2011年3月29日火曜日

中沢啓治「はだしのゲン」(1973)~たのむけえ~

ゲン「ほら おかあちゃん 口をあけえや ほらほら

   しっかり食ってはよう元気になってくれよ……」

君江「ハアハア 元(げん)いま食べたくないけえ あとで…」

ゲン「だめじゃ 無理しても食べるんじゃ 食べないと体が弱る

   ばっかりじゃないか  わしが買い出しで手に入れてきた米じゃ

   たのむけえ食べてくれや ほらうまいミソもあるぞ」

君江「ハアハア」

ゲン「……………………おかあちゃんのばかたれ~~ どうして

   食べんのじゃ バカバカバカ  ううう おかあちゃん

   たのむけえ食べてくれよ~~ うううう」(*1)



一進一退で、むしろ深刻さを増して見える福島第一原子力発電所。冷静沈着、大胆奔放、そんな相反する意思なり行動を取っ替え引っ替え求められる複雑な状況にあり、渦中で闘う人の苦労は並大抵のものではないでしょう。為すすべなく見守るしかない僕のような者は、呑気に構えて日常を楽しめばいいのでしょうけれど、気持ちは毎日泡立ち波打って、随分と苦しい時間になっています。


 錯綜する情報に思考は千千(ちぢ)乱れるばかりだけど、そんな中で放射能汚染に対し“味噌”が効くとの噂が飛び交っていると耳にしました。原子爆弾で自ら被爆しながら治療に全力を投じた長崎の臨床医師の貴重な手記や伝記に依っているのですが、このような状況下ですから誰しもが気になる内容です。 噂をどう捉えどう動くのが正しいのでしょう。信ずるべきかどうか僕自身のなかで激しくせめぎ合うものがあるのですが、幸いにして味噌についてあれこれ友人から教えてもらえる環境です。少し情報を整理して僕なりに思案を深めようと思います。


 最初に確認しておかなければいけないのは、仮に“何らかの力”が味噌にあったとしても深甚且つ急襲されての放射能被害の前ではそれは“微力”に過ぎない、ということですね。もしかしたら微力どころか“無力”かもしれない。


 上に引いたのは中沢啓治(なかざわけんじ)さんの「はだしのゲン」の一場面です。映画化されたものを学校の授業か何かで見せられて、凄惨極まる家族の永別の場面にひどくおののき、暗い館内で嗚咽(おえつ)してしまった記憶があります。あの時のスクリーンの映像が生々しく脳裏に蘇えるのを嫌って、じっくりと腰据えて原作を読んだことはこれまで一度もありませんでした。


 節電のために照明が落とされ、暖房も控えめになった寒々しい市立図書館に足を運び、職員の女性により倉庫の奥から出してもらった全十巻を一気に読み進めました。快適とはとても言い難く風邪をひいてしまいそうな中での読書であったのですが、あの時あの瞬間の光景を実際に瞳に焼き付けた中沢さんの筆には終生冷めることはないだろう熱く湿ったものが宿っているようで、時間や気温や周囲の人の行き来をすっかり忘れて僕は物語の中に引き込まれたのです。


 1945年の夏、広島は“飢餓状態”にあったと本の冒頭に書かれています。原子爆弾が炸裂して多くの人の髪と肌を焼き、衣服と手足を吹き飛ばし、肉と希望を引き裂いていくのを生々しく哀切を込めて中沢さんは描かれているのですが、主人公ゲンとその家族を物語の当初から一貫して圧迫し続けたものが“空腹”だったのです。原子爆弾の悲惨さと共に、戦争末期に僕たちの世界を覆っていく“飢え”の克服について多くの頁が割かれている。


 からくも生き残ったゲンと母親君江でありましたが、容赦なく彼らに原爆症と栄養失調のふたつが襲い掛かります。ゲンの髪の毛は全て抜け落ち、君江は嘔吐して起きる気力を失ってしまうのでした。ゲンは母親の快復を願って、田舎の村々を巡っての買出しに身を投じます。


