2011年12月30日金曜日

山本義正「父 山本五十六」(1969)~一口吸うものだ~


 ある朝、食卓にのった沢庵(たくあん)があまりにおいしそうだった

ので、母が飯をよそってくれるのを待ちきれず、私はひょいと手を

のばして沢庵だけを食べたことがある。すると、私の向かいにすわって

いた父が、

「漬け物というのは、ご飯のおわりごろに食うものだ。」

と言った。そこで、私はあわてて飯をほおばろうとして、茶わんに

箸(はし)をつっこんだ。すると、

「飯を食うまえに、味噌汁を一口吸うものだ。」

 とやられてしまった。

 べつに、とくべつなしつけというのではなく、どこの家庭でもやって

いる食事のきまりを教えてくれたにすぎない。食べ物をがつがつ食べたり、

意地きたなくすることを、父はとくにきらっていたようだ。

「親から与えられた服をよろこんで着、親から与えられた食事をよろこんで

食べ、丈夫に大きく育てばいいんだ。」

 と、父はよく言っていた。(*1)


 立体駐車場から車を出すと、雪の勢いがもう半端でない降りかたになっている。冷え込みは更にはげしく、羽毛みたいに膨らんだ雪片が夜の街にけたたましく降り注いでいます。


 十一時を回って人通りもなく、酔客を求めて流すタクシーの影だけが目立ちます。閑散とした道路なのですが、こんな天気に何かあってもつまらないので慎重に進んでいきました。やがて大きな交差点で、信号は青から黄色になったばかりでそのまま突っ切ることも出来たのだけど、ブレーキを踏んで待つことに決めました。


 帰ったところで何があるでもない静か過ぎる夜です。時間だけはとりあえずあるから、ゆったりと楽しんでみたい気持ち。内面の微妙な変化も関わるのだけど、最近は車を飛ばさなくても平気の平左で、海原(うなばら)を漂うクラゲのようにのんびり走る方が心地良い。年末ですからね、疲れも身体の底に澱(おり)のように溜まっています。湯船につかるようにして空いた時間をゆらゆらと過ごす、そんな癖がついてしまいました。


 右手にガラス張りのホテルの建物が見えています。雪のベールの向こうには暖かそうな灯(あ)かりに染まったラウンジがあって、落ち着いた大人の時間を演出している。見知った友人が腰かけてお茶などしてはいないかしらと探してみたりするうちに、車の直ぐ脇の、僕の目線とちょうど同じぐらいの高さに奇妙なものを見止めて仰天しました。手の親指ほどの太さと大きさの黒い物体が宙に浮いています。最初は何か分からなかったのですが、それは一匹の羽ばたく虫でした。


 大きさから蝉(せみ)かと思ったのですが、空中に静止する蝉なんて聞いたこともありません。ましてやこんな季節です。ゴキブリでももちろんないし、なんだろう。まばたきして再度焦点を合わせてみればどうやら蛾(が)のようです。一匹の蛾が自分の身の丈ほどもある雪を縫うように、時に避け切れずに衝突して白く染まりながら果敢に飛んでいるのです。


 年末の酷寒の時期に虫が飛ぶのもめずらしく、加えて雪の延延と落ちてくる中を飛ぶ無鉄砲さというか、怖いぐらいの真剣さ、懸命さに僕はこころ打たれてしまって、今こうしてその事を、たかが虫一匹のことなのだけど書き留めようとしています。


 調べてみれば深い秋にわざわざ蛹(さなぎ)から羽化し、ほかの生き物の影の絶え果てて寒々しい雑木林を、一生に一度の愛の成就をめざして飛ぶものもいるらしい。雪=寒さ=過酷=死、と単純に連想して勝手に驚いている僕の了見が結局のところ狭過ぎる訳ですね。冬を好んで海を渡ってくる鳥だっているのだから、こんな白い季節に暮らす虫がいても不思議はない。


 長く空中で停まってみせる芸当と生態(誕生から死)を重ね合わせて比べれば、どうやら僕に会ってくれたのは雀蛾(スズメガ)の一種の“星蜂雀(ホシホウジャク)”です。信号はそこで青に変わり、彼なのか彼女なのかは知らないけれど、その後どうなったのかは分からない。真夜中の十字路の雪礫(ゆきつぶて)のなかに、さながら黒い“星” となって飛び続けるちいさな生命(いのち)の健気さに圧倒され、後ろ髪をつよく引かれながらアクセルを踏みました。


