2009年7月31日金曜日
さくらももこ「えいえんなるじんせい(永遠成人生)」(1989)~人生の意味~
タエコ「あっ、おはようございます。あなた、ハイ おみそ汁。」
私「あ……ああ。(またか……)うまいっ、タエコはえらいね。
(はっ、こんな呑気なことを言ってる場合じゃないぞ。)
(いったいどうなっているんだ……
なぜ こんなに何回もみそ汁を飲んでいるんだ、オレは。)
(はっ、メビウスか!!オレの一生は、今朝の夢で朝食の時間
だけが裏表なしの永遠になってしまったにちがいない。)」
私「じゃ、行ってくるよ。」
タエコ「行ってらっしゃいませ。」(*1)
汗だくで山中を探索している男“私”がいます。“人生の意味”を捜し求めているのです。“私”は思います、人生の意味とは何だろう。きっと“永遠なるもの”にめぐり合うことに違いない。“深遠なる顔をもち、刻々と脈打ち、熱く燃えて永遠に連なっていくもの”を死ぬまでに手に入れたい。
岩山を登り詰め、奥へ奥へと“私”は突き進みます。いい加減飽きて来たところで、何ということでしょう、生い茂る草むらのなかに異様な外観の生きものを見つけてしまいます。カァァ、カァァと奇声を発しながらドクン、ドクンと脈動する妖しげな蛇のような生きものです。まるでクローネンバーグ(*2)の映画に登場するような奇態なのですが、これが突如襲いかかって“私”の脳髄にドボドボドボと侵入してしまうのです。「うわぁ。」絶叫した“私”は意識を失ってしまいます。
目が覚めたとき“私”は、出勤前の小一時間を繰り返す永遠のループに捕えられている。朝食の“みそ汁”を何度となく呑み続けなければならないのです。“私”はこうして“永遠なるもの”を手に入れた──という結末でした。
絵柄は代表作「ちびまる子ちゃん」(*3)と同様で、僕たちの緊張を解きほぐし、暖色系のほのぼのとした気分を誘い込みます。独特の描線からにじみ出る甘露のようなものが、白昼夢の後のまどろみに似た分厚くへヴィな錯綜感をもたらすのですが、そんなぼやけて見える物語の輪郭をたどり直してみるとなかなかどうして、その奇抜さと怖さは並大抵ではありません。これを楳図かずおさんや諸星大二郎さんが綿密なタッチで描いたのならば、相当に尾を引く異色の恐怖譚になったに違いありません。
幾度となく繰り返されるこの手の時間跳躍(タイムリープ)は、映画や漫画の作劇上さして珍しいものではありませんよね。でも、朝食の光景、それも“みそ汁”に特化していく発想はおかしく稀有なものでしょう。僕たちのこころの奥に潜む気持ちをうまく反映させて見えます。つまりは“マンネリだな、もう食べ飽きたよ。こりゃ食欲とは無縁のもの、空気みたいなもんだね”といった“みそ汁”への満腹感、飽和感がここで透かし込まれているのですね。
盛岡名物“わんこそば”のようにして何百、何千の“みそ汁”に対峙させられる。そうすることで僕たちの生きる特異な環境、食生活がまざまざと意識させられます。言われてみれば確かに、僕たちは“みそ汁”まみれで暮らし、生き続けていますね。ダンテの描いた天刑のごとき“みそ汁地獄”とも言うべきものが、この現世に横たわって在ることに気付かされます。
一方、こんな見方も出来ます。
この物語の欠くべからざる脇役として“みそ汁”はありますが、“私”にまとわりつくモノとして、もうひとつタエコの存在が認められます。冒頭の山中で永遠なるものを探しあぐねる“私”は腹をすかせて小休止し、タエコの作った愛妻弁当を広げて立腹するのでした。「いい年をして こんな 浮ついたマネをっ!」弁当のご飯には桜でんぶか何かでハートが描かれていたのです。つまり開幕から終幕までタエコが空気のように“私”にまとわり付いている。
その“私”が妖しげな生きものとの出逢いを経て、タエコの作る朝食を取り、彼女に玄関まで送り出される一刹那を永遠に繰り返していくのです。さくらももこさんは“みそ汁”に宿る“マンネリだな。空気みたいなもんだね”という感慨をタエコというおんなへの目線にそっくり重ねている。“永遠なるもの”の答えのひとつとして、みそ汁と長年添え続けたパートナーをペアで提示しているんですね。単に“みそ汁”のお話ではなかったのです。
さくらさんは日常をありのまま受容し、それを供にして歩み続けよと言っているようでもあり、そんな“本質”を見失った状態をせせら笑っているようでもあります。天国であるのか、それとも無間地獄なのか、さくらさんは絶妙なバランス感覚を最後まで駆使して、明瞭に刻印することなく物語を閉じてしまいます。判断は読み手次第で変わる、人それぞれということでしょうか。
えっ、僕はどうかって? どうでしょうね。“みそ汁”を出したり出されたりといった事に集束なるだけの日常が“永遠なるもの”であり、それだけのループを“人生の意味”だと捉えるのは、いまの僕には難しい。僕がこの物語の“私”であったなら、やはり、天国に来たとは思わないのじゃないか。
ひとにとって“永遠なるもの”とは何か。いずれあらゆる物象も思念も朽ち果て、片鱗のかけらもなくどこかに霧散し消えるものだと思う斜め目線の自分がいます。その一方では、確かなものを信じて生きていきたい気持ちがそうそう消え去ってくれない。つくづく身勝手で不思議な、奇妙この上ない生きもの、だと思います。 こんな年齢になっても、悟りの境地には至らない。
いずれにしても、さくらももこ「えいえんなるじんせい(永遠成人生)」は、日本人の“みそ汁”観の断面をすっかり露呈している、実に興味深い作品だと言えそうです。
(*1):「えいえんなるじんせい(永遠成人生)」さくらももこ 連作「神のちから」の一篇として
「週刊ビッグコミックスピリッツ」に掲載。「神のちから」小学館 1992 所載
(*2): デヴィッド・クローネンバーグ David Paul Cronenberg
代表作「ヴィデオドローム」(1982)、「クラッシュ」(1996)
(*3): 「ちびまる子ちゃん」 さくらももこ 1986~
2009年7月25日土曜日
さだまさし「私は犬になりたい¥490」(2009)~なりたい、なれない~
次に生まれるなら味噌汁になりたい
主役を脇で支える味噌汁になりたい
でも味噌汁はお代わり出来るけど
私にお代わりなどいない
私は味噌汁になれない(*1)
突拍子もない詞が踊っています。かた苦しく意見するのはオトナゲないかもしれませんね。だって、単なる携帯電話のキャンペーンソングですから。しかし、どう思われます?次に生まれるなら味噌汁になりたいと願う男の精神はどう考えてもオカシイです。(かなり杓子定規の例えだと思いつつ書けば──)韓国の男がキムチになりたがるか、アメリカの男がフライドチキンになりたがるか、中国の男が餃子になりたがるものか。そのように連想を働かせるならば、この歌の異形さは鮮明になるのではないでしょうか。
イヒヒヒ──と笑って済ませるには、狂いかたが半端じゃない。僕は正直なところ気持ちがざわついて、胸が妙な具合になっています。軽い嘔吐感が湧いてくる感じ。
歌詞を追ってみましょう。妄想は味噌汁にとどまらず、むくむく連なっていきます。
競走馬になりたい、というのは分かります。──彼らは美しい。あの隆々とした筋肉と引き締まった背中、きゅっと締まったお尻をご覧なさい。誰だって指先で触れ、手のひらで撫で回してみたくなる。はやる気持ちが抑えられなくなるものです。鳥になりたい、というのも分かる。──誰もが一度や二度はそんな夢を見て驚くものです。最後の飼い犬になりたい、というのも分からないではない。愛するひとに触れられたい、笑ってもらいたい、それは生きとし生けるもの全ての根源的な願いでしょう。
でも、味噌汁になりたい、というのは余りに突飛過ぎて首をひねってしまいます。この壊れかたは一体全体、何なのか。
アニミズムの土壌が日本にはあります。小さな草花や岩と岩の間を滑りくだる清水についても、そこに人格を想い描き、僕たちは畏敬の念を持って接していきます。精霊が宿って感じるし、いつしか対話してこころを交えていくことに違和感はそうありません。
