2009年9月30日水曜日

遺された手~日常のこと~



  一時間ちょっとの余裕があったので、即身仏を安置するという寺院を目指しました。橋のたもとで地元のおばさんに会ったので窓を開けて道を尋ねてみると、昔はよく歩いて行ったものだよと笑いながらの返事です。なかなかどうして、ずいぶんと急な道を延々と登り切った果ての集落の外れに寺はあって、車で来たのはどう考えても正解でした。ここを往復していたのかと想像すると、土地の人たちの健脚には頭が下がります。

  さて、目当てのお堂には人の気配がまるでなく、予約なしの拝観は受け付けない旨を書いた張り紙が一枚入口に貼ってあるのでした。う~ん、残念。又の機会と早々に諦めて、来る途中に看板があった古刹に寄って帰ろうと思い立ちました。






  狭い石段を登る途中に緑色をしたマイクロバスが一台止まっているのが木立の向こうに見え、団体客の騒々しさを脳裏に描いて一気に興が冷めてしまったのでしたが、実は彼らは県の博物館の主催する学術ツアーの一行だったのです。予想外の展開になってきました。

  普段は堅く扉を閉めていて、巡礼の者とて格子戸越しに外から拝むしかない堂の内部なのですが、あたふた出入りする人の動きが盛んにあるのです。これを幸いと僕も御堂の内部に潜り込んでみました。






  電線とて来ていない辺鄙な山ふところにあって、堂の内部は昏くって、説明を行なう学芸員さんが持つ懐中電灯の光の輪があちらこちらと陽炎のように浮遊して怖い雰囲気を煽ります。相当ひりひりする感じの空間です。


 格子戸の向こうから僅かに射し込む柔らかい陽光に救われます。突然の闖入者に驚いたようにして小さな仏像がぽつりと白日に照らされている。素朴な彫り痕です。角の取れ切った丸みのある土着信仰を感じさせ、ほんの少しだけ心が和みました。



  奥のすっかり闇に包まれている辺りで、何やらどたどたとした動きが起こっています。なんと“秘仏”として一般公開されていない本尊を特別に見せてくれるのだそうで、これにはツアーの参加者たちも色めき立って当然でしょう。錆び付いた南京錠がなんとか開けられ、歪み始めて重たくなった戸を数名でよいしょよいしょと押しやる様子です。





  入れ替わり立ち替わりしての狭い空間で、奇妙などよめきが発せられています。お相伴にあずかって僕もおそるおそる拝観させてもらった訳でしたが、仏様は、窓のない四畳半ほどの場所に居られました。二メートル程も背丈があってそびえておいでなのですが、頭の先から足元までの全身が猛火に焼け爛れていて、顔といわず胸といわず大火傷を負ったようにでろでろごわごわに黒く炭化しているのです。これはもはや悪霊ではないか、祟られそうだ、怖い怖いとつぶやく声も囁き出て当然の、無残この上ない姿であったのです。















  学芸員の照らす光にぼうと浮かぶのは、シルエットからかろうじて判別なるに過ぎないのだけれど、両の手を腰元で合わせ結んだ“印”なのです。元は千手観音であったらしいこの仏の、かざし広げて庶民の苦痛をねぎらっただろう千の掌は、次々と炎が燃え登ってじゅうじゅうと焼失していき、最後の最後に、たった一つのこの“印”だけが残ったのでしょう。


 神像仏像は四肢、頭部の欠損によって力を増すことがあります。真黒き仏の、遺されたひと組の手のひらにこころを余程摑まれ、そこに気持ちを傾けてきた人がいたのでしょう。焼け落ちたかつての本堂の残骸の中から取り出されたこの真っ黒の怪物を、秘仏と称して信仰を繋ぎ留め、1200年という悠久の歳月をこの土地に刻んで来た名も無き信者たちの眼差しを感じました。




  喪うことで得るものがある、というのは言葉のアヤであって、やはり喪うことに伴う苦しさや哀しみはひとを容易に粉砕し尽くす破壊力を秘めています。だから、こんな昼行灯の僕であっても言葉を慎重に選んでしまうのだけれど、それにしても、と思わせる黒く奇怪な仏の、とても数奇な運命なのでした。





  帰りがけに外から格子の前に立ち戻れば、足元には生卵とカップ酒が置かれています。心ばかりのお供えなのでしょう。人間って、人の想いってとても不思議ですね。




  写真はここしばらく携帯で撮り貯めたものです。一度掲載して、その後、何となく気まずくなって消したものも含んでいます。

 せいぜい自転車しか通れない狭い吊り橋がありました。これの直ぐ脇50メートル離れたところには、鉄筋コンクリートの頑丈な橋が造られている最中です。無用の長物となり、壊されてしまうのは時間の問題です。ちょっと淋しいですね。



  秋はいよいよ深まります。どうぞ温かくして、インフルエンザに十分に注意して、素敵な宝物をお探しください。

ではでは。
















2009年9月29日火曜日

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」(1933-34)~あのどろどろの~



 けだし料理の色あいは何処の国でも食器の色や壁の色と調和するように

工夫されているのであろうが、日本料理は明るい所で白ッちゃけた器で

食べては慥(たし)かに食欲が半減する。たとえばわれわれが毎朝たべる

赤味噌の汁なども、あの色を考えると、昔の薄暗い家の中で発達したもので

あることが分る。私は或る茶会に呼ばれて味噌汁を出されたことがあったが、

いつもは何でもなくたべていたあのどろどろの赤土色をした汁が、覚束ない

蝋燭のあかりの下で、黒うるしの椀に澱んでいるのを見ると、実に深みの

ある、うまそうな色をしているのであった。その外醤油などにしても、上方

では刺身や漬物やおひたしには濃い口の「たまり」を使うが、あのねっとりと

したつやのある汁がいかに陰翳に富み、闇と調和することか。また白味噌や、

豆腐や、蒲鉾や、とろゝ汁や、白身の刺し身や、あゝいう白い肌のものも、

周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。(中略)かく考えて来ると、

われわれの料理が常に陰翳を基調とし、闇というものと切っても切れない

関係にあることを知るのである。(*1)


 こうして一部を書き写していると、中学に入りたての時分に戻ったみたいです。それに、あまりにも有名な作品を取り上げるのは照れ臭い感じがしますね。でも、仕方ありません、とりあえず押えておかないと。


 僕の短絡した斜め読みは、作意からはひどく外れているかもしれません。けれど、谷崎さんの筆が躍って見えたのは建具や家屋の構造に関する言及ではなくって、黒髪、素肌、装束といった女性美についてだったと感じます。妖艶なおんなの美粧を点描し、ねっとりとして分厚い暗闇のなかでずるずる連ねていく箇所は凄絶この上なく、床にどっと押し倒されそうな気分になります。おしろいの尖った匂いを幻嗅してしまい、ごほごほごほ、とむせ返ってしまいそう。「経済往来」なんて本に載ったわけだし、なんと言い繕おうが助平な男向けの読み物に違いありません。