 “世界は生きよという暗号を送り続けている”

 そんな言葉を先日耳にしました。胸に響きます。確かにサインらしきもの、声援のようなものが世界には満ちているように感じられます。僕にとってはこのホシホウジャクも、そうだったのかもしれませんね。


 さて、話変わって上に引いたのは第二次世界大戦時の軍人山本五十六(やまもといそろく)さんの姿を、家族の目から辿り直した回想録の一節です。赤ん坊だった頃から学生の時分にかけて触れた父親の、物腰や言葉といった断片的な記憶をご長男の山本義正(やまもとよしまさ)さんが丹念に掘り起こして一冊に綴っています。巨大な戦艦や航空母艦を統括した公人ではなく、子供を愛でる私人山本五十六がつぶさに描かれていてとても興味深い内容でした。


 もちろん国を代表する組織の頂点に立ち、外遊もすれば豪華な会食もこなす五十六さんでありますから、美食に舌鼓を打つことも数限りなくあったはずです。けれど、それはそれ、これはこれであって、あくまでも基礎にあったのは倹約の精神みたいですね。ささやかな食の続くこと、身の丈に見合った家を選び、そこに住まい続けられることをこころから願った。


 若いころの海戦で砲弾の直撃に遭い、左手の指を二本瞬時に失い、足は赤ん坊の頭ほどもえぐり取られたという壮絶な怪我を負った五十六さんは、実に百六十日間という長期の入院生活を余儀なくされたのだそうです。幸せのハードル、生活の質を悪戯に高くしなかったのは、そんな苦闘を通じて体得した彼なりの人生哲学だったのでしょう。


 漬け物や味噌汁の食べ方をきびしく指導してはいますが、暴君となって家族を抑圧するつもりはさらさらなく、この世界で堅守すべきものとは一体全体何かを我が子に、そして時代を越えて僕たち今を生きる者にそっと諭してくれている。ここでの味噌汁はだから家庭の象徴、食卓のなつかしい記憶の枠をこえて、もっと清々しい、もっと強く語りかけるものが封入されて見える。


 すでに観たひとの話によれば、現在公開中の映画(*2)のそこかしこにこの本に書かれたエピソードが顔を覗かしていて、上の味噌汁を囲んでの食卓の情景もちゃんと描かれているそうです。三月の出来事や現在の世相を二重写しにするかのような意図的な、挑むような演出が随所に感じ取れて割合に考えさせられる内容とのこと。足を運ぶだけの価値があるかもしれませんね。スクリーンの奥にどんな味噌汁が置かれてあるのか、僕も時間を見つけて訪ねようと考えています。



 いよいよ年の境界を跨ぎます。


 ともに暗号を探して、それを励みとしながら新しい日々を越えていきましょう。

 この世界で堅守すべきものとは一体全体何かをずっと考えながら、

 懸命に力あるかぎり、羽ばたいていきましょう。



 善い年をお迎えください───



(*1):「父 山本五十六」 山本義正 手元にあるのは朝日文庫2011年版 引用はその163-164頁 あとがきによれば旧版は1969年に光文社より上梓されたとあるので、表題の西暦はこれに則った
(*2):「聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実」 監督 成島出 2011

2011年12月24日土曜日

リシャール・コラス「息子の帰還 Le Retour」(2007)~灰色の綿のような~


 父の前に置かれた味噌汁の表面は、灰色の綿のようなもので

覆われていた。母が手に持つ漬け物には黴(かび)がまだらに

生えていた。男は身を凍らせたまま、後ろ手に、一気に扉を閉めた、

思ったよりも勢いよく。扉は鈍い音を立てて縁枠にぶつかり、

空気の渦が生じた。(*1)
 

 そそくさと衣服をまとい、手短に髭(ひげ)をあたって家を出る。五時過ぎたばかりでまだまだ空は暗いのだけど、前夜から降り積もった雪は踝(くるぶし)の高さを優に越えており、その時間であれば本来なら墨を流し込んだような車道が白々と発光している。いよいよ来やがったな、つらい季節だなと嘆息すると同時に、妙に浮き立つものが湧いてくる。踏みしめれば靴裏に真綿の固まりをつぶすような、ぐぐぐ、と跳ね返ってくる感触がある。普段は無自覚の土踏まずがじんわり押し返されるのが新鮮で、きゅうきゅと鳴いて応える音も楽しい。