さだまさしさんは万葉集をひも解き、土台となして、海は死にますか、山は死にますかと熱唱した前例(*2)もあるわけですが、その歌を聴いて思わず感涙にむせんでしまった人は多いでしょう。海も山も、春も秋も、僕たちと同じように限りある生命を持つものと頷いたものでした。ひとは多くの物象に自身を反映させながら、世界を伸び伸びと拡げていきます。“生命”と捉えるものの許容範囲はとてつもなく広い。
視線の先は自然界にとどまりません。男女の恋情のおいてフェティッシュはごく自然なものとして存在し、互いの精神的、肉体的欠落を埋めています。装飾品や衣服の贈答は往々にして、そのような精神の反映が在るものです。
たとえば、先日読んだ本のなかには次のような言葉がありました。
「………魔術師よ、お前は私を定めて覚えているだろう。私はお前の魔術よりも、お前の美貌に惑わされて、昨日も今日も見物に来ました。お前が私を犠牲者の中へ加えてくれれば、それで私は自分の恋がかなったものだとあきらめます。どうぞ私を、お前の穿(は)いている金の草鞋〈サンダル〉にさせて下さい。」(*3)
性別も判然としない美しい魔術師に恋したおんなが、生命なきサンダルに生まれ変わろうとしています。ああ、この気持ちも分からないではありません。どんなに嬉しいだろうとも思います。ひとは何にでも、血の通わぬモノにすら生まれ変わろうとするものなのです。急逝した者は星となって夜空に昇りもします。変身を希求する思考の流れに、制約といったものは見つかりません。
ですから僕はさださんの歌い描く男が馬や犬になりたいのも分かるし、貴女の靴になりたい、はたまた髪に舞い下ちた雨の滴になりたいと仮に悲鳴を上げて悶絶しても、そうだよね、そういう気持ちもあって良いよね、と微笑むばかりなのです。
けれど、そうやって考えをゆるやかに補填しても、味噌汁になりたい、という気持ちはよく分からない。恋する誰かに匂いを嗅がれ、愛しい舌先に弄ばれたあげくに一体になりたい、という意味なら分かるのだけれど、そのような考えは示されません。
“主役”であることにくたびれ、その任を放棄したい。けれど“代わりがいない”からこれまで同様に頑張らねばならぬ。一家を経済的に支える男の、よくありがちな過剰な自意識に由来する漫然とした疲労感が表現されていて、理屈(ここでは駄洒落の域ですが)は通る話ですけど、それでもこつ然と“誰が飲み干すか特定されていない”味噌汁になりたいと切り出されることの不自然さはどうにも拭い去れずにいて、気持ちが晴れないままです。
天才調理師なのか、悪食の虜なのか───
さだまさしさんまでが僕には人間離れした風貌の魔術師に見えてきました。
このような異形の歌が流れる茶の間というのも、何とはなしに不気味な気がします。
(*1):「私は犬になりたい¥490」さだまさし 2009
(*2):「防人の詩(さきもりのうた)」 さだまさし 1980
「二百三高地」監督 舛田利雄 1980 主題歌
(*3):「魔術師」谷崎潤一郎 1917
2009年7月22日水曜日
尾辻克彦「裏道」(1990)~こんなものなのか~
やはり意地もある。その導入に際してあれほど渋い顔をしたのに、
簡単にいい顔はできない。むかしマルクス、レーニンを神様みたい
に崇めていた人が、そう簡単に自民党には投票できない。それにまだ
小さいとはいえ犬であるから、自分の原始からの犬の恐怖も温存して
いる。しかしそんなことも長い時間の間には、少しずつなし崩しに、
角砂糖がコーヒーに溶けていくように、味噌の固まりがお湯に溶けて
味噌汁になっていくように、ちょっと例えは唐突だったが、私も犬を
引いた家人のそばを、ぼんやり駅までついて行ったのである。ああ、
味噌汁として溶けていく味噌の気持ちはこんなものなのかと、私は
裏道から見渡す凸凹(でこぼこ)の大地が、巨大なお椀のように感じられた。(*1)
蒸し暑い夜になってきました。暑気払いに威勢のいい曲でも流しましょう!
よく語られる話のひとつに、血液の塩分濃度と味噌汁のそれがほぼ一致するというのがあります。なるほど血液中の塩分0.9パーセント前後という数値は、味噌汁の塩加減と並んでいるのです。書籍なりインターネットの記述には、体内の浸透圧を保とうとする本能が嗜好を左右して、知らず知らずのうちに調理の塩梅(あんばい)を操作しているのではないか、というまことしやかな理屈も付されたりします。ふ~む、なるほど。言われてみればそういう事があるかもね……。
でもでも、冷静に考えてみればですね、これはずいぶんと極端な言い回しです。人間の好みとする塩加減は、洋の東西を問わずにそんな大差ないはずですよ。何も味噌汁に限ったことではなくって、あちらの○○スープ、こちらの○○汁だって計れば似たような数値が出そうな気がします。それに“本能”なんてコワモテのものを持ち出された日には、あらゆる食品が雪崩打って同じ塩加減へと移行していいはずです。
人間は刺激を求める動物ですから、体温とそっくり同じ温度の飲料や食べ物を嫌うものです。塩加減だって似たものにすべて統一されたら、悲鳴をきっと上げるに違いないのです。しょっぱいカフェオレや塩辛いペプシNEXは開発されることはないし、誰も求めはしない。偶然の一致に過ぎないでしょう。
そのようにあっさり身をかわしておきながら変ですが、血と味噌汁の交差するイメージにはちょっと惹かれるものがあります。袖にすることを許さない“何か”が潜んでいます。味噌汁は血液と同じなんだよ、と告げられたなら、するりと咽喉を取って胃の腑に落ちる。ああ、やっぱりそうよね、その通りよね、と安心してしまう。ふんふんと頷きながら大きな知恵を授かったような気分になる。それって、何故でしょう。よくよく考えれば不思議な話ではありませんか。
先日の文中にて僕は、いくらか隠微なものに触れてしまいました。人格を怪しんだひともきっといたでしょう。もちろん僕を呪縛する煩悩によるところも多分にあった訳ですが、実はそれだけではない。思考の域を侵すに止まらずに皮膚の内側の、より体腔的でより生理的なものに変化やネジレをもたらしているのが“味噌汁”じゃないか、と僕はずっと睨んでいるのです。 綺麗ごとでは済まないのです。
ですから、世間で下劣と嫌われる語句やエロチシズムを臆病に回避しては、存分に味噌汁を語り切ることは出来ないのです。(あれ~、なんか言い訳っぽいぞ~~。)アハハハ、やっぱり苦しいですね、ちょっと(笑)。でもね、味噌汁は確かに僕たちの血と混ざり溶け込んで、胸の奥の洞窟までひたひたと押し寄せているに違いないと思いますよ。
そんなことを喚起させるものが冒頭で引いた小説家、尾辻克彦さんの作品です。ストーリーで惹き付けるというよりも、この人の場合は“調子”で読者を魅了していくところがあります。俗人は絶対に立ち止まらない瑣末なモノや行ないを前にして、あてどなく悶々と思考していく様が可笑しくって、ついつい声に聞き入ってしまうところがあります。 (*2)
裏道脇の斜面の奥にひろがる雑木林に、誰かがいつの間にかダンボール箱を置いていきます。そこには生まれて間もない仔犬が捨てられている。主人公“私”の妻と娘が無断でこっそり仔犬を連れ帰って飼い始め、既成事実がどんどん幅をきかせて、大の犬嫌いの私も散歩の役目を担わされていく。そんな日常の情景が淡々とした調子で写し取られています。
妥協や迎合といった“負”の(言葉を選べば“優しさ”に見合った)心持ちを“お湯に溶けていく味噌”にここでは例えています。さらに作者は踏み込んで“味噌の気持ちはこんなものなのか”といった突飛な表現をして来ます。“私”と“味噌”は同等の位置にあって、一瞬ではあるものの、味噌には生きているかのごとき人格まで付与されてしまう。
このような大胆な表現もまた、僕たちは左程の違和感を持たずにあっさり受け止めてしまえる。それをとても不思議で面白いと僕は感じるのです。やはり僕たちの血には“味噌汁”が混じっている、そんな感じがしてしまうのです。
さてさて現実に戻って。いかがでしたか日食、きれいに見れましたでしょうか。僕のところは曇り空。束の間ではありましたが愉しみましたよ。鋭利な角をふたつ具えた忍者手裏剣のような真白い太陽が、薄くたなびく雲越しに認められました。しばし童心に立ち返れて嬉しかったですね。気のせいかもしれませんけど、しきりにガアガアとカラスが騒いでうるさかったです。
