2009年10月31日土曜日

フリークライミング~日常のこと~




  フリークライミングの競技大会を先日観てきました。会場となった屋外施設は15mもの高さがあります。ごつごつの鉄骨にクリーム色のFRP(繊維強化プラスチック)製プレートを貼り付けしつらえた人工壁は最大斜度145度の逆勾配となっていて、手前にぐぐぐとせり出し倒れて来るような感じ。その威容は迫力満点です。


  競技に参加しているのは達者な人ばかりです。あれよあれよと上に登っていく訳ですが、それにつれて傾斜は勢いを増していき、最大の急所で難敵のきついクリフがいよいよ目の前に立ちはだかります。人工的に最悪の状況をわざわざしつらえて、これに果敢に挑んでいく競技というのは考えれば考えるほどけったいなものです。人間って不思議です。遂には天井板にしがみつくような様子となって、恐怖映画の蝿男さながらの奇怪な姿勢を披露していくのです。


  遥か頭上で奮闘する競技者の表情こそ読み取れないけれども、その分代わって全身が語りかけて来ます。重力に抗い体重を支えてきた腕力は消耗してしまい、上腕二頭筋がぶるぶる、ぶるぶると痙攣し出すのがはっきり見て取れます。時間はもう残されていません、次の一手ですべてが決まってしまう。千切れんばかりの指先から専用のシューズに包まれて踏ん張る両足の先っちょまで、四肢の隅々に“決意”と“躊躇”がチカチカと目まぐるしく明滅しています。何度も宙に伸ばされては引っ込められる腕の動きには独特の痛々しさと言うか、表現しにくい凄みのようなものが顕われてきます。


  仕事をする上で、いや、それは人生におけるあらゆる局面に言える訳だけれども、決意するという行為は神経を磨耗させて生命を削るようなところがあります。しくじって墜ちた矢先に手首をぐっと掴み、引き上げてくれるヒーローはほとんどの場合は見当たらない。地面に叩きつけられるにせよ、崖の途中で傷だらけになって留まるにせよ、見当が狂った末の顛末は悲惨なものです。決断することは本当に怖く、身を切られるようなことの繰り返しです。
 

  別な人間に命綱こそ委ねているにしても、ルートを選んで登攀を開始し、自分を信じて指先を伸ばし足を踏み込んでいくフリークライミングの諸相には、決断を余儀なくされる人生の孤闘を凝縮して提示するようなところがあり、僕は彼らの姿にとても興味を覚えて感動もし、また勇気付けられるようなところも確かにありました。


  競技用の大壁の裏には初心者や子供向けの体験エリアもあって、そこで指導を受けて2メートル程の壁によじ登ってもみました。一時期から比べたら体重は相当に減ったのだけれど、いやはやなんとも──。 でも、夢中になって何かで過ごす時間は気持ちや思考の淀みを整理するような気がしますね。気分はとても良かったです。ドンとマットレスに堕ちていくのもリセットされた気分で悪くない。いい機会と体験を本当にありがとうございました、
楽しかったよ。


  先日からの流れで、ずいぶんと“ひとり”ということを考えてしまっていますが、クライミングという競技にはそんな思案を伸びやかに加速させるものがありました。加えていま集中して読んでいる本たち(*1)の内容もいささか影響しているのでしょう。“ひとり”が“ひとりひとり”と向き合うことが、この僕たちの生きる世界の肝なんだな、“ひとり”と仲良くならないといけないな、なんて青臭いことを延々と反芻しているところです。


  なんだなんだ、結局変化なしかよ、淀んだままか。いえいえ、これでも少しは進歩したつもりでいますよ。ちょっとずつですが、なんとか僕なりに壁を登っています。


  季節の変わり目です。僕の周囲ではお葬式がずいぶんと多いです。逝くことも看取ることも、それは人生の四季の定め、自然の理である以上は粛々と受け止めていくだけですが、それでもどうか皆さん、体調の管理に留意して元気にお過ごしください。


  夜の町を歩くと大気の冷たさや枯草の臭いの混ざり具合が既に雪の季節のそれであり、ずいぶんと身近に冬を感じています。今年の雪は早いのかな。どうぞお気を付けて、ほんとうにどうぞ温かくして過ごしてください。


(*1):メモがわりに一部を──
「セックスはなぜ楽しいか」 ジャレド・ダイアモンド 草思社 1999
「テストステロン―愛と暴力のホルモン」ジェイムズ・M. ダブス/メアリー・G. ダブス 青土社 2001
「いじわるな遺伝子―SEX、お金、食べ物の誘惑に勝てないわけ」テリー バーナム/ ジェイ フェラン NHK出版 2002
「女は人生で三度、生まれ変わる 脳の変化でみる女の一生」 ローアン・ブリゼンディーン 草思社 2008

2009年10月28日水曜日

桃井かおり「オンナざかり」(1976)~「かあさーん」~




女学生だった私が、白いブリーツスカートひるがえし、

砂丘を汗して全速力で突っ走れなかったのは、ただテレたり、

恥しがったりしてみただけのことだったけれど、今頃になって、

スカートひるがえして海なんかを突っ走れば、「キャバレー・女学生」

のCMかなんかになっちまいそうです。もう取り返しがつかないナと

思うと、未練がつもります。でもそんな甘ったるい小娘時代に

さようならを言おうと思います。

 せめて、これからは赤い鼻緒の音たてて、七夕様や、お正月や、

お見合い(?)や七五三ってやつを、次々正しく行なうつもりです。

娘には、きちんと「かあさーん」とよばせ、力いっぱい赤みその

うまいみそ汁を作れるオンナに致したいと存じます。(*1)



  先の休日、お昼少し前のことです。ハードディスクに録り置いていた洋画(*2)を一人リビングで観ていたのでしたが、土壇場になって交わされた台詞の響きに、あれっ、と驚いてしまいました。12年程前に作られた映画です。緊迫し通しだった劇の終幕を静謐な雪の情景が飾っていきます。




  ひとりの女性が世の辛酸を嘗め尽くして後、故郷に帰り着きます。そんな彼女を諭し訴える男の声が胸にぐわんぐわん反響して、堰きとめていた気持ちが決壊していく。幼子を亡くし、いまは非情な夫が待つばかりの悲劇の主人公に対して、付かず離れず見守り続けた男が懸命に訴えます。「貴女は全くのひとりなのだから、もう戻るに及ばないだろう」。(*3)


  語学力は中学時分からてんで進歩しておらず、当時の成績もお粗末きわまる僕でありますから、またまた馬鹿な思い違い、恥の上塗りかもしれないのだけれど、男の発する“You're perfectly alone”という表現には二重三重に込められた響きがあって、僕の抱える未完成品の魂はざわつき、どよめいてしまったのです。





