2011年7月30日土曜日

山田太一「舌の始末」(1975)②~味ごときでごたごた言っている~



 微妙な味覚というものに、私は長いこと反感があった。

 味についてごたごたうるさい事をいう男を見ていると、目の前で

刺身にケチャップをつけて食べたくなるというようなところが

あった。それは、あきらかに戦争中の初等教育、戦中戦後の食糧

難がはぐくんだもので、今でも教科書にのっていた西郷隆盛(さい

ごうたかもり)・従道(つぐみち)兄弟のエピソードなどが、心理

的圧迫としてはたらいていることに気づいたりするのである。(中略)

 老女中が箱膳(はこぜん)のようなものに朝飯をのせて持って

来る。その“おみおつけ”がうまくないと従道さんが文句をいうの

である。薄すぎるというような事だったと思う。(中略)

従道さんが文句をつけると、老女中はあやまるのである。今なら

「やめさせてもらうわ」という所であろうが、明治だからあやまる。

しかし、老女中の練達とでもいうか、ただではあやまらない。一言

つけ加えるのである。「お兄さまがなにもおっしゃらなかったので」と。

 そこで従道さんは、パタリと箸をおとし「さすが兄上」男子たる

ものがおみおつけの味ごときでごたごた言っているようでは出世し

ないと奮起したというような話なのである。(中略)以後二十数年、

食べ物に文句は言わないぞ、(中略)という気持ちで戦後を生きて来た。


 山田太一(やまだたいち)さんが70年代に書いたエッセイから、もう一箇所“おみおつけ”に言及しているところを抜き書きしました。食べることがそのまま生きることに直結し、とりあえず食悦を封じて懸命に腹を埋めることに注力しなければならなかった山田さんたち世代にとって、手の込んだ料理や微妙な匙加減といったものはあくまで人生の二次的な、瑣末な事象であり、男子たるものが軸足を置いて良い場所ではなかった。まずは言葉を尽くした人間同士の交流なり交歓があり、誰もが社会で躍進することを関心の上位に置いていた、いや、そうあるべきだと叩き込まれたのです。


 僕はこれまで食べ物と創作世界との関わりについて、ずいぶん意識を傾斜させた時間を過ごしてきました。元々山田さんが描くホームドラマは刺激的に目に映り、気懸かりな作家のひとりとして追跡をしてきたつもりだったのですが、気付いてみれば山田さんの描く世界に味噌なり醤油なりの影はとても薄いのでした。それはご自身が上に引いたような教育を受け、そんな暮らしを実践してきた結果だったのかもしれないですね。


 本当を言えば山田さんの言葉はこの後もつづき、“心理的圧迫”に左右される身の上に疑問を抱き、このままで良いのだろうかと押し問答した末に尻切れ蜻蛉のあいまいなかたちで筆を置いておられる。整理しきれぬ在りのままの心を綴っていて、とても人間くさい文章です。


 作品世界での味噌、醤油の記述はほとんど見受けられない山田さんですが、内奥には明暗を雑居させた“おみおつけ”が見つかってしまうのは興味深いですね。また、子供たちのその後の暮らしぶりを硬い枠にはめていき、極端に節制することを強い、不満は噛んで呑み下すことを賞賛する戦前、戦中の教育の現場に“薄味のおみおつけ”があったことも、味噌汁と日本人の魂とが癒着する広さ、根深さを思わせて面白い。


 ひるがえって僕たちの今をかえりみれば、国中に汚染された肉があふれ、不明瞭で後ろ向きの基準値に即した作物がどんどん流通して食卓へ、学校給食へと販売されていきます。海外のメディアが疑問視する国民のおだやかな沈黙、異様とも言える従順さというものが、山田さんたち世代から、いや、さらにずっと以前からの教育訓練の結果なのかな、なんて想像も働いてしまうのです。


 事態は“味が薄すぎる”というようなレベルではないのですから、ひとりひとりが言いなりにならず、“食べ物に文句を言うべき”なのです。疑問や希望を告げるべきときは告げて、日々の“食”をことさら大切にしていかねばならない。


 行政や経済のトップに座るのは似たような訓練を経て“出世”した人たちでしょう。数値についてごたごたうるさい事をいう奴を見ていると、目の前で刺身にケチャップをつけて食べたくなるというようなところがあるでしょうが、意に介さず勝手に食べさせておけばよいのです。


 毅然として僕たちは食べない、そういう時間がこれから大事になると思いますね。


(*1): 「舌の始末」 山田太一 1975 「路上のボールペン」冬樹社 1984 所載。手元にあるのは 新潮文庫 1987 

山田太一「舌の始末」(1975)①~そもそも汁という言葉が~



 味噌汁(みそしる)という言葉が、私はどうも気にくわない。

朝のさわやかさがない。実も蓋もないという気がする。鼻汁を連想

するといえばいいがかりをつけているようだが、そもそも汁という

言葉が嫌いなのである。「おみおつけ」といいたい。しかしいま、

会話ならともかく文章の中で「おみおつけ」と書くと、やや普通で

ない印象をあたえるような気がする。味噌汁が大勢を占めている。

「おみおつけ」にこだわると、偏屈という感じになる。(*1)