 なんとか入手できた米でお粥(かゆ)を作り、スプーンにすくい、横臥した母親の口元に運んでやるゲンであったのですが、君江はひと口含んだだけで激しく嘔吐してしまいまるで受け付けません。紆余曲折があってこの母親は多発性の癌に内臓を蝕まれて死んでいくのです。このような広島や長崎の地で星の数ほども繰り広げられた必死の努力と、その末に星の数ほども林立していった墓標の「現実の在り様」を垣間見せられてしまうと、放射能汚染に味噌がたいへん有効であり、それは長崎の体験に基づくものだ、と口にする気力は到底起きてこないのです。


 足裏に肉刺(まめ)を作り、罵声や嘲弄に甘んじ涙しながらゲンが入手した野菜や米に混じって味噌がある。それを笑顔で「ほらうまいミソもあるぞ」と母親に差し出す漫画のひとコマをわざわざ証しとするまでもなく、飢餓状態に置かれた彼の地の人たちにとって味噌はご馳走であり、目に入ったならばこぞって口に放り込む大事な栄養源でありました。


 今ほど多彩になっていなかった当時の単調で緊迫した食糧事情から察すれば、広島や長崎で被爆した人たちのほとんどが味噌を常用するなり好んで口にしていた人たちであった訳であり、そんな彼ら膨大な数の人間、広島市で約14万人、長崎市では約14万9千人ものひとが苦闘の末に亡くなっている事実は重たいものを含んでいる。


 味噌にそれ程までも馴染んだ生命を、味噌に含まれる成分が幾らも助けられなかった現実を厳粛に受け止めた上で、僕たちは今流れる噂話にそっと耳を傾けなければいけない。 傾聴するべきは無責任な流言でなく、責任ある人のしっかりした言葉と、それから、今から六十五年前の夏の日、火傷を負った喉奥からやっとのことで絞り出した怨嗟の声であるべきでしょう。その上でどう捉え、どう動くかが問われている。





 突然にスピーカーから音楽が流れ出して退館をうながされました。いつもは夕方遅くまで開いている図書館ですが、特別の状況ですから四時に閉めたいのだそうです。必要な箇所を慌ててコピーして後にしましたが、少し気懸かりなのは読ませてもらった中沢さんの本が全て真新しい感じのままであり、奥付を見れば購入して一年足らずであるにもかかわらず既にして暗い倉庫の奥に仕舞われていることですね。


 七十年代初めに連載された作品ですから差別用語も確かに点在し、歴史的事実とは違った部分も混在しているのは読んでいてよく解ります。けれど頁が開かれた形跡がまるで無いままに事実上の閲覧制限をするなんて、そんな事で本当にいいのかなと心配になります。この度の大混乱ともこうした事はどこか根茎を繋いでいるように思えるのです。


(*1):「はだしのゲン」 中沢啓治 1973年に「週間ジャンプ」に連載開始。その後発表の場所を替えながら1985年まで断続的に連載。上記に引いたのは汐文社の単行本(2009年第51刷)全10巻中の第6巻中盤56-57頁より。

2011年3月25日金曜日

手塚治虫「ワンサくん」(1971)~託されていること~

「──というわけでわしは会社をやめさせられたんだ…」

「いいのよ そのかわりこんなかわいいイヌをひろったんだから」

「こいつワンサって名にしようよ」(*1)

 生後まもなく母親から引き離され、わずか10円で売られてしまった子犬が主人公です。母恋しさから逃げ出して、煤煙と汚水を撒き散らす大きな工場の脇の川っぷちで暮らしを始めるのでした。


 ところが強欲な工場の主(あるじ)は施設の建て増しを計画して、純朴な老社員に邪魔な子犬の殺処分を命じるのです。情が移ってしまった老人はどうしても子犬に手を下すことが出来ず、とうとう会社に馘(くびき)られてしまうのでした。子犬は老人の家に引き取られて“ワンサ”と名付けられます。


 ワンサは夢にうなされ夜通し吼えて転げまわるものですから、その騒々しさに心優しい一家も耐え切れず、ワンサを捨てる決心をするのでした。ワンサは二度捨てられ二度とも舞い戻りますが、その口には何処からか掘り当てて来た10円玉が咥(くわ)えられていたのです。縁側にチャリンと乾いた音をたてて置かれたそれを見て、一家はワンサを家族として受け入れることを了承するのでした。もちろん10円に釣られたのではなくって、その子犬の必死な様子にこころ打たれ、哀しい彼の境遇を共有するに至ったためでした。