  “申し分ない孤独”という言葉尻には、あなたは馬鹿だなあ、“一人ぼっち”じゃないか、いい加減に目を醒ましなさいよ、と語気を強める意味合いは多分にあるのでしょうが、映画の演出はそれに留まっていないようなのでした。そこに自律、自足、独立といった積極的な気概を付与していたように感じ取ります。もちろん単なる金銭の問題ではなくって、世界に真向かう目線のいさぎよさ、覚悟という事が“perfectly”に“alone”なのだと受け止めたのですが、僕のいつもの暴想でしょうかね。


  さて、上の桃井かおりさんの文章は、先日の「氷の味噌汁」から遡ること17年前に書かれたものです。これを執筆されるほんの少し前には急病を患って、大きな手術も受けておられます。眼前に死を意識し続ける若い桃井さんのこの頃の文章は揺れに揺れてぐらぐらで、切迫した感じ、悲鳴めいて軋む感じがずいぶんと致します。もしかしたらコマーシャルフィルムの影響みたいな気もする訳ですが、その中に不意に“みそ汁”は出現するのです。そして、桃井さんの思いの力点はみそ汁とここでは同義語として並べられた「かあさーん」という所にどうやら置かれています。


  自己実現の在り様を探り続けようとあえて苦悶の道を歩み、素肌を大衆に晒すことも惜しまない女優桃井かおりの荒ぶる魂と、みそ汁の似合う家庭のおんなへと緊急避難すべく舵を反転するべきかと消沈する、傷つき病んだ二十歳過ぎのおんなの子の精神が左右からぶつかってせめぎ合っています。味噌汁を女性が取り上げた文章で、胸の奥がすっかり露わになる類いのものはとても少ないのですが、桃井さんのふたつの文章を並べて読めば、あらあら随分赤裸々に書いてみせたものだと感心しちゃうのです。そうしてこうして今も闘う桃井さんを更に思い描くとき、どうしても僕は先の“You're perfectly alone”という言葉を浮かべ重ねてしまうのです。


  何も特別に見える芸能人に限ったことではなくって、あまねく僕たちの身に連なるものだと周囲やおのれ自身をかえりみて思います。人生の理想を追い求めて歩んでいく道程で妻、母親という役柄を振られることを当たり前と信じて、女性たちは果敢に進軍していきます。僕たちの場合には夫であり父親という役柄になるわけですが、意識をひろく占めて生活の目的に据えられ、行動の基準とも当然なっていく。そして、現実と夢が交錯し、いつしか理想との乖離にうろたえ、思いもかけなかった段差に足をつまづかせて苦しんで行きます。


  自分は何者であるかを暗中模索し、さまざまな辛酸を嘗め尽くして辿り着く先に“perfectly”に“ alone”という自立した状況が来るのだと、それを怖れて回避しても始まらないし、成長のそれがひとつの頂きなのだと教えてくれている。そういう事かもしれませんね。


  もしかしたら人生はアスレチック用のプールなのでしょう。タプタプに充たされているのは青い水ではありません。得体の知れぬ味噌汁であり、視界の利かぬ混濁した黄色い水に懸命に泳ぐしかない。レーンは違えども桃井さんも僕たちも、ひとりひとり誰もが遠泳のただ中にある。白昼夢のようにしてそんな幻影をぼうっと脳裏に浮かべているところなのです。


(*1):「オンナざかり」 桃井かおり 1976  「しあわせづくり」大和書房 1977所載
(*2): The Portrait of a Lady 監督ジェーン・カンピオン 1997
(*3): 全文をウェブ上で見ることが可能。終幕のChapter55は次の頁にて。 http://www.readprint.com/chapter-6257/The-Portrait-of-a-Lady-Henry-James
I understand all about it: you're afraid to go back. You're perfectly alone; you don't  know where to turn. You can't turn anywhere; you know that perfectly.

2009年10月20日火曜日

桃井かおり「氷の味噌汁」(1993)~味噌汁なんか~



“男ってね”と、先輩はグラスを傾けながら

“男…なんてね?”と、ひとしきり話し終えると

“あんた、お味噌汁作れるの?”と、突然聞いたんだった。

“……味噌汁なんか……作れない、です。”

“あんた味噌汁も作れないで、これから女やろーっていうの?

ダメ!ダメ!作り方教えるからホラ覚えナ。“(中略)


“お椀に山もりにするんじゃないわょ!具はそうだナ…

うん、これくらい!わかった?”

 飲み屋のカウンターで、水割りのグラスに氷をガラガラ入れて、

“そうそう、こんなもんだね!”と一人納得していた。

“好きな男に味噌汁くらい飲ましてやりたくない?

ねェー飲ましてやろうよォ~”

 多分、あれがヤイコと口を利いた最初だ。あの頃私はどうにか

二十(はたち)で、彼女はまだ今の私なんかよりずーっと若かった。(*1)


 回想録や伝記映画などをひも解いてみても、女性は全身全霊を尽くして愛する相手(子どもを含む)との時間を捻出し、魂の新天地を守ろうとする生きものであるのが分かります。冷静沈着で計算高く想われるけれども、その内に秘めた熱情は男性を遥かにしのぎます。


 瀬戸内寂聴さんが新聞に連載されていた随筆(*2)が先日より再開され、美空ひばりさんの思い出に触れておられたのですが、そこでも女性らしい献身について書かれていました。江利チエミさんと雪村いづみさんが相次いで結婚され、焦る気持ちから時の人気スターと結婚した顛末が語られているのですが、「徹底的に尽くしましたよ」というひばりさんの言葉に継いで、次のように寂聴さんはおんなの想いを補っています。


 天下のひばりが、小林旭のために、自分で味噌汁を造り、

 靴下まで、穿かせたという。



 家事と育児といった日常のことも全て含めて「徹底的に尽くしていく」。自分の為に費やす時間は細切れになり、日によっては全然無かったりもしますよね。仕事で席を並べる女性を見ていると、早朝から深夜まで全力投球であるのがよく分かりますし、単身で仕事と育児をこなすひとに対しては、ただただ平伏するばかりです。


 家事の諸相は待ったナシで、なおかつ多角的で複雑です。同時にそれを行なうことを可能とするのは女性特有の脳の作りと、エストロゲンを主体とするホルモンの影響であると示唆する科学者もいます。いずれにしてもわたしたち男にはこらえ切れそうにない大量の雑事を、ほんとうにてきぱきと切り抜けていき見事としか言いようがありません。下支えする熱情に天賦の才が組み合わさった化学反応が家事の核心であって、実はなかなかにスゴイことなんですね。扉の陰でひっそりとではあります百花繚乱に咲き誇っている、女性はやはりそんな花なのだと思います。