 仕事から帰ってテレビを点けると、ちょうど衛星放送で映画(*2)が始まったばかりでした。山田太一(やまだたいち)さんの幽霊譚を原作としていて、これは封切りの際に確か観ています。


 はてさて、どこで観たのだったか──。調べてみれば二十三年も前に作られている。当時働いていた郊外の町の古びた映画館だったか、それとも電車をわざわざ乗り継いで出かけた街の大きな劇場だったものか。人の多く行き交う気配をおぼろに感じはするけれど、詳細はもう蘇えっては来ません。人間の記憶なんてあやふやで儚いものですね。人生の転機となった瞬間や既成概念をぶち壊してまばゆい覚醒をともなうものでもなければ、どんどんと霞んで消えてしまう。


 その頃の僕は経験値がまるで低かったものだから、映写幕からばあっと反射してくるものは当然少なくって、特段の感慨をこの現代の怪談噺に抱くことはなかった。二十数年を経て再度こうして向き合ってみると、今度はあろうことか食い足りなさを覚えてしまう始末。映画や小説の色艶(いろつや)、膨らみというやつは、送り手と受け手の“噛み合わせ”次第だとつくづく感じます。


 もっとも興味深く、面白くは観たのです。なにより大震災を経たばかりだし、弔いは身近に連なっています。生命を奪われる瞬間であるとか人生の意義とか、人がひとを葬送する意味なんかをあれこれ考えながら観れましたから、相応に密度ある時間だったのだけど、このところ“しがらみ”の茂り具合がぐんと増してきた我が身には、劇中の風間杜夫さん演ずる四十男の無責任感、浮遊感がやや鼻に付き集中を妨げるものがありました。


 いつの時代にも心労の種、苦しみの河は日常に潜みます。誰ひとり得心しない、矛盾や不満を抱えながら死んでいく、それが世界の内実じゃないかとも思います。この映画の作られた頃にしたって悩みや哀しみが世間に渦巻き、むなしさは人のこころに巣食っていたはず。僕にしたって例外でなく、鬱々として苦しい毎日でした。だから、僕たちのいま住まう環境をいたずらに特別視するのは、傲慢なことにきっと違いない。


 しかし、それにしたって、ここまで閉塞感に包まれた現況、半端でなく未来を覆う“しがらみ”の大量発生というのは強大なものがあって、人間の視線ってやつをすっかり変質させてしまうように感じます。こころの奥底に広がるが池はさわさわと波立ち、昏い光に染まってしまう、水面(みなも)を寄せ渡る風はどこか微妙に焦げ臭い気がしてならない。


 過去に林立する創作劇の根幹を揺さぶり、場合によっては鋸(のこぎり)引きして蹴倒しかねない、そのぐらいの心境の変化が訪れている。赤々と目をつらぬく落ち日と、蒼白き雷光にでろでろと照らされながら黄泉の境を越えていく、哀れないくつかの魂を映画の奥に看取りながら、世界が新たな局面へ足を踏み入れた実感を想わないではいられませんでした。


 話が余計な方へと流れました。そうそう、山田太一さんのことでしたね。若い頃に綴られたエッセイのなかで「おみおつけ」に言及しているくだりがあります。上に引いた箇所で山田さんは、「おみおつけ」が僕たちの深層に不潔感や貧乏臭さ、不味さといった負の印象を刻みがちな理由のひとつは“味噌汁(みそしる)”という響きにあるのではないか、と指摘しています。


 味噌汁を人間の“汗(あせ)”と絡めて書いたもの(*3)はありましたが、ずるぺちゃとした“鼻汁”を臆することなく並列してみせるのだから、さすがに山田さんです。なるほど「汁(しる、じる)」という響きはあまり僕たちのなかで“さわやか”なイメージを結ばない。郷土料理にはナントカ汁と呼ばれる鍋が多いから、それこそいいがかりをつけるなと叱られそうだけど実際そうなんだから仕方がない。


 顔から同じように流れ出る粘液でも、唾液(だえき)と鼻汁(はなじる)では雲泥の差があります。長く情熱的に接吻を交わした果てに唾液まみれになるのはうっとりとして良いばかりですが、鼻汁まみれになるのは厭です。不思議ですね、鼻くそでなく鼻汁ならば、成分だって唾液とそんなに違わないでしょうに。うまい“つゆ”に舌鼓を打ってもそりゃ良かったねで済むけど、うまい汁(しる)を吸うと軽蔑されて後ろ指を差されたりもしますね。