そうそう、原題を「日食」というアラン・ドロンとモニカ・ヴィッティ主演の映画(*3)がありましたが、その主題歌も耳の奥で鳴り続けておりました。(最初に貼り付けたものですね)
僕のそばにはパニックに陥ったアフォなカラスしかいませんでしたが、こんな太陽を大切な誰かと手を繫いで仰ぎ見れたら、きっと素敵でしたでしょうね。
そういう時間に、どうですか皆さん、なりましたでしょうか?(笑)
(*1):「裏道」 尾辻克彦 初出 「海燕」 1990年5月号 「出口」 講談社 1991 所載
(*2):昔々「闇のヘルペス」というタイトルで単発のラジオドラマが放送されたことがあったのですが、あれも尾辻さんの原作を脚色したものでしたね。僕はその録音テープを随分と繰り返し聞いて愉しみました。主演は岸田森(きしだしん)さんと草野大吾(くさのだいご)さん。ああ、お二人とも亡くなってかなり経ってしまいました。男の色香とペーソスに溢れたほんとうに見事なセッションでした。まさにあの感じが尾辻克彦さんの調子なのですが、何となく分かるひとには分かってもらえるでしょうか。
「闇のヘルペス」 1981年5月9日放送
(*3): L'ECLIPSE 「太陽はひとりぼっち」 1962 監督ミケランジェロ・アントニオーニ
2009年7月20日月曜日
梶尾真治「地球はプレイン・ヨーグルト」(1978)~どんなメッセージだ~
草野さんは熊根老人にも伺いをたてたのだ。老人は冷静な口調で言った。
「真実を告げたまえ。いつかは明かさねばならん時がくる。時を稼いだと
しても、何にもならん。かえって双方とも、事態は悪くなるかも知れん」
決心したように、走り書きしたメモを草野さんは日野上さんに手渡した。
次々と料理名に翻訳されたテープが打ち出されてきた。
岸田さんが翻訳テープに従って料理を指示し始める。
どす黒い予兆を感じたみたいに中林さんが、おれにうわずった声で尋ねた。
「何だ。何を宇宙人に伝えるつもりなのだ。いったいあのメニューは何だ」
おれは料理名のテープコピイの一枚を読んでみた。
「清燉蘿蔔(チンドワンルオオボ)と玉子豆腐、それから肉桂味の強いフレンチ
バニラアイスクリーム。桂花のアソ・タカナラーメン。白味噌の味噌汁。これは
“豆乃華”の特上が指定されています。香辛料のフェネルとサフラン。最後はチリ。
チリってのは辛いけどおいしんですよ」
「内容は……どんなメッセージだ」(*1)
日ごと夜毎に鏡に向かっている女性にとっては当然ことなのでしょうが、先日図書館から借りて来て読んでいた本(*2)で初めて知り、いまさらながら驚いたことがありました。女性は排卵の時期に素肌が白くなるそうですね!それも数値化できるほど明るくなっちゃう!白粉(おしろい)やファンデーションといった化粧文化の根底には、この排卵期を装う雌の(意識するしないを別にして本能レベルの)戦術がそっと忍ばせてあるらしい──。う~ん、男が敵う相手ではないですね。凄いや。
今、こうして僕がかちゃかちゃとキーを叩き、その結果の仕上がった文書をあなたは目で追い読んでくれている。僕たちはこうして文章や声を通じてコミュニケーションをする動物ではあるけれど、それは最も効率よく大量に情報を交わせることから手段として“選んでいる”に過ぎず、その実、息をして生活する局面においては肌の色まで駆使して必死に想いを伝えようとしているのですね。(いや、あなたが男なら変わらないですよ。無理に変わってもらわなくてもイイですし、ほらそこの人、奥さんの化粧道具に目をやらない(笑))
ああ、そうですね、瞳孔の拡がり具合なんかもそれに違いありません。そうやって見ていくと実に健気で可愛いじゃありませんか、人間って生きものは。天文学上の膨大な空間や時間からすれば余程ちっぽけではありますが、とっても愛しい一生懸命な存在なのだと感心します。
梶尾真治(かじおしんじ)さんによって書かれたこの小説には、意思や感情の伝達を音声や文書といったものでなく“味覚神経系”を拠りどころとして進化した宇宙人が登場します。互いが放出する粘液の質を変化させ、それを十本の触手の先で味わうことで理解し話し合う身体の仕組みです。(*4) 明るいコバルト色をした身の丈2メートルの、ぬめぬめした大きな軟体動物なのですが、UFOで日本のT市に突如現われた後、機体トラブルで墜落して捕らえられてしまいます。飛来目的の調査や未知の科学技術の習得を目論む地球人側は協議した結果、日本全国、いや、世界の津々浦々から名立たる料理人を召集して“会話”を試みようとするのです。
発表から三十年の歳月を経ていてもちょっとも古くなっていません。面白いですねえ。その独創的なアイデアには膝を打つしかありません。僕たち人間だって肌の色を明滅させてサインを送る奇妙な生物ですから、味覚で会話する生命体がいても決しておかしくはない訳です。ちょっと例えが古いですが「料理の鉄人」みたいなセットを組んで映画化したら、きっと痛快で知的な作品になりそうです。登場する料理だって東西の垣根を越えて次々に盆に並び、満艦飾のような華やかさになります。これは絵になります。世界規模の興行収入だって、何となく望めそうじゃないですか(笑)。
最初に紹介したのは、ある程度語彙を習得して来た地球人側がメッセージを送る際の密談の風景です。墜落間際に脱出した宇宙人は二体いたのですが、残念ながら一体は死んでしまったのでした。意を決して哀しい報せを伝えなければならないので、それで誰もが気を揉んでいる訳です。そんな心痛を顕わす片言の“言葉”として一杯の“味噌汁”が急遽作られていく。
梶尾さんが同時期に書いた作品(*3)にも“味噌樽”が唐突に登場します。こちらは完全な作者なりの受け狙いなのが分かります。しかし、欲目かもしれませんが「地球はプレイン・ヨーグルト」はちょっと違って目に映えます。開幕間際の宇宙人との最初のコンタクトでも熊根老人の声が轟き渡ってもいました。「それから味噌おでんに変化。いや、味噌おでんの汁だな。中部地方の赤味噌をキザラで長時間煮込んである。」日本人による日本を舞台にした小説である為に“味噌”がフラットな面持ちで登用された嫌いはあります。当然そこには日本人の深層と密接に触れ合う感じはあまりないのですが、それでも重要な役どころとして描かれているのは嬉しいことです。僕とすればオサレな料理のなかによくぞ味噌汁を残してくれたと、駆け寄りハグしたくなるそんな気分です。
悔しいかな、その後の宇宙人との会話は散々なものとなり、かなり黒い笑いの霧に包まれてお話の幕は下ろされてしまいます。確かにロマンチックな展開にこそなりませんでしたが、宇宙人に味噌汁を飲ませたという空前絶後の描写で特筆すべきものだと思っています。
おや、よく見れば表紙が“皆既日食”ですね。明後日のお昼前、みなさんはどこで空を見上げるのでしょう。一億のひとがこぞって空を仰ぐ。とても美しく、素敵な時間だと感じます。
晴れるといいですね。日焼け止めをお忘れなく!
(*1):「地球はプレイン・ヨーグルト」梶尾真治 早川書房 初出SFマガジン78年7月号
(*2): 「女はなぜ素肌にセーターを着れるのか」左門新 毎日新聞社 2007
(*3):「フランケンシュタインの方程式」梶尾真治 1978 「地球はプレイン─」所載
地球から金星への定期物資運搬船“虎馬号”で酸素不足が深刻になる。
原因は酸素ボンベの代わりに特上の味噌汁用の味噌が詰まった樽が
誤って収納されていた為と判明する。
(*4):
これもまた本(*5)からの受け売りですが、僕たちの口に溢れる唾液には性ホルモンが滲み出しているそうです。いや、血液の成分変化がほとんど似た形で唾液に反映するらしいのです。微量でしかありませんから行動を左右させるものではないのですが、そんな話を聞くと僕のような不届きな人間はあれこれ夢想を始めてしまう。「地球はプレイン・ヨーグルト」の宇宙人と変わらぬ振る舞いを人間だってしてるのじゃなかろうか、なんて考えて、鮮烈なイメージがむくむく湧いてきたりして──。
いけませんね、夏のせいです。海からだいぶ離れているのに空気に潮の香りを感じます。学校のプールのせいでしょうか、それとも夜半のまとまった雨でむせった緑の樹々のせいでしょうか。気持ちが少し上擦っています。もう、この辺で一旦やめておきましょう!