 そのような忙しい毎日の狭間においては、味噌汁というメニュー単体に対してスポットライトを浴びせて精神的な何事かを託そうとする方が土台無理な話です。ですから、味噌汁に対しての色めく言葉は男から発せられることが自然多くなるのであるし、その延長で男性の本能や官能をあぶり出す場面も増えてくるのでしょう。


 かくして男たちの味噌汁幻想は文壇やフィルムの上にて純粋培養され、肥大化し、妖しげな様相を帯びていきます。親元を旅立つ間際まで呑まされ続けてきた味噌汁を“おふくろの味”と称して神聖化していく様は、乳房を遂に離しそこねた巨大な赤子を連想させるのですがそれは僕の言い過ぎでしょうか。興味深いのは、そんな奇態な男たちを今度は若々しいおんなたちが母親から引き継ぎ、自らの胸に抱き止めるという図式なんですね。愛した弱みなのか、それとも愛された悦びなのか知りませんが、おんなたちは「徹底的に尽くして」味噌汁を造っていくのです。


 上に掲げた桃井かおりさんの短篇なんか、よくよく冷静に考えてみればかなり不思議でヘンテコな展開じゃないですか。味噌汁を作れることが妻や主婦、おんなの必須条件なのよと酒の肴に取り上げられていますが、カウンターで真向かういいおんな二人はそれを肯定しているような、斜め目線のような、どっち付かずの感じで語っています。どうやら実際に交わされた会話らしいのだけれど、書き手である桃井さんには聞き流せない、妙な引っ掛かりが残響したのじゃないのかな。


 グラスをお椀に見立てて、ロックアイスで急ごしらえされた幻影の味噌汁。紫煙漂う闇のなかで、スポットライトを乱反射させながら白く浮かんでいます。とても洒落た感じもするけれど、おんなたちのしたたかさとずっしりした胆力を如実に表わしているようで、そこだけなんだか、とても怖いような気もいたします。


(*1):「氷の味噌汁」 桃井かおり 1993  「まどわく」 集英社 2002所載
(*2):「奇縁まんだら」107回(10月18日) 瀬戸内寂聴 日本経済新聞日曜版で連載

2009年10月19日月曜日

デゴマス「ミソスープ」(2006)~手を繋いだままで~





ミソスープ思い出す どんなに辛い時も

迷子にならないように

手を繋いだままで ずっとそばにいた

母の笑顔を


都会の速さに 疲れた時は

いつもここに いるから 帰っておいで


ミソスープ作る手は 優しさに溢れてた

大きくない僕だから

寒くしないように 温めてくれた

母の優しさ 会いたくなるね(*1)


  ある作家に関して綴ったものに対し、君は意外とマッチョなんだね、そう感想を返されたことがあります。誉め言葉であろうはずは当然なくって、偏狭さや意固地なところ、称賛も含めての過剰な性差別、排他的な部分や場当たり主義といった気質を行間から嗅ぎ取って、親切心から遠回しに忠告してくれたのでしょう。言われるまではそんな意識はさらさらなかったので、それだけに彼の石つぶては効きました。当たったところは今でもチクチクしています。


  彼は料理が上手です。家事全般を軽やかに日々こなしていて、時おり創意を凝らした献立にも挑みます。上手くいった場合にはレシピをブログに公開したりするのですが、それを読むと彼の繊細な手付きや安定した身のこなしが目に浮かんでくる。ぼわぼわと髭など蓄えて容姿は怖いのだけれど、なおやかという形容がぴたりと板に付いて見えます。


  味噌や醤油の記述なり描写を探し、けれども献立やレシピはそっくり迂回しては意味深な部分のみを並べていく。こっそり作為を忍ばせたこのミソ・ミソを彼が目にしたものならば、再度お灸をすえられそうです。君ねえ、料理は料理でしょう、味と香りと栄養でしょう、計算と技術でしょう、静かな習慣でしょう、その実相をまるで捨て置いて奇妙なところばかり陳列してオカシイよ、本末転倒でしょ。


  でもねえ、先輩、献立やレシピの形態を取らない味噌や醤油の記述には、送り手の偏向した精神構造がいくらか背景として関わる気がします。全てとは言えないけれども、一部には感じ取れるのは本当のことなんですよ。


  例えば、上記の歌は今から三年程前に発表されたものです。メーカーとのタイアップが背景にあるらしくって、ならば自然に湧き上がったものではないかもしれない。歌い手の真意に基づくものかどうかの判断は難しい訳なのですが、まあ、その辺りは何を言っては始まらないから、ちょっと置いておきますが、これを最初に聴いた時の違和感を僕は忘れることが出来ないのです。


  田舎から出て都会暮らしを始めた男の子が郷里を懐かしみ、味噌汁の香りを懐かしく振り返るストーリーです。似たような成長の過程を経て僕も大きくなったつもりですが、そんな絵に描いたような感傷を抱いたことはなかった。どうも僕にはしっくり来ないのです。当時からずいぶんと年数が経っていますから、現代の、2000年代の食生活事情をそこに加味してみれば尚更に成り立ちにくいイメージを抱きます。


  この歌からちょうど四半世紀先行して、もうひとつのミソスープの歌が日本には流れていました。千昌夫さんによる「味噌汁の詩」です。正直に言えば、僕はこのかなり泥臭い歌を聞くたびに何とも不快な気持ちを抱きましたね。どうにかしてこのミソ・ミソで取り上げないで済まないものか、そうたくらんでもきたのです。ちょっと抵抗感がありますが話の流れです、書き写してみましょう。




しばれるねえ。冬は寒いから味噌汁が

うまいんだよね。

うまい味噌汁、あったかい味噌汁、

これがおふくろの味なんだねぇ。


あの人この人 大臣だって

みんないるのさ おふくろが

いつか大人になった時

なぜかえらそな顔するが

あつい味噌汁飲む度に

思い出すのさ おふくろを

忘れちゃならねえ 男意気(*2)


  ふたつの歌詞を読み比べてみるとその間に何が起きてきたのか、薄っすらと浮かび上がるものがあります。“冬の寒さ”は“「年末には帰ってくるの」”と問われた2006年にもあったでしょうが、独身用の居住環境は劇的な改善が為されており、“しばれる”ほどではなくなりました。若者の郷里でも事情は同じです。見違えるように住宅は変貌を遂げており、炊事場はもはや台所とは呼びにくいお洒落なかたちになっている。だから、“キッチン”から母親は丸い顔を覗かせています。“ディナー”を買い求める若者には“ポタージュ”は日常食でしかなく、“一人の夜にも慣れた”身体は“なんか疲れて、ちょっと淋しい”のだけれども“あせり”はなくって、異性の友人を求めすがる独り身ののたうつような烈しい衝動は影を潜めています。