 ワンサが最初に連れてこられた時、そして何とか帰還なった際のいずれもが夕食の時分に設定されていました。茶の間の中央には座卓が置かれて老人と孫娘、その弟が仲良く取り囲んでいます。傍らにはお櫃(ひつ)と鍋が置かれていて、そこでご飯と味噌汁が一杯ずつよそわれていく日本らしい光景が描かれています。

 

手塚治虫(てづかおさむ)さんの漫画作品というのは数多(あまた)ある訳なのですが、僕の見る限りにおいてはこういう場面、実はほんとうに珍しいのです。海外でアニメーション作品が次々販売されたことも要因としてあるのかもしれないけれど、日本的な食の風景がほとんど見当たらない。


と言うよりも“食べる”という日常の行為を通じて人生の機微に触れていくというドラマ作りをもともと手塚さんはしなかった。飢餓、牢籠(ろうろう)、不死願望といった突飛な状況下で突飛なものを口に入れたりむさぼるという展開は多いのだけれど、ご飯に味噌汁を並べていただきます、という感じの絵はびっくりするぐらい少ない。


この「ワンサくん」で描かれるものにしたって、作者の興味は卓上の料理には向かっていない。日常空間を突き破って夕闇の奥から遠慮しいしい顔をひょっこり覗かす闖入者=ワンサの、その健気さと一本気な調子を強調するのが目的でありましょう。小さな身体で数時間も歩き通してようやっと一家の自宅を探し当てたワンサの見えざる闘いぶりを、決まった時刻に大概は訪れる夕餉の光景を挿し込むことでそれとなく読者に示す作劇上のテクニックなんです、きっと。


 だから、特別の光彩をここでの味噌汁は帯びていない訳です。登場人物の内奥にシンクロして声援を送ったり内省を促す、そんな充足感をそなえた味噌汁や醤油を探して紹介するこのブログの目的からすれば逸脱したものになっていますね。


 正直に言ってしまえば、僕は手塚さんについてちょっと触れたかったのです。そのために「ワンサくん」と食卓の場景を無理やり駆り出したところがあります。


 手塚さんがこの世を去ったのは1989年ですから、もう二十年以上も前のことです。生きている僕たちが僕たちの内にある工夫と知恵で越えていかなければならない苦境ではありますが、あえて僕は亡き手塚さんに問い掛けたい気持ちでいます。この事態を先生ならどのように思うものだろう。先生、本当におそろしい事が起こってしまいました。


 この度の大混乱を乗り切っていくための、とある場所のとある会合の様子が先日テレビに映されました。神妙な面持ちで並ぶ老紳士たちの直ぐ横にあるサイドテーブルか何かに「彼」が立っていました。短いパンツと長靴を履いただけであとは素肌をすっかり晒して見える“アトム”が片手を天に高々と伸ばし、すっくと立っていたのでした。僕はその姿に心臓を射抜かれたようになってしまい、しばし身動きできなくなりました。今も重い痛みを引きずっているような辛い気分でいるのです。


 “アトム”とその兄弟たちは技術の粋(すい)を集めた夢と希望の結晶体のような存在でありながら、際限無く膨らむ人間の欲望のために暴走させられていく“科学”に毎回のように翻弄され、無理な闘いを強いられた挙句に心身ともに傷ついていく、その繰り返しの日々でしたね。しょげ返った彼らの背中や哀しげな面影を鮮やかに思い返しています。わたしたちはあの時のアトムそのままにうな垂れ、まぶたを伏せ、とても苦しい毎日を過ごしています。


 手塚先生、私たちはどうあるべきでしょうか。これからどうすべきでしょう。そっと声もなく立っていた“アトム”の横顔はいつも通りに笑っていたけれど、僕にはなんだかとても悲しそうに見えました。泣いているようにも、虚ろなようにも見えました。“アトム”は何を言いたいのでしょう。先生は何を僕たちに伝えたいですか、何をさせたいと思いますか。先生の声を聞きたいです。


