2010年3月6日土曜日
上村一夫「すみれ白書」(1976)~上村一夫作品における味噌汁(9)~
どうです、この笑顔。上村一夫(かみむらかずお)さんの「すみれ白書」(*1)の主人公で、タイトルにも冠されている“林すみれ”という二十歳の娘です。
媚びず浮かれず、典雅で真っ直ぐな表情が僕たちの胸に飛び込んできます。この瞬間、すみれと相手とは“食事”の只中にありました。もっとも食卓における破顔や歓声は付きものです。微笑んでいる女性”が“食事”の場景に描き込まれることは至極自然な話で、取り立てて語るまでもない風景と言えます。
だけど、ここまで順を追って読み進んでくれば、読み手の皮膚内へとじわり滲(にじ)んで迫るかのようなこの“笑顔”こそが上村世界ではたいへん奇異な現象であり、いかに非日常の光彩を放っているかが分かってしまう。
「狂人関係」(*2)のお七と捨八、「離婚倶楽部」(*3)の夕子と真田に見られたように、“食事どき”の堅苦しさ、緊張や不自由さこそが上村さんの劇の基本でした。表情はどうにも冴えず、麻痺しているような、乾いたような面持ちになっていく。口元は横一文字に閉じられ、ごくごく浅いながらも眉根あたりに縦皺がぼんやり浮かんで見えてしまう、それが常でした。(*4)
仏頂面から微笑みへ。すみれという娘に与えられた面貌(おもて)の変化は、目を留めてしばし対峙するに値する珍しいものなのです。どのような経緯でこの微笑みが生まれたのか、どんな“食事”をどんな相手と為したのかを見取る価値があります。(*5)
私生児として生まれ「家庭」を知らずにすみれは育ちました。母は精神を病んで長く入院もしています。デパートの店員としてたくましく働き、客や同僚といった外側へ向けての快活さが点描されていくのだけれど、その裏地には深く暗い、言いようのない色調の布が縫い付けられている、そんな風合のお話です。
いくつもの大事な局面を経て自律の道へと至る展開なのですが、お話の真正面に山となって聳(そび)えていたのは津軽三味線奏者の高田松山(“しょうざん”と読むのかな──)との出逢いと別れでした。一方的に恋焦がれて付きまとう青年に誘われ、あまり気乗りしないまま演奏会に足を向けたすみれだったのだけれど、そこで松山のばち捌(さば)きにすっかり魅せられてしまいます。
親と子供ほども年齢の違う初老の男の朴訥(ぼくとつ)で衒(てら)いのない空気にさっそく共振を開始した娘は、ある日の午後に夜汽車に飛び乗るや、一路雪深い北の地、松山の生まれ故郷の青森を目指すのでした。特にそれ以上に明確な行き先も目的も持たない感傷旅行に過ぎなかったのだけど、宿と決めた旅館の大浴場にて湯に当たって意識を失い、唸り倒れたそんな娘を見つけ快方したのが偶然にも同宿していた松山だったのです。
「偶然すぎる偶然は 偶然じゃない 互いの心の糸がたぐり寄せられた 宿命なのかもしれない──」(*6)とおんなは信じ、男の胸に飛び込んでいきます。部屋にこもってそうして二人は果てのない魂の交感を続けていくことになります。つまり、おんなの面(おもて)に宿った微笑みはこの松山という男との邂逅の直後に発せられたものなのです。何がすみれをして“食事どき”に微笑ませたものか、“食”と“観念”の連携を例によって丹念に追ってみます。劇中に潜む“不自然”を探る作業でもそれはありますね。
ゆらり浴場で記憶を途切らせて後、娘は自室に敷かれた布団のなかで目を覚まします。窓を開けると青い月が天空に浮かんでいます。面前に広がった湖にその光が落ちてきらきらと反射してとても美しい。どれくらい気を失っていたものか、あたりを静寂が真綿のように包み込んでいますから夜も相当に更けたに違いありません。
湖面に突き出すように組まれた幅の狭い桟橋があり、その先にはこちらに背を向けてしゃがむ人の姿が見とめられます。目を凝らせば宿の仲居で、バケツに両の腕を差し込んでは熱心に何か洗っている。ザッザッザッと、大量のしじみを洗っていたのでした。迷惑をかけたのじゃなかったかとすみれが詫びますと、それは何のことか、宿の者は何も知らないと返します。可笑しいのは、唐突に連なる次の言葉です。