 聖林映画にのめり込み、横浜の居留地に淫夢を追った谷崎さんは、そこに宿り息づいていた女性たちの涼しげな容貌や洗練された身のこなしから目が離せない。「頭の先から指の先まで、交じり気がなく冴え冴えと白い」素肌に息を呑み、日本人は体型においても「西洋婦人のそれに比べれば醜い」と捉え切っていた谷崎さんが、強いてその気持ちに蓋をし、日本の女性美をそびえ立つ塔と成すべく挑んだ、それが「陰翳礼讃」の実験的側面であるのでしょう。


 それには精神的な鎖国を行なうより他なく、結果的に家屋の奥たる「内側」に篭もることでしか闘えなかった。敵兵を避けて篭城するがごとき思考のなかで、内なる場処を支え励ますために味噌、醤油を登用して異文化を強引に際立たせていく、今日の小説にも連綿と引き継がれている戦術が垣間見れるのです。


 よくよく読んでご覧なさい。ここでの味噌、醤油は主役たる“おんな”に寄り添うまでに至らず、湯気や芳香が感情、恋情にそよいでいるようには読めません。どこか茫洋とした印象を留めるだけで終わってしまう。


 行数こそ確かにまとまっているのだけれど、谷崎さんは本気で傾倒していくわけでは全くなく、それどころか「いつもは何でもなくたべているもの」という見方を最後まで崩していません。「うまそうな色をしている」、けれど、「うまい」とは絶対に書かない。


 「あのどろどろの」、「あのねっとりとした」という形容詞も、そのような見方からすれば何やら意味ありげで哀れを催しますし、一種涙めいた諦観すら漂ってきそうです。味噌、醤油を書いているようで書いておらず、ひとりの男の動揺がその実はまざまざと書かれている、そんな展開に読み取れます。


 “日本文学”という舞台上での味噌、醤油の佇むべき“バミリ”が容赦なく印付けられているようで、興味深い一篇だと僕には思われてならないんです。



(*1): 「陰翳礼讃」 谷崎潤一郎 1933-34  中公文庫にて入手可

2009年9月25日金曜日

西脇順三郎「禮記」(1967)~亡霊をなぐさめるのに~



また子供のあせの匂い

杉や小便や醤油や娘や

シダやコケの匂いがする

音と匂いが混合するところだ

ボードレールの亡霊をなぐさめるのに

ふさわしいエキゾティックの風景だ(*1)


 詩人西脇順三郎さんのことを知人より知らされたのは、夏の盛りでありました。と、書いてみて、あれ、“夏”はほんとうにあったのだろうかと奇妙な喪失感に襲われています。のっぺりした、摑みどころの乏しい夏でありました。僕の気のせいかな。


 西脇順三郎の詩の中に「悲愴なお醤油の香」という一節があった──という一文(*2)がウェブ上に直ぐに見つかってしまい、まあ、それは大変な“醤油”ではないかと心躍らせ、書店や図書館に足を運んで今に至ります。詩の世界が現在どのような様相を呈しているものか、完全に門外漢の僕にはまるで分からないのだけれども、西脇さんというひとは根強い人気があるものでしょうか、全集の何冊かは常に貸し出されていて、総てを閲覧し尽くせぬまま時間が経ってしまいました。


 おそらく僕の目が節穴なのだと思うのですが、現時点で「悲愴なお醤油の香」に出逢うことが出来ずにいます。映画との出会い、小説との出会い、音楽との出会い、そして、人と出会いというものは自然体であるべきでしょうから、その詩には近いうちにまみえるやもしれず、それともこのまま擦れ違うのかもしれず。


 ただ、悲愴感と醤油というのはどことなく触れ合うものがありますね。そのユニゾンが何に由来するのか、それは今後も探っていきたいところです。例えば、先日も取り上げた寺山修司さんのお母さまの回想録には、こんな悲しい醤油が描かれていました。


 私のほうはなかなかお給料のよい仕事がなく、お金は

どんどん必要になってくるので、夜も働くことにしました。

ほとんど寝るまもないような生活でした。

 そんなある日、昼の仕事を終えて、夜の仕事までのひと

ときを定食屋で友だちと夕食をとっていたときです。ふと、

気がつくと食堂の入口に修ちゃんがしょんぼりと立ってい

るのです。無塩醤油の瓶(びん)を大事そうにかかえて

います。可哀相で胸が痛かったのを今でも忘れられません。

 修ちゃんは病気を軽く考えて、学校も休まず、いつも通り

の生活をしていたのです。それでも塩分だけは気をつけて

いたのですが、だんだん体が苦しくなってきていたのでした。

 私はおこったり、あきれたりで、すぐ立川の河野病院へ

救急患者として頼んで連れて行きました。(*3)


 大学生活を開始したばかりの若い寺山さんが、大衆食堂から洩れ出る灯火に蒼白い顔を照らされて、うじうじと闇夜に佇立しています。胸には黒い醤油の瓶が一本。いかにも哀れです。大事そうに抱えていたのがカバンやコーラであったら、僕たちはこんなにも憐憫を覚えはしないのではないか。感傷を煽るカードとして味噌ほどには使われることはないのですが、激しい動揺と哀れを誘う、そんな不意討ちめいたことが醤油の登場には稀に起こります。


 さて、西脇さんの詩に戻りましょう。本来詩には解釈は不要のようですし、いずれも長文の一部だけを抜粋したに過ぎません。ここだけをもって何かを言及するには明らかに無理がありますから、さらりと書き写して終わりにします。いや、正直言えば、よく分からないの(笑)。醤油の登場する三篇と味噌の登場する三篇です、あれれれ、やはり趣きが少し違っていませんか、温度差がありませんか。

九二

あの頃の秋の日

恋人と結婚するために還俗した

ジエジュエトの坊さんから

ラテン語を習っていた

ダンテの「王国論」をふところに入れ

三軒茶屋の方へ歩いた

あの醤油臭いうどん

こはれて紙をはりつけたガラス瓶

その中に入れて売ってゐるバット

コスモスの花が咲く

安ぶしんの貸家(*4)





つまらないものだけが

永遠のイメジとして残る

それはローソクを買いに出たのだ

昔のように茄子ときうりとみようがを

きざんで醤油をかけて

白シャツをきてたべてみたい

この太陽のひらめき

赤土の憂愁

ぼろぼろにかわいた崖のくずれ(*5)





神々の祭りほど子供をよろこばせる

ものは他になかった祭りは喜びだ

でも「祭」ということは古代人の

言葉では神に「いけにへ」を捧げると

いう意味だったがそれはもうない

あの古代人が「いけにへ」を焼く

その煙りとあぶらと血のにおいは

まだ人間の嗅覚の中に残つている

醤油をつけて焼くウナギにもオーエー(*6)





ミソとネギの中を深くのぞくと

自分の中にある原始人が見える

原罪のラジユームにぶつかる

永遠だけが善でもなく悪でもない

永遠でない存在はすべて悪か善だ

悪と善が互に相殺されてゼロモラルと

なるところは悪もなく善もない(*7)