 公害、環境破壊、戦火の止まることない拡大。医術の独走とモラル崩壊、最新技術と“こころ”の乖離。復活が適わぬ徹底的な破壊と流れ落ちる涙。先生と同胞の方々から私たちの世代は数多くのことを学んだつもりでいます。  けれど、いつの間にか私たちは語り部の皆さんを失い、なのに自らは語り部の役回りを継がずに口をつぐみ、託されたはずの課題から調子よく逃げ、忘却を恥と思わず、ただただ快楽だけを追い求めてしまいました。その心の隙に慢心だけを醜く大きく育ててしまったような気がします。こうした事態を自ら招き寄せてしまったように思います。


 愛しい家族や友人、恋する相手だっているかもしれない若い人たちが自らのささやかな、本当にささやか過ぎる幸せの消失なるのを切実に怖れながら、そして己の生命と健康を大きく損なうのを顧みずに事態の収拾に当たってくれています。


 わたしたちの国の誇りであった大地や河は汚染され、食べものや飲み水までも害あるものに化してしまいました。


 ワンサを迎い入れたあの一家にきっと似ていただろう微笑ましい日常、住居と団欒、温かい味噌汁や湯気を昇らせるご飯といったものを根こそぎ奪われ、着の身着のままで運ばれて来た人たちがいます。夢を粉微塵に砕かれ、いまは手と手とを握り合い、歯を食いしばって恐怖をこらえている沢山の人たちがいます。



 今は無用な電気を消して心から祈り、恐れおののくばかりの無力極まる私ではありますが、もしも天より許されて事態が終息なった暁にはひとりで、いや皆でよく考え、先生の想像し警告してくれていた事態の数々を回避するべく、小さな小さな、けれど確実でもう二度と絶対に忘れない、そんなささやかな行動をしたいと思案しています。


(*1):「ワンサくん」 手塚治虫 初出「てづかマガジン れお」1971-1972(未完) 手元にあるのは秋田文庫版「ふしぎなメルモ」(2004)に所収なったもの。

2011年3月4日金曜日

村上龍「村上龍料理小説集 Subject 22」(1988)~舌を刺した~



その年のクリスマスが終わった日、十二社の店で、もう会えない、

と彼女は言った。何か言おうとしたが声が出なかった。彼女も

理由を一切喋らなかった。二人とも無言のまま、小海老の前菜と、

鯖の入った椀と、蒸し鮑を食べ、ギヤマンのアンティーク器で

濁り酒を飲んだ。

「冬だけど、あれを作って貰えないかしら」

彼女がそう言うと女将は頷き、しばらくして見たことのない料理が

運ばれてきた。しゃもじの上に、表面が焦げた味噌が乗っている、

ただそれだけのものだ。味噌は薄く貼り付いていて、香ばしい匂いが

している。削り取って口に入れると、強い味が舌を刺した。(中略)

山椒の実を混ぜた焙(あぶ)り味噌の匂いは、ずっと私のどこかに

残っていたあの煙草の火が毛を焼く匂いをいつの間にか消してしまった。(*1)


  表紙が臙脂に染めた文庫本を久方ぶりに書棚から引き出し、奥付を見てみると“1991年10月”とありました。頁に挟まった新刊紹介のリーフレットにも同じ年の記載が見つかるので、やはりその時期に書店で買い求めたのでしょう。ほぼ二十年も前に一読して、その後はすっかり忘れていました。


 読んだ当時を思い返せば、淡々と日々を過ごしている市井の人間たちとはまるで無縁の空気が全篇を覆って感じられたものでした。自分のいる世界や意識とはひどく乖離した場処に思えて、面食らった覚えがあります。「料理小説集」と銘打った掌編が三十余り並んでおり、いずれも人生の機微や恋情、性愛といったものと料理の香味を融合することで官能の極みを演出しようと目論んでいるのだけど、なにか、その両輪が共に借りもののように感じられてしまい、嘘っぽいな、と勝手に断じて書棚に仕舞った訳なのでした。