(*5):悪い本ではないのですが、タイトルが下品なので割愛します。もうそんなのばっかりですね!
2009年7月18日土曜日
村上龍「イン ザ・ミソスープ」(1997)~まるで人間の汗のよう~
封筒をわたしながら、一つやり残したことがある、とフランクは言った。
「一緒にミソスープを飲みたかったんだが、もう会うことはないから無理だ」
ミソスープ?
「うん、興味があった。昔、一度、コロラド州の小さな寿司バーでオーダー
したことがあるんだが、変なスープだった、匂いとか、変だった、だから
飲まなかったんだが、でも、興味深いスープだと思った、まず色が奇妙な
ブラウンで、まるで人間の汗のような匂いがするだろう?そのくせこう、
見た感じが、どこか妙に洗練されていて上品なんだ、こういうスープを
日常的に飲んでいるのはどんな人々なんだろうと思ってぼくはこの国に来た、
少し残念だ、一緒に飲みたかったのに」(*1)
今は桐野夏生さんの「優しいおとな」(*2)が気になって目を通しているけれど、ごめんなさい、余程波長が合わない限り連載小説は素通りしています。そんな僕が村上龍さんのこの作品は欠かさず読んでいたのでした。なにより題名が良いでしょう? 「イン ザ・ミソスープ」──耳元に妙に甘くささやいて、暖色系の連想、オレンヂやイエローのほのぼのとした灯かりが脳内にぽっと点った覚えがあります。
連載に先立つ告知には、日本を訪れたフランクという名のアメリカ人をケンジという若者が案内して歩くという簡単な説明が付されてもいました。自由闊達な高校生が来日し、ホームステイ先で騒動を起こす、そんな人情喜劇のイメージが湧きました。それとも初老の外国人と日本の好青年の穏当な小旅行かしらん。夕立が引いたばかりのなよやかな風情の古都や嵐山を回遊しながら、男ふたりが熱心に文化論を交わす、そんな涼しげな光景を思い浮かべたりもしました。“ミソ”という言葉がいかにステレオタイプの反応を喚起するか、その典型ですよね。知らず知らずの内にこころを染めていく“ミソ”の色って、存外濃厚でしつこいものです。
実際に村上さんの小説のなかで描き出された場景の、その常軌を逸したシュールさ、凄惨さと酷悪さについては触れないでおきます。けれど、上に書いたようなヌクイものがことごとく裏返っていくのはかえって愉快でもありました。きっとそれも村上さんの狙いだったのだと思います。既存イメージをいささかの疑いもなく受け入れている頑迷な僕たちの頬を、おい、目を覚ましなよ、と、ぴしゃり平手で張ったのでしょう。
最初に紹介した会話は、本当に最後の最後の幕引きになって交されるものです。年末の喧騒に包まれた新宿の街の、暗く奥まったパブの店内で延々とフランクによって為される快楽殺人の後になって唐突に語られます。それまでは“ミソ”のミの字も現れなかったのに、ようやく出たかと思い、えっ、これだけなのかと拍子抜けもしました。続けてフランクが語ります。
「もう飲む必要はない、ぼくは今ミソスープのど真ん中にいる、コロラドの
寿司バーで見たミソスープには何かわけのわからないものが混じっていた、
野菜の切れ端とかそんなものだ、そのときは小さなゴミのようなものにしか
見えなかったけど、今のぼくは、あのときの小さな野菜の切れ端と同じだ。
巨大なミソスープの中に、今ぼくは混じっている、だから、満足だ」(*1)
物語の主題や書かれた目的は読者それぞれが読み解いて胸に抱けばいいのだし、村上さんらしい相応のメッセージが随所に挿入されてもいます。その各々は傾聴に値するものが確かにあって、面白い小説であることに違いはありません。僕も嫌いではない。それにしても、とやはり思います。やっぱりこれ、この“ミソスープ” はいびつで不思議な登用です。
ここでの“ミソスープ”は日本という国とそこに住まう僕たち「内側」のことを明確に指差しています。「外側」からは色も匂いも異様です。汗を連想させて口を付けるのを躊躇させておきながら、上品で洗練されていると続ける(村上さんの)言葉の背景には分裂した自意識が例によって認められるのですが、結局のところ、ぽんと投げ掛けられるばかりで重い唇は閉じられてしまいます。取って付けたようなモノローグになっているのはそのためですね。除夜の鐘が鳴り渡る寸前の、凍てついた川べりに捨て置かれてしまいます。ケンジと一緒に、僕たちも置いてけぼりにされてしまう。
ブラウン色のレンズを通して日本人が日本人を見通そうとするとき、そのレンズ自体が波立ち変形してしまう感じです。そして、大概はこうじの破片や大豆の細かなコロイドがぶわぶわと浮遊、回流して邪魔をして、視界が利かずに観察を放擲するに至る。そんな読後感が味噌汁の登場シーンにはとても多いです。不思議です。はは、そんなこと思うには僕だけかな(笑)
阿鼻叫喚の地獄絵や猥雑な描写がもたらすカタルシスだけでなく、僕たちが僕たちを見詰めるときの視線、奇妙で妖しい目付きの確認も「イン ザ・ミソスープ」の読みドコロとして、それでも確かにあるように感じています。
「ベルリン・天使の詩」(*3)などで知られるヴィム・ヴェンダースさんが映画化の最中みたいですね。主演はウィレム デフォーだって! ひゃあ、どうなってしまうのだろう、味噌汁がまるで人間の汗どころか血のような匂いがするなんて噂が立たないかな。とっても僕は心配だよ。
うーん、まあ、そんな事言って心配しても始まらないや(笑)。夏も本番、楽しんで過ごしましょう!
どうか良い休日を! 休日でないひと、どうかケガのないように!
(*1):「イン ザ・ミソスープ」 村上龍 幻冬社文庫
(*2):「優しいおとな」桐野夏生 讀賣新聞 毎週土曜日掲載
(*3): Der Himmel über Berlin 1987 監督ヴィム・ヴェンダース
「一緒にミソスープを飲みたかったんだが、もう会うことはないから無理だ」
ミソスープ?