(ああ肉体はさびしいでも私は

すべての本を読んだよ)

でもわれわれは霧の中で

羊の肉に味噌をつけて

鉄の上で焼いて

山の神々へ捧げ(とくにアルテミス)

アンドー法王はマジック踊りをし

イケニエの祭祀を完了しアポロンの神へ

報告するやさしみを

悪魔に味方する人々に示した(*8)





記憶の喪失ほど

永遠という名の夏祭りにたべる

ナスのみそ汁とそれから

タデのテンプラとユバと

シイタケを極度に思わせる

ものはないと深く考えるのだ(*9)


 醤油をつけて焼くウナギにもオーエー、のオーエーって何だ、ちんぷんかんぷんだオーエー、でも、確かに夏の詩人って感じオーエー


(*1):「禮記」 西脇順三郎 筑摩書房 1967/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*2):http://www7b.biglobe.ne.jp/~utuwasaijiki/01-spring/sp-04/sp-0402.html
(*3):「母の蛍」寺山はつ 新書館 1985/1991以降中公文庫 改版にあたり「寺山修司のいる光景─母の蛍」と改訂 
(*4):「旅人かえらず」 西脇順三郎 東京出版 1947/「定本 西脇順三郎全集Ⅰ」筑摩書房 1993所載
(*5):「豊穣の女神」より「九月」 西脇順三郎 思潮社 1962/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*6):「壤歌」 西脇順三郎 筑摩書房 1969/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*7):「えてるにたす」 西脇順三郎 昭森社 1962/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*8):「禮記」 西脇順三郎 筑摩書房 1967/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*9):「壤歌」 西脇順三郎 筑摩書房 1969/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載

2009年9月22日火曜日

森卓也「パゾリーニのキングコング」(1977)~甘かった~


 最近発見された「ソドムの市」の盗難ネガの中に、キングコング風の

巨猿のシーンが大量に発見された。(中略)それがパゾリーニのフィルムで

ある何よりの証拠として、コングの巨大なるUNKOにスカトロジストが蟻の

ごとく集まってむさぼるシーンが含まれており、そのUNKOが、どのように

して作られたかが議論を呼んでいる。一説によれば、それは、はるばる日本

から取り寄よせた岡崎の八丁味噌であり、それをむさぼるのは、全イタリア

赤出し愛好会同盟の面々であるとか。なお、このフィルムは、近く作られる

パゾリーニ追悼のドキュメント・フィルムに収録される予定。(*1)


 そんなことはもちろん有り得ません。けれど、読んだ僕はこれを半分信じたのでした。当時まだ幼かく映画の知識もほとんどありませんでしたから、冗談と現実の境界が思うように線引き出来ませんでした。ダンプカーほどもある茶色のもわもわした山が、日本とは違う透明感のある陽射しに照らし出されています。そこに群がり茶に染まっていく裸の男女。首を傾げつつも真剣にその場景を夢想して酔い痴れたものです。


 長じて後にパゾリーニの映画(*2)は観たわけですが、それまでに畏怖の念が内側で膨らんでいたせいかちょっと拍子抜けするような気分で、かえって“作り物”の可笑しさを堪能することが出来ました。僕の場合、そういう遅刻映画って案外に多いのです。最近ではホラー映画の金字塔なんて評される古い作品を固唾を呑んで観ましたが、一生懸命に作り演じている現場の苦労が透けて見え、なんか微笑ましい限りでしたね。


 ウェブでの記述に従えば、どうやらチョコレートとオレンジマーマレイドを溶かし固めて作られたらしい映画のなかの偽ものは、今見れば笑ってしまうような仕上がりです。唇を歪めて困り顔の若い男優の演技も情けなくって、アハハと大口開けて笑えてしまう訳なのですが、直接youtubeのアドレスを貼り付けるのは遠慮しておきます。その代わりに映画の冒頭の清らかな音楽を流しましょうか。




 あまり触れたくはなかったのですが、やはり日本人の味噌を廻る思考を捉える上で避けては通れない言葉があります。“くそみそ【糞味噌】”です。検索すれば、1、《糞も味噌も一緒にする意》価値のあるものとないものとの区別ができないさま。「秀作と駄作とを―に扱う」。2、相手をひどくけなすさま。ぼろくそ。「―にこきおろす」(*3)──とありますが、上に引いた空想映画の一場景にはこの“くそみそ”が関わっています。


 似たような言葉があります。“金持のクソは味噌になる”というものです。その説明を書き写せば、“金持のクソは味噌になる”「金持は一見、無用と思われるものであっても、有用なものに変えて、ますます豊かになっていく」。その逆が「貧乏人の味噌はクソになる」。(*4)


 けれど、ここには“金持”というイメージが輝く勲章のように付随していますから、味噌と糞とには大きな隔たりを感じますよね。両者の間ではメタモルフォーゼが完全に為されていて中途半端はありません。貴重で有益なものと忌避すべき無益なものとのコントラストが鮮やかです。けれど、“くそみそ”となると双方を遮っている薄い皮膜は破れる寸前となり、聖俗の色彩の段差は目立たなくなります。


 パゾリーニの映画であれ、それの土台となったサドの小説であれ、何ゆえに僕たち大衆はひそやかな鑑賞や読書を続けるのか。そして、日本の評論家が「ソドムの市」に己の妄想を重ねるときに呼び寄せた“くそみそ”にはどんな意味があるのか。

 僕たちの思念の底流にはタブーを突き抜けたいという衝動がやはりあって、パゾリーニの映画で為し得たパフォーマンスに羨望を投げ掛けている。“くそみそ”を茶化して押し付けた背景には幾らかスカトロジーへの興味や憧憬を見止めてしまうのです。味噌がありふれた食物となって地位を落とし、反面好奇心が糞を引き上げていくことで“くそみそ”の混沌とした面持ちは強化されている。そうして見果てぬ夢を追っているように見えます。味噌にとっては穏やかならぬ事態なのですが、けれど一方ではこんなにも精神的な食物はそうそう無いという思いを抱きます。


 このように書いて来ると、僕が完全に常軌を逸した狂人と思われるかもしれませんが、さすがにその手のものを口にする勇気はありません。これは断言しておきます。


 日本の話ではありませんが、こんな故事もあります。“父のクソをなめて病状を知る”「健康を害したときは便に変調をきたすが、一四世紀ごろの中国の人たちは、すでにこのことに気づいていた。南斉のユキンロウは、(これは人名かと思われますが)、県令に出世したが、ある日、急に胸さわぎがして汗が流れだした。父の身に異状があったと感じて辞職。家に帰ると父は、はたして病床に伏していた。病因を発見できない医者が「糞をなめて苦ければ心配ない」といったため、さっそく彼は父の糞を口にした。甘かった。回復の見こみがないと知り、自分が身代わりになりたいと祈ったが、ついに父は世を去った。」(*4)