 味噌汁に仮託される人情の機微は実に多彩であり、複雑です。これに対して醤油をベースとする“お吸い物”はドラマのなかでなかなか活きて来ない。もわもわとした濁りや排泄物に近似した色、汗のような匂いが人間の混沌とした内奥ときつく線を結ぶのかもしれません。


 山田さんに刃向かうつもりは毛頭ありませんが、こと創作の世界においては「おみおつけ」でなく「みそしる」の方がずっと良いように僕は感じています。




(*1):「舌の始末」 山田太一 1975 「路上のボールペン」冬樹社 1984 所載。手元にあるのは 新潮文庫 1987  
(*2):「異人たちとの夏」 監督 大林宣彦 1988。最上段の絵は劇中登場する前田青邨(まえだせいそん)の「 腑分け」
(*3):「イン ザ・ミソスープ」 村上龍 1997 
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/07/1997.html

2011年7月27日水曜日

斎藤澪「この子の七つのお祝いに」(1982)~よく見るとそれは~


でも、私がいくら詫びても、説明しても、真弓の心は

もとには戻りませんでした。まったく口をきかず、蒲団に

潜ったままなのです。私が新聞を読んでいる。部屋がひっそり

静まっている。寝ているのかなと思って、そっとうかがうと、

蒲団の端から二つの目がじっとこっちを睨んでいる。

その目の冷たさ。不気味さ。

 その頃からです、真弓の異常さを知ったのは。

真夜中に、ふっと目が覚めると、枕元に真弓が坐っている。

味噌汁を作ろうと甕(かめ)の蓋(ふた)を取ったら、

白いカビが生えている。しかしよく見るとそれはカビでなく、

縫い針なんです。気をつけて周囲を見まわしたところ、大根

にも豆腐にも、無数の針が刺してある。こんなこともありま

した。私が可愛がっていた犬が、ある日消えていました。

餌入れをみると、猫いらずが湿った残飯が入っていました。(*1)


 いとしい男がこころ離れしていく、気持ちはもう此処にはないのだ。横顔を見やりながら、おんなが徐々に狂っていきます。やがて病床からずるり這い出していき、周辺のありとあらゆるモノを変質させることに残った力を注いでいく。


 斎藤澪(さいとうみお)さんの「この子の七つのお祝いに」の終盤に描かれた光景です。中でも秀抜なのは、ぬめぬめと銀に光る縫い針を、取り置いていた“食べもの”に突き刺すくだりでした。ひゃあ、これは怖い。


 縫い針であれ釘(くぎ)であれ、細くとがったものを人形や写真のなかの人物に突き立てる行為は作劇における常套手段になっていて、もう誰ひとり驚かない訳ですが、斎藤さんのこの“食べもの突き刺し”描写は意表をまったく突いてきて心底慄然といたしました。


 映画(*2)では、この真弓というおんなを岸田今日子さんが演じていましたね。背をまるめて座卓に向かい、呪詛の文句をもわもわと小声で放ちながら、大根の生白い腹めがけて針をぶち、ぶち、ぶちりと刺し続ける岸田さんの様子は恐怖を超えて思わず笑ってしまう域に達しており、観ていてとても楽しかったのでしたが、こちらの原作は到底笑えない、真に迫った怖さとそこはかとない哀しみが霧のように重く漂って、追い払いたくともねばねば纏わり付いて消えてくれない感じです。凄まじい一瞬でしたね。


 むしゃくしゃした気分を打破するために、僕たちは集中して何事かにのめり込むことが往往にしてあります。歌ったり、身体を鍛えたり、車で走ったり、旅行したり、愛し合ったり──それはとても自然なことだし、人間らしい花火みたいな一瞬だと思うのです。コップや携帯電話といった物に八つ当たりしたり、酒に呑まれたり、そんな事したくないのに恋人を邪けんに扱ったりするのだって、やや暴発気味ですが生きた花火の時間に違いない。


 映画での岸田さんには大根や豆腐を男の代用品として捉えている気配が濃厚で、ぶすりぶすりと刺す行為でもって鬱積を晴らして見えました。どれだけ目を剥こうが、どれだけ陰惨な言葉を吐こうが、どこか健常者の面持ちを含んでいたのです。蒼白く、細く流れる花火を間近で観るようで、ああ、人間だったらそんな気分にもなるだろうな、と共振する余地がまだあったのです。ところが齋藤さんの書いたものは全く違う、安っぽい同情を拒絶している。


 幼い娘を亡くしたばかりで、火の消えたようになった一間限りの安アパートです。病弱のおんなのために簡単な食事を作ってやっていたに違いない男が、再び味噌汁を食べてもらおうと思い立ち、流しの下にでも置かれていた小さな甕(かめ)を覗いた末に奇妙な光景を見止めてしまう。