 一度しか開かなかった頁は硬く締まった感があり、めくった際に鳥の羽ばたきのようなやや高い音を立てました。


 あれから二十年の歳月のなかで人様の何十分の一、いや、もしかしたら何百分の一かもしれないにしても、僕として経験するものがあったからでしょう、隅の部分を小さく三角形に折っていた味噌の登場する頁をこうして読み返してみれば、胸を圧すものが在ったのです。ちょっと驚きました。日記(このブログのこと)に記すまでのものではないだろうと長年無視を決め込んでいたのでしたが、こうして動揺するものが確かにある以上はいつも通りに書き写しておこうと思います。


 二十四歳の広告業界で働く男が九つ上のおんなと出逢い、一年と少しの間だけ交際します。出逢った際におんなに連れていかれた思い出の店で、おもむろにおんなの方から別れを切り出されてしまいます。そこに山椒を加えた味噌を直火で焙ったものが登場して、若い男の感傷を峻烈なものへ補強していくのでした。


 生きていることの実感を摑む寄す処(よすが)
に飽かず繰り返していた性戯の諸相や、その際に認め合った互いの身体が放つ薫りや味といったものが、食のもたらす圧倒的な刺激で儚く霧散していく様子はなんとも過酷で切ない一瞬となっていました。さらに、戸外に場所を移したふたりの最後の時間は、何をどうやっても新たに積み上げることは出来なくなっていたのです。口腔、鼻腔をいたく刺激する飲食、接吻、嘔吐を延々と連ねていっても、その度に山椒と味噌の交じり合った強い記憶の残渣が山のように立ちはだかって、先に過ごした小料理屋へとずるずると引き戻されてしまうのでした。


誰もいない山下公園で、私達は寒さに震えながらシャンパンを飲み、

売れ残りのケーキを食べた。

二人共、何も言わず、夜が明けるまで舌を吸い合った。シャンパンを

飲んでも、ケーキを食べても、キスを繰り返しても、涙があふれてきても、

嘔吐しても、あの、焙った味噌に混じった山椒の実の香りと舌を刺す

強い味は消えることはなかった。(*1)


 こうしてこの物語の男女は別れ別れになってしまいました。幻想の色合いが強くて力に満ち溢れた秀作ではないのだけれど、魂と食物が相互干渉していく展開は数限りなく人間ににじり寄った末に作者が克ち得た洞察力の賜物でしょう。技量なり経験値を認めないわけにはいかない。


 文末で別れたおんなのことを男はほんの少しだけ思い返しています。あの山椒の交じった焙り味噌を口にしなかったならば、そのように思い切れなかったのじゃなかろうか。忘却を約束するそんな焼き味噌がもしも作られ店頭に並んだならば、需要はさぞ多かろうと想います。


(*1):「村上龍料理小説集」 村上龍 集英社 1988 手元にあるのは集英社文庫  連作集に収まった各掌編には決まった題名が付されていません。こうして一話のみを独立したものとして取り上げることは作者の意に反するかもしれないですね。尚ここ以外には味噌、醤油は見当たらなかったと記憶しています。

2011年3月3日木曜日

林芙美子「清貧の書」(1931)~美味かった?~

 林芙美子(はやしふみこ)さんのことを書いた評伝(*1)を数年前に読んでいます。激しい気性や貪欲過ぎる姿勢がまわりの人たちを唖然とさせ、辟易させたことが読み取れ、もしも身近にいたら気苦労が絶えないことが容易に想像出来ました。なのに、彼女の小説を僕はいまだに読み進めている訳で、つくづく人間とは勝手な生き物と思います。


きっと、もう私の魂だけは、東方行きの飛行船にでも乗って、

日本へ帰って、楽しそうに襷(たすき)なんぞかけて、

厨(くりや)の片隅に炭火をおこしている私を想う。

白い葱(ねぎ)を刻み、味噌汁をこしらえ、庭の草の芽の伸び

具合を讃めながら、夫と朝食をとるのが私の日課であったのに、

──私は一ヶ月近くも夫へ手紙を書いたことがない。忘れているのだ。

忘れているというよりも、書けないでいるのだ。(*2)