 このように親孝行の手本としてあるくらいですから、決して恥ずべきことではないのです。ならオマエがやってみろ、と言われても出来ませんけどね。僕の父はまだ健在ですが、臨終間際になっても絶対にやらないでしょう。愛する人の場合はどうかって、熱病で苦しんで瀕死の状態だったら、おまえは確かめないのかい。迷うところです(コラッ!)。でもでも、う~む、止めておいた方が無難でしょう。それをやったら病人に愛想を尽かされて面会禁止の破目に陥ることでしょう。キスだって二度とさせてくれないでしょう。それは嫌ですからね。


 でも、どうやら苦かったり、甘かったりするらしい。どうも味噌とは味が違うようですが、体験を経ない限り謎は解けぬままです。結局のところ、僕たちは生がとことん尽きるまで映画や小説に翻弄され続け、“くそみそ”に想いを寄せて暮らしていくのでしょう。何につけ謎があるうちが花。味噌は答えの出ない謎に寄り添い、日本人の胸にあり続けるのでしょう。


(*1):「季刊映画宝庫 新年・創刊号 われらキング・コングを愛す」 芳賀書店 1977
   「〈珍作情報〉これが本命「キングコング」だ」 森卓也
(*2):Salò o le 120 giornate di Sodoma  監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ 1975
(*3):yahoo!辞書
(*4):「こいつらが日本語をダメにした」赤瀬川原平、ねじめ正一、南伸坊 東京書籍 1992
   説明文は主婦と生活社「ことば・ことわざ大全集」から、とあります。

2009年9月21日月曜日

寺山はつ「寺山修司のいる光景─母の蛍」(1985)~辛くてのめない~



 こんな子なので、一人でおいておいても、あまり無茶はしないだろ

うと信じていましたが、やはり一抹の不安もありました。しかしとも

かく、私はなれない仕事にとりくんであくせく働きだしました。夜は

英語の独学をはじめたり忙しい毎日でした。修ちゃんはそんな私を少し

でも手伝いたいと思ったのでしょう。ときどき、夕方私が帰って来ると、

「母ちゃん、ご飯作っておいたよ」と得意そうにしています。
 
 辛くてのめない味噌汁や、ボロボロのご飯をちゃぶ台にならべて布巾

(ふきん)をかぶせてあるのです。そのたび私はいじらしくて胸がいたむ

思いでした。男の子にこんなことをさせるのが心苦しくて、耐えられな

かったのです。(*1)


 自分の大便のなかに黒々とした蝿を見出した少年は、顛末を記したエッセイ「排泄」が極端に戯画化された架空のものでなければ“十歳の夏”におりました。寺山さんは1935年生まれであるから昭和20年、1945年の出来事と推察されます。


 上に書き写したのは寺山さんのお母さまのはつさんが書いた随筆の一部です。寺山さんの出生から死までをとても丁寧に書き綴ったものであり、寺山さんの作品世界をひも解く際には未読では済まされないものとなっています。こころひかれる人は、是非いちどは手に取ってご覧なさい。作品を背景から透視するような按配で、おおいに唸らされること間違いなしです。


 お母さまの筆が正しければ、この時期には基地の図書館で勤務され始めていて、十歳の少年は独り母親の帰りを心細げに待つ日々に突入していたことになる。味噌汁の鍋の中なる濁流に一匹の蠅とぢこめて 餐 ──という歌の“濁流”とは、単に熱した鍋のなかを拡大して覗いた描写ではなくって、戦争によって破壊された家庭の残された家族がなりふり構わずに働き出し、消えかかりそうな生を明日に繋いで灯していった闘いの状況を指し示しているようです。


 もう少し掘り進めないと結論は出せませんが、もしかしたら寺山さんのそのような留守番の日々が、彼の作品から味噌を乖離させたのかもしれません。自ら味噌汁を日々こしらえる時期を重ねていた寺山さんは、多くの女流作家と同様に味噌汁をシンボリックなものと捉える仕組みを内側から消失させてしまったのではないか。


 総じて味噌、または味噌汁を“家庭、母親、日常”と連結させ、劇的に描いてみせるのは男性作家に多いように感じられます。その不自然さはどうも調理という領域から逃避したか、または隔離されたことを源泉としている、それは間違いないようです。


 寺山さんが母親、家庭に固執した作品を次々に書き進めながら、味噌汁がポジティヴ、ネガティヴ、いずれのカードとしても用いられなかった背景には(もちろん大便の中に蝿を見ちゃった、という記憶が自縄自縛した可能性もありますが、それに加えて)そのような少年時代の家事実情があったかもしれませんね。



 さてさて、恐山にまつわる僕の“暗中模索”もこれで一旦終了です。本当に夜が明けて良かったよ、あんな夜はもう二度と御免です。

 世は大型連休の真っ只中、みなさん元気にお過ごしでしょうか。僕は丸々ではありませんが仕事にちらほら捕らえられ、例年通りに宙ぶらりんに過しています。そのせいもありますが、カレンダーの赤い文字に関わらず仕事に邁進しているひと、気分を引き締め戦っているひとに対して強い親近感を抱きますね。

 鍋の中なる濁流は誰の身体とこころにもあります。負けずに頑張りましょう。なにクソ、と負けずにフンばっていきましょう。あ~あ、最低、せっかくの話を汚く締めちゃってさ、馬鹿じゃないの。



(*1)「母の蛍」寺山はつ 新書館 1985 / 1991以降中公文庫 
改版にあたり「寺山修司のいる光景─母の蛍」と書名改訂 

寺山修司「田園に死す」(1965)~鍋の中なる濁流~ 

味噌汁の鍋の中なる濁流に一匹の蠅とぢこめて 餐 (*1)


 恐山は本来切実な場処であり、その本質は崩れていません。8時、9時ともなると訪れるひとも増えていき、観光地にお馴染みの乾いた喧騒に染まってしまうけれど、僕のような誤った旅程で訪れてみるとかえって生々しい観念の渦が露わになるような、実に胸に迫るものはあるのです。


 菩提寺に納骨したり、神社にて祈願したり、ひとは逝ってしまった家族、愛する人の安息をさまざまな形で祈るわけですが、大概の場合にはそのアクションで目的はひとまず成就して気持ちは整理なるものでしょう。皆が亡者と生者の悔恨の思いを“静止”するべく努めています。


 ところが恐山はシュウシュウと硫黄煙を吹き上げている“動き続ける地獄”であって、死者が今まさにここにいるかと思えば遺族の哀しみは増大し、なんとか救ってやりたいという想いが湧出して胸を掻きむしられてしまう。実際そこかしこに行年(ぎょうねん)一歳とか三歳とか、十歳、十九歳といった幼くして亡くなった方の名を刻んだ慰霊の石が置かれ、なかには色褪せた写真が添えられていたりするのを見詰めていると、家族係累の“必死”が感じられて涙を誘います。


 死者を葬る場処でなく、死者と会話し救おうともがく聖地として立派に機能しており、こういう形骸化していない宗教の地がこの日本にまだ残っていたのだな、と感慨を深めた次第です。たいへん恐い思いは確かにしましたが、やはり行って正解だったと思います。