仲居「この湖でとれるしじみはとても美味しいんですよ
明日の朝はしじみのお味噌汁をお出ししますから…」(*6)
実に“不自然”です。気絶した娘の身体を運んだのは誰なのかを順序立てて探っていく、確かにその筋道に沿ってはいるけれど、かなり強引に挿入された感が否めません。廊下での立ち話でも良かったし、様子を見に来た仲居とお茶でも飲みながら交わす言葉でも良かったのに、作者はざっと見て10メートル程も離れた場所に背を向ける仲居と娘に無理矢理に会話を強いています。“しじみ”の“お味噌汁”をどうあっても僕たち読者に想起させ、何事かを喚起させようとする企みがここにははっきりと読み取れます。
その後再会をはたしたおんなと男は共に夜をまたいで朝を迎えるのでしたが、ふたりは仲居の運ぶ朝食の膳、昼食の膳を廊下に留め置き、一切の飲食をせぬまま続けざまに愛し合うのでした。どうやら前夜もお茶漬け程度しか口にしていないらしいのです。「堰がきれたよう」に、また、「飼育されつづけ」の「猛獣」になって互いを貪るふたりには、上村さんの“決めごと”である「情念の高潮や心境の錯綜が“食事”を遠ざけて、かぼそくする」という方程式がしっくりと絡み合っています。
ふたつ身に隔てられていた魂が寄り添い、熱く溶解し、ひとつにじんじんと融合していく烈しい姿態の数々は、僕たちに「狂人関係」でのお七と捨八をたちまち思い返させます。たった三本の人参をモグモグカリと噛み砕いて咀嚼する時間を時折挿入しながら、いつまでも果てなく求め合った恋人たちの姿です。すみれと松山も夕飯どきから深夜、早朝、真昼を経て次の夕食時に至るまでの丸々一日を繰り返し抱擁して過ごしています。
「すみれ白書」はここから「狂人関係」より分岐して、新たな様相を呈していくのです。不可思議な偶然の起点となった大浴場にて身体を清めるうちに、おんなの腹は空腹に耐えかねて大きな音をグ~ゴロゴロと立て始める。男の部屋に戻ったおんなの前に二人分の夕食が並びます。焼き魚をメインに煮物、漬け物、味噌汁にご飯も詳細に大きくコマに描かれて差し示される。このような“食事”の描写は上村さんのお話では極めて珍しい。ふたりはそれを実に美味しそうに、幸せに満ち満ちた風情で残らず食していくのでした。
締め括りには急須からお茶を碗に注ぎ入れ、箸で摘んだ漬け物のひと切れで内側を丁寧にさらって、男はそれをすっかり飲み干してしまいます。老いて十分に仕上がった男の、米の一粒すら食べ散らさない繊細で堂々たる食べっぷりにおんなは感嘆し、じわり滲(にじ)んで来るような笑顔とまなざしを面(おもて)に湛えたのです。(*6)
畳の上に大の字になって横臥するほどにも胃を充たしたおんなだったのですが、男に微笑み向ける瞳にはしっとりと愛が宿っていました。「情念の高潮や心境の錯綜が“食事”を遠ざけて、かぼそくする」、「かぼそき“食”が情念の高潮を惹き起こし、胸の奥の洞窟に潜むものを覚醒させていく」。この“決めごと”は瓦解して露と消えたものでしょうか。何だなんだ、屁理屈を並べてみても実際は雰囲気作りにすべてが過ぎない、いい加減で出鱈目なメロドラマじゃないか。人気漫画家のやっつけ仕事だったんじゃないの。そんな意見が出ても可笑しくない徹底した“食事”への転進でありました。
上村さんの“決めごと”は原則的に変わらず「すみれ白書」でも適用なっていると僕は考えています。
そこが“旅館”の一室であり、すみれの“住まう”都会でもなければ松山の“自宅”でもないこと。最初の情交のあとにふたりで為された会話を着火点として一気に燃焼が拡大していること。この二点と従来の“決めごと”を結び付けることにより、上村さんのドラマで為された次の歩みが見えてくる。創作世界の基軸となるふたつの力の対立がより一層浮き彫りになるのです。