 カビかと思えば無数の針がてらてら反射し、まるで味噌の表面に菌糸が蠢いて見える。これはもう花火とか鬱憤晴らしだとか、そんな呑気な事を言っていられる次元ではない。その時の男の驚きやおののきはいか程であったものか。想像すると、指先から肩や胸へとたちまち鳥肌が立って胸が悪くなる感じです。


 傍らにはこんもりと盛り上がった蒲団があり、おんなが息をころして男の動静をうかがっている。男の依代(よりしろ)として“食べもの”を選び、当り散らしたのではなかったのです。男に針を千本喰わせ、自らも針を千本呑んですべてを崩し去ろうとおんなは決めている。家庭や家族の幸福の代弁者となる味噌を破壊し、これまでの航跡を破壊し、男とのなれそめも必死の逃避行も、充実した懐胎と温かい乳児の匂いと、笑顔やささやきや抱擁や、あの頃の暖色に霞んで見えた未来も何もかも、宇宙のすべての一切合切を灰燼(かいじん)に帰す覚悟におんなは至ったということなのでしょうね。


 映画を楽しめた人には、機会を見つけて齋藤さんの文章をさらりと一読されることをお薦めします。岸田さんだけでなく、岩下志麻さん、杉浦直樹さん他の熱演をさらに補強し、群れ集う孤高の魂たちをおごそかな昇天へと導いてくれます。





(*1):「この子の七つのお祝いに」 斎藤澪 1982 角川書店 カドカワノベルズ
(*2):「この子の七つのお祝いに」 監督 増村保造 1982

2011年7月26日火曜日

吉村龍一「焰火(ほむらび)」(抄録)(2011)~かさぶたのように~



枝を拾って火をおこす。鉄鍋に湯を沸かし、ぶつ切りにし

た身欠き鰊と、ささがきにしたウドをほうりこんだ。湯だっ

てきたよころで味噌を溶いた。

「たんと食え」

椀に山盛りだ。一口啜ったおれはうなってしまった。鰊の

ダシが味噌となじんでいる。どっしりと腹わたに沁みる。(*5)


 カナカナと哀しく唄う蜩(ひぐらし)の合唱に続き、盛夏の訪れに狂喜するかのような油蝉が鳴き出しました。事故の影響で何百万、何千万、いや、もしかしたら何億もの蝉の幼虫が暗い地中で息絶えたのではないか、目がただれ、身体を焼かれし、きゅうきゅうと悲鳴をあげながら苦しんでいたのではなかろうか、と怖い想像をしておりましたので、いつにも増してこころに迫る声となって聞えます。生きていてくれて、ほんとうに有り難うね。



 さて、上に引いたのは、吉村龍一(よしむらりゅういち)さんの小説「焰火(ほむらび)」からの一節です。第6回「小説現代」長編新人賞の受賞作として、同誌8月号に断片のみになりますが掲載されています。以下、幾らか内容に触れますのでご用心。年末には単行本化されるとの話です。一気呵成に物語に身を投じたい人は、それまでひたすら耳をふさいでお待ちください。


 集落から代々疎外されてきた家筋(獣を狩り、皮と肉をさばく家系)に育った若者が、村の男たちからの悪辣な私刑に反撃して死闘を繰りひろげます。ぞっとする描写の連続なのですが、つよく惹き付けられる瞬発力、豊かな“しなり”のようなものに溢れていてとても面白く読みました。


 その後、旅の途中の親切な船人にからくも救われ、若者はまさに九死に一生を得るのですが、ひと息ついてから振る舞われた食事が上のような“味噌鍋”だったのです。干し魚と山菜の具体名が素朴な味わいや匂い、質感をありありと夢想させ、そこに“なじんだ”味噌の厚みのある香りが加わって鼻先に立ちあがる。適確で無駄のない描写となっていました。


 若者にとって味噌はご馳走であり、それを口にするのは歓喜の瞬間だとわかります。選考委員のお一人の言葉によれば、時代設定は昭和初期とのことであり、その頃の味噌の存在感が再現されているだけでも紹介に値すると思われたのですが、僕にとってもっと驚きであり、大いに楽しくもあったのは以下に並べた“味噌地蔵”のくだりなのです。


 古代信仰の現場においては“聖域”と呼ばれる場処に死骸や汚物を放り入れたり、タブー視されがちな行為(例えば男女の交接)をあえて持ち込むことで聖性をより高める、そんな意識の大跳躍が図られたと聞いています。また、今でこそ整然として美しいお坊さんの袈裟(けさ)ですが、少し前までは図柄など混沌とした“つぎはぎ”然としていましたね。あれなども遥か昔にお坊さんが供養と修行のため、埋葬間際の死者を覆っていた布を譲り受けて我が身に纏(まと)っていたことに由来していると聞きます。これはよく知られた話ですね。