 さて、恐山といえば寺山修司さんの「田園に死す」を思い出さずにはいられません。映画をご覧になられ、その強烈な映像を脳裏に刻んでいる人も多いでしょう。




 上記の短歌は映画のなかでは取り上げられてはおりませんが、歌集「田園に死す」のなかに収められたものです。味噌汁に迷い込んだ蝿を呑んでしまう、黒い笑いを誘うその行為や背景に郷里や幼年期の実体験を遠目に見る詩人の複雑な想いが透けています。



 この歌がどのような出来事から発したものであるのか、寺山さんは次のようなエッセイで打ち明けています。十歳の頃に小学校の便所で用を足したところ、便器に残るおのれのモノの中に黒い蝿の死骸を見止めてしまったことに端を発し、ドタバタした騒動が勃発する。


 それから、手拭いを暗い土間に敷いてそれを跨いで、

異物のまじった大便を排泄しようとしていると、心配

して起き出してきた母が、私が寝ぼけているのだと

思って、むりやりに私を便所に連れこんでしまった。
 
 私は、便所の中で、「蠅の話」をしてじぶんの体の

中味を知りたいのだ、と言った。すると母は「蠅は

味噌汁にでも溺れていたのを、まちがって飲んだのだ」

と言った。
 
 異物は、いつでも外界から「入ってくる」ものだと

いうのである。それは不法な侵入なのであり、体の中で

育って「出てゆく」のではない、と言った。後年になって

から、異物は「入ってくる」のか「出てゆく」のかについて

の母と私の認識の差は、男と女の違いから来るものだと

いうことを──フロイトの「夢診断」によって知らされたが、

その夜はとうとう、私の負けで大便を搾取することができぬ

まま寝ることになってしまった。(*2)

 大便と蝿の話がいつの間にか男女の性差へと脱線し、幾らか言葉じりには母親への入り乱れた思いが光って見えなくもありません。行軍先で亡くなった父親に代わり、母親が彼女自身と幼い寺山さんを食わせていかねばならない。当時三十を越えたばかりの母親は米軍基地で昼夜を問わずに働く日々に突入し、多感な年齢であった寺山さんに大きな影響を及ぼします。錯綜していく想いが創作活動へと直結し華開かせていくのは承知の通りでありますが、そういった作家論については寺山研究家の膨大な書籍を読み解いてもらうとして、問題はこの異物混入の様相です。


 味噌の製造過程で飛来した蝿がはたして原形を止めていくかどうか。さらには、味噌汁として作られた中に混入した生々しいものが約八時間の消化活動を経て後、ひと目で蝿と視認し得る形状を呈するや否や。原形をそのままにとどめた小海老の佃煮や、物珍しさや勇気試しも手伝って食する田舎料理のイナゴの煮付けなどを食べても、用を足した後におもむろに下を見定めて悲鳴を上げたことはありません。どこかに無理のある話です。いったい寺山少年は何をどのような感じで見たのだろう。消化の良くない昆布や繊維質の根幹類、豆の皮などを誤認したのじゃあるまいか。たとえばヒジキや昆布などには僕も時折驚かされたりします。



 もはやその事実関係は誰も確認出来はしないのですが、このような事件の中途半端な決着が寺山の胸中に落とした影はどのようなものであったものか、それを少しばかり思わない訳にはいかないのです。例えば寺山さんにはこんな文章もあります。


 
ただ食べるだけなら、「あんた」と二人で近くの食堂へ行けばいいし、

「あんた」のものを洗うのが面倒くさかったら、洗濯屋へもっていけ

ばいいのです。家事の代行は、だれにでもできるのであり、マイホーム

のテレビを見ながら、二人でミソ汁をすすりあうことに幻想をもっている

のでなかったら、こうした家の中での仕事を家の外へ持ち出してしまった

方がいいのではないか、と思われます。(*3)



 
寺山さんだけの宿痾とは言い切れない、それこそ多くの日本在住の創作者を混迷させる手枷な訳ですが、“家庭”や“家”を代弁させられる破目にミソは陥っています。ですが、何と言うか、かなりドライな印象をこの文章には抱きます。ここでの“ミソ汁”は随分と見下されてしまっていて、そこに精神世界を担わせる役割さえ振り当てられてはいません。母親という存在、母と子という関係、内側と外側といった諸相に固着した作家がその作品において“ミソ汁”を象徴的に扱った形跡がないのは、存外この大便事件がトラウマとして彼を縛ってしまったのではないか、と僕はこっそり思っているところなのです。


(*1)【×餐】 [音]サン《「ざん」とも》飲み食いする。食事。ごちそう。「午餐・正餐・粗餐・晩餐」http://kotobank.jp/word/%E9%A4%90
「田園に死す」より「子守唄」 寺山修司 白玉書房刊 1965 
「寺山修司青春歌集 角川文庫所載
(*2)「誰か故郷を想わざる」第1章より「排泄」 寺山修司 角川書店 1973 
(*3)「さかさま恋愛講座 青女論」寺山修司 角川書店 1981 


2009年9月14日月曜日

湖畔にて~日常のこと~


  岩手との県境を越え、八戸自動車道上にある福地(ふくち)パーキングエリアに滑り込んだのは土曜日12日の午前零時まであと少しの時間だった。ペダルを踏み込み過ぎて右足が重い。後部座席には寝室から持ち出した毛布がある。たぐり寄せて身体を包み仮眠を試みたのだけど、案の定とてもじゃないけれど眠れやしない。


 いや、旅に長らく親しんだ人ならどうってことない話に違いない。地面を照射する水銀灯のぎらぎらしたまぶしさと、本州北端のぐっと冷えてきた寒気を凌ぐためにアイドリングを続けて居並ぶトラックや乗用車の、ぶるぶる、がうがうというエンジン音にやられてしまって、慣れぬ僕には熟睡は無理と早々に諦めた。


 それでも一時間半ほどウトウトして気分は晴れたから、ここは思い切って先を急ごうと決めてベルトを硬く締め直す。夜中に目指していい場処ではないよ──という友人の助言を反芻しながらも、少し時間を惜しみ出してもいた。明日はちょっと大事な人と逢う約束があり、いや、それは何か色めくものでは決してなく、僕が懇意にしてもらっているひとと逢う訳なのだけど、弾む話を思い描けば時計の針がにわかに意識されて落ち着きを失った。


 しかし、真夜中の北の町には行き交う車は見当たらず、墨汁にまみれたような真黒い道路を独りぽっちで走る淋しさは尋常のものではない。突如眼前に現われた近代的で巨きな工場のサーチライトに亡霊のように蒼白く佇むのに、慌てふためきカーナビゲーションの暗い画面に目を凝らせば、これが六ヶ所村の原子力燃料処理施設である。「真夜中への招待状」なんていう薄気味の悪い映画をふと思い出して、これはまずいタイミングに走り出したかと俄かに焦る気持ちが湧き起こる。