松山「世帯をもつか……」
すみれ「え?」
松山「ふたりして世帯をもとうか……」
すみれ「世帯か……「家庭」よりいいかもしれないね」(*7)
「家庭」的でない時空においてのみ、“食事”は「情念の高潮や心境の錯綜」と手を携えて新たな次元に踏み出すのだという上村さんの恋愛哲学が透けて見えます。「生活」の場を遠く離れたそのような場処においては“しじみのお味噌汁”も内観の鏡とならず、愛を祝福して一向に邪魔立てしようとしないのです。
日々の“食事”や“生活”、“日常”といった事々のいかに大切で得難いものであるかを戦後の貧窮を通じて上村さんはひと一倍実感してもいた。一方で「情念の高潮や心境の錯綜が“食事”を遠ざけて、かぼそくする」、「かぼそき“食”が情念の高潮を惹き起こし、胸の奥の洞窟に潜むものを覚醒させていく」というアンビバレントな想いも明解なリズムとして内部に培われたことでしょう。
そのような狭間にあって、いよいよ上村さんが至った結論が「すみれ白書」の“食事”であったのです。「家庭」という枠に翻弄され続けたすみれというおんなを突破口と為し、徹底して「家庭」を否定し「世帯」という曖昧な境界に佇むとき、ようやく初めて“食べる”場処に笑顔がぽっと灯る。上げ膳据え膳の旅館に逗留したという単純な理由ではなくって、もっともっと怖ろしい突き詰めたものがおんなの笑顔という形を借りて世界を覆い尽くそうとしています。上村さんの想い描く幸福の在り処、愛の景色というのは、極めて厳しい瀬戸際に立っているように思われますね。
高度成長を遂げ、さらに飽食の時代を越え、バブル崩壊に大不況。社会の諸相は変転を重ねましたが、上村さんの佇んでいたあの瀬戸際はそんな時代を超えて今、この時を生きる僕たちにも時折見えてしまう断崖絶壁でしょう。そこに立ち、身動きできずに白い波を見下ろしている人というのは存外多いのではないのかな。そんな想像を廻らしながら、僕なりのあれこれを静かに思い返しているところです。
(*1):「すみれ白書」 上村一夫 1976-1977 初出は「漫画アクション」(双葉社)
(*2): http://miso-mythology.blogspot.com/2010/02/19733.html
(*3): http://miso-mythology.blogspot.com/2010/02/19744.html
(*4):もちろん内実は違います。「情念の高潮や心境の錯綜」するあまり整理が付かなくなり、混沌した状態に置かれているのです。折々の懐に歓びが内在するのか当惑が同居するのかはバラバラなれど、いずれの気持ちも活発に波飛沫(しぶき)をあげていました。そんな胸中の温度や照度はさておくにして、ただ外観上のみを追うならば、おんなであれ男であれ手放しの幸福に浸っているようには決して見えないのが上村さんの“食事どき”でありました。
(*5):先述の「春の雪」の恍惚は“食事”における“笑顔”と呼べるものかどうか、これは悩むところです。“すみれ”の笑顔の落ち着きと比べたら実に不安定な喘ぎの域であって、なんとも得体の知れない表現ですよね。心(しん)からの幸せという感じじゃないです。狂った“食(べもの)”がおんなの狂気を演出していた、あれは普通の笑顔じゃないと受け取っていいんでしょう。ほっぺが落ちそう、と瞬時に頬に寄せられた両の手のひらはどうもムンクの絵みたいだし(笑)上村先生の描くところの“食事”にしても“食(べもの)”にしても、すべからく心象風景の一部なのだと理解すべきでしょうから、脳味噌を喰っちゃったおんなのそれは“悲鳴”に近いと解釈していいのかな、なんちゃって。しばし反芻してみよう、締め切りがある訳でもないしね。
(*6): VOL.20 闇三味線
(*7): VOL.21 部屋の中
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