2011年7月1日金曜日
庵野秀明「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」(2009)~15年後、30年後~
近頃の映画館は入場の際に好みの席を指定できる。従業員教育の行き届いた劇場ともなれば余程の人気作品でもない限り無理に詰め込まないし、前後左右に空席をもうけるようリクエストを上手く誘導し、誰もが気兼ねなく愉しめる環境をお膳立てする。僕が訪れるのは大概の場合、仕事帰りのレイトショーになるから、妙齢であれご年輩であれ女性と隣り合わせになったりすると汗臭くないかしらん、迷惑じゃないかしらんと余計な気を回してしまう。それがすっかり解消された分、居心地は数段良くなって実に有り難いことだと思う。
以前は席の最後尾に陣取って、お客さんの反応も含めて観ることが多かったな。“作り物”として強く意識し、けれど醒めているというのでなくって、むしろ技法や演出を見逃すまい、聞き逃すまいと熱狂していた。映像に関わる“仕事”に憧憬を持って臨んでいたからだ。演じ手、作り手の名前を記憶し、専門用語も憶えて一瞬一瞬に目を凝らしていた。
いまは違う。スクリーンから五、六列目に沈んで光と音の洪水に身をひたして揺蕩(たゆた)い、我が身やこころに照らして男なりおんなの表情やこころの綾にいちいち頷いたり、動揺したり思い出したりしながら、つらつら考える、そんな精神的な時間になっている。少しずつ少しずつ細胞の入れ替わるようにして嗜好は面立ちを変えていく。僕は確かに変わったのでしょう。決して悪いことでなく愉しいこと、面白いこと、とそれを捉えているところです。
さて、先日劇場で一本、レンタルショップから借りたものを自宅で一本、まったく毛色の違う日本の作品を立て続けに観ました。ひとつは山村を舞台にしています。(*1) 誰もが立派な苗字を持ち、熊撃ちの鉄砲があることからすれば明治期の初めと時代設定しているのでしょう。そこでは七十歳を境にして村から放逐されてしまう“棄老(きろう)”のしきたりが続いていて、浅丘ルリ子さん演ずるおんながいよいよその番となるのでした。雪野で念仏を唱え死の淵をさ迷った末に辿り着いた場処は、三十年に渡って生き永らえてきた草笛光子さんをリーダーと為した“捨て老女”たちのコミューンで、おんなたちは輻輳(ふくそう)する想いを抱えながらも、今は村人たちへのはげしい復讐の念に駆られて竹やり訓練などしながら暮らしているのでした。
クレオパトラみたいな馴染みの化粧ではない、「憎いあんちくしょう」(*2)の時分の自然な風貌を取り戻した浅丘さんや、アイパッチと真っ白く長い縮れ髪が素敵過ぎる倍賞美津子さんに見惚れたり考え込んだりしながら楽しく過ごした訳でしたが、僕が不思議に思ったのはコミューンの食生活の極端なみすぼらしさです。豊かな智見(ちけん)を内に湛える五十名もの老女が集結して、口にするのはどんぐり団子か小動物の肉ぐらいしかないのです。開墾する体力も残されてない弱者の集団ながら、いま少し工夫をしながら食生活の改善を図れたのではなかろうか。味噌作りや漬物作りを果敢に推し進め、ささやかながらも彩りに溢れた食餌を実現出来そうに感じます。
具体的な説明はなかったのだけど、どうやら“塩”の欠如が足を引っ張っている。また、縄文時代の集落跡に建設されたコミューンであり、手慰みに土偶作りにいそしむ様子が何度も挿入されるところを見ると、土中に埋もれた古代の息吹を老女たちに注いで奥底に眠っている荒ぶる魂への点火を試みる、そんな演出意図が明々白々でありますから、あまりにも貧相な食料描写はきっと縄文の暮らしぶりに準じたものなのでしょう。
それにしても、人里から隔絶したこの“デンデラ”と呼ばれる場処で味噌や醤油が跡形もなく消失し、(フィクションとはいえ)三十年という歳月を不平も言わず代用品も作らず、それら無しで坦々と生きてきた日本人の姿を目にして慄然とするものがあったのでした。漠然と“ソウルフード”という位置付けを思い描いていたのに、君の勝手な妄想に過ぎないよ、誰も味噌汁や醤油になんか執着してないよと冷笑されたようで、一抹の淋しさを禁じ得なかった。