 鉞(まさかり)のかたちを為した下北半島の、海に挟まれた細い柄(え)の部分をうねうねと北上し始めれば、街頭もない道端の藪に野兎がひゅうひゅう走り、黒い獣がぺたぺたとライトを横切る。あれは絶対に猫ではなかった。横たわる屍骸は歯をにゅうっと剥いたテンである。かえってこの時間ともなれば、ほんの時折すれ違う車も妖しげに見え、一体全体こんな時間にあの男女は何処に向っているのか、色香よりも何か禍々しさを覚えてしまって気色が悪い。もっとも、それは相手側も同様であったろうけれど。


 手のひらに汗が滲んでハンドルを濡らし、タオルを探して拭きたいけれど、速度を落とすのもいよいよ怖い。そういえば大和町を越えた辺りで海から昇って来た半月の、巨大でオレンヂ色に染まったのも凶悪であって、その時は、“月”は僕には大切な女神だからと旅の出迎えを嬉しく想い、昔々の暖かな記憶に酔ってさえいた。けれど、その非日常の風景も思い返すだに不安は駆られて無理だらけの旅程をいまごろ恨んだりしている。


 こういう時には大音量で音楽を掛けるに越したことはない。けれど、もう夜道に停まる勇気はなくなっていて、ハンドル片手にがさごそ助手席を探り、ツタヤの青いビニール袋のなかを必死で探る。家では気兼ねなく鳴らせないCDを思う存分に車内に響かせ走るのは独り旅の愉しさのひとつなのだけれど、今はもうすがり付くような気分である。


 こうして天涯孤独の風にして夜中の闇夜に抱かれていると、なんとまぶしく安らいだ空間であったかとレンタルショップの白い空間を思い出す。どれを道連れにしようかと何枚か手に取り、これとこれは明日逢うひととの話の種になるはず、まだ聞いたことはなかったとカウンターに向ったときの嬉しさといったらなかった。それにこれも聞いておかないと。この歳になって馬鹿みたいだと笑ってしまう。これって中学か高校の教室で級友が貸し借りしていたアルバムじゃないか。僕は完全に周回遅れの“のろまなローラー”だな。あれ、バッハはこれだけか。残念、次回の旅の供にしよう。クラシックの棚は年々片隅に追いやられて見える。


 いつの間にかハンドルがぶれて、危うく木立に突っ込みそうになった。息を整えてCDをかける。ところが、どれもこれもかえって恐怖を煽るばかりでどうしようもないのだった。中村八大の初期のジャズ演奏にしても録音の具合がいかにも昭和30年代であって、間延びした音がぼわんぼわんと反響してスティーブン・キングの恐怖小説のなかに捕り込まれた感じになる。慌てて女性歌手の声に替えてみれば、彼女が熱帯の街のホテルで気管支喘息で息絶えたことを思い出してしまい、その情景がありありと目に浮かぶようでぞっとして居たたまれない。


 目的地はカルデラ湖を中心とした外輪山の内懐にあり、尾根をひとつ越えれば、後は谷底に墜ちてゆくように傾斜はいつまでも尽きることはない。地獄の底に落ちていくようだ──と友人は形容していたが、これは嘘ではなかった。どんどん墜ちていく、どこまでも墜ちていく。車道を囲む杉林の足元は鬱蒼と茂る笹薮で何が潜んでいても不思議はなく、ぐねぐねと蛇ののたうつが如き細い坂道の角々には巡礼者の墓なのか、それとも交通事故死者の慰霊碑でもあるのか、不意にヘッドライトに浮かび上がる地蔵の群に心底悲鳴をあげたくなる。おまけに給油メーターの警告灯がふわふわとオレンジ色に灯ってしまい、心細さは頂点となった。


 無理にでも気勢を上げねば小便でもちびりそうであるから、拝むようにしてCDを替えたのだけれど、そんな頼みの綱のブリティッシュ・ロックを大音量で掛けていけば、あろうことか、おぎゃあ、おぎゃあと赤ん坊の泣き声が挿入されている!ぎゃあ、勘弁してくれ、と別なやつを突っ込むと、今度は、う、おおおーん、と犬の鳴き声がする!何だこれは!遂にはひょえ~ひょえ~とアホウドリが叫び、カラスまでがゲェゲェゲェと群れ鳴くじゃないの。助けてくれよ、おい、こっちは夜中の三時で、ガス欠寸前なんだ。
 
 やれることは限られました。最後のCDは映画のサントラ集だったのだけど、「いそしぎ」の流れるなかで僕は念仏をつぶやき続けたのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。どうか助けてやってください。



 事前に調べたインターネットでは目的地に宿坊があり、泊まり客は早朝の風呂を楽しんでいるらしい。ならば、門前の駐車場は大型バスや県外ナンバーの乗用車がひしめいており、その間に車体をするりと滑り込ませてしまえば、この恐怖からやっと脱却できるはずである。真っ黒い湖面が見えた、ぞっとする光景だけど、もう直ぐ到着。灯かりが見たい、蛍光灯の蒼い光が欲しい。ん、どうして、どうして街灯がないの、どうして土産物屋さんが軒を連ねていないの。これでは横溝正史の映画冒頭に出てくる茫漠たる荒野ではないか。


 砂利道を走る。無数の手に握られた数珠が一斉にじゃちじゃちと泣き響くようでたまらなく厭だ。けれど、もう大丈夫、そこには人がいる、光がある。山号 恐山 宗派 曹洞宗 本尊 延命地蔵菩薩 創建年 貞観4年(862年) 開基 慈覚大師円仁 正式名 恐山 伽羅陀山菩提寺 札所等 津軽三十三観音番外札所 高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場の一つ むつ市田名部より恐山街道(青森県道4号)。山門前に約300台駐車可能の駐車場有り。無料───。


  何でえ!どうしてえ!闇にとざされた大駐車場に車が一台もない!暗闇の奥に山門は固く閉ざされ、食堂、トイレが並んでいるけれど、いずれもしんとして真っ暗で灯かりが一つもない。虫の音もせず、いや、鳴いていたのかもしれないけれど窓を開ける勇気がない。何か別のモノが聞こえて来そうでたまらない。エンジンを落とした無音の闇におのれの息が聞こえるばかりの、まだ午前四時の、たったひとりの恐山の約300台駐車可能の大駐車場の真ん中で、開門までのあと二時間、椅子を倒して毛布にくるまり、目をつぶるしかない。もう怖くって怖くって、どんな音がしようと目を開くことなんか金輪際出来っこない───。



開山期間 毎年5月1日~10月31日  開門時間 午前6時~午後6時
入山料 500円(2009年現在)  大祭典 毎年7月20日~24日
秋祭典 毎年10月第2週の三連休


とても精神的な光景が拡がり、素晴らしいというのではないけれど、考えさせられる場処ですね。どうぞ皆さん、一度は足を運んでみて下さい。お薦めします。


当然ながら帰路に聞いたのも同じCDだったけれど、今度はとても嬉しく聞きました。何度も何度もリピートさせたりして、何度も何度もカラスの声を聞いて(笑)いい加減なもんです、人間なんて。