  味噌汁と日本人を結び付けようとする動きが、かつての歌には見受けられました。狭く意固地で排他的であり、なお且つ過剰な性差別が台詞に加味されてもいて、実にマッチョな仕上がりになっていた訳でしたが、その筋骨隆々とした部分が削げ落ちてスリムになったような、ずいぶんと植物的な印象をデゴマスさんの歌から僕は受けています。


  若い男たちは変わったのでしょうか。長い年月のなかで“ふんどし”からパンツに履き替え、ブロンド女性を血まなこになって追い求めていたテストステロン供給過剰の狼めいた男から紳士然とした大人の男に成長を遂げたのでしょうか。味噌汁はその若々しい胸板の奥で静かな郷愁を湛えながら、おごそかな面持ちで白い湯気を立てているのでしょうか。


  ふたつの歌の共通項として、母親だけが重苦しく残されています。男たちのこころに潜むのは家族でも山河でも、校舎でも、グラウンドでもない。初恋の相手でもなく、現実のおんなでもない。味噌汁と母親との連結は解かれることなく、立ち位置を変えることなく在り続けている。“どんなに辛い時も迷子にならないように手を繋いだままで ずっとそばにいてくれる”そんな“おふくろさんのふところを、いつも夢みて”いる男の想いが味噌汁をレンズとして光軸を結んでいくのですが、それは果たして成熟と呼べるものなのか。


  大衆の夢が歌に結実するのか、歌が大衆を先導するのか分かりませんが、空恐ろしい思念の流れが僕たちを取り巻いているのを感じてしまうのです。日本人のなかに宿るものが粘り腰を見せて味噌汁にまとわりつき、離れようとしません。


  味噌汁に固着した日本人の想いはマッチョとは幾分違うかもしれません。海を隔てて住む人たちの目には退嬰的に映りそうですね。僕自身が偏屈である前に味噌汁が、それそのものではなくって内側にそっと沈めたものが十二分にグロテスクであり、昏く濁っているのです。


(*1):ミソスープ デゴマス 作詞 ZOPP/作曲 Shusui、Stefan Aberg 2006
(*2):味噌汁の詩 千昌夫  作詞/作曲 中山大三郎  1980

2009年10月16日金曜日

Index(作者名 随時更新)



(共著については筆頭者の名前にて)

【あ】

カーター、アンジェラ Carter,Angela(花火 九つの冒瀆的な物語 FIREWORKS)
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赤瀬川原平/ねじめ正一/南伸坊 (こいつらが日本語をダメにした)
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芥川龍之介(葱(ねぎ))
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庵野秀明(ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破)
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池内淳子(女と味噌汁)
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池田敏春(人魚伝説)
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池波正太郎(泣き味噌屋)
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石井隆(天使のはらわた 名美)
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石井隆(ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う)
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石井隆(魔楽)
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泉鏡花(歌行燈)
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泉鏡花(高野聖)
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宇仁田ゆみ(うさぎドロップ)
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楳図かずお(井戸)
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楳図かずお(恐怖への招待 世界の神秘と交信するホラー・オデッセイ) 
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浦沢直樹(PLUTOプルートウ)
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江國香織(「おみそ」の矜持)
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江戸川乱歩(孤島の鬼)
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大杉栄(獄中記)
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大塚英志/ひらりん(三ツ目の夢二)
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大原麗子(雑居時代)
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大林宣彦(時をかける少女)
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岡本かの子(戦地の兄へ-町家の妹より-)
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岡本かの子(老妓抄)
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岡本かの子(老主の一時期)
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沖浦啓之(ももへの手紙)
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奥浩哉(GANTZ ガンツ)
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奥浩哉(め~てるの気持ち)
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尾辻克彦(裏道)
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【か】

角田光代(夜をゆく飛行機)
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梶尾真治(地球はプレイン・ヨーグルト)
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黒木和雄(竜馬暗殺)
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小泉徳宏(Flowers フラワーズ)
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小泉八雲 Lafcadio Hearn(異国情趣 Exotics and Retrospectives ほか)
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幸田文(みそっかす)
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小松左京/谷甲州(日本沈没 第二部)
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コラス、リシャール Collasse,Richard(紗綾 SAYA)
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コラス、リシャール Collasse,Richard(息子の帰還 Le Retour)
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コラス、リシャール Collasse,Richard(遥かなる航跡 La Trance)
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近藤ようこ(遠くにありて)
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【さ】

斎藤澪(この子の七つのお祝いに)
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斎藤茂吉(味噌歌十首)
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早乙女貢(龍馬を斬る─佐々木只三郎)
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さくらももこ(えいえんなるじんせい永遠成人生)
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さだまさし(私は犬になりたい¥490)
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里中満智子(古いお寺にただひとり)
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式貴士(カンタン刑)
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司馬遼太郎(竜馬がゆく)
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将口真明(マナをめぐる冒険)
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ジョージ、ローズGeorge,Rose (トイレの話をしよう 世界65億人が抱える大問題) 
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関川夏央(ゲート前の外人バーで)
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関川夏央(昭和が明るかった頃)
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瀬戸内寂聴(奇縁まんだら)
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瀬戸内晴美(諧調は偽りなり)
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瀬戸内晴美(美は乱調にあり)
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千昌夫(味噌汁の詩)
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【た】

たかぎなおこ(ひとりぐらしも5年目)
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高瀬志帆(恋の秘伝味噌!)
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高野文子(美しい町)
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高野文子(奥村さんのお茄子)
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高野文子(黄色い本 ジャック・チボーという名の友人)
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高野文子(二の二の六)
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高野文子(マヨネーズ)
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滝田ゆう(寺島町奇譚 どぜうの命日)
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武田鉄矢/小山ゆう(お~い!竜馬)
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谷崎潤一郎(陰翳礼讃)
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寺山修司(誰か故郷を想わざる)
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寺山修司(田園に死す)
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寺山はつ(寺山修司のいる光景─母の蛍)
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豊田徹也(アンダーカレント)
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【な】

中沢啓治(はだしのゲン)
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中島丈博(味噌汁と友情)
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西脇順三郎(えてるにたす)
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【は】

林芙美子(清貧の書)
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細田守(サマーウォーズ)
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【ま】

正岡子規(墨汁一滴)
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村上春樹(1Q84)
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村上龍(村上龍料理小説集 Subject 22)
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室山まゆみ(あさりちゃん)
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桃谷方子(百合祭)
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望月三起也 (ワイルド7(セブン))
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桃井かおり(オンナざかり)
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桃井かおり(氷の味噌汁) 
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森卓也 (パゾリーニのキングコング)
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【や】

