こんな子なので、一人でおいておいても、あまり無茶はしないだろ
うと信じていましたが、やはり一抹の不安もありました。しかしとも
かく、私はなれない仕事にとりくんであくせく働きだしました。夜は
英語の独学をはじめたり忙しい毎日でした。修ちゃんはそんな私を少し
でも手伝いたいと思ったのでしょう。ときどき、夕方私が帰って来ると、
「母ちゃん、ご飯作っておいたよ」と得意そうにしています。
辛くてのめない味噌汁や、ボロボロのご飯をちゃぶ台にならべて布巾
(ふきん)をかぶせてあるのです。そのたび私はいじらしくて胸がいたむ
思いでした。男の子にこんなことをさせるのが心苦しくて、耐えられな
かったのです。(*1)
自分の大便のなかに黒々とした蝿を見出した少年は、顛末を記したエッセイ「排泄」が極端に戯画化された架空のものでなければ“十歳の夏”におりました。寺山さんは1935年生まれであるから昭和20年、1945年の出来事と推察されます。
上に書き写したのは寺山さんのお母さまのはつさんが書いた随筆の一部です。寺山さんの出生から死までをとても丁寧に書き綴ったものであり、寺山さんの作品世界をひも解く際には未読では済まされないものとなっています。こころひかれる人は、是非いちどは手に取ってご覧なさい。作品を背景から透視するような按配で、おおいに唸らされること間違いなしです。
お母さまの筆が正しければ、この時期には基地の図書館で勤務され始めていて、十歳の少年は独り母親の帰りを心細げに待つ日々に突入していたことになる。味噌汁の鍋の中なる濁流に一匹の蠅とぢこめて 餐 ──という歌の“濁流”とは、単に熱した鍋のなかを拡大して覗いた描写ではなくって、戦争によって破壊された家庭の残された家族がなりふり構わずに働き出し、消えかかりそうな生を明日に繋いで灯していった闘いの状況を指し示しているようです。
もう少し掘り進めないと結論は出せませんが、もしかしたら寺山さんのそのような留守番の日々が、彼の作品から味噌を乖離させたのかもしれません。自ら味噌汁を日々こしらえる時期を重ねていた寺山さんは、多くの女流作家と同様に味噌汁をシンボリックなものと捉える仕組みを内側から消失させてしまったのではないか。
総じて味噌、または味噌汁を“家庭、母親、日常”と連結させ、劇的に描いてみせるのは男性作家に多いように感じられます。その不自然さはどうも調理という領域から逃避したか、または隔離されたことを源泉としている、それは間違いないようです。
寺山さんが母親、家庭に固執した作品を次々に書き進めながら、味噌汁がポジティヴ、ネガティヴ、いずれのカードとしても用いられなかった背景には(もちろん大便の中に蝿を見ちゃった、という記憶が自縄自縛した可能性もありますが、それに加えて)そのような少年時代の家事実情があったかもしれませんね。
さてさて、恐山にまつわる僕の“暗中模索”もこれで一旦終了です。本当に夜が明けて良かったよ、あんな夜はもう二度と御免です。
世は大型連休の真っ只中、みなさん元気にお過ごしでしょうか。僕は丸々ではありませんが仕事にちらほら捕らえられ、例年通りに宙ぶらりんに過しています。そのせいもありますが、カレンダーの赤い文字に関わらず仕事に邁進しているひと、気分を引き締め戦っているひとに対して強い親近感を抱きますね。
鍋の中なる濁流は誰の身体とこころにもあります。負けずに頑張りましょう。なにクソ、と負けずにフンばっていきましょう。あ~あ、最低、せっかくの話を汚く締めちゃってさ、馬鹿じゃないの。
(*1)「母の蛍」寺山はつ 新書館 1985 / 1991以降中公文庫
改版にあたり「寺山修司のいる光景─母の蛍」と書名改訂
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