 聖性をより高めるために穢(けが)していく。醜悪な外貌を強いて力を数段高めていく。一見真逆なマイナスとも思える行為をもって、信仰の対象となるものがいかに寛容であるかを広く知らしめ、精神世界の奥行きをぐんと延ばし、結果として内在する輝きを増強する。洋の東西を越えて共通する宗教の暗い一面です。


 毎年仕上がった味噌を祠(ほこら)に献上し、そこに祀(まつ)られた地蔵像の顔や頭にすり付けるという風習は、日本のあちこちにひっそりと根付いたものとしてこれまで見聞きはしていましたが、ここまで明瞭に小説世界で取り上げられたのは初めてのように思います。


 汚さ、醜さ、臭さを端整な優しい顔立ち、柔らかなそうな丸まっちい肢体にごわごわと付着させ、常人の意識や感覚をはるかに凌駕した強靭な息吹を石の身体に宿らしめる。物語の重要な支柱のひとつとして採用されて、繰り返し何度も若者の意識に立ち昇ってくるこの味噌地蔵の面影は、実に味わい深いものがあります。


 食べものが仲立ちしていく魂の世界。味噌と日本人との結びつきの深さと長さ。僕たちが味噌に対して抱く両極端の想い、憧憬と侮蔑。それがない交ぜになって風となり、時代をこえて吹き抜けていく。──そんな事を考えるきっかけとなってくれて、実に刺激的でした。


 年末に明らかにされるだろう吉村さんの物語世界と再度まみえるのが、今からとても楽しみです。生きていれば必ず手にするでしょうね。


 お堂の床板はひんやり湿っていた。

 背中が心地よい。

 味噌まみれの石仏がこちらを見下ろしている。かさぶたの

ようにただれた味噌はすっかり水気をとばし、表情をあいま

いにかえていた。

 脱ぎ散らかされた衣服が蛇のようにからんでいた。おミツ

の着物の赤がひときわ目についた。(*1)




 地蔵さまは汚かった。かびがはえていた。顔にぬりたくら

れた味噌はひびわれている。表情もわからないほどだった。(*2)



 味噌は酸っぱくなっていた。鼠のかじったあともある。そ

れをみかねたお父が顔を洗ったことがあった。きれいにして

やろうとの一心だった。しかしその晩から原因不明の高熱

にうなされてしまった。(中略)味噌が落とされた地蔵さまが

怒っている。それがお告げのこたえだった。翌日お母が味噌を

塗りなおしたとたん父はけろりと起き上がった。(*3)



 とぎれとぎれに言葉を叫ぶ。着物をはだけたまま繋がりあ

う。うめきがお堂にこだまする。よごれきった味噌地蔵が、

錫杖(しゃくじょう)を手にこちらを見据えている。地蔵さまぁ。

おらだをお救いください。おれとおミツをあったけぇ場所さ

連れてっておごやい。(*4)


(*1):「焰火(ほむらび)」(抄録) 吉村龍一 「小説現代」 講談社 2011年8月号所載  240頁
(*2):同248頁
(*3):同248頁
(*4):同253頁
(*5):同260頁

2011年7月21日木曜日

和田竜「醤油 北条氏康に無茶苦茶怒られる」(2011)~そんな予測もできないで~



 しょっぱいものが大好きで、何でもかんでも醤油をぶっかけては

口に入れるので、一緒に食事をしている人を唖然とさせることも

しばしばである。(中略)従って、刺身を食い終えた後も、醤油は

皿の上にたっぷりと残っている。

「リョウ。昔の侍はな、食べ終わると同時に醤油もなくなるように

考えて注いだもんだ。そんな予測もできないでどうすんだ、お前」

 そんな僕の食癖に怒った父は、こういうイイ話をして、小学生の

僕を叱ったことがある。(*1)


 上に引いたのは和田竜(わだりょう)さんのエッセイの一部です。五ヶ月ほど前の新聞に載っていました。我が子の食卓での所作に目くじらを立てる、頑固っぽい父親が登場しています。小皿に注がれるわずかの醤油が気になって気になって仕方ないのです。同様の風景をどこかで目にした覚えがあるのですが──、そうだ、亡き父親を述懐する向田邦子(むこうだくにこ)さんの文章にもこれとそっくりの場面がありました。


 子供のころ、小皿に醤油を残すとひどく叱られた。

 叱言(こごと)を言うのはたいてい父であったから、父と一緒の食事で

醤油を注ぐときは、子供心にも緊張した。(中略)

「お前は自分の食べる刺し身の分量もわからないのか。そんなにたくさん

醤油をつけて食べるのか」

 早速に父の叱言がとんでくるのである。(中略)