 行き交う車も人の姿もなく、また、音もない。わずかに光の粒子を含んだ暁闇(ぎょうあん)をだいだい色の“みそかの月”が細く円弧に切り裂いている。新雪に怯えたか、それとも興奮したか、若い一匹の黒猫が真白い道を跳ねながら横切っていく。


 綿毛のような雪片の大量に舞い落ちてきて、この汚された大地を染めていく。まるで夢にまぎれたか昏睡に陥ったかのような非現実じみた風景で、しばし呆然となって眺めていた。考えてみればこの雪だって何を含むか知れたものじゃないのだけれど、それでもこうして廻り来た日本の冬はやはり凄絶で美しいものとしみじみ思う。


 悪くだけ考えることも出来ず、良いことだけを思うこともならず、行きつ戻りつの思案が沈鬱で仕方ない。ぱっと何かに没入して、数時間でも数分でもいいから全てを忘れて身軽になりたい。思う存分、何泊も夜を重ねながら見知らぬ街を歩けたらさぞ嬉しかろ楽しかろ、鬱陶しい気分もすっかり失せて、生命(いのち)の不思議とよろこびがきっと実感されるように想う。許されるのであれば、どこかにそろそろ出かけてみたい、旅したいと願う気持ちがこのところ募る一方だ。


 知らない土地を訪れるだけでなく、見知った場処にいつもとは違った時刻に立つことだって一種の旅なのかもしれない。実際、こんな風景だって目に飛び込むのだし、なんちゃって、うそうそ、そりゃ負け惜しみ。本当の旅は違う。


 背表紙が目に飛び込んだ瞬間に捕縛されてしまったのは、だから仕方のないことだ。リシャール・コラスRichard Collasseさんの新刊書は「旅人は死なない」といい、そのタイトルの示唆する通り、旅愁や郷愁が全編をくまなく覆っている。


 「SAYA 沙耶」(*2)が店頭に並んでからまだそんなに経っていない。随分とまたハイペースではないか、とまず首をかしげてしまったのが本当のところ。騒然とするこんな世相の只中でもあり、コラスさんは大きな組織の経営者でもあるから舵取りに気を揉むことだらけに違いない。指示待ちの案件も山積しているはず。よく筆が進むものだ、と感心しながら手に取り眺めました。


 巻末の初出一覧を見て納得したのは、この本はかつて雑誌に掲載された短編を一冊にまとめたものであって、一部書き下ろしもあるにはあるけれど、基本的に震災前の作品ばかりなのです。いちばん古いもので2007年の春といいますから、五年近くも前に執筆されているものを含んでいる。


 正直にいえば僕はあの事故が国の諸相と人のこころを一変させるのではないかと不安視しているし、その窯変なり衝撃は実は“これから”本格的に押し寄せるものと思ってもいます。動揺を抑え、勇気を奮い起こさせ、闘志を育む上で小説なり物語の真価が試され、また、頼りにされていくものと信じるのだけど、そんな拝むような、祈るような気持ちをずっと胸中に抱えているためなのでしょう、“三月以降に書かれたもの”をどうしても探しては貪っていく傾向がどんどん強まっている。


 その点この本に収まっているのは“昔の物語”ばかりになるから、僕の望むような回答はたぶん見出せないものと諦めながら頁を繰ったのでした。けれど、不思議と苛立ちは起こらず、むしろ“今の物語”として頷き、勇気づけられながらの時間となったのは有り難かったですね。


 最初に引いたのは所載されている一編「息子の帰還」の終幕近い描写です。寒村を飛び出した若者が町の洋装店に雇われ、そこで必死に働くうちに客のひとりである娘に恋をします。残念ながらそれは一方的なものに終わり、傷心した男は久方ぶりに帰郷するのでした。変わらぬ村の風景と生家の様子にほっとする男でしたが、扉を開いて覗いた土間の奥には一見変わらぬ様子で座っている老いた両親の姿があり、よくよく見ればその手に持たれた味噌汁の椀には異様なものが浮いているのでした。元気そうに見えた両親ですが、実は──という話です。


 八雲か鏡花か、といった感じでコラスさんには珍しい幻想譚なのですが、誰しもが懐(ふところ)に抱く生れ故郷や親族に寄せる“両面感情”が透かし込まれており、とても面白く読みました。先人たちの知恵を集束して保存性を高めた味噌や漬け物が、息子の帰宅を待ちきれずに変質している。単純に食べものが腐るのでなく、“故郷”や“母親”とイメージを結線する味噌汁なんかがあえて選ばれ、ぶわぶわのものが増えてむごたらしく破壊されていくあたりが斬新というか容赦ないというか、精神的でとても興味深い描写になっています。