矢作俊彦(スズキさんの休息と遍歴 または かくも誇らかなるドーシーボーの騎行)
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矢作俊彦(スズキさんの生活と意見) 
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矢作俊彦(複雑な彼女と単純な場所)
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矢作俊彦(ボウル・ゲーム)
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山内久(若者たち)
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山崎ハコ(おらだのふるさと)
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山本義正(父 山本五十六)
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楊逸(獅子頭(シーズトウ))
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与謝蕪村(新五子稿)
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吉田秋生(海街diary)
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吉田健一(東京の昔)
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吉田健一(再び食べものに就て) 
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吉村龍一(焰火(ほむらび)(抄録))
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吉村龍一(焰火(ほむらび))
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吉行淳之介(怖ろしい場所)
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吉行淳之介(葡萄酒とみそ汁)
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米林宏昌(借りぐらしのアリエッティ)
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【ら】

ラッセル、ケン Russell,Ken(狂えるメサイア)
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里羅琴音・Berry Star(銀のケルベロス)
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【わ】

和田竜(醤油 北条氏康に無茶苦茶怒られる)
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2009年10月15日木曜日

「厨房で逢いましょう」(2006)~恋文としてのレシピ~ 



 食と恋愛を連結させて描いたドイツの劇映画(*1)がありました。容貌に恵まれない孤高の天才シェフと障害のある子供を持った既婚女性とが出会い、料理を通じて魂を重ねていく現代のおとぎ話です。それでも妙なリアリティを薫り放って、こういう世界も何処かには実際あるのだろうなと思わせる力がありました。


 食への執着は色事や恋愛と同じく人を恍惚と充足感に導きますが、その快楽の虜になった者を右に左に翻弄し稀に破壊することさえあって、この点でも一致するものがあります。摂食障害、内臓疾患、浪費、孤食と狂宴、そんな食にまつわる様々な表情はほんの少しずつ違うけれど、渦巻き燃え上がる恋情の裏に潜んでいる暗い影の部分にそっくりです。


 いつぞや読んだ生理学の本によれば人間の口蓋、舌をろろと巻いた先端が触れる上あごのツルツルぬるぬるした辺りの組織は、性愛に関わるデリケートな身体部分と極めて似た構造になっているとのことです。なにか物が触れた際に脳に送り込まれる信号も、それが素でパッと花開く快感も似たものだそうですからとても不思議な話です。休日ともなると唇がなにか淋しくなって、ついつい間食してしまう癖が僕にはありますけれど、そんなよろめきの理由が上下に位置こそ隔てられていますが、共通する細胞の仕組みからもちょっと窺えるわけです。


 神様の仕事は実に巧妙で抜かりがない。生命活動を維持し繁殖に導くためにとても上手にエスコートしていきます。食と恋とはだから双子の天使であって、常に僕たちの周りを羽ばたいているのですね。もしかしたら地球から遠く離れた異性人からすれば、僕たちの食べる行為も愛し合う行為も同じものに見えているかもしれません。
  

 ふたつの欲望は雌雄異花同株の仲であり、また、二股に分かれ蛇行していく川のようなものなのでしょう。上に掲げた映画で起きた至福の時間のように結実したり再び交差し合流することも、だから当然現実世界に有り得るのでしょう。



 だったら、僕がこのミソ・ミソで意識的に回避してきた文章、つまり純粋なる料理の献立として書かれたものやレシピのようなものにだって、そこに官能を強く嗅ぎ取るひとはいるかもしれません。理屈ではそうなりますよね。

 ──ダシ汁少々(椎茸が浸るくらい)砂糖小匙1、醤油小匙1。味噌を合わせて味醂と砂糖を入れてダシ少しを入れて溶いておく。一人用土鍋にダシ400ccを入れて合わせた味噌を入れる。鶏肉を加えて煮込む。火が通ったら生うどん140gをそのまま入れる。中火で6分から7分程度煮込む。煮えてきたら他の具材を載せて玉子を割りいれて蓋をする。1分ほどそのまま火にかけて蓋をとり供する。食べるところまで蓋をして持っていけばグツグツに煮えた状態で届けることができる。熱いので取り皿とれんげを添えると良い。具材は他に蒲鉾やわかめや各種きのこ類も合う。また豚のばら肉なども美味しい(* 2)

 ──というような文字の羅列にさえ、中世の恋人たちの燃え立つ想いや慟哭を秘めた恋文に似た劇的なものを見取るひとがいても可笑しくはない。鈍感な僕には感知できないだけであって、「キューピー3分クッキング」や「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」にねっとりと濡れた瞳を向けるひとがいるのかもしれない。



 そうして見るのならば、僕がここミソ・ミソでやっている事はいかにも片手落ちの断章取義となりますね。日常の陰に埋もれて見える味噌や醤油。何とはなしに彼らの境遇を捨て置くには忍びなくて、舞台袖から無理に手を引き壇の中央に導こうとする訳なのだけれど、それは余計なお節介、身勝手な横恋慕なのかもしれません。


 実際のところ味噌たち醤油たちは、日夜身を熱く焦がしながら暮らしています。指先に付けばその指を甘く柔らかな唇へと難なく誘いこみ、存分に舌にて吸われ舐められてもいく。僕たちよりもずっと充足している毎日じゃあないか、僕なんかより余程世界をひとを歓ばせ、彼ら自身だってその短き一生をあけすけに、悠々と愉しんでいるじゃあないか。




 おいおいおい、馬鹿だなあ、味噌、醤油に本気で嫉妬してどうするんだよ、

 しょうがないなあ。


(*1): EDEN  監督ミヒャエル・ホーフマン 2006
独語HP http://eden.pandorafilm.de/index.php
(*2):味噌煮込みうどんの作り方 引用先は下記の頁 http://allabout.co.jp/gourmet/udon/closeup/CU20070419A/

2009年10月11日日曜日

向田邦子「寺内貫太郎一家」(1975)~気がたかぶっている~


「今から考えると、強情をはらないで卒業しときゃよかったな、って

思うんです。なんて言っても仕方ないですよね」

 ミヨ子は、フフフとせいいっぱい明るく笑った。

「高校中退なんてミミっちくていやだから、中卒って書いたんです」

「クヨクヨすることないわよ、ミヨちゃん。五体満足なんだもの、平気平気」

 静江は立って、左足を引きながら、父のデスクの前に行き、書類を差し出した。

貫太郎は印を押してやりながら──二人の娘の言葉が胸に痛かった。


 昼食の味噌汁をよそいながら、ミヨ子は自分の手がかすかに震えているのに

気がついた。さっきから、一人になって泣きたかった。しかし、その閑(ひま)も

なく、お昼になってしまった。気がたかぶっている。粗相をしないように……

気をつけて、お椀をみんなの前に置いた。(*1)