いまひとつは若い世代に人気のアニメーションです。(*3) 十五年前、人為的に引き起こされた大爆発により地球人口の約半分を失ってしまった近未来を舞台にしています。海はひどく汚染されて赤々と染まり、場所によっては魚や亀などの生物が残らず死滅したらしい、そんな暗澹たる状況なのです。しかし、事故の後に生まれ育った子供たちは当たり前の事として事態を受け止め、臆することなく押し寄せる難局に立ち向かっていくのでした。
やはり視線は食べものへと向かいます。地球の地軸さえも衝撃で傾いてしまった、まさしく驚天動地の事態であるのに不思議とコンビニエンスストアには食品が溢れ、飲料やアルコール類が平然と並んでおりました。あの3月11日以降の様々な現実風景を思い返し、むず痒いような、無意識に流れに掉さしてしまうような、妙にちぐはぐな感覚が胸に湧きもして考えさせる時間となりました。フィクションの限界であるのか、それともフィクションゆえに人間の業、つまり、喉もと過ぎた後に熱さをけろりと忘れてしまうことや飽くなき食欲、非日常へ関心を寄せ続けることの限界といったものを残酷に晒して見せるのか。う~ん、よく分からない。
より興味深かったのは(*4)子供たちがピクニックに行く光景が劇中挿入されており、そこで“味噌汁”が極めて印象深く登場していたことです。遺伝子工学でこの世に生まれ落とされた娘が交じっており、肉をまったく受け付けない体質らしく昼食の席で孤立してしまうのでした。見かねた仲間のひとりが水筒に詰めて持参した“豆腐とわかめの味噌汁”をカップにちょろちょろ注いで娘に手渡し、「これなら大丈夫ではないか」と呑ませていく。初めて口にした温かい味噌汁に目を丸くし、やがて破顔して、生き人形の胸の内にも微かな暖色のともし火が宿るという場面でした。
常に死と隣り合わせに暮らす子供たちの各々の生い立ちには暗い影が投げ掛けられており、大概が肉親の情に飢えているという設定です。味噌汁の一件以来、子供たちは調理に目覚め没頭していくのでした。料理を介して別の誰かと密接に繋がっていける事に気が付き、慣れぬ包丁を振るって手指に傷を負ったりもするのです。いささかステレオタイプで青臭い展開ですが、地球滅亡、人類殲滅の土壇場に佇みながらも一杯の味噌汁が作られ、見守ってくれている相手に振る舞っていこうとする健気な様子には、人間の哀しみ、愛らしさが滲んで悪くありませんでした。私たちの奥まった場処に隠された内実を探知し得た作り手の賢さ、生真面目さが感じ取れて嬉しかった。
創造の原野で本来は寄り添いがちな“おんなたち”があっさり味噌汁を棄捨し、見向きもしないと思われている“子供たち”が必死になって鍋に向き合います。時代が円熟し、味噌汁の作劇上の立ち位置が不鮮明になってきた印象も受けますね。
わたしたちのこれからの十五年、これからの三十年はどうなっていくのか。そのとき、味噌汁はまだ存在するのかしないのか。僕はこの世にもういないかもしれないから、ジャッジは次の世代に譲ります。若いみなさん、これから生まれてくる皆さん、本当にどうか健康に留意して元気に過ごしていってください。油断なく、けれど伸び伸びと。こころからお願いしますね。
そして、懸命に闘っている我が善き友人たち、
暑い夏に負けぬよう、くれぐれもご自愛のほどを!
(*1):「デンデラ」 監督 天願大介 2011
(*2):「憎いあんちくしょう」 監督 蔵原惟繕 1962
(*3): 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」 総監督 庵野秀明 2009
(*4): 友人はだからこそ、この映画を紹介してくれたのでしたが
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