「うん、興味があった。昔、一度、コロラド州の小さな寿司バーでオーダー
したことがあるんだが、変なスープだった、匂いとか、変だった、だから
飲まなかったんだが、でも、興味深いスープだと思った、まず色が奇妙な
ブラウンで、まるで人間の汗のような匂いがするだろう?そのくせこう、
見た感じが、どこか妙に洗練されていて上品なんだ、こういうスープを
日常的に飲んでいるのはどんな人々なんだろうと思ってぼくはこの国に来た、
少し残念だ、一緒に飲みたかったのに」(*1)
今は桐野夏生さんの「優しいおとな」(*2)が気になって目を通しているけれど、ごめんなさい、余程波長が合わない限り連載小説は素通りしています。そんな僕が村上龍さんのこの作品は欠かさず読んでいたのでした。なにより題名が良いでしょう? 「イン ザ・ミソスープ」──耳元に妙に甘くささやいて、暖色系の連想、オレンヂやイエローのほのぼのとした灯かりが脳内にぽっと点った覚えがあります。
連載に先立つ告知には、日本を訪れたフランクという名のアメリカ人をケンジという若者が案内して歩くという簡単な説明が付されてもいました。自由闊達な高校生が来日し、ホームステイ先で騒動を起こす、そんな人情喜劇のイメージが湧きました。それとも初老の外国人と日本の好青年の穏当な小旅行かしらん。夕立が引いたばかりのなよやかな風情の古都や嵐山を回遊しながら、男ふたりが熱心に文化論を交わす、そんな涼しげな光景を思い浮かべたりもしました。“ミソ”という言葉がいかにステレオタイプの反応を喚起するか、その典型ですよね。知らず知らずの内にこころを染めていく“ミソ”の色って、存外濃厚でしつこいものです。
実際に村上さんの小説のなかで描き出された場景の、その常軌を逸したシュールさ、凄惨さと酷悪さについては触れないでおきます。けれど、上に書いたようなヌクイものがことごとく裏返っていくのはかえって愉快でもありました。きっとそれも村上さんの狙いだったのだと思います。既存イメージをいささかの疑いもなく受け入れている頑迷な僕たちの頬を、おい、目を覚ましなよ、と、ぴしゃり平手で張ったのでしょう。
最初に紹介した会話は、本当に最後の最後の幕引きになって交されるものです。年末の喧騒に包まれた新宿の街の、暗く奥まったパブの店内で延々とフランクによって為される快楽殺人の後になって唐突に語られます。それまでは“ミソ”のミの字も現れなかったのに、ようやく出たかと思い、えっ、これだけなのかと拍子抜けもしました。続けてフランクが語ります。
「もう飲む必要はない、ぼくは今ミソスープのど真ん中にいる、コロラドの
寿司バーで見たミソスープには何かわけのわからないものが混じっていた、
野菜の切れ端とかそんなものだ、そのときは小さなゴミのようなものにしか
見えなかったけど、今のぼくは、あのときの小さな野菜の切れ端と同じだ。
巨大なミソスープの中に、今ぼくは混じっている、だから、満足だ」(*1)
物語の主題や書かれた目的は読者それぞれが読み解いて胸に抱けばいいのだし、村上さんらしい相応のメッセージが随所に挿入されてもいます。その各々は傾聴に値するものが確かにあって、面白い小説であることに違いはありません。僕も嫌いではない。それにしても、とやはり思います。やっぱりこれ、この“ミソスープ” はいびつで不思議な登用です。
ここでの“ミソスープ”は日本という国とそこに住まう僕たち「内側」のことを明確に指差しています。「外側」からは色も匂いも異様です。汗を連想させて口を付けるのを躊躇させておきながら、上品で洗練されていると続ける(村上さんの)言葉の背景には分裂した自意識が例によって認められるのですが、結局のところ、ぽんと投げ掛けられるばかりで重い唇は閉じられてしまいます。取って付けたようなモノローグになっているのはそのためですね。除夜の鐘が鳴り渡る寸前の、凍てついた川べりに捨て置かれてしまいます。ケンジと一緒に、僕たちも置いてけぼりにされてしまう。
ブラウン色のレンズを通して日本人が日本人を見通そうとするとき、そのレンズ自体が波立ち変形してしまう感じです。そして、大概はこうじの破片や大豆の細かなコロイドがぶわぶわと浮遊、回流して邪魔をして、視界が利かずに観察を放擲するに至る。そんな読後感が味噌汁の登場シーンにはとても多いです。不思議です。はは、そんなこと思うには僕だけかな(笑)
阿鼻叫喚の地獄絵や猥雑な描写がもたらすカタルシスだけでなく、僕たちが僕たちを見詰めるときの視線、奇妙で妖しい目付きの確認も「イン ザ・ミソスープ」の読みドコロとして、それでも確かにあるように感じています。
「ベルリン・天使の詩」(*3)などで知られるヴィム・ヴェンダースさんが映画化の最中みたいですね。主演はウィレム デフォーだって! ひゃあ、どうなってしまうのだろう、味噌汁がまるで人間の汗どころか血のような匂いがするなんて噂が立たないかな。とっても僕は心配だよ。
うーん、まあ、そんな事言って心配しても始まらないや(笑)。夏も本番、楽しんで過ごしましょう!
どうか良い休日を! 休日でないひと、どうかケガのないように!
(*1):「イン ザ・ミソスープ」 村上龍 幻冬社文庫
(*2):「優しいおとな」桐野夏生 讀賣新聞 毎週土曜日掲載
(*3): Der Himmel über Berlin 1987 監督ヴィム・ヴェンダース
2009年7月14日火曜日
石井隆「魔楽〈Maraque〉」(1986-87)~内側の旗印として~
野上「ファ~~ッ……
さすがに疲れたなァ
本降りにならないうちに早く帰って
ママの熱い味噌汁を飲みたいよ」(*1)
石井隆(いしいたかし)さんは1970年代と80年代を通して劇画家として活躍され、その後は映画監督に転進されています。表現の手段は変わりましたが、峰を連ねて世界は広がって見えますし、あいかわらず追従を許さないトップランナーです。最近では喜多嶋舞さん主演でやたらと長い題名の映画(*2)を創って話題になりました。内外の映画監督にも影響が少なくない存在感のある作家です。
幼少の頃から映画をたくさん観て過ごし、いつかは映画で食べていきたいと願い続けた。苦労してそれを成し遂げた初志“貫”徹の人ではありますが、いずれの作品にも“貫く背骨”みたいなものがあって、いつも生真面目な印象を抱いてしまいます。先日昔の雑誌に載っていたインタビュウを読んだのですが、実に堅い。ぎんぎんの理詰めで世界を構築していく人なのだと分かります。
あれこれ僕が言うよりも、その言葉をちょっとだけ引かせてもらいましょう。
「ぼくは性というものにこだわることによって、墜ちていく人間たちの中に、生きていくことを選んでいるがゆえの孤独や不安、絶望感といったものを恍惚と裏腹に描きたいと思っていたんですが、現実には女性が自分を売ることで儲けていくような、性に関わって上昇していくという、しかしそれは表層的な性の解放、女性解放という幻想にもかかわらず、とりあえずそういう時代になったわけです。(中略)それが七〇年代の後半でした。」(*3)
これは具体的にどういうことを指し示しているかと言えば、写真表現で“体毛”の露出規制が緩和され、それとほぼ同時期に(あくまで規制を潜ってというものでしたが)さらに露骨で直接的な映像が流布されるようになったことへの疑問を投げ掛けているわけです。
見せてはならない「内側」を露出するようになったけれど、それは「外側」をかえって飾り立てることにしかならないのではないか。肝心の「内側」である“こころ”が置いてけぼりにあってはいないか、と問い掛けている。
その疑問の念と持ち前の反骨精神が、石井隆さんの作品群のなかで異色中の異色となっている「魔楽(まらく)」という作品を産み落としました。さらに石井さんの言葉を引きましょう。
「性的な劇画でぼくが最後に描いたのが、『魔楽〈Maraque〉』(1985)という作品なんですが、それはいい奥さんも娘もいる中年のサラリーマンが休みの日だけランド・クルーザーに乗って山奥に行き、騙して連れてきた女の子たちを廃屋になった山小屋の地下で殺してはビデオで撮る、といったものでした。殺す時は顔から足の先まで全部覆って、自分の皮膚はいっさい出さずに女性を惨殺し、それをホーム・ビデオに撮り、持ち帰っては独り自分の部屋で見るという……。それがその時の、ぼくの精神状態だったんですね。「いま、性を描くとしたらこうなんじゃないの?」と。」(*3)
上の打ち明け話で大事なのは“顔から足の先まで全部覆って、自分の皮膚はいっさい出さず”という箇所です。確かにへんてこ、なんですね。見ているだけでじっとり汗ばむような窮屈な装束に殺人鬼の野上という男は執着しています。ラバーマスクは顔面に密着して呼吸も困難そうな感じなのですが、さらに両の目の部分にはご丁寧にも水泳競技の際のゴーグルのようなものがはめ込まれています。怖さを越えて珍妙の域であり、女の子には“タコお化け”と揶揄されたりもします。
光景の一部始終を撮影している訳ですから、読んだ当初は容貌を隠す為の変装かと思ったのでしたが、石井さんの言い回しを読むとそんな単純なものではないことが分かります。「内側」と「外側」、「隠すこと」と「見せること」について、かなり思い詰めた結果の上に世界が構築されている。
そんな意識過剰とも言える眼差しは、野上という男の家庭や住居の描写にも及んでいます。一見穏やかな日常の風景が点描されているのですが、僕のようにねちっこく石井隆さんの作品も読み比べている者には構図やリズムが狂っていることが分かってしまい、なんて細かしい演出をするのかと感嘆してしまうのです。
その野上家の描写で特筆すべきは“食べる”光景です。総じて石井さんの作品では食べることが忌まわしき未来と直結したり、はたまた、すれ違う想いを含んだりするものですが、この物語ではそれが随分と誇張されています。
食事する行為そのものではないのですが、冒頭に紹介した描写は忌まわしさやすれ違いの典型的な大気を孕んで見えます。新たな犠牲者を作ったばかりの鬼畜、野上が廃屋の外に出る。いつの間にか冷え込んだらしく、大きな白い雪片がひらひらと舞い降りている。野上、大きく伸びをする。風景をぐうっと俯瞰して空から眺めることで、廃屋とその周辺の寂びれた原野の全貌が映し出される。あたり一面真っ白になっていて、風がヒューーッとその頭上を吹き渡っていく。人をひとり殺めておいて、どうしてこんな状況下に「味噌汁」を口に出来るのか。読者の誰もが唖然とする場面です。
「外側」から家庭という「内側」へと帰還する際の掛け声となっていて、味噌汁はその旗印として象徴的に取り上げられている訳なのだけれど、ここでは誰が見ても平穏な安らぎを匂わしてはいません。陰画となって像を結んでいくのは、途方にくれながら生きている現代人の疲弊した精神模様でしょう。分岐し、多層になり過ぎてしまい、自分でも収拾をつけにくくなってしまったこころの有り様です。「内側」と「外側」の境界が引けなくなっている。そこはかとない侘びしさに襲われる、笑ってしまうけれど実に怖ろしいひとコマです。
ひとりの作家に意識的に登用され、滑稽で奇怪な、そして極めて違和感をともなう“味噌汁”がここにも描かれていました。
(*1):「魔楽」石井隆 ぺヨトル工房 1990
(*2):「人が人を愛することのどうしようもなさ」 監督 石井隆 2007
(*3):「武蔵野芸術 №100」 武蔵野美術大学出版社 光琳社出版
映画へ◎揺籃期としての80年代 石井隆インタビュウ
インタヴューアー 斎藤正勝+栗山洋
2009年7月7日火曜日
小松左京+谷甲州「日本沈没 第二部」(2006)~引き潮に乗って~
余韻を楽しんでいたら、桑島所長が水差しの麦茶をそそいでくれた。
ふたたび、あの香りが鼻腔(びこう)をくすぐった。
「自家製ですか?」
すぐに口をつけるのも不調法な気がして、篠原はたずねた。桑島所長は
微笑を浮かべていった。
「入植がはじまった当時は、みんな日本の味に飢えていたものね……。
仲良しになった女性たちと『日本食を楽しむ会』というのをつくったの。
いまから考えれば、本当に手探りの状態だったわ。とりあえず味噌(みそ)を
作るところからはじめたのだけれど、最初はうまくいかなくて……。何度も
失敗しては、口惜(くや)しい思いをした。
そうしたら誰かが、もっと簡単な麦茶からはじめようといいだしたの。でも
これが、なかなか大変でね。最初のうちは、オオムギが原料だってことも知ら
なかったのよ。お年寄りのところに足をはこんでも、製法まではご存じの方が
みつからなくて……」(*1)
急激な地殻変動によって列島が消滅。あれから二十五年を経た世界を「日本沈没 第二部」は描いています。空前のベストセラーとなった前作(*2)は映画(*3)にもなりましたね。幼かった僕は父に連れられ劇場に行き、そこの小さなスクリーンで観た記憶があります。カビ、煙草、ほこり、汗といったものが入り混じった満員の客席のすえた臭いを、鼻腔の奥にぼんやり思い返します。
潜水艦の操舵士である小野寺(藤岡弘)とその恋人の玲子(いしだあゆみ)が、大混乱の只中で生き別れになっていく。別々な貨車に押し込められて異なる方向にぐんぐん引き裂かれていく。情無用のラストシーンが切なかったですね。サウンドトラックがYoutubeにありますから、BGM代わりにかけましょうか。寒々しい荒野を先へ先へとひた走る列車が蘇えって来ます。