 中国文学者で作家でもあられる中野美代子(なかのみよこ)さんは、ご自身の著書(*2)のなかで“褻視(せっし)”という造語を用いておられます。猥褻のセツに視ると書きます。デフォルメした秘所を肥大化して見せる、と言うよりも細部を凝視してありのままに写し取り、丁寧に画面に組み込んでいく絵が日本の春画においては頻繁に登場するわけですが、その、息を潜めて虫眼鏡か何かで観察するような視線はそんな言葉のほかに言い様がないと仰られているのです。


 日本人の性愛嗜好には“voyeurism=窃視(せっし)”以上に、執拗なクローズアップ、つまりはこの褻視がただならぬ位置を占めているのだという指摘は、ナルホド否定し難いところがあります。ウェブにより世界中に発せられるその手の戯画や映像をうかがっても、僕たちの国のものは幾らかその傾向をとどめて見えます。


 話がおかしな方向に流れて見えるかもしれませんが、味噌や醤油の文学や創作との関わりを僕なりにこうして探っていくなかで、この“褻視”という言葉がぼんやり明滅して止まないところがあるのです。味噌汁なら味噌汁に、単におかずという事象をはるかに越えた官能や情動を刷り込んでいく瞬間には、なんとなく時空が静止したようなところがあって、春画を眼前にするのとどこか似た眩暈を覚えてしまうのです。


 褻視の“褻”は単体ではまるで淫靡なものを表わしてはいないのは承知の通りです。日常のこと、ハレとケで言う“ケ”である訳ですから、そういった語意を重ねてみれば尚更納得するものが出てくるんですね。日常に点在するあらゆる事象をすくい取り、秘所に似た温かみと発色を託していく感じが致します。


 向田邦子(むこうだくにこ)さんの初期の作品であるこの「寺内貫太郎一家」は、本来テレビドラマの台本として出立したものであって、上記の“悲しい味噌汁”が現われたのは幾らか遅れてそれをノベライズしたものの中でした。僕にはこのわずかな表記が単なる偶然とは思えないのです。



  振り返れば彼女の作品はきわめて褻視的でありました。大抵は見逃してしまいがちな事象を拡大して、劇中の人たちと共に僕たちも等しく騒然とさせるのが常でした。往来を肩を並べて歩きながら、おとこの指でもっておんなの唇へと押し込まれていく甘栗であったり(*3)、代官山のアパート前でコンクリートのたたきに砕けてじゅるじゅると流れ続ける生卵であったり(*4)、実に印象深いクローズアップが度々為されており、いずれも重い色香が立ち込めていました。


 食べ物と僕たちの身体の一部がそこでは確実に連想を固く結んで、ずいぶん烈しく臭って悩まされたものです。後にアマゾンの大河を味噌汁に変えてみせた向田さんでしたが、あれも思えば極めて春画的な、それも大陸規模の秘所のクローズアップでもあったわけですね。


 谷崎潤一郎さんや高野文子さん、石井隆さんなんかもそうですね。いずれも恋愛や性愛の機微を見事に綾織ってみせる職人たちで、通底するものもあります。決して偶然でもなければ、思い込みでもない。彼らは創作世界における血族であって、暗く湿った土壌で結び交える地下茎には血液や体液に加えて、ほんの少しだけ味噌汁が流れているように僕は感じ取っています。




 さてさて、世は三連休と言われていますが皆さんいかがお過ごしですか。なにがしかの仕事なりを、はたまた単身で諸事情を抱えて闘っておられる人たちに対して、似た身の上としてエールを送らせていただきます。頑張りましょう。


 寒さが肌を刺してきました。胸中に巣食う龍がいささか煩悶に耐えられず雄叫びをあげてしまう、そんな季節の変わり目ではありますが、頑張るしかありません。頑張りましょう。


(*1): 「寺内貫太郎一家」 向田邦子 サンケイ出版 1975
(*2):「肉麻(ろうまあ)図譜――中国春画論序説」中野美代子 作品社 2001
(*3):「隣りの女」 TBSテレビ 1981放映 新潮文庫版にシナリオ収録
(*4):「阿修羅のごとく」 NHKテレビ 1979-80放映 新潮文庫版にシナリオ収録


2009年10月8日木曜日

高野文子「美しい町」(1987)~ふーっ~



井出「塚田くん そうだ」

ノブオ「…」

井出「名簿 明日くれたまえ こっちもなにかと忙しくってね」

  ふたりのやりとりが室内のサナエの耳にも届く。

サナエ、ノブオ「(心の中で)えーっ、井出君、そんなの無理ですよぉ」


ノブオ「(感情をころして)いいですよ」

  井出、戸を乱暴に閉めて自室へ入る。

  ノブオも自室に入ると、サナエはそっと台所に立って行き、

サナエ「ちょうど良かった 今、できたとこ」

  鍋つかみを両の手にかけると味噌汁の鍋を持って卓袱台へと引き返す。

  テレビのスイッチを点け、炊飯器から茶碗にご飯を盛る。

テレビの声「秋の国体にそなえて市内はいまや大忙し 

      急ピッチでアスファルト化が進んでいます」

サナエ「わあ 大変だあ」

  廊下の向うの扉が再び開き、井出が聞き耳を立て始める。

サナエ「いただきます」

ノブオ「いただきます」

サナエ「駅前も舗装になるんでしょうね きっと 

     ぬかるんで大変だったもの」

  井出、執念深く耳をそばだてている。

  井出の部屋の内部に飾られていた風鈴が揺れる。


サナエ「これで雨の日も安心」

  井出、するりと扉の影に入る。

サナエ「(味噌汁の椀を吹いて)ふーっ」

  サナエは味噌汁の黒い椀を、ノブオは陶器の茶碗からご飯を、

  互に口元まで寄せながら黙々と食べている。

ノブオ、すいと目線を上げる。

ノブオ「………」

サナエ「思いつきでいじわるを言っているのよ」

ノブオ「いいんだ 何も考えずにやってしまうんだ」(*1)


 夫婦間の“沈黙”を辛辣に描いた「いつも二人で」という映画(*2)がありました。愛情も思念もすっかりすれ違いを起こしてしまい、レストランで押し黙って向き合っている悲愴なカップルが幾組も登場します。高野文子(たかのふみこ)さんの「美しい町」を読みながら、ふとそれを思い出しました。



 もちろん両者の内実は天と地ほども違っています。映画のそれは本質をなおざりにした男女の末路を象徴していたのに対し、漫画のなかの沈黙はむしろ同調した呼吸のなせるもので、建設的な気配さえ宿していました。とても対照的です。


