2009年9月22日火曜日

森卓也「パゾリーニのキングコング」(1977)~甘かった~


 最近発見された「ソドムの市」の盗難ネガの中に、キングコング風の

巨猿のシーンが大量に発見された。(中略)それがパゾリーニのフィルムで

ある何よりの証拠として、コングの巨大なるUNKOにスカトロジストが蟻の

ごとく集まってむさぼるシーンが含まれており、そのUNKOが、どのように

して作られたかが議論を呼んでいる。一説によれば、それは、はるばる日本

から取り寄よせた岡崎の八丁味噌であり、それをむさぼるのは、全イタリア

赤出し愛好会同盟の面々であるとか。なお、このフィルムは、近く作られる

パゾリーニ追悼のドキュメント・フィルムに収録される予定。(*1)


 そんなことはもちろん有り得ません。けれど、読んだ僕はこれを半分信じたのでした。当時まだ幼かく映画の知識もほとんどありませんでしたから、冗談と現実の境界が思うように線引き出来ませんでした。ダンプカーほどもある茶色のもわもわした山が、日本とは違う透明感のある陽射しに照らし出されています。そこに群がり茶に染まっていく裸の男女。首を傾げつつも真剣にその場景を夢想して酔い痴れたものです。


 長じて後にパゾリーニの映画(*2)は観たわけですが、それまでに畏怖の念が内側で膨らんでいたせいかちょっと拍子抜けするような気分で、かえって“作り物”の可笑しさを堪能することが出来ました。僕の場合、そういう遅刻映画って案外に多いのです。最近ではホラー映画の金字塔なんて評される古い作品を固唾を呑んで観ましたが、一生懸命に作り演じている現場の苦労が透けて見え、なんか微笑ましい限りでしたね。


 ウェブでの記述に従えば、どうやらチョコレートとオレンジマーマレイドを溶かし固めて作られたらしい映画のなかの偽ものは、今見れば笑ってしまうような仕上がりです。唇を歪めて困り顔の若い男優の演技も情けなくって、アハハと大口開けて笑えてしまう訳なのですが、直接youtubeのアドレスを貼り付けるのは遠慮しておきます。その代わりに映画の冒頭の清らかな音楽を流しましょうか。




 あまり触れたくはなかったのですが、やはり日本人の味噌を廻る思考を捉える上で避けては通れない言葉があります。“くそみそ【糞味噌】”です。検索すれば、1、《糞も味噌も一緒にする意》価値のあるものとないものとの区別ができないさま。「秀作と駄作とを―に扱う」。2、相手をひどくけなすさま。ぼろくそ。「―にこきおろす」(*3)──とありますが、上に引いた空想映画の一場景にはこの“くそみそ”が関わっています。


 似たような言葉があります。“金持のクソは味噌になる”というものです。その説明を書き写せば、“金持のクソは味噌になる”「金持は一見、無用と思われるものであっても、有用なものに変えて、ますます豊かになっていく」。その逆が「貧乏人の味噌はクソになる」。(*4)


 けれど、ここには“金持”というイメージが輝く勲章のように付随していますから、味噌と糞とには大きな隔たりを感じますよね。両者の間ではメタモルフォーゼが完全に為されていて中途半端はありません。貴重で有益なものと忌避すべき無益なものとのコントラストが鮮やかです。けれど、“くそみそ”となると双方を遮っている薄い皮膜は破れる寸前となり、聖俗の色彩の段差は目立たなくなります。


 パゾリーニの映画であれ、それの土台となったサドの小説であれ、何ゆえに僕たち大衆はひそやかな鑑賞や読書を続けるのか。そして、日本の評論家が「ソドムの市」に己の妄想を重ねるときに呼び寄せた“くそみそ”にはどんな意味があるのか。

 僕たちの思念の底流にはタブーを突き抜けたいという衝動がやはりあって、パゾリーニの映画で為し得たパフォーマンスに羨望を投げ掛けている。“くそみそ”を茶化して押し付けた背景には幾らかスカトロジーへの興味や憧憬を見止めてしまうのです。味噌がありふれた食物となって地位を落とし、反面好奇心が糞を引き上げていくことで“くそみそ”の混沌とした面持ちは強化されている。そうして見果てぬ夢を追っているように見えます。味噌にとっては穏やかならぬ事態なのですが、けれど一方ではこんなにも精神的な食物はそうそう無いという思いを抱きます。


 このように書いて来ると、僕が完全に常軌を逸した狂人と思われるかもしれませんが、さすがにその手のものを口にする勇気はありません。これは断言しておきます。


 日本の話ではありませんが、こんな故事もあります。“父のクソをなめて病状を知る”「健康を害したときは便に変調をきたすが、一四世紀ごろの中国の人たちは、すでにこのことに気づいていた。南斉のユキンロウは、(これは人名かと思われますが)、県令に出世したが、ある日、急に胸さわぎがして汗が流れだした。父の身に異状があったと感じて辞職。家に帰ると父は、はたして病床に伏していた。病因を発見できない医者が「糞をなめて苦ければ心配ない」といったため、さっそく彼は父の糞を口にした。甘かった。回復の見こみがないと知り、自分が身代わりになりたいと祈ったが、ついに父は世を去った。」(*4)


 このように親孝行の手本としてあるくらいですから、決して恥ずべきことではないのです。ならオマエがやってみろ、と言われても出来ませんけどね。僕の父はまだ健在ですが、臨終間際になっても絶対にやらないでしょう。愛する人の場合はどうかって、熱病で苦しんで瀕死の状態だったら、おまえは確かめないのかい。迷うところです(コラッ!)。でもでも、う~む、止めておいた方が無難でしょう。それをやったら病人に愛想を尽かされて面会禁止の破目に陥ることでしょう。キスだって二度とさせてくれないでしょう。それは嫌ですからね。


 でも、どうやら苦かったり、甘かったりするらしい。どうも味噌とは味が違うようですが、体験を経ない限り謎は解けぬままです。結局のところ、僕たちは生がとことん尽きるまで映画や小説に翻弄され続け、“くそみそ”に想いを寄せて暮らしていくのでしょう。何につけ謎があるうちが花。味噌は答えの出ない謎に寄り添い、日本人の胸にあり続けるのでしょう。


(*1):「季刊映画宝庫 新年・創刊号 われらキング・コングを愛す」 芳賀書店 1977
   「〈珍作情報〉これが本命「キングコング」だ」 森卓也
(*2):Salò o le 120 giornate di Sodoma  監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ 1975
(*3):yahoo!辞書
(*4):「こいつらが日本語をダメにした」赤瀬川原平、ねじめ正一、南伸坊 東京書籍 1992
   説明文は主婦と生活社「ことば・ことわざ大全集」から、とあります。

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