2009年9月5日土曜日

正岡子規「墨汁一滴」(1901)~黙つてこらへて居るのが一番苦しい~


 僕は子供の時から弱味噌(よわみそ)の泣味噌(なきみそ)と呼ばれ

て小学校に往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれて居ると

右の方に並んで居た友だちがからかひ半分に僕を押して来る、左へよけ

ようとすると左からも他の友が押して来る、僕はもうたまらなくなる、

そこでそのさい足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ

機会を得て直(ただち)に泣き出すのである。そんな機会はなくても

二、三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいぢめる奴が

あつた。しかし灸を据ゑる時は僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕を

いぢめるやうな強い奴には灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりする

のが多かつた。これはどつちがえらいのであらう。(*1)


 「墨汁一滴」は新聞の連載(*2) です。体調と意気の許すがままを前提としていますから、日によって行数の変動も大きいし内容は多種多様となっています。唐突に始まり終わる上の文章もその前後を割愛したものではなくって、とある一日をなんとか生き残った“証し”を刻むものとして形を為している訳です。正岡子規(まさおかしき)さんはこれを明治三十四年の四月八日に書き、およそ一年と五ヵ月後には天に召されます。享年三十六。世界は“どうにもならぬ事”に満ち溢れていることを想わない訳にはいきません。


 どのような気持ちでこのような回想に没入し、なぜに幼少時の醜態を多くの読者の目に曝したものか。憤懣、慙愧、復讐、焦燥、その逆の快活、満足──病人の胸中に去来する複雑な息吹が伺えて、こちらの胸までだんだん重苦しくなりそうです。


 正岡さんの研究者や愛読者には“こじつけ”と笑われそうですが、この四月八日の少し前に別の“味噌”に関する文章を読むことができて、僕はその間にほんの僅かながら結ばれた糸のようなものを感じてしまうのです。


 背中や腰に開いて膿を流す傷口がちょっと動くだけでも激痛を発する過酷な毎日となっていて、よいしょと身体を起こすことすらが儘ならない。“生きること”の主軸に“食べること”を据え替えて、日々をどうにか繫いでいます。二月二十八日に会席料理のもてなしを受け、気の置けない友人に囲まれての愉しい時間を過ごしているのですが、宴席から幾日か経った三月二日に書かれているのが実に面白い内容なのです。「五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し」に続いては、いつも通りに丹念な料理や具材の名称列記となるのですが、その筆頭に“味噌汁”が来るんですね。


 味噌汁は三州(さんしゅう)味噌の煮漉(にごし)、実(み)は

嫁菜(よめな)、二椀代ふ。(中略)飯と味噌汁とはいくらにても

喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちび

やる。(*3)


 順列は偶然ではないのです。宴において“味噌汁”をめぐって引っかかることが起きたのです。翌日の掲載分として随分とボリュームのある記述が境界を経ずして連なっていきます。客人との間で交わされた言葉に正岡さんは驚いて大いに思考が活性したらしく、筆に勢いがあります。少し写しましょう。


 料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましひは味噌汁に

ある由(よし)、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まる

といへば我らの毎朝吸ふ味噌汁とは雲泥の差あることいふまでも

なし。味噌を選ぶは勿論(もちろん)、ダシに用ゐる鰹節(かつお

ぶし)は土佐節の上物(じょうもの)三本位、それも善き部分

だけを用ゐる、それ故味噌汁だけの価(あたい)三円以上にも上る

といふ。(料理は総て五人前宛なれど汁は多く拵(こしら)へて

余す例(ためし)なれば一鍋の汁の価と見るべし)その汁の中へ、

知らざる事とはいへ、山葵(わさび)をまぜて啜(すす)りたるは

余りに心なきわざなりと料理人も呆(あき)れつらん。この話を

聞きて今更に臍(ほぞ)を噬(か)む。(*4)

 ここから正岡さんは茶道、俳句の作法へと想いを展開していきます。病臥する静謐な長き時間に味噌汁談議をふつふつと醗酵させて、あれこれ自問自答を繰り返して得た結論はどのようなものであったのか──


 何事にも半可通(はんかつう)といふ俗人あり。茶の道にても

茶器の伝来を説きて価の高きを善しと思へる半可通少からず。

茶の料理なども料理として非常に進歩せるものなれど進歩の極、

堅魚節(かつおぶし)の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を

争ふに至りてはいはゆる半可通のひとりよがりに堕ちて余り好ま

しき事にあらず。凡(すべ)て物は極端に走るは可なれどその

結果の有効なる程度に止めざるべからず。(*4)

 
 僕にはたいした読解力がありませんから、まるで見当違いの読み取りをしていたらゴメンナサイなのですが、この後に連なる言葉も含めて正岡さんの言いたいのは人から与えられた話を鵜呑みにして喋り散らしてはいけない、また悪戯に内心を晒さず韜晦(とうかい)することの清々しさを諭しているらしい。もっともな話です。見落としがちな大事な事ですね。


 この味噌汁談議と後日書かれた(冒頭紹介の)“弱味噌、泣味噌”が、正岡さんのなかで連結するのかどうか、幾らか連想を引き出したりしたものかは、もはや誰にもわかり得ない。ただ共通する反骨の思い、なにくそ、負けんぞ、という“みそっかす”の気概はそこに透けて見える。「我らの毎朝吸ふ味噌汁」のどこが悪いのだ、偉そうに何だという熱気が感じ取れて、ぶるぶる共振するところがあります。


 正岡さんの病状はこの後好転せず、痛々しい記述が目につくようになります。むごたらしいのは、苦しみを減ずる手段はいよいよ限られてしまい、感覚と思いのたけを“泣くこと”に集束していくしか無くなって来ることです。正岡さんは“泣味噌”を否定するような肯定するような微妙な四月八日の記述の後に、“泣くこと”をすっかり受け入れてしまい、それにすがり付いて見えます。


 をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。しかし痛の烈しい時には

仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙つてこら

へて居るかする。その中で黙つてこらへて居るのが一番苦しい。

盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。(*5)


 “動かしようのない事”に真正面から対峙するには“泣味噌たる自分自身”の受容が是非とも必要になる。そのプロセスとして一連の思念の流れがあったように見て取れます。これまで取り上げてきた“みそっかす”“泣きみそ”と同じですね。(*6)



 媒体も何もかも違うけれど、「墨汁一滴」はおよそ百年前のブログのようなものです。“黙つてこらへて居るのが一番苦しい”という人間の普遍的な性質は昔も今も変わらない。余命一年半の男、三十なかばの男が、現状に諦めず、現状に満足せずに生きて行け、そして泣く時は泣けよとひとりごち、こうして見知らぬ他人である僕たちに声掛けしてくれている。


“まなざし”はぐるぐると世界を包んでいます。こうして地をまたぎ、時を越えて連なっていくひとの思念を僕は不可思議で面白くって、やはり奇蹟の連鎖なのだと信じています。人が懸命に残した言葉を、今このときに読む意味を少し考えたりしています。


