2009年10月8日木曜日

高野文子「奥村さんのお茄子」(1994)~そうお?変じゃないかしら~



遠久田「ここなんですよね、このパクッていうかんじんのとこが

     見えないんですよ、弁当にかくれて」

奥村「そうね」

遠久田「おしいなぁ ここさえ映ってればなぁ」

奥村「かっこんで食べるのが好きなの」

遠久田「(顔を伏して)……」

奥村「なんだい どうした」

遠久田「お弁当のフタに先輩が」

奥村「あら ほんとだ 机の上の醤油さしが映ってやがら 

    俺、礼言わなきゃいけないのかな」

遠久田「……」(*1)


 地球侵略を企てているらしい外宇宙の住人がおります。柄に似合わず結構野蛮なヤカラです。地固めに人間の食生活をひそかに調べている最中で、実験的な投薬を行なって我々の反応をちらちら窺ってもいる。五年、十年を経てようやく症状が現われ、その後、死に至る時限式有毒物質を含んだ食品なんかを熱心に開発しては、こっそり僕たちの食卓に忍ばせたりするのです。ひゃ~~キョウアク!


 地球の日常風景に馴染むように丹念な“整形”を行なってから彼らは来訪するのですが、 “先輩”と呼ばれる調査員はナント、ガラス製卓上ビン、いわゆる“醤油差し”の姿に変身したのでした。すてきですよ、と同族に誉められて「そうお?変じゃないかしら」と照れる醤油差しが珍妙です。


 ですから、ここでは醤油そのものを小道具に使っている訳ではありません。けれども、ちょっと気になりませんか。ほとんど創作上で取り上げられることがない醤油容器に対し、人格が賦与され、いっぱしに喋っているのです。人家にするりと忍び込み、僕たちに毒を盛り、ごくりごくりと嚥下されていく様子を盗撮までしていく。変ですよねえ。


 その先輩が二十五年前に行なった実験のデータに対し、疑問が投げ掛けられたことに物語は端を発しています。療養中でふせっている先輩の立場と信用を何としても守らなければいけない。後輩の宇宙人が事実の確認と検証の為に当時被験者となった奥村フクオさんと接触し、周辺捜査を開始するのです。



 まあ、他愛もない話と言えば、これほどにも他愛ないお話はない訳です。町の小さな電気店を営む奥村さんに、他愛もない装いをした宇宙人が他愛もない道具を開陳しながら探りを入れていく様子はどうしようもなくアンニュイな空気をもたらします。高野文子(たかのふみこ)さんの作品にしてはヒネリ過ぎじゃないか、奇抜過ぎないかと首を傾げる展開です。


  あれよあれよと進行するうちに、他愛もない時間が延々と掘り起こされ、他愛もない動作があざやかに回想され、他愛もない感情が徐々に浮き彫りにされていきます。そうするうちに、あっ、そうか、そういうことかと頷かされるのですね。日常のとても儚い一瞬一瞬が後輩の宇宙人によって根気よく探査され、奥村さんと僕たち読者の眼前にどんどん拡大されて映じられるうちに、それってとても大事な、かけがえのないことの集積なのだと気が付かされる。


  いつの間にかお話の筋などどうでも良くなってしまって、物語が僕たち読者の内部に割り入って来る感覚があります。可笑しさと哀しさと愛おしさが、各々細い糸に結わえられて繋がっている感じがします。僕たちが気付かないだけで、そのような糸が何本も何十本も、いや何千本も日常にぴんと張り巡らされている。今、目の前に転がっている目玉クリップも栄養ドリンクの空いたビンも、五分遅れたままの卓上時計も積み重なった新聞紙の束も、それから僕の前に現われてくれた人たちと彼らと共に為し得たひとつひとつの情景が、どれもこれも意味深く大切なものだったのだと感じられたりするのです。


 なにか自分自身を組み立て直してくれる、そんな読了感が高野さんの作品には独特にあって清々しい気分にいつもさせられる訳なのですが、こうして「奥村さんのお茄子」を丁寧に読み返してみるならば、やはり唸らせられるコマばかりが並んでいるのだし、なるほど醤油差しか、言われてみればこれほど目立たず、他愛もなさでは人後に落ちず、けれど、こいつは僕たちの表情を、喜怒哀楽のすべてをずっと見上げてくれていたのだなと感慨深く思えてくる。随分と綿密な考えのもとに登用されたのかもしれないな、そうかそうか、と思い直して、作者の才気にもやっぱり惚れ直して、にこにこ微笑んでしまう午後なわけです。



 台風が通り過ぎ、日常は隙間なく繋がっていきます。皆さん、ご無事でしたか。増水している場所もあるでしょう。足元に気を付けて、元気に愛しい時間をお過ごしください。

(*1): 「奥村さんのお茄子」 高野文子 1994 「棒がいっぽん」マガジンハウス 1995 所載

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