 この一篇を含む十九の物語が本には収まっているのだけど、いずれも庶民目線(と言うより作者目線)の物語で、悲劇に終わるものも含めて描かれているのは生きることに関わるハードルの出現と跳躍、または落下であって、読者それぞれが担っている日常と連結しやすい。


 コラスさんの贈り出す物語に磁性じみたものを以前からは僕は感じていて、それはどうしてなのか考えてみると、結局のところ編み出された物語が作者の内実に寄り添っていて、どんなに突飛な舞台設定を組もうと、どんなにディテールを尽くして異国を装っても、最終的に人間の内側までがそんな“絵空事”に陥っていないのが大きい。ときに視座は若い現代女性の内部に置かれたりもするけれど、台詞や行間ににじむものは総じて1953年生れの男のものであって、読み手である僕として投影しやすいものとなっている。


 半生を費やして蓄積なった慚悔(ざんかい)、諦観、自戒といったものが頁の片隅に金属製の栞(しおり)のような面持ちでそっと挿されてあって、それが時折閃光をともなって目に飛び込みます。人生の不遡及性、途轍もなく残酷な面なんかと、その逆にひとりひとりに託された唯一無二で比類なきもの、奇蹟のような多様性とが再確認させられる。そんな内省的で穏やかな時間になっていく。


 気を許し合える年長の友とこころ静かに会食している。悩みを打ち明け、過去の失敗談や苦労談が返されるなか、落ち着いた時間と酒杯が重なっていく、そんな風の暖かいものが読書中ずっと網膜の裏側に宿っているのです。


 今回の一冊は震災のなかった頃の物語ではあるから、そこに今後の指針は示されてはしないけれど、読了してみれば、作者と僕たちそれぞれの背中に遥かなる航跡が白く尾を引き水平線の彼方まで続いているのが視認される。その長さと確かさが何よりも心強い。こんな自分でもまだまだ捨てたものじゃない、これからも航海は続くのだという気持ちが固まってくる。(頷くにせよ、首を振るにせよ)認めていかざるを得ない実人生を想い、腹がどしんと据わるところがあるのです。


 (懸念や恐怖に打ち克つ術を“離日”という形で鮮烈に示されるということがなければ)コラスさんの次の執筆はいよいよ鎮魂なり覚悟なり、戦いなりを主軸に据えたものとなるでしょう。日本に残り、そこで暮らして舵取りをするとはそういう烈しいものにどうしてもなっていく。僕は単なる好奇心や時間つぶしではなく、今からもう心待ちにしています。彼の背景にある文化や彼自身の魂を介して、どのような言葉がこの国と読者に寄せられるのか、じっくりと耳を傾け考えたいと願っています。



 聖夜ですね。特別な一年でもありましたから、出歩かずに家のなかで家族や恋人と過ごすひとが多いと聞きました。いつもと違って蝋燭の炎も原色の飾り付けも目に沁みて、格別な夜になるでしょうね。

 良き夜を、こころ休まる夜を──

(*1):「息子の帰還 Le Retour」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 「旅人は死なない LES VOYAGEURS NE MEURENT JAMAIS」2011集英社 所載 66頁 初出は「SPURLUXE」2007年冬号 
(*2):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社

2011年12月3日土曜日

"Lilacs"


 革命によって仕事を奪われ、生活圏を追われ、四十半ばにして新天地を求めざるを得なかった作曲家の半生を描いた映画を観たところです。思えば偉人たちに限ったことではなくって、僕たちの数世代上の誰しもが途方も無い長く苦しい旅の当事者です。ここ半世紀の安泰に慣れ過ぎてしまった僕たちではありますが、そろそろ先達の身の上を振り返り、各人が胸に抱く人生のスケールや航路の範囲を変えておいた方が良いのかもしれません

 そんなことを考えながら観終わったところです


 雨模様の週末です

 憂いごとを何もかも洗い落としてくれればいいのだけれど、かえって心配の種に化けていくようで落ち着きません。せめて風邪やインフルエンザを寄せ付けず、笑顔で乗り切っていきましょう。まずは目前の迫る物事を見据え、しっかり取り組んでいきましょうか。それしかないものね───