 豊かではなかったが、暮しに事欠く貧しさではなかった。昔の人は

物を大切にしたのであろう。今でも私は客が小皿に残した醤油を捨てる

とき、胸の奥で少し痛むものがある。(*2)


 1969(昭和44)年生まれの和田さんのお父様と、向田さんの厳父とでは世代がまるで違います。育った環境も世相も当然異なっているのですが、顎のしっかりした面貌やらんらんと光って怖い眼(まなこ)が両者共に想像されて、僕にはまるで生き写しみたいに感じられるのです。


 和田さんの見立てによれば、お父様は戦国武将“北条氏康”の逸話に影響を受けていた気配なのだけど、同じことが向田さん側にも起こっていたかどうかは全くもって分からない。(*3) もしかしたら教科書のたぐいに長らく紹介されていて、ある年齢以上の人には耳にタコが出来るぐらい聞かされた説話なのかもしれない。調べれば調べられなくもないけど、正直言えばあまり触手が動かないですね、探る気力はありません。


 追跡不能の領域として謎は謎として残し、手をつけずにそっと箱に小田原北条氏は仕舞うこととして、けれど、およそ三十二年という長い歳月を越えて和田さん、向田さんお二人の“父親の記憶”が輪郭をするり重ねていく現象はとても興味深いことであり、気ままな想いをふわふわと馳せてしまう訳なのです。


 醤油の価格はピンきりです。1リットル換算で500円を越える、そんな高級品を使っている家庭は少ないでしょう。仮にそんな値段の品を使っていたとして、山葵(わさび)や脂(あぶら)にうすく濁って小皿に取り残されるのは多くて20ミリリットルでしょうから、やがて流しに捨てられる宿命の醤油はどんなに高く見積もっても、せいぜい10円程度にしかならない計算です。世の中には桁外れの吝嗇家もいてヒステリックに叫びまくる場面も確かにあるのでしょうが、ここでは単に金銭のことではない、もう少し別の湿った想いが宿っている。


 むらさきの液面の奥に潜んでいる仕事人の苦労──土を耕し、種をまき、雨に濡れ風に吹かれしながら、夏にはぎらぎらした直射日光に肌を焼きつつ穀物を育て上げ、重たい思いをして醸造家にようやっと手渡した後には、今度は蒸気や熱水と闘う汗と涙の仕込み現場に委ねられ、別の者が手塩をかけて醤油作りに励んでいく。一次産業であれ二次産業であれ、ものを創るという行為の蔭には想像を絶する対流や淀みがある。たくさんの人手と時間が費やされていく。


 そんな苦労の堆積を透かし見れずに、茫茫と背丈だけは育っていく子供の将来にいたたまれなくなり、彼らの“想像力の欠如”を補うべくしてついつい口が滑るのでしょう。眉寄せて浪費を叱っているのではない、いずれの日にか我が子が“食べ切ることの美しさ”、“始末のすがすがしさ”を体得してくれることを願っている。


 醤油の使い方をきっかけと為して人生や仕事への洞察力に磨きを掛けていく、その親から子への“直伝の時空間”がとても好ましく目に映ります。その役割がしっくりと男側、父親たちに結像していくのも大変興味引かれるところ。味噌(汁)に母性を思い、醤油に父性を覚える、そんなイメージの住み分けがあって面白いですね。


 紙面から切り取り、手元にずっと保管しながらも取り上げずに来たのは、もちろん大震災のためです。向き合うにはやや風情が硬く窮屈だった。それに、僕の惹かれて止まない艶やかな領域、つまりは恋慕や性愛、霊肉の一致する段階と食物との関わり方とはやや乖離したものにも思えて、どうにも弾みがつかなかった、萎えてしまった。


 ところがここに来て事情が変わりました。“節電の夏”の到来です。ご承知の通り、大口需要家の皆さんの創意工夫により計画停電の実施はこれまでありませんが、家庭に職場に節電に努め、僕たちもまたこの特別な夏に立ち向かっています。そこでふと和田さんのエッセイが思い返された次第なのです。


 余分なものを溝(どぶ)に捨てることのないよう“予測”をしながら物を選び、電気を上手に使い、身の丈に応じた暮らしをする。“昔の侍”のように“美しく使い切る”、そんな暮らしぶりを僕たち3.11以降の列島居住者は求められている。


 「繁栄」という言葉には、無駄や不明瞭さを帯びる「繁雑」にどこか通底する感じがあります。得体の知れぬぐにゃぐにゃの尾ひれが付き纏っていく。そのようなわけの判らないものでなく、努めてシンプルに、所作ひとつひとつに“美しさ”を宿しながら、この不安な時期を乗り越えていけたらいいと願います。