 大きな工場が小高い山の麓にあります。そこに働く工員の家族のほとんどが隣接した団地に肩を寄せ合うようにして暮らしています。ノブオさんとサナエさんの若い夫婦の住まう棟もすべて会社の関係者で埋まっており、しがらみがふたりを包んで締め付けています。そういった環境も背中を押すものでしょう、休日ともなるとふたりは喧騒を避けて山に登り、そこで昼ごはんをしたりして過すのですが、穏やかな沈黙がそこでは描かれていました。


 気持ちはよく分かりますね。狭い会社の寮に住んでいた若い頃は、休日前ともなると当て所なく電車を乗り継いでは見知らぬ町の安宿に潜り込んだものです。そうしないと気持ちが挫けそうだったのです。立川だったかな、駅前で飛び込んだ旅館では二十畳の宴会場しか空いていないと言われて、そこに独り寝かされたりしました。考えてみれば不思議なことをしていましたね、ハハハ。


 映画と漫画、かなり色彩は異なりますが、どちらも逃げることなく真摯に“沈黙”を捉えています。これから愛を語り家庭を築いていくだろう若い人には、是が非でも観て、じっくりと学んでもらいたい作品ですね。フィクションを作り物、絵空事と単純に見てはいけません、存外ほんとうのことが描かれているものです。人生の先達が若いひとたちに熱心に、真剣に警句を発している、そういうモノが世には溢れているわけで軽んじてはいけないのです。


 さて、最上段に掲げた「美しい町」の場面はとても興味深い一瞬が含まれておりました。向かいの部屋に住む井出という男は退屈しのぎに同僚の私生活に介入する困り者なのですが、その邪まな愉しみに組しないノブオさん夫婦に腹を立て、以前頼んでいた労働組合の資料を直ぐにも用意するように無理強いして来ます。波風を立てることを好まないノブオさんは承諾し、サナエさんと共に徹夜しての資料作りに当たることになります。


 僕が感心してしまったのは若い夫婦の静かな闘いぶりが、実に巧みに表現されていることです。聞き耳を立てる隣人の気配が風鈴の動きでそれとなく示されていて、これも大いに唸らされるわけですが、内心はうんざりしているふたりが露骨に声を圧し殺して内緒話に走るのではなく、言葉を慎重に選び、所作を穏やかに抑制していくのです。その健気さに驚かされるのですね。


 茶碗を口元に寄せる食事のスタイルは極めて日本らしいかたちな訳ですが、これがギリギリの自然さで取り込まれている。もしも献立が洋食であったのならば、途切れた会話は不自然なものとなってしまうでしょう。映画の夫婦のような惨めな、しこりのある沈黙を想起させもし、主人公たちの胸中はもしかしたら暗い雲が渦巻いてしまうでしょう。


 いくらか長い時間口元を覆い尽くし、視線を落として椀に気持ちを集中させ、一家の団欒を代表する時間でありながらも角の立たない沈黙を産み落としていく。和食料理ならではの繊細な所作がここでは巧みに取り入れられて、彼らの苦衷を救い、穏やかな気風を守っているのです。高野文子さんの観察力、洞察力、応用力が見事発揮され、存分に花ひらいた瞬間ですね。


 ご飯も含めた描写ですから純粋に味噌汁が取り上げられているのではないのですけれど、それでも特筆すべき味噌汁が此処にはあり、日本人らしい美しき沈黙があって、ついつい紹介したくなりました。


(*1): 「美しい町」 高野文子 1987 「棒がいっぽん」マガジンハウス 1995 所載
(*2): TWO FOR THE ROAD  監督スタンリー・ドーネン 1967


高野文子「奥村さんのお茄子」(1994)~そうお?変じゃないかしら~



遠久田「ここなんですよね、このパクッていうかんじんのとこが

     見えないんですよ、弁当にかくれて」

奥村「そうね」

遠久田「おしいなぁ ここさえ映ってればなぁ」

奥村「かっこんで食べるのが好きなの」

遠久田「(顔を伏して)……」

奥村「なんだい どうした」

遠久田「お弁当のフタに先輩が」

奥村「あら ほんとだ 机の上の醤油さしが映ってやがら 

    俺、礼言わなきゃいけないのかな」

遠久田「……」(*1)


 地球侵略を企てているらしい外宇宙の住人がおります。柄に似合わず結構野蛮なヤカラです。地固めに人間の食生活をひそかに調べている最中で、実験的な投薬を行なって我々の反応をちらちら窺ってもいる。五年、十年を経てようやく症状が現われ、その後、死に至る時限式有毒物質を含んだ食品なんかを熱心に開発しては、こっそり僕たちの食卓に忍ばせたりするのです。ひゃ~~キョウアク!


 地球の日常風景に馴染むように丹念な“整形”を行なってから彼らは来訪するのですが、 “先輩”と呼ばれる調査員はナント、ガラス製卓上ビン、いわゆる“醤油差し”の姿に変身したのでした。すてきですよ、と同族に誉められて「そうお?変じゃないかしら」と照れる醤油差しが珍妙です。


 ですから、ここでは醤油そのものを小道具に使っている訳ではありません。けれども、ちょっと気になりませんか。ほとんど創作上で取り上げられることがない醤油容器に対し、人格が賦与され、いっぱしに喋っているのです。人家にするりと忍び込み、僕たちに毒を盛り、ごくりごくりと嚥下されていく様子を盗撮までしていく。変ですよねえ。


 その先輩が二十五年前に行なった実験のデータに対し、疑問が投げ掛けられたことに物語は端を発しています。療養中でふせっている先輩の立場と信用を何としても守らなければいけない。後輩の宇宙人が事実の確認と検証の為に当時被験者となった奥村フクオさんと接触し、周辺捜査を開始するのです。



 まあ、他愛もない話と言えば、これほどにも他愛ないお話はない訳です。町の小さな電気店を営む奥村さんに、他愛もない装いをした宇宙人が他愛もない道具を開陳しながら探りを入れていく様子はどうしようもなくアンニュイな空気をもたらします。高野文子(たかのふみこ)さんの作品にしてはヒネリ過ぎじゃないか、奇抜過ぎないかと首を傾げる展開です。


  あれよあれよと進行するうちに、他愛もない時間が延々と掘り起こされ、他愛もない動作があざやかに回想され、他愛もない感情が徐々に浮き彫りにされていきます。そうするうちに、あっ、そうか、そういうことかと頷かされるのですね。日常のとても儚い一瞬一瞬が後輩の宇宙人によって根気よく探査され、奥村さんと僕たち読者の眼前にどんどん拡大されて映じられるうちに、それってとても大事な、かけがえのないことの集積なのだと気が付かされる。