2011年11月18日金曜日

“反抗するその力よりも”


 脚本家の山田太一(やまだたいち)さんが八雲八雲(こいずみやくも)さんのことを書いた「日本の面影」も合わせて読んでいる最中だけれど、予想通り味噌と醤油に関する特段の記述はないですね。古い全集をひもときながら想いをめぐらした気ままな散歩も、そろそろお終いみたいです。


 食べもの”について触れたものではないのですが、最後に備忘録をかねて書き写しておきたい箇所があります。“結局この文章に出会うために読み進めてきたのではなかったかと思わせる、とても刺激を含んだ内容です。文頭に“東京、1904年8月1日”とありますから八雲さん晩年の一篇ですね。当時の日本はロシアとの戦争の只中にありました。前年の明治36年の12月21日にロシアの満州侵略に対し抗議を提出し、同28日には連合艦隊が編制されている。年明けて2月10日に開戦、たちまち海も山も砲火に砕け、戦死者の山を築いていく。


 そのような暗澹たる世相にあって、東京という街が、そこに住まう人がまるで何事もないように動き、微笑み、ざわめく様子に八雲さんはひどく驚いているのです。理解しようと努め、どうにかこうにか思案を取りまとめていくのですが、読んでいると随所に不協和音が感じられる。困難なテーマに立ち向かっている証拠です。百年以上も前の考察ながら、あの三月の震災後に生きる僕たち“現代の日本人”を考える上で有益な言葉を多く含んでいるように思えます。


 東京、1904年8月1日(中略)

 日本にとっては、恐らくは、その国民的生命の無上の危機である。(中略)経験に乏しい人の観察には、日本人はいつもと異なったことは、何ひとつしておらぬように見えるであろう。(中略)心配あるいは意気沮喪(そそう)の情態を示すものとては実際にまったく何ひとつ無いのである。それどころか、国民一般の自信が喜ばしげな調子を見、また幾度の捷報(しょうほう)に接しても、国民の自負心が感心なほど制御されているのを見て誰しも驚く。西からの海流が、日本人の死体をその海岸に撒き散らしたことがある。鉄条網の防備のある陣地を襲撃して幾連隊の兵士が絶滅したことがある。幾艘の戦闘艦が沈没したことがある。だが、いかな瞬間においても、国民的興奮は微塵だもこれまで見ない。人々はまさしく戦前通りに、その日日の職業に従事している。物事の楽しそうな様子は、正しく戦前と同じである。芝居や花の展覧は戦前に劣らず、贔屓(ひいき)を有っている。市外の生活は何の影響もこうむらず、ほかの年の夏同様に、花は咲き、蝶は舞っているが、外見では、東京の生活はそれと同様に、ほとんど戦争の事件の影響をこうむっていない。(中略)この戦争の話はすべて悪夢だと思い込むことが出来るくらいである。(*1)


“捷報(しょうほう)とは戦闘に勝ったことを知らせる報道のことで、そういった報せに関してすら大騒ぎしない様子に八雲さんは首を傾げている。誰からも号令をかけられていないのに、まるで「悪い夢」のよう、「無いこと」のように誰もかれもが振る舞っている。なぜここまで統制されていくのか、不思議を感じている訳です。八雲さんは十四年間の暮らしで習得した知識を総動員して、この謎を解こうと躍起です。


 古昔(こせき)、この国民は、その情緒を隠すばかりでなく、精神的苦痛のいか圧迫の下にあっても、楽しそうな声で物を言い、愉快そうな顔を人に見せるように訓練されたのであった。そして彼らは今日もその教訓を守っている。陛下のため、祖国のために死ぬる者どもを亡くした個人的悲哀を現すのは、今なお、恥辱と考えられているのである。(*2)

 一般公衆は、あたかも人気のある芝居の舞台面を見るように、戦争の事件を観ているように思える。興奮はせずして興味を感じている。そして、彼らの異常な自制心は「遊戯衝動」の種々な表現に特に示されている。(*3)