前作から連なる“波”が、「第二部」にはうねっています。移住という名の津波です。突き詰めれば“波の物語”と言い換えてもいい。終幕まで寄せては返して、さすらい続けます。
散り散りになって世界に押し流されていくその先で、軋轢が生じてたいへんな試練に遭います。台風が針路を変え被害をもたらすなど局地的な異常気象が多発するのですが、一億もの人間(日本人)の移住が遠因ではないかと噂が立ってしまうのです。国によっては必死に開墾して築いた村まるごとの虐殺行為にまで激化し、幼い子供までが犠牲となっていきます。
二十五年前の列島消滅の波乱後、かろうじて構造と体面を維持し得た日本政府は苦難を耐え忍ぶ流浪の国民を救おうと躍起になります。標高2700mを誇っていた白山連峰の一部が“白山岩”として海面すれすれに頭を覗かしている。それが国土の唯一の名残りなのですが、ここを基点にして全長三十キロちかい巨大建造浮遊体メガフロートを繋留し、百万人規模を連れ戻して居住させようと画策します。つまり国民を呼び戻そうとする“引き潮”が最初に描かれる。
上に紹介した会話は物語のはじめのほうで語られます。パプアニューギニアにある研究センターを篠原という技師が訪問したときのものです。「定住地に腰を落ちつかせた邦人たちが、最初にやったのは日本の味」、「自宅で調理できる家庭の味」を取りもどすことであり、「ごく普通の味噌汁や漬け物の味を──それも地方によって差のある懐かしい味を、再現しようとして」悪戦苦闘したと丁寧に説明されています。
それは異国での生活を突如強いられた場合、僕たちがきっと始めるに違いないことであって不自然な描写ではもちろんありません。けれど描かれるタイミングとして作為を感じない訳にはいかないのです。希少品となってしまった“日本酒”をはじめとし、“麦茶”“納豆”そして“味噌”を郷愁たっぷりに陳列してみせる作者の目論みは何でしょう。
「世界に例をみないほどの均質化(ホモジナイズ)された民族」である日本人は「特異すぎて、他の民族と融けあわない」。だから、迫害に遭い辛酸をなめる境遇を救うには“帰国”させるしかない、という決定が下される。それはそうだ、日本食は特別なもので、それを食べている私たちは「溶けあわない」のは当然である、メガフロートで建国を目指すのが最善じゃないか。故国の消失を嘆き惜しみ、巨大な浮遊体へ結集して失った日常を再現しよう。安住の地、というより“孤絶した場処”を希求する(僕たち読者を含めた日本人の)性格を盛んに煽っているのです。
物語は後半に入って急展開し、潮目は変わって地球全体を呑み込んでしまいます。日本国民は結果的に民族再編の道を諦め、さらなる移動を余儀なくされていくのですが、何がどのような形で起きていくかは未読のひとの楽しみに取っておきましょう。
ただ、そんな後半部分には日本食が描かれないことは特筆すべきでしょう。“引き潮”に当たった時だけ“味噌”が官能的、象徴的に祀り上げられたことが面白いのです。ここでも単なる嗜好性の高い食品の域を越え、「境界の食物」として刻印されています。
このブログで取り上げる作品はどれもこれも味わい深い資料です。悪し様に言うのは大いに気が引けるところなのだけど、ちょっとだけ書き足しましょう。作劇においての“味噌(汁)”への眼差しや役割は、ときに観念に溺れ策に溺れて滑稽味を帯びてくるというのが僕の持論です。「日本沈没 第二部」においては内側に埋没していく民族志向がべったりと憑依したようでした。かなり退嬰的に目に映りました。
ジャーナリスト、映像製作者、映画配給者、歌手、翻訳者、教師、産業界のひとたち、食の輸出入業者。意思疎通に苦戦しながらも世界の人たちと斬り結び、多彩な交流を重ねていくひとはフィールドや年齢性別を問わずとても多くなっています。
この物語に描かれている日本人は実際に生きて闘っている彼らと比べると、あまりに閉鎖した思考回路で脆弱に過ぎます。いささか焦点が狂ってしまっている観は否めませんでしたね。窮屈な縮こまった“味噌(汁)”になっていると感じました。
(──それとも逆に“味噌(汁)”に内省をはげしく促がす作用があるのものでしょうか。う~ん。)
確かに外界との接触は深刻なすれ違いをもたらし、時には魂を傷つける大怪我もします。
けれど、やはり“出逢い”は胸躍る嬉しい奇蹟に違いはありませんよね。無限に開かれた空でも仰ぎ、ふさぐ気持ちを解き放ちましょう。
折りしも今夜は七夕、ゆっくり星を数え、月を探して微笑みましょうか。
(*1):「日本沈没 第二部」 小松左京+谷甲州 小学館 2006
(*2):「日本沈没」 小松左京 1973 カッパノベルズ 光文社
(*3):「日本沈没」 監督 森谷司郎 1973
2009年7月6日月曜日
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【た】
ダーク(桐野夏生)
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だいこんの花(向田邦子)
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漂う魂(桐野夏生)
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旅人かえらず(西脇順三郎)
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誰か故郷を想わざる(寺山修司)
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探石行(つげ義春)
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地球はプレイン・ヨーグルト(梶尾真治)
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父 山本五十六(山本義正)
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津軽惨絃歌(上村一夫)
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寺内貫太郎一家(向田邦子)
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寺島町奇譚 どぜうの命日(滝田ゆう)
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寺山修司のいる光景─母の蛍(寺山はつ)
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田園に死す(寺山修司)
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天使のはらわた 名美(石井隆)
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トイレの話をしよう 世界65億人が抱える大問題(ローズ・ジョージ)
THE BIG NECESSITY:The Unmentionable World of Human Waste and Why It Matters
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/11/2009.html
東京の昔(吉田健一)
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同棲時代(上村一夫)
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遠くにありて(近藤ようこ)
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時をかける少女(大林宣彦)
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隣りの女(つげ義春)
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【な】
泣き味噌屋(池波正太郎)
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懐かしいひと(つげ義春)
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二十四の瞳(木下恵介)
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二十四の瞳(壺井栄)
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二の二の六(高野文子)
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日本沈没 第二部(小松左京/谷甲州)
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人魚伝説(池田敏春)
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ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う(石井隆)
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葱(ねぎ)(芥川龍之介)
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残った醤油(向田邦子)
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【は】
パゾリーニのキングコング(森卓也)
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はだしのゲン(中沢啓治)
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花火 九つの冒瀆的な物語 FIREWORKS(アンジェラ・カーター Angela Carter) http://miso-mythology.blogspot.com/2010/11/1987.html
母の贈物(向田邦子)
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遥かなる航跡 La Trance(リシャール・コラス Richard Collasse)
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春の雪(上村一夫)
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晩菊(林芙美子)
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人の考えつくこと(村上春樹訳 レイモンド・カーヴァー)
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ひとりぐらしも5年目(たかぎなおこ)
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美は乱調にあり(瀬戸内晴美)
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複雑な彼女と単純な場所(矢作俊彦)
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再び食べものに就て(吉田健一)
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葡萄酒とみそ汁(吉行淳之介)
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Flowers フラワーズ(小泉徳宏)
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フランケンシュタインの方程式(梶尾真治)
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古いお寺にただひとり(里中満智子)
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PLUTOプルートウ(浦沢直樹)
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豊穣の女神(西脇順三郎)
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ボウル・ゲーム(矢作俊彦)