(*1): (四月八日)
(*2):正岡子規「墨汁一滴」 1901年1月16日より新聞「日本」にて連載 中4日だけ除き連載は164回。なお引用は青空文庫さんの頁を参考にしています。http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1897_18672.html
(*3): (三月二日)
(*4): (三月三日)
(*5): (四月十九日)
(*6): さらに僕がたいへん揺さぶられたのは、次の日記でした。

 昨夜の夢に動物ばかり沢山遊んで居る処に来た。その動物の中に
もう死期が近づいたかころげまはつて煩悶(はんもん)して居る奴が
ある。すると一匹の親切な兎(うさぎ)があつてその煩悶して居る
動物の辺に往て自分の手を出した。かの動物は直(ただち)に兎の
手を自分の両手で持つて自分の口にあて嬉しさうにそれを吸ふかと
思ふと今までの煩悶はやんで甚だ愉快げに眠るやうに死んでしまふた。
またほかの動物が死に狂ひに狂ふて居ると例の兎は前と同じ事をする、
その動物もまた愉快さうに眠るやうに死んでしまふ。余は夢がさめて後
いつまでもこの兎の事が忘られない。(四月二十四日)

 ファイティング・ポーズを崩すことなく、“泣くこと”にしても“死ぬこと”にしても遠回しに間接的に想いを伝えていく正岡さんの、現実世界に向う姿勢には感服してしまう。このような夢の光景を書き留めてから、さらに長い長い闘いを為し遂げた男に対して、ただただ唸り、そして慎ましく頭を垂れる気になるのです。


なお正岡さんの“弱味噌、泣味噌”への言及は坪内稔典(つぼうちとしのり)さんの「子規のココア・漱石のカステラ」(2006 NHKライブラリー)で知りました。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」にも在ったわけですが完全に忘れてましたねえ、歳ですねえ。こちらの坪内さんのも良い本でしたね。最期は病気を楽しもうとした子規の「共生の思想」や、単独で生まれ単独で死ぬ人間ではあるけれど、生きるということは他の人々と「類として生きる」のだ、独りではないよ、というマルクスの言葉などで綾織られて気持ちが和みます。NHKの出版物に適うわけですから色彩は推して知るべし、といったところですが、合わせてご紹介申し上げます。

最上段の写真は正岡さんの自筆画像。自分の墓碑銘を考えて指示しています。四十を越えられないと悟っていて哀しい内容ですね。こちらから拝借しています。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/cat334/



2009年9月1日火曜日

壺井栄「二十四の瞳」(1952)~うてばひびくように~



 仁太(にた)がいればいまごろはもう、十人の新入生の家庭事情は

さらけだされ、めいめいのよび名やあだ名までわかっているだろう。

その仁太や竹一(たけいち)や正(ただし)は、そして、磯吉や

松江や富士子(ふじこ)は、と思うと、かれらのときと同様、いちず

な信頼をみせて、きょうあたらしく門をくぐってきた十人の一年生の

顔が、一本松の下にあつまったことのある十二人の子どものすがたに

かわった。(中略)


 大石先生はそっと運動場のすみにいき、ひそかに顔をととのえねば

ならなかった。そういうかの女に、早くもあだ名ができたのを、かの女は

まだ知らずにいた。岬の村に仁太はやっぱりいたのである。だれが

先生の指一本のうごきから目をはなそう。

かの女のあだ名は、なきみそ先生であった。(*1)


 舞台となる小豆島は地勢的にも経済的にも関西に取り込まれており、教え子のひとりも大阪の親戚に引き取られて島を去っています。そんな関西圏にある小さな町の分校で、女性教師に“なきみそ”のあだ名が付けられました。“なきみそ”という蔑称が関東に限らず、列島にあまねく分布し使われていたことを示しています。


 原作が世に出て間もない1954年には映画化(*2)されるのですが、劇場にこぞって足を運んだ観客が暗闇の中で瞳を濡らし、涙を縷々流し続けたことはよく知られたところです。子どもたちの涙、彼らが長じてからの涙と共に、女性教師の嗚咽する様が涙腺を決壊させる呼び水となって働きました。


 もちろん、泣いてどうなる事ってほとんどありません。気持ちのもつれが生じても、そこで泣いてすがったところで醜悪さが増すばかりです。目覚めて剥がれ落ちかけた魂のフレスコ画が、涙を糊と為して修復出来ることはそうそう有りません。人を元気づけ陽気にし、動かしていくものはやはり笑顔と決まっているものです。泣くぐらいなら動かないといけません。笑わないといけません。


 おなじような夫の墓を思いながら、あちこちと春草のもえだした

中からタンポポやスミレをつんでそなえると、ふたりはだまって

墓地を出た。もうないてはいなかったが、うしろからぞろぞろつい

てくる子どもたちは、あいかわらずよびかけた。

「なきみそ、せんせえ。」

すると、うてばひびくように、大石先生はふりかえりざまこたえた。

「はあいい。」

 おどろいたのはミサ子だけではなかった。子どもたちのやんやと

わらう声をうしろに、先生もわらいながら、まだ知らぬらしいミサ子

にいった。

「どうも、へんなあだ名よ。こんどはなきみそ先生らしい。」(*1)


 子どもたちに晴れやかな笑顔を差し示す女性教諭の姿があります。笑いを第一と考え、明日を繋いで行こうとしています。笑おう、笑うことが人生。


 と同時に“なきみそ”を受容する態度もしっかり提示されています。ここで幸田文さんの「みそっかす」を引き合いに出したくなる訳ですが、“なきみそ”を拒絶するのでなく、受け止め、そんな自分を積極的に慈しもうという気概が透けて見えます。



 確かに人を元気づけ陽気にし、動かしていくものは笑顔と決まっていますが、もはや人を元気づけられもせず、陽気にすることもならず、どうにも動かし難いことに対峙した際には泣くしかない、という一種の安全弁が示されているのでしょう。


 貧困から家族と散り散りとなる生徒、戦地で息絶え、あるいは傷つき眼球を失う男子。遊里に流れ着き、独り孤高の闘いを強いられる女子。始終お腹を空かして歩き回り、未熟な果実を口にしたあげくに病んで死んでいった我が娘───。人生にめぐり来てしまう動かし難いことに対して唯一残される所作が“泣くこと”なのだ、それは恥ずかしいことではないのだよ、そのように人生というものの断面を捉えて見えます。子どもたちのからかいを臆することなく「はあいい」と肯定する笑顔には、僕たち誰の胸にも隠れ潜む“なきみそ”をゆるやかに抱き止めてくれる明確で揺るがない眼差しがあります。


 “泣き虫”先生、であったなら、つまり、はさんで捨てなければならぬ“泣き虫”の先生であったなら、幾らか物語の面持ちは違っていたろうと僕は想像します。“なきみそ”であるがゆえに、子どもたちと教師は対等になれる。生きていく限りにおいて誰もがいつでも道の半ばにあり、何らかのかたちで“みそっかす”なのだという強い信念が女教師の笑い声には描かれているようで、見事と言うしかない凝縮した一瞬だと感じています。


(*1): 「二十四の瞳」 壺井栄  光文社 1952
(*2): 「二十四の瞳」 監督 木下恵介  1954  上段の写真も