 日本の武家社会には士農工商といった厳格な身分制度や教育機会の不平等、それから男尊女卑や家長制度などが縦横に張りめぐらされていて、人間の思考はさながら蜘蛛の巣に捕まった羽虫のようなもの。前進も後退もままならない。感情を表に出すことを恥と捉える風潮も重なって、完全に手足をもがれた格好になったのだと八雲さんは(それを悪いこと、遅れたことと単純には否定はしていないのですが)推察するわけです。心の奥に渦巻く軋轢は吹き抜ける穴を探して“娯楽”の形にやがて変幻していき、お芝居や子供の遊び、歌や衣装といったもので花開いていく。深刻な討論や表現が回避され、華やいで笑いが寄り添う分野で“無上の危機”が盛んに玩(もてあそ)ばれる。八雲さんはそれを日本の国に巣食う独特の「遊戯衝動」によるものと捉えている。


 刻下の世界震盪(しんとう)的なる事件のうちにあって、歌舞を見て感ずると同一様な楽しみを感じ得る、その不思議な度量を見ると──誰しもこう訊(たず)ねたくなる。『国民的敗北をしたなら、その精神上の結果はどうであろう』と。……思うに、それは事情如何(いかん)によることであろう。クロパトキンが日本に侵入するという。その軽率な威嚇を実行し得るなら、日本国民は恐らく擧(こぞ)って起つであろう。然しそうでない、どんな大不幸を知っても雄雄しく耐え忍ぶであろう。いつからと知れぬ太古からして、日本は異変の頻繁な国であった。一瞬時にして幾多の都市を破壊する地震があり、海岸地方の人口ことごとくを一掃し去る長さ二百里の海嘯(かいしょう)があり、立派に耕作された田畑の幾百里を浸す洪水があり、幾州を埋没する噴火があった。こんな災害がこの人種を鍛錬(たんれん)して甘従(かんじゅう)と忍耐とを養い来たっている。そしてまた戦争のあらゆる不幸を勇ましく耐え忍ぶ訓練もまた十分に為し来たっている。これまで日本と最も近く接触し来たっている外国国民にすらも、日本の度量は推量されないままで居た。攻撃を耐え忍ぶその力は、攻撃に反抗するその力よりもあるいは遥かに勝っているかも知れぬ。(*4)


 “クロパトキン”とはロシア満州軍総司令官アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキンのことです。“海嘯(かいしょう)”とは、ここでは大津波のことを指しています。日本人の寡黙、微笑み、どんな不条理な事態に面しても憤然とすることなく決して拳(こぶし)を振り回さない“おとなしさ”は、天変地異に幾度も襲われ、そのたびに耐え忍び、生き延びてきた歴史の産物ではないか──そのように八雲さんは考えるのです。


 八雲さんが言う“頻繁な異変”とはどんなものか。来日してから亡くなるまでの期間、どのような災害が我が国を襲ったかをここで振り返ってみましょうか。(*5)

【1890年(明治23)】~八雲来日の年~
2月27日 浅草の大火(約1500戸焼失)
9月5日 大阪の大火(約1800戸焼失)

【1891年(明治24)】
12月30日 鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)

【1892年(明治25)】
4月10日 東京神田の大火(約4000戸焼失)

【1893年(明治26)】
3月29日 伊勢松坂町の大火(約1000戸焼失)

【1894年(明治27)】
1月24日 鹿児島市大火(503戸焼失)
5月27日 山形市の大火(1200戸焼失)
6月17日 横浜市の大火(約1000戸焼失)

【1895年(明治28)】
6月2日 越後新発田の大火(約2000戸焼失)

【1896年(明治29)】
4月13日 越前勝山町の大火(1200戸焼失)
6月15日 三陸地方に大津波(死者2万7122人、流出・破壊1万390戸)
7月7日 富山県下の大水害(流失3000戸)
8月26日 函館の大火(約2220戸焼失)

【1897年(明治30)】
4月22日 八王子の大火(約3100戸焼失)

【1898年(明治31)】
6月5日 直江津の大火(約1600戸焼失)

【1899年(明治32)】
8月12日 富山市の大火(約5000戸焼失)
8月12日 横浜開港以来の大火(約3200戸焼失)
9月15日 函館の大火(約2000戸焼失)

【1900年(明治33)】
4月19日 福井の大火(約1700戸焼失)

【1902年(明治35)】
3月30日 福井市で大火(約3000戸が焼失)
8月7日 鳥島が大爆発、島にいた125人全員が死亡
9月28日 関東・東北地方に大暴風雨(足尾銅山の山崩れで死者34人、不明170人)

【1904年(明治37)】~八雲急逝の年~
5月8日 小樽の大火(2481戸焼失)


 これは酷い。なるほど毎年のように大きな火事があり、その度に何千もの家屋が焼け落ちています。今回の