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放浪記 第一部・第二部(林芙美子)
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放浪記 第三部(林芙美子)
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墨汁一滴(正岡子規)
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星をまちがえた女(上村一夫)
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焰火(ほむらび)(抄録)(吉村龍一)
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焰火(ほむらび)(吉村龍一)
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ポリティコン(桐野夏生)
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【ま】
マナをめぐる冒険(将口真明)
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眉かくしの霊(泉鏡花)
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マヨネーズ(高野文子)
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魔楽(石井隆)
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マリア(上村一夫)
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味噌歌十首(斎藤茂吉)
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味噌汁と友情(中島丈博)
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味噌汁の詩(千昌夫)
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味噌汁は朝のブルース(片岡義男)
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ミソスープ(デゴマス)
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みそっかす(幸田文)
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みそっかす(ちばてつや)
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味噌とジェーン・バーキン(宮迫千鶴)
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三ツ目の夢二(大塚英志、ひらりん)
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息子の帰還 Le Retour(リシャール・コラス)
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村上龍料理小説集 Subject 22(村上龍)
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め~てるの気持ち(奥浩哉)
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ももへの手紙(沖浦啓之)
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【や】
屋根裏の椅子(林芙美子)
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ゆーとぴあ(上村一夫)
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百合祭(桃谷方子)
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夜をゆく飛行機(角田光代)
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【ら】
禮記(西脇順三郎)
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リアリズムの宿(つげ義春)
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離婚倶楽部(上村一夫)
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龍馬(津本陽)
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竜馬暗殺(黒木和雄)
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竜馬がゆく(司馬遼太郎)
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龍馬伝(福田靖)
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龍馬を斬る─佐々木只三郎(早乙女貢)
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恋愛中毒(山本文緒)
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老妓抄(岡本かの子)
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老主の一時期(岡本かの子)
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60センチの女(上村一夫)
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【わ】
ワイルド7(セブン)(望月三起也)
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若者たち(山内久)
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私は犬になりたい¥490(さだまさし)
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ワンサくん(手塚治虫)
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2009年7月4日土曜日
矢作俊彦「スズキさんの生活と意見」(1992)~歴史的な妥協~
「野球でもしようか」彼は言った。
「本当!?」息子が歓声をあげた。
「ほうれん草も食べなさい」妻がパン皿の横に緑色のペーストを押してよこした。
「ぼく、おひたしの方がいいんだよ。ゴマで和えた奴」
「パンって言ったから作ったのよ」
「別にいいじゃないか」とスズキさん。「ペーストでなくてもさ」
「味があわないわ」
「合わないと言えば、味噌汁だってそうじゃないか」
「これは歴史的な妥協よ。サダト的な、ね」
「何を言っているんだ」
「味噌汁とパンよ。あなたとお坊ちゃまのイェルサレムでしょう」
「だから何がサダト的なんだい。キリスト教徒が妥協だなんてよく言うよ」
「あら、俗世の政治については、バチカンも仏教に学ぶところが多いと思うわ」(*1)
矢作俊彦さんは息の長い書き手です。漫画原作、随筆、小説など難なくこなして現在に至っています。ご自分の小説の挿し絵だってお手の物です。別名で漫画を描いていた時期もあるから、もともと器用な人なのです。
彼を語るとき、大友克洋さんが絵を担当した「気分はもう戦争」(*2)を外すことが出来ません。それで分かる通り“時事ネタ”を接ぎ木するのが得意です。面白さもつまらなさもそこに集約されるきらいがあり、散らかった雰囲気が紙面を覆ってしまうことも。好みが別れる作家のひとりではありますね。どうしても読み手の体調や時間を選んでしまう。
「スズキさんの生活と意見」は作者の分身であるらしい“スズキさん”が、とある朝に自宅の食卓についたところから始まります。「たとえようもなく豊か」な朝食で幕が開きます。「味噌汁とベーコン・エッグ、それに御飯かパンがつく」のがスズキ家の慣習となっていて、「今朝の味噌汁は、大根」です。献立内容が少しずつ洋風に変質していくのは、7才の倅にイニシアティブを奪われかけているからです。内心忸怩たるものがあるのですが、奥さんともども息子をも深く愛して止まないスズキさんはあえて守勢に甘んじてやり過ごしています。
さて、奥さんが「サダト的」と口にしたのは何でしょう。僕より上の世代のひとにはありありと映像が浮かぶのでしょうが、エジプト大統領の電撃的なイスラエル訪問とそれを踏まえての一連の出来事を指しています。1977年11月にエルサレムの国会で「平和」を叫ぷ演説をサダト大統領は高らかに行ない、中東情勢の雲行きを見守っていた世界の人々をあっと言わせました。翌1978年9月にはキャンプデービッドで三カ国会談が行なわれます。カーター大統領、サダト大統領、イスラエルのペギン首相の三人が握手し、肩を寄せ合う映像が繰り返しテレビに流されましたね。早いですねえ、あれから30年も経ちました。
紛争当事者であるパレスチナPLO抜きに和平工作が進められたために、世界が待ち望む恒久的な紛争解決はなりませんでした。あれから延々と衝突が引き起こされているのは承知の通りです。雲間を裂いた光明が、ああ、眩しいと思った刹那にざんざんの土砂降りになる、その繰り返しです。
かくてエルサレムは狭い区域内に多様な宗教史蹟をモザイク模様のように抱え、平和の礎とも紛争の火種とも分からぬ繊細で危うい綱渡りを続けています。その地勢的なちぐはぐさを食卓上のパンと味噌汁の組み合わせのちぐはぐさに重ねている訳です。
ですから「スズキさん─」で描かれる食卓は、麗々しく知的な奥さんと利発で素直な息子に囲まれて大層華やいで見えますが、裏側から眺め直せば何やらとりとめのない諦観と疑念に貫かれていることが読み取れます。イスラエルの国際的“孤立”があり、これに対してイスラム世界から突出する形で手を差し出したがためにエジプトもまた“孤立”しました。結局のところは分かり合えない者同士の集団として家族を捉えていて、甘い蜜月はいつしか終わることを予感している、そんな節があります。
また、サダト大統領は1981年10月の屋外での式典のさなか、トラックから駆け寄る男に撃たれて暗殺されています。どれだけの精力を傾けて想いを寄せたところで、世の中は上手く行かない事だらけです。嬉しくそして悲しい記憶の延延の堆積。あれから約4年、全ては無駄なこと、だったのかな。一体全体、何だったんだろう…。銃創から噴き出す己が血にまみれながら彼は何を思ったか、想像するととても切ないですね。
そのようなほの暗い陰影を反映している訳ですから、ここで登用された“味噌汁”には自ずと孤愁の風貌が宿ります。柔軟さを兼ね備えない頑迷さ、勇気の無さ、裏返っての日和見主義などの自嘲的な負の性質が託されて見えます。ちょっと淋しい味噌汁です。
1950年生まれの矢作さんの実年齢をスライドすることが許されれば、分身のスズキさんは当時42歳になります。17年を経た今、彼は59歳、子供は24歳になっているはず。孤独を愛しこそしませんが、孤高をひどく意識して胸中思い屈して止まなかったスズキさんは、今どこでどんな机に坐し、どんな食事をしているものでしょう。
奥さんとは仲良くやっているでしょうか。子供とは意気軒昂な会話を続けているものでしょうか。とても興味をそそられますが、一方で怖くもあります。それはスズキさん同様に不器用で日常を歩むのがヘタクソな、この僕自身の17年後を想うことになるから。美味しく温かい味噌汁の椀に口を付け、こころから愛するひと、ほんとうに愛する家族と視線を交わしてゆったりと和んでもらいたい、そう願って止まないのです。(これがなかなか、ねえ…)
(*1):「東京カウボーイ」1992年 新潮社 所載
(*2):「気分はもう戦争」1981年 双葉社
2009年7月1日水曜日
関川夏央「ゲート前の外人バーにて」(1988)~恐ろしいもの~
わたしは友人に尋ねた。
たまにはフィリピンの女の子と付き合ったりするの。
しないさ、と彼は答えた。エイズ以来だれもしないんじゃない?