 花を愛で、着実に学び、そうして堅実にこの夏を暮していきたいものです。


(*1):和田竜 「醤油 北条氏康に無茶苦茶怒られる」 朝日新聞 2011年2月19日 持ち回り連載「作家の口福」欄に寄稿されたもの 
(*2):向田邦子 「残った醤油」 初出は「新潟日報」1979 エッセイ集「夜中の薔薇」(講談社1981)所載 僕の手元にあるのは後年出された文庫版 上記画像も
(*3):和田さんのエッセイでは、北条家の食事で問題視されたのはご飯にかけられた“汁”の量であったと紹介されています。家督を譲り隠居の身となった氏康が息子の氏政と食事をしていたところ、汁がけを二度所望した様子を見て目先が利かぬ男と判断、北条家の行く末を深く案じた、という内容です。“汁”と醤油ではずいぶん趣きが違うが、この話をかつてインプットされたお父様が和田さんの癖を正すために引き合いに出したのらしい。蛇足ついでに書けば、この北条家の逸話に関しては本によって細部がまちまちであり、たとえば青木重數(あおきしげかず)さんの著した「北条氏康」(新人物往来社 1994)においては“汁”ですらなく湯漬け用の“湯”となっています。いずれにしても“昔の侍”が醤油の使い方で揉めて場が騒然となった訳ではないみたい。なんだか拍子抜けだなあ。安堵と物足りなさが交ざった気持ちです。

2011年7月1日金曜日

庵野秀明「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」(2009)~15年後、30年後~


 近頃の映画館は入場の際に好みの席を指定できる。従業員教育の行き届いた劇場ともなれば余程の人気作品でもない限り無理に詰め込まないし、前後左右に空席をもうけるようリクエストを上手く誘導し、誰もが気兼ねなく愉しめる環境をお膳立てする。僕が訪れるのは大概の場合、仕事帰りのレイトショーになるから、妙齢であれご年輩であれ女性と隣り合わせになったりすると汗臭くないかしらん、迷惑じゃないかしらんと余計な気を回してしまう。それがすっかり解消された分、居心地は数段良くなって実に有り難いことだと思う。


 以前は席の最後尾に陣取って、お客さんの反応も含めて観ることが多かったな。“作り物”として強く意識し、けれど醒めているというのでなくって、むしろ技法や演出を見逃すまい、聞き逃すまいと熱狂していた。映像に関わる“仕事”に憧憬を持って臨んでいたからだ。演じ手、作り手の名前を記憶し、専門用語も憶えて一瞬一瞬に目を凝らしていた。


 いまは違う。スクリーンから五、六列目に沈んで光と音の洪水に身をひたして揺蕩(たゆた)い、我が身やこころに照らして男なりおんなの表情やこころの綾にいちいち頷いたり、動揺したり思い出したりしながら、つらつら考える、そんな精神的な時間になっている。少しずつ少しずつ細胞の入れ替わるようにして嗜好は面立ちを変えていく。僕は確かに変わったのでしょう。決して悪いことでなく愉しいこと、面白いこと、とそれを捉えているところです。


 さて、先日劇場で一本、レンタルショップから借りたものを自宅で一本、まったく毛色の違う日本の作品を立て続けに観ました。ひとつは山村を舞台にしています。(*1) 誰もが立派な苗字を持ち、熊撃ちの鉄砲があることからすれば明治期の初めと時代設定しているのでしょう。そこでは七十歳を境にして村から放逐されてしまう“棄老(きろう)”のしきたりが続いていて、浅丘ルリ子さん演ずるおんながいよいよその番となるのでした。雪野で念仏を唱え死の淵をさ迷った末に辿り着いた場処は、三十年に渡って生き永らえてきた草笛光子さんをリーダーと為した“捨て老女”たちのコミューンで、おんなたちは輻輳(ふくそう)する想いを抱えながらも、今は村人たちへのはげしい復讐の念に駆られて竹やり訓練などしながら暮らしているのでした。


 クレオパトラみたいな馴染みの化粧ではない、「憎いあんちくしょう」(*2)の時分の自然な風貌を取り戻した浅丘さんや、アイパッチと真っ白く長い縮れ髪が素敵過ぎる倍賞美津子さんに見惚れたり考え込んだりしながら楽しく過ごした訳でしたが、僕が不思議に思ったのはコミューンの食生活の極端なみすぼらしさです。豊かな智見(ちけん)を内に湛える五十名もの老女が集結して、口にするのはどんぐり団子か小動物の肉ぐらいしかないのです。開墾する体力も残されてない弱者の集団ながら、いま少し工夫をしながら食生活の改善を図れたのではなかろうか。味噌作りや漬物作りを果敢に推し進め、ささやかながらも彩りに溢れた食餌を実現出来そうに感じます。


