2009年9月25日金曜日

西脇順三郎「禮記」(1967)~亡霊をなぐさめるのに~



また子供のあせの匂い

杉や小便や醤油や娘や

シダやコケの匂いがする

音と匂いが混合するところだ

ボードレールの亡霊をなぐさめるのに

ふさわしいエキゾティックの風景だ(*1)


 詩人西脇順三郎さんのことを知人より知らされたのは、夏の盛りでありました。と、書いてみて、あれ、“夏”はほんとうにあったのだろうかと奇妙な喪失感に襲われています。のっぺりした、摑みどころの乏しい夏でありました。僕の気のせいかな。


 西脇順三郎の詩の中に「悲愴なお醤油の香」という一節があった──という一文(*2)がウェブ上に直ぐに見つかってしまい、まあ、それは大変な“醤油”ではないかと心躍らせ、書店や図書館に足を運んで今に至ります。詩の世界が現在どのような様相を呈しているものか、完全に門外漢の僕にはまるで分からないのだけれども、西脇さんというひとは根強い人気があるものでしょうか、全集の何冊かは常に貸し出されていて、総てを閲覧し尽くせぬまま時間が経ってしまいました。


 おそらく僕の目が節穴なのだと思うのですが、現時点で「悲愴なお醤油の香」に出逢うことが出来ずにいます。映画との出会い、小説との出会い、音楽との出会い、そして、人と出会いというものは自然体であるべきでしょうから、その詩には近いうちにまみえるやもしれず、それともこのまま擦れ違うのかもしれず。


 ただ、悲愴感と醤油というのはどことなく触れ合うものがありますね。そのユニゾンが何に由来するのか、それは今後も探っていきたいところです。例えば、先日も取り上げた寺山修司さんのお母さまの回想録には、こんな悲しい醤油が描かれていました。


 私のほうはなかなかお給料のよい仕事がなく、お金は

どんどん必要になってくるので、夜も働くことにしました。

ほとんど寝るまもないような生活でした。

 そんなある日、昼の仕事を終えて、夜の仕事までのひと

ときを定食屋で友だちと夕食をとっていたときです。ふと、

気がつくと食堂の入口に修ちゃんがしょんぼりと立ってい

るのです。無塩醤油の瓶(びん)を大事そうにかかえて

います。可哀相で胸が痛かったのを今でも忘れられません。

 修ちゃんは病気を軽く考えて、学校も休まず、いつも通り

の生活をしていたのです。それでも塩分だけは気をつけて

いたのですが、だんだん体が苦しくなってきていたのでした。

 私はおこったり、あきれたりで、すぐ立川の河野病院へ

救急患者として頼んで連れて行きました。(*3)


 大学生活を開始したばかりの若い寺山さんが、大衆食堂から洩れ出る灯火に蒼白い顔を照らされて、うじうじと闇夜に佇立しています。胸には黒い醤油の瓶が一本。いかにも哀れです。大事そうに抱えていたのがカバンやコーラであったら、僕たちはこんなにも憐憫を覚えはしないのではないか。感傷を煽るカードとして味噌ほどには使われることはないのですが、激しい動揺と哀れを誘う、そんな不意討ちめいたことが醤油の登場には稀に起こります。


 さて、西脇さんの詩に戻りましょう。本来詩には解釈は不要のようですし、いずれも長文の一部だけを抜粋したに過ぎません。ここだけをもって何かを言及するには明らかに無理がありますから、さらりと書き写して終わりにします。いや、正直言えば、よく分からないの(笑)。醤油の登場する三篇と味噌の登場する三篇です、あれれれ、やはり趣きが少し違っていませんか、温度差がありませんか。

九二

あの頃の秋の日

恋人と結婚するために還俗した

ジエジュエトの坊さんから

ラテン語を習っていた

ダンテの「王国論」をふところに入れ

三軒茶屋の方へ歩いた

あの醤油臭いうどん

こはれて紙をはりつけたガラス瓶

その中に入れて売ってゐるバット

コスモスの花が咲く

安ぶしんの貸家(*4)





つまらないものだけが

永遠のイメジとして残る

それはローソクを買いに出たのだ

昔のように茄子ときうりとみようがを

きざんで醤油をかけて

白シャツをきてたべてみたい

この太陽のひらめき

赤土の憂愁

ぼろぼろにかわいた崖のくずれ(*5)





神々の祭りほど子供をよろこばせる

ものは他になかった祭りは喜びだ

でも「祭」ということは古代人の

言葉では神に「いけにへ」を捧げると

いう意味だったがそれはもうない

あの古代人が「いけにへ」を焼く

その煙りとあぶらと血のにおいは

まだ人間の嗅覚の中に残つている

醤油をつけて焼くウナギにもオーエー(*6)





ミソとネギの中を深くのぞくと

自分の中にある原始人が見える

原罪のラジユームにぶつかる

永遠だけが善でもなく悪でもない

永遠でない存在はすべて悪か善だ

悪と善が互に相殺されてゼロモラルと

なるところは悪もなく善もない(*7)





(ああ肉体はさびしいでも私は

すべての本を読んだよ)

でもわれわれは霧の中で

羊の肉に味噌をつけて

鉄の上で焼いて

山の神々へ捧げ(とくにアルテミス)

アンドー法王はマジック踊りをし

イケニエの祭祀を完了しアポロンの神へ

報告するやさしみを

悪魔に味方する人々に示した(*8)





記憶の喪失ほど

永遠という名の夏祭りにたべる

ナスのみそ汁とそれから

タデのテンプラとユバと

シイタケを極度に思わせる

ものはないと深く考えるのだ(*9)


 醤油をつけて焼くウナギにもオーエー、のオーエーって何だ、ちんぷんかんぷんだオーエー、でも、確かに夏の詩人って感じオーエー


(*1):「禮記」 西脇順三郎 筑摩書房 1967/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*2):http://www7b.biglobe.ne.jp/~utuwasaijiki/01-spring/sp-04/sp-0402.html
(*3):「母の蛍」寺山はつ 新書館 1985/1991以降中公文庫 改版にあたり「寺山修司のいる光景─母の蛍」と改訂 
(*4):「旅人かえらず」 西脇順三郎 東京出版 1947/「定本 西脇順三郎全集Ⅰ」筑摩書房 1993所載
(*5):「豊穣の女神」より「九月」 西脇順三郎 思潮社 1962/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*6):「壤歌」 西脇順三郎 筑摩書房 1969/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*7):「えてるにたす」 西脇順三郎 昭森社 1962/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*8):「禮記」 西脇順三郎 筑摩書房 1967/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*9):「壤歌」 西脇順三郎 筑摩書房 1969/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載

0 件のコメント:

コメントを投稿