外人バーだって日本人はほとんど行かないもの。
外人は怖いから、と彼自身も混血なのにそんなふうにいった。
ただし暴力沙汰という点では外人すなわち米兵はちっとも怖くないという。
彼らは日本人相手に絶対(と彼は強調した)トラブルを起こさない。なぜかと
いうと日本の刑務所を、とりわけ刑務所の食事を、さらにとりわけミソ汁を
恐怖しているからだそうだ。兵隊がミソ汁とタクワンを恐れること、
ドラキュラにとってのニンニクと十字架に匹敵する。 (*1)
沖縄中部東岸の町“金武(きん)”の探訪記です。閉じる店が後を絶ちません。かつて兵隊相手に勢いづいていた歓楽街は、“円”の価値が上昇するにともない零落の一途をたどっています。“斜陽、というよりもはや日没”と容赦なく表現するのは関川夏央(せきかわなつお)さん。今から二十年前、当時まだ三十八歳の若さでしたが、怖れ知らずの独特の言いまわしはこの頃から全開でしたね。
寄稿した雑誌の性格と具体的な数字を並べて為替変動を語っていることから、八十年代末に実際に足を運んだものでしょう。わずか5頁と半端の数行といった掌編に過ぎないのだけれど、温かく湿った大気を感じさせます。どこか浮き足立った男たちが闇を往来するのが目に浮かびます。国籍を越え、性差を越えて場を共有するひとの、さまざまな思惑が写し取られた簡潔な文章です。
繰り返しの日常に生きる僕には魅惑的な情景です。一本のビールで懸命に粘る米兵、それを追い出す店のママの叱声。南方から出稼ぎに来た娘は隣りに腰を下ろし、片言の日本語で話し掛けてきます。紫煙に眉をひそめる者は誰もいませんから、店内は甘い霧に包まれていたでしょう。壁の灯かりはむせんで揺れたでしょう。寄り添う影の輪郭はぼうっとにじんで映ったでしょう。
せっかくいい気分でいるのに、やおら“ミソ汁”が登場します。笑いをさらに誘おうと言葉を継いでいくから、ハードボイルドの世界はすっかり瓦解してしまう。“ドラキュラ”と“ニンニク”が先端のとがった杭に化けて止めを刺します。ペーソス溢れるチャップリン喜劇に夜の町は変貌してしまいます。
大いに笑って、ああ、面白かったと終わらせても良いのだけれど、それでいいのかな、と立ち止まってしまう。幾つかの焦点(ポイント)を擁した短文ではありますが、もう一度それをたどり直してみると網目にすくい取れるか取れないかの、小さな“違和感”が見つかります。
沖縄の復帰は1972年でしたから、それから十年以上の月日が経っている。ですが、人の移動は緩慢で劇的な変化は起こり得ない。友人との会話と思案の矛先は、どうしても人種や国に関わるものになってしまうのです。「オキナワとジャパンは別の国」「いっそ独立しちまえばよかったさ」──そのような流れのなかに“ミソ汁”は点描されていました。
留置所や刑務所の食事を懸念してブレーキを外せない“流れ者”の小心を浮き彫りにしていますから、あくまで文面上の主役は兵士=人間です。けれど、ちょっと珍しいのは“ミソ汁”が他国の者にとって“違和感”を抱かせる存在なのだと明示していることです。陰の主役となって“ミソ汁”は何事かを囁いています。
兵隊がミソ汁とタクワンを恐れるらしいぜ、ドラキュラのニンニクや十字架みたいだね、と笑い合った後、いきなり会話は“喧嘩の仕方”に移ってしまいます。「外人同士ではいまでもたまに立派なバイオレント・アクションが見られる。あいつらの喧嘩はすごいね、と彼はいう。」関川さんの反応がすっぽり抜け落ちています。読み流してしまわず、ちょっと想像してみましょう。兵隊がミソ汁を恐れる─(不思議だね、可笑しいね)ということでしょうか。それとも、兵隊がミソ汁を恐れる─(そりゃ当然だね)だったのでしょうか。
漬け物屋さんに難癖をつけているのではありませんが、こうして意図的に“タクワン”を並べ置く関川さんの筆の先には、ミソ汁を毛嫌いする異国の兵士に対して同情や憐憫が匂ってきます。臭いもの、不味いもの、野暮なもの、不衛生なものといったイメージの共有が透けて見えます。
ブルドッグと鉢合わせした猫のトムが目玉と舌をびょ~んと突き出し跳びすさるように、屈強な兵士が小さなミソ汁の椀を目にしておののき後ずさる。そんなコミカルな光景を脳裏に描き、さもありなん、うふふふと笑う僕たちの胸にも同様のミソ汁イメージが僅かなりとある。これは否定できないでしょう。
境界に位置する町“金武”の、さらに混沌とした緩衝地帯である場末のバーを舞台にして語られるミソ汁は、境界のこちら側=“内側”にある特別なものとして強調、記号化されて、いかにも象徴的に取り上げられている。加えて明らかに“負”の意味も担わされています。
ここでの“内側”は“国境の手前”ということに等しいですから、ミソ汁が担う違和感は“日本人”にそのままスライドしそうです。臭い者、野暮な者、不衛生な者といったセルフイメージを喚起することになります。 いや、ちょっと暴想が過ぎましたね。ここまで自虐的にならなくてもいいでしょう。
恋愛の「れ」の字もないのですが、ねじれた自意識が露呈する深層的な内容で、ちょっと惹かれる「味噌エッセイ」なのでした。 時流や微細なことにこだわる関川さんらしい、味のある文章でしたね。
さてさて、いよいよ大雨の季節。渦巻く灰色の雲も、夜半押し来る重い雨脚も、ぴりぴり総毛立つ雷光も、どれもが情緒を宿して嫌いではない、いや、好きです。でも、うっかりするとカビが生えるし食中毒も招きやすい。どうぞ食品の管理は怠りなく。
味噌はこんな高温多湿の風土に冷蔵庫もない昔から根付いたもの。カビなどモノともしません。頼もしいばかりで、決して不衛生でもない。自信を持って、安心してどんどんいただきましょう。“臭い”とも思わないしね。刑務所にいつ入っても僕は平気です。
(*1):「道新Today」(北海道新聞社)1988年8月号初出 「森に降る雨」(双葉社)所載