2010年2月12日金曜日

上村一夫「離婚倶楽部」(1974)~上村一夫作品における味噌汁(4)~



 朝食のテーブルに背を向ける「マリア」と蕗味噌(ふきみそ)づくりから目をそらす「狂人関係」の二篇からは、まっとうな“食事”から遠い位置に主人公をいざなうことで心の陰翳を一層鮮やかにする、上村一夫(かみむらかずお)さんの作為が浮かび上がります。


 主人公や恋人たちの抱える情念の深さ、激しさを声高にではなくって実にさりげなく、かぼそい“食”を通じてそっと読者に悟らせようとするのです。これから引く「離婚倶楽部」(*1)はその辺りのシルエットがより際立っていきます。“決めごと”のプロポーションが露わになって、ドラマの内部で衝突する志向や哲学が明確になっていくのです。


 端正な顔立ちの典型的な上村美人である夕子は、若干二十五歳ながら小さなバーを銀座で営んでいます。店はタイトルの通りで「離婚倶楽部」と言い、ホステスの採用基準のひとつに離婚歴を求める、そんなちょっと風変わりな経営をしています。


 夕子自身も苦しい別離を過去体験しており、相手の男との間には朝子という名の幼稚園に通う娘がいます。離れて郊外に住む実母の手を借りながら懸命に育てているところですが、成長にともない大人の事情を察し始めた子どもの予想を超えた言動にその都度驚嘆し、大いに動揺もする日々です。


 離婚に踏み切ったことに対する後悔や迷いは既に夕子に薄いのですが、今度は我が身を投じた夜の世界が迷彩色に染め抜かれている気配なのです。彼女に未練を引きずる元夫、カウンター奥から想い焦がれて煩悶する若いバーテン、寄せ返す記憶に打ちひしがれて泥酔するホステスなど、彼女を取り巻く者たちの切々たる心模様が寄せ木されて、「離婚倶楽部」という店がずいぶんと現実味を増していきます。


 酔客の埒(らち)も無い話にころころと笑って調子を合わせ、同時に店の娘(こ)にそっと気を配りながら、ふと想いは逡巡して立ちすくむような気分も時に湧いてくる。穏やかで抑制の利いた風情を保ちながらも、その実はひりひりした緊張を懐胎したお話なのでした。






 人生の岐路に特有の余震は、日に何度も胸の内をぐらりぐらりと揺らします。「心境の錯綜」はうねうねと続いて終わりが来ないのです。(*2)そのため、この物語のなかの
“食事”と“食”のどれもこれもが、夕子の胸中を代弁して意味ありげに並んでいくことになります。



 “食事”に関わる描写で特筆すべきは三箇処です。その内のふたつを書き出してみますね。ひとつ目はバーテンの健を交えての仕込みの場景(*3)です。


銀座という場所柄もあって、行き交う人の流れに干満は付いて廻ります。少しでも売り上げの欲しいこともあるけれど、夕子は客の少ない土曜日を利用して忘れてしまいそうな家庭料理をおさらいするのです。松茸のどびん蒸しを下ごしらえする姿にまぶしげに目を細めるバーテンに対し、夕子は次のように胸の内を吐露しています。




健「似合うぜママ……エプロン姿が」

夕子「以前は 結婚していた頃は台所に立つのがとてもいやだった

  主婦になってゆくことが とてもいやらしい女に変ってゆくことと

  同じように思われて……」

健「根が女っぽいから 女っぽくなることがいやなんだ」

夕子「でも今は誰のためでもない料理を一生懸命つくっているのだから……」


 面白いでしょう、どびん蒸し一つ作るだけでこの騒ぎです。内省的な夕子の性格がよく出ている台詞なのですが、ここに上村さんの“決めごと”を照らし合わせるならどうでしょう。手の込んだ“家庭料理”を丹精込めて作る場処、彼女のこの店では「情念の高潮」を求めていない、そう遠回しに夕子は(上村さんは)僕たちに宣言しているようなものです。


 それを証左するようにして、バーテンの健の秘かな幻想がここに挿入されてもいます。エプロン姿を背後から見つめながら男は、こっそり郷里の山並みや“家庭の味”を想起していくのです。彼女を人生の伴侶にしたいという烈しい気持ちは言葉となって洩れ出てしまうのでしたが、夕子はそんな男の胸中を酌みつつも穏やかになだめて自制に導くのです。


 「離婚倶楽部」という酒場に一瞬咲いた男側の“家庭”への幻想は、おんなの堅牢で哀しみを帯びた意志に押し戻されて潰(つい)えてしまう。「狂人関係」での蕗味噌(ふきみそ)が松茸のどびん蒸しに替わっているだけで、上村さんの描きたい構図は全く同じでしょう。ひとつの事象(=食事)に対して男とおんなは真逆の思惑を抱いていく。空恐ろしい程のすれ違いが剥き出しとなっていて息を呑みます。読者は為す術なく、その残酷な経緯を見守るしかない。(*4)