 具体的な説明はなかったのだけど、どうやら“塩”の欠如が足を引っ張っている。また、縄文時代の集落跡に建設されたコミューンであり、手慰みに土偶作りにいそしむ様子が何度も挿入されるところを見ると、土中に埋もれた古代の息吹を老女たちに注いで奥底に眠っている荒ぶる魂への点火を試みる、そんな演出意図が明々白々でありますから、あまりにも貧相な食料描写はきっと縄文の暮らしぶりに準じたものなのでしょう。


 それにしても、人里から隔絶したこの“デンデラ”と呼ばれる場処で味噌や醤油が跡形もなく消失し、(フィクションとはいえ)三十年という歳月を不平も言わず代用品も作らず、それら無しで坦々と生きてきた日本人の姿を目にして慄然とするものがあったのでした。漠然と“ソウルフード”という位置付けを思い描いていたのに、君の勝手な妄想に過ぎないよ、誰も味噌汁や醤油になんか執着してないよと冷笑されたようで、一抹の淋しさを禁じ得なかった。


 いまひとつは若い世代に人気のアニメーションです。(*3) 十五年前、人為的に引き起こされた大爆発により地球人口の約半分を失ってしまった近未来を舞台にしています。海はひどく汚染されて赤々と染まり、場所によっては魚や亀などの生物が残らず死滅したらしい、そんな暗澹たる状況なのです。しかし、事故の後に生まれ育った子供たちは当たり前の事として事態を受け止め、臆することなく押し寄せる難局に立ち向かっていくのでした。


 やはり視線は食べものへと向かいます。地球の地軸さえも衝撃で傾いてしまった、まさしく驚天動地の事態であるのに不思議とコンビニエンスストアには食品が溢れ、飲料やアルコール類が平然と並んでおりました。あの3月11日以降の様々な現実風景を思い返し、むず痒いような、無意識に流れに掉さしてしまうような、妙にちぐはぐな感覚が胸に湧きもして考えさせる時間となりました。フィクションの限界であるのか、それともフィクションゆえに人間の業、つまり、喉もと過ぎた後に熱さをけろりと忘れてしまうことや飽くなき食欲、非日常へ関心を寄せ続けることの限界といったものを残酷に晒して見せるのか。う~ん、よく分からない。


 より興味深かったのは(*4)子供たちがピクニックに行く光景が劇中挿入されており、そこで“味噌汁”が極めて印象深く登場していたことです。遺伝子工学でこの世に生まれ落とされた娘が交じっており、肉をまったく受け付けない体質らしく昼食の席で孤立してしまうのでした。見かねた仲間のひとりが水筒に詰めて持参した“豆腐とわかめの味噌汁”をカップにちょろちょろ注いで娘に手渡し、「これなら大丈夫ではないか」と呑ませていく。初めて口にした温かい味噌汁に目を丸くし、やがて破顔して、生き人形の胸の内にも微かな暖色のともし火が宿るという場面でした。


 常に死と隣り合わせに暮らす子供たちの各々の生い立ちには暗い影が投げ掛けられており、大概が肉親の情に飢えているという設定です。味噌汁の一件以来、子供たちは調理に目覚め没頭していくのでした。料理を介して別の誰かと密接に繋がっていける事に気が付き、慣れぬ包丁を振るって手指に傷を負ったりもするのです。いささかステレオタイプで青臭い展開ですが、地球滅亡、人類殲滅の土壇場に佇みながらも一杯の味噌汁が作られ、見守ってくれている相手に振る舞っていこうとする健気な様子には、人間の哀しみ、愛らしさが滲んで悪くありませんでした。私たちの奥まった場処に隠された内実を探知し得た作り手の賢さ、生真面目さが感じ取れて嬉しかった。


 創造の原野で本来は寄り添いがちな“おんなたち”があっさり味噌汁を棄捨し、見向きもしないと思われている“子供たち”が必死になって鍋に向き合います。時代が円熟し、味噌汁の作劇上の立ち位置が不鮮明になってきた印象も受けますね。


 わたしたちのこれからの十五年、これからの三十年はどうなっていくのか。そのとき、味噌汁はまだ存在するのかしないのか。僕はこの世にもういないかもしれないから、ジャッジは次の世代に譲ります。若いみなさん、これから生まれてくる皆さん、本当にどうか健康に留意して元気に過ごしていってください。油断なく、けれど伸び伸びと。こころからお願いしますね。


 そして、懸命に闘っている我が善き友人たち、
 暑い夏に負けぬよう、くれぐれもご自愛のほどを!


(*1):「デンデラ」 監督 天願大介 2011
(*2):「憎いあんちくしょう」 監督 蔵原惟繕 1962
(*3): 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」 総監督 庵野秀明 2009
(*4): 友人はだからこそ、この映画を紹介してくれたのでしたが