 上の文章は林さんが1931年から翌年にかけて外遊した折の、憂げなパリ滞在時の日常を綴ったものから抜き出しました。虚勢や夢想にまみれた描写の数々を衝(つ)いて、いつしか文通も途絶えてしまった夫の声や姿が“味噌汁”と一緒に浮上しています。湿度の高い郷愁の念が下宿先の屋根裏部屋に立ち昇っていき、視界を徐々に曇らせていく。実に格好が悪いのですが、かえってそこが胸にストンと来るのです。絹の下着を両手に持って一気に引き裂いたような、「忘れているのだ。忘れているというよりも、書けないでいるのだ」という叫びなど、胸に迫って共振することしきりです。


 金銭面の困窮をまるで隠さない。内奥にゆらゆら灯る欲望や執着、止まらぬ猜疑や愛憎といったものを隠そうとしないばかりか、肉親、知己の無様この上ない言動を(打診も了解もなく)ありのままに書き残してしまう。政治や経済など判らないことへの言及を避け、半径2メートル以内の出来事や己の思考だけを黙々と連ねていく。


 ブログみたいですね。それもずいぶんと赤裸々に生活の諸相が書かれてあって、邪まな好奇心を満足させると共に読み終わってずいぶんと心強くも感じられる。暮らしていく上で避けられぬ闇の領域が否定されず肯定もされず、淡々と綴られていくのが面白い。光明が見えない今の世相にも波長が合っているようで、読んでいて勇気付けられる訳です。有り難いです。


 画家である夫の姿に味噌汁の湯気薫る光景をからめて提示してみせた林さんは、漫画家の上村一夫(かみむらかずお)さんに次いで味噌(汁)にこだわった人だと僕は勝手に林さんを思っていて、それは味噌汁を呑むのが単に好きということでは当然なくって、読み手の反応や動揺をよく見定めながら内に秘める言霊(ことだま)を利用している技巧派という意味なのですが、ここでの“夫”は味噌汁が寄り添い連結したことで、温かく、懐かしく、汗のような匂いとしょっぱさを身にまとった具体像を結んでいくように思えるのです。


 心情や官能を直接語るのでなく、周辺に転がる瑣末な事象でもってからめ手でリフトし、輪郭を固めて鮮やかに浮き彫りにしていく。そういう連続技はかけられると気持ちがいい、ヤラレタっと思います。


 林さんの手腕がより明確に顕われて見えるのは「清貧の書」(*3)と題された小編です。はげしく切ない流転の日々にもようよう落ち着きが見え始め、林さんは画家の夫と着実な歩みを踏み出しています。けれど貧窮のさまは思うように改善はならず、林さんは田舎に残した母と義父に対して心ならずも無心の手紙を送ったのでした。苦しい内実は母親とて変わりません。たどたどしい文字を連ねた返事がまもなく送られてきます。


さっち五円おくってくれとあったが、ばばさがしんで、

そうれん(*4)もだされんのを、しってであろう。

あんなひとじゃけに、おとうさんも、ほんのこて、

しんぼうしなはって、このごろは、めしのうえに、

しょうゆかけた、べんとうだけもって、かいへいだんに、

せきたんはこびにいっておんなはる、五円なおくれんけん、

二円ばいれとく、しんぼうしなはい。(中略)はは。

(中略)私は母の手紙の中の、義父が醤油(しょうゆ)をかけた

弁当を持って毎日海兵団へ働きに行っていると云う事が、

一番胸にこたえた。――もう東京に来て四年にもなる。

さして遠い過去ではない。(*3)


 母よりも随分と歳若い義父に対して何か暗い確執があるという訳ではないようですが、ここではおかずも漬物の一切れも添えられぬままの弁当めしに“醤油”がじょろり掛けられていく映像が濃厚に付されて、独特の凄みを世界にもたらしています。重苦しい、黒いものが田舎の生活と義父の面立ちに固着して当の本人の林さんもそうですが、読んでいる僕たちの胸すらも厚い雲ですっかり覆っていく感じがする。