 もうひとつの場景はさらに観念的です。店の会計を手助けしてもらうために夕子に雇われた真田という冴えない男が登場します。日曜以外の平日は娘朝子を実母に預かってもらっているので、夕子のマンションは若いおんなの一人住まいの面持ちです。真田はこの部屋に月末ごとの訪問を許されており、帳簿の作成や手直しに黙々と励んでいるわけです。家庭持ちで見るからに堅物といった印象なのですが、その日もあくせくペンを走らせるだけの男を横目で見ながら、夕子は急に思い立って調理に精を出すのでした。内緒ですが、「妻の座なんてもうすわる気もないくせに まねごとだけがしてみたかった」のです。(*5)


 ふたりの間で交わされる言葉のなかに具体的な料理名がないのが、どうにも奇妙です。それ以上に目を瞠(みは)るのは、料理そのものの描写でしょう。スパゲティらしきものを小皿に盛ったのは分かります。けれども、メインとなる大きな鍋の中身は一体全体、これは何なのでしょう。淀んだ湖面のようでまるで具材の影がない。スープなのか味噌汁なのか、これもよくは分からぬ汁物が小さなお椀に盛られて横に並ぶのも面妖です。これは料理の顔を為していない観念のお化けです。夕子の魂を反映した“ソラリスの海”か“イドの怪物”(*6)の如きものでしょう。


真田「では いただきます」

夕子「いかが?味付けは」

真田「はあ おいしいです」

夕子「そう?そう言ってもらえると嬉しいけど……」

真田「うちの家内はいつも味付けが薄くて困るんです」

夕方「あら!それじゃこれも薄過ぎたかしら!」


 鼻歌まじりで自慢の腕を振るったにしては空疎な光景となりました。夕子と真田はしきりに“味付け”の善し悪しを確認するばかりで、まるで試作品を利き味(ききみ)する食品会社の検査員のような按配なのです。異様でちぐはぐなものがこの小さな部屋をすっぽりと覆っているのでした。


 戯れに試みた擬似家庭を嘲笑するための空っぽの料理であったのか、それとも夕子というおんなが家庭に収まり切らないことを暗示しているのか、そのどちらも含んでの描写だったものか。判別の付けようが僕にはないけれど、いずれにしても“情念の高潮”を遠くに押しやるために手の込んだ調理という風景が利用されているのは間違いないでしょう。


 上村さんが“食事”を描くということは、だから魂を描くということに直結している。そして、その魂の内部では、恋愛と家庭(日常、生活)という二極が激しく反撥し合っている。根底にある二極化した想いが食べることの諸相を変えてしまうのです。上村世界の“決めごと”が起動すると、僕たちの目の前に神妙な顔付きで、異形なる食が並び始める。


 神の怒りを買ったあげくに、指先に触れるもの全てが変質して、食べるもの、飲むものが砂や塩、金属に化けて悶え苦しむ、そんなお伽話がありますよね。あれにとても似ています。僕には上村さんの作品が、古代神のさまざまな逸話と峰を連ねて見えています。




(*1):「離婚倶楽部」 上村一夫 1974-1975 双葉社  初出は「漫画アクション」
(*2): 「心境の錯綜」がうねうねと続いて終わりが来ないように感じるのは、お話が突如裁ち切られるためでしょう。いや、そう言ってしまうと語弊があるかもしれません。“まんだらけ”のホームページに森田敏也さんの書かれた上村一夫論があります。豊富な資料と読書体験に基づいたもので読み応えがあるのですが、それによれば単行本に収まったエピソードは連載されたものの一部であるようです。確かに表紙には「1巻」と明記されてもいますからね。「離婚倶楽部」の全貌を物語る資格は単行本を見ただけの読者にはないかもしれません。急展開してとんでもない盛り上がりを見せたのかも知れず、とっても気になるところです。いつか早稲田の漫画図書館におもむいて探してみようと思います。
「上村一夫・零れた花びら」森田敏也http://www.mandarake.co.jp/fun/bohyo/kamimura02/index.html
(*3):Vol.3  やさしい男
(*4):家庭幻想は消失しても、いや消失すればこそ、でしょうか、夕子と健の淡い時間が主従の域を越えて続いていく辺りも「狂人関係」とちょっと似ています。戯れを粧いながらそっと抱き合ったり、かたちだけの軽い口づけを交わしたりする。恋慕の炎(ほむら)を保持していく為の手入れの動作がくり返されており、歪(いびつ)で特殊ながらもほのかな恋愛関係にあると言って良い。情念の波動は微妙な均衡の上にかろうじて成り立っているように見えます。
(*5):Vol.10 妻の座
(*6): Солярис 1972、Forbidden Planet 1956 



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