汁の椀を取った。(*13)
この「黒い雨」は実在の人物の日記を基幹に据えたもので、当時広島に住み被爆した多くの人たちの実像に迫っていると思われます。作者は同県出身でもあり、直接原子爆弾のもたらした惨禍を目にしていないにしても極めて身近なものと感じたことでしょう。終戦を四十代後半で迎えており、世相や民衆の奥底に潜むものも十分に透かし見る度量も育っていたはず。その地その時に渦巻いた修羅の詳細を脳裡に再現し、肉薄することは可能だったことでしょう。ですから、物語のなかの重松一家を支える“食生活の面立ち”は想像ではない、偽りのない“広島での日常的な食事”に他ならないのです。
七月二十六日 晴 涼風
朝、三十八度の熱、さむけ。味噌汁、海苔、らっきょう、漬物、卵、
御飯半膳。(*14)
七月二十七日 晴 むくむくと夕立雲
朝、三十七度。気分よろしく、朝飯は茄子の味噌汁、いんげん豆、
卵、御飯二膳。
久しぶりに笑う。(*15)
七月二十八日 快晴 お昼ごろ夕立 すぐ快晴(中略)
病人、気分よろしく、熱三十七度。朝飯は、ずいきの味噌汁、
ラッキョウ、卵、漬物、御飯二膳。
三度目の腫れもの潰れ、病人自身で膏薬を貼る。(*16)
“病状日記”にも味噌汁は寄り添い続けます。災厄から“四年十箇月”も過ぎて後、唐突に、まるで奈落に落とされるように暮らしを、夢を、未来を剥奪されていく若い娘が淡々と描かれています。彼女は何ものかに祈る想いで必死に食べものを口にしていったのでしょうが、物語は娘の行く末を描こうとせず、あいまいなままで筆を折ってしまうのでした。
味噌が消化管を保護して放射線障害の進行を緩和し、被曝した人たちを助けるのではないか、毎日の摂取が有効ではないか、大事ではないか、という“噂話”があります。僕もその話題をここで取り上げましたし、祈る思いで毎日飲んでもいます。
しかし、こうして「黒い雨」の徹頭徹尾“味噌”と歩んでいる日常描写に触れてみると、“助かる”とか“助ける”といった表現は簡単に口にすべきではないと分かります。助けられない、救えない、どうしようもない、遠巻きにして見守るしかない、祈り続けるしかない、そういった事が現実にあることを思い知らされた、学ばされた気持ちで今はいます。
そうして思うのです。子どもを逃がしてあげなさい。逃げるのが正しい、そういう戦法もあります。相手は無慈悲な化け物であって、祈りなど通じない。相手が悪過ぎるのです。
(*1):「黒い雨」 監督 今村昌平 1989
(*2):「黒い雨」 井伏鱒二 新潮社 1966 手元にあるのは新潮文庫74刷 引用頁もこの文庫版のそれを表わします
(*3):11頁
(*4):257頁
(*5):217頁
(*6):80-81頁
(*7):74-75頁
(*8):17-18頁
(*9):183頁
(*10):357‐358頁
(*11):366頁
(*12):31頁
(*13):72頁
(*14):289頁
(*15):290頁
(*16):293頁
ちなみに上記と重複しない“醤油”単体の登場する箇所は次の通り。その香りや味は困難な食糧事情を支えていく工夫のひとつとなって彼らの暮らしのなかで点滅している。やや出しゃばった感じが印象に残りますが、これ等の解釈はまた何時かといたしましょう。
その蓮田の岸の草むらに、一羽の白い鳩がうずくまっていた。そっと近づいて両手で摑まえたが、鳩の右の目はつぶれ、右側の肩のところの羽がちょっと焦げていた。僕はこいつを醤油の附焼にして食ってやろうと食指を動かしたが、空に向けて放り出す仕方で逃がしてやった。(218頁)
僕が葬式の読経をすませて寓居(ぐうきょ)に引返して来ると、燈火管制で締めきった雨戸の外まで餅を焼く匂がにおっていた。醤油の附焼にしているのだと分った。(中略)客人が土産に持って来た餅だろう。矢須子とシゲ子は、がつがつ餅を食べていた。(230頁)
僕は工場長の向かい側に腰を卸した。「降伏らしいですな」
「どうも、そうらしい」と工場長は、案外あっさり云った。「今、陛下が放送されたんだ。しかしラジオの調子が悪くってね。工員が調節したが、いじればいじるほど悪くてね、はっきり聞えないんだ。しかし、とにかく降伏らしい」
食卓の上にあるフスマを混ぜた丼飯(どんぶりめし)は、かさかさに乾いて蝿がたかり、醤油で煮しめた潮吹貝にも蝿がいっぱいたかっていた。誰もそれを追い払おうとする者はいない。
「さあ諸君、元気を出して食べよう」と工場長が、取って付けたように大きな声を出した。(382頁)
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