 この醤油、義父、実家、(経済的、心理的)負担といった緊縛は強迫観念的に再三林さんのこころに立ち現れて脅かしていくのでした。

風呂敷の中から地獄壷を出して、与一の耳のへんで振って見せた事が

大きいそぶりであっただけに私は閉口してしまった。なぜならば、遠い旅の空で

醤油飯しか食っていない、義父や母の事を考えると、私は古ハガキで、

地獄壷の中をほじくり、銀貨という銀貨は、母への手紙の中へ札に替えて

送ってやっていたのである。(*3)



気合術診療所から貰って来たトマトの苗が、やっと三ツばかり

黄色い花を咲かせていた。あの花が落ちて、赤い実が熟する頃は

帰って来るのだろう。――私一人で何もしない生活の不安さや、

醤油飯の弁当を持って海兵団へ仕事に行っていた義父が、トロッコで

流されたという故郷からの手紙を見て、妙に暗く私はとらわれて行った。(*3)


 醤油の持つ多層的でえも言われぬ香りが米飯の上で揮発し、四方八方に飛び出していく。五感を刺激する味と匂いの競演する様子がもっとも明瞭になる嬉しい瞬間が“しょうゆかけ”じゃないかと思う僕には、どうしてここまで重い方向に受け止めているのか不思議でならないのですが、林さんのお母さんたちのお金に困ってそれしか食べられない状況は本当であったでしょうから、それじゃ、こう書かれてもいたし方ないですね。いずれにしてもこの「清貧の書」に象徴として醤油飯が使われているのは隠しようがない。

 一方でこんな記述も見つかります。


もう今朝は上野へ行く電車賃もないので、与一は栗色の

自分の靴をさげて例の朴のところへ売りに行った。

「何ほどって?」

「六拾銭で買ってくれたよ」

「そう、朴君はあの靴に四ツも穴が明いているのを知っていたんでしょうか?」

「どうせ屋敷めぐりで、穴埋めさ、味噌汁吸って行けってたから呑んで来た」

「美味(うま)かった?」

「ああとても美味かったよ……弐拾銭置いとくから、何か食べるといい」

私は今朝から弐拾銭を握ったまま呆んやり庭に立っていたのだ。

松の梢では、初めて蝉がしんしんと鳴き出したし、

何もかもが眼に痛いような緑だ。

唾を呑み込もうとすると、舌の上が妙に熱っぽく荒れている。

何か食べたい。(*3)


 生活費を捻出するために夫が靴を売りにいき、先で味噌汁を馳走になったことが語られています。特段のものでもないのに、話す夫も聞く妻もとても嬉々としているようにここでは映る。先の醤油飯と対照的に、味噌汁、夫、我が家、前進という連結を認めることが出来ます。ふたつの力(醤油と味噌汁を目印とする)がせめぎ合って、おんなの思考を両端から引っ張り合っている感じです。


 父親に連なり、覚醒を誘い、重い現実に重なる醤油という典型的な方程式と、内側にあって日常の旗印となる、これも大切な役回りを担った味噌汁がしかと刻まれている。と、ともに、林さんのなかには“愛しい男”と味噌汁とが同一化していく稀有なかたちが読み取れるようで、これはなんとも興味深い日本文学上の切り口ではなかろうかと一人でにんまりしているところなのです。一点集中で物事を見るって、ほんとうに面白いですね。


 さて、いよいよ年度末。突飛な動きがいろいろと起きて慌ただしくなります。何がなにやら分からぬままに毎日が過ぎていき、布団のなかでは乾いた溜息も湧いてくる。

 内食外食を問わず、時にはそっと味噌汁椀をかかげ、真空となっていられる時間を捻出しながら、どうか元気に健康にお過ごしください。


 口角を上げて、微笑んで春を迎えましょう。


(*1):「女流 林芙美子と有吉佐和子」 関川夏央 集英社 2006 
(*2):「屋根裏の椅子」 林芙美子 1933 改造社版に所収 手元にあるのは講談社文芸文庫 2009 

(*3): 「清貧の書」 林芙美子 初出「改造」1931  講談社文芸文庫所収
(*4):そうれん【葬斂】なきがらを棺に納め、ほうむること。また、その儀式。