  いつの間にかお話の筋などどうでも良くなってしまって、物語が僕たち読者の内部に割り入って来る感覚があります。可笑しさと哀しさと愛おしさが、各々細い糸に結わえられて繋がっている感じがします。僕たちが気付かないだけで、そのような糸が何本も何十本も、いや何千本も日常にぴんと張り巡らされている。今、目の前に転がっている目玉クリップも栄養ドリンクの空いたビンも、五分遅れたままの卓上時計も積み重なった新聞紙の束も、それから僕の前に現われてくれた人たちと彼らと共に為し得たひとつひとつの情景が、どれもこれも意味深く大切なものだったのだと感じられたりするのです。


 なにか自分自身を組み立て直してくれる、そんな読了感が高野さんの作品には独特にあって清々しい気分にいつもさせられる訳なのですが、こうして「奥村さんのお茄子」を丁寧に読み返してみるならば、やはり唸らせられるコマばかりが並んでいるのだし、なるほど醤油差しか、言われてみればこれほど目立たず、他愛もなさでは人後に落ちず、けれど、こいつは僕たちの表情を、喜怒哀楽のすべてをずっと見上げてくれていたのだなと感慨深く思えてくる。随分と綿密な考えのもとに登用されたのかもしれないな、そうかそうか、と思い直して、作者の才気にもやっぱり惚れ直して、にこにこ微笑んでしまう午後なわけです。



 台風が通り過ぎ、日常は隙間なく繋がっていきます。皆さん、ご無事でしたか。増水している場所もあるでしょう。足元に気を付けて、元気に愛しい時間をお過ごしください。

(*1): 「奥村さんのお茄子」 高野文子 1994 「棒がいっぽん」マガジンハウス 1995 所載

2009年10月5日月曜日

吉田健一「東京の昔」(1979)~美しい現在~



 併しそれでかういふ朝帰りの車の中での寒さが冬の朝の気分を

助けたといふこともある。それは雀の鳴き声地面に降りてゐる霜と

同じでさうした外から締め出されていない車の中にも朝があつた。

従つてそれはそのまま熱い番茶だとか味噌汁だとかトーストだとか

に繋がつた。又これを延長すればおでんに焼き芋に火鉢に起つた

炭火があり、この寒さがあつて當時の洋館の温水暖房も爐に燃え

盛る薪の火もそれはそれなりに冬を感じさせた。(*1)


 味噌と醤油に関する数多くある記述の中から、どうもめそめそした部分ばかりを選んで情緒的な方向へと誘導しているのじゃないの───そう見る向きもあるやもしれません。確かにここに掲載するにあたって僕の内部で選別は為されています。


 実際、日々の献立や生活の実相をずらり並列して開陳していく、そんな文章や映像は多々あるわけです。それ等の中では味噌(または味噌汁)にしても醤油にしても、すっかりこまごまとした諸相に埋もれて精彩を欠いてしまう。味噌、醤油という文字を刻んでいるけれども、世の中の文章のおよそ半分かそれ以上はそういったものなのであって、それをいちいち書き並べていたらキリはありません。



 たとえば、上に掲げたのは吉田健一(よしだけんいち)さんの随筆から写したものです。知人の書いたものの中に吉田さんの名前を認め、あら、読んだことないぞと興味を覚えました。この週末に図書館に足を運んで、いずれも閉架に眠っていた六冊ばかりを引っ張り出して来てもらったのでしたが、ざっと読んだに過ぎないけれど、政治から酒席、妄念から生活の領域までの多種多彩な吉田さんの記憶の果実を陶製の重い大皿に盛り付けられたような印象がありますね。加えて別の新たな果実を次々と給仕によって脇から添えられていく感じがして、ちょっと膨満した気分で今はおります。


 少し特殊な吉田さんの文体ではありますが、どうですか、いずれも同等な扱いになっているでしょう。雀、霜、車、朝、寒気、番茶、トースト、焼き芋。列を連ねて、するすると走馬灯のように行き過ぎてしまう。


 同じく吉田さんの文章から二個所ほど写させてもらいましょう。


 朝の食事だけを取って見ても、日本式のならば、おこぜの味噌汁に

とろろ、豆腐を揚げたのに塩昆布、それから烏賊の黑作りを少しばかり

という風な献立が考えられるし、洋食ならば、パンをよく焼いてバタを

よく附けた上に半熟の卵を乗せ、これにベーコンをフライパンで焼いて

添える。ベーコンの焼ける匂いというのは強烈なもので、そこら中が

お蔭で芳しくなり、そうするとどうしても飲みものはコーヒーということ

になる。腹が減っている時は嗅覚も鋭敏になるから、このベーコンと

コーヒーの匂いが混じつたのは、それだけでも気を遠くさせるものがある。(*2)



 かういふものを二部屋に分けて作るのでは手間が掛ると思つて初めの

時にこつちがおしま婆さんを部屋に呼んだやうに覚えてゐる。それでゐて

さういふ時に大して話をするのでもなかつた。ただ二人の間に昆布を引いた

土鍋があつて中に豆腐と鱈が沈み、それを掬っては薬味を利かせた醤油を

付けて食べるだけでそれが湯気を立ててゐるのが旨かつたから話をする

必要もなかつた。(*1)


 こういった文章のなかの醤油や味噌をあげつらったところで、あまり作為や深いものは見出せそうにありません。だから僕はこういったするするの走馬灯は取り上げていないのです。今回は特別篇という訳です。こういうのも有る、ということですね。

 そうして、変でしょう、これは、何かこだわってますよね、という描写のみを抜き出していく。それは味噌や醤油を効果的な小道具として差配する気持ちが送り手にあるのかどうか、言わば作為のスイッチのオンオフに関する区分となります。


 もっとも彼ら小説家や監督といった送り手の思惑や意図にまでは、現段階で線引きはしていません。どのような光を舞台に照射するのか、深海や碧空に似た冷たい光なのか、それとも血や熱砂を想わす鉄錆色のものなのかを見定めたうえで、こっちの系統だけを上手く束ねていこうと取捨選択している訳ではない。此処“ミソ・ミソ”を読むひとが何かしらニヒリズムや孤高の昏い薫りを感じ取られることがあるのなら、その戸惑いは僕が意図し導いたものでないどころか、僕自身も同様にして不思議と驚きを感じている最中なのです。そのあえかな旋律の全貌がどんなものなのか、どこから洩れ出て来るのかを気になって探っているところなのです。




(*1):「東京の昔」 吉田健一 中央公論社 1979
(*2):「再び食べものに就て」 吉田健一 1957  「甘酸っぱい味」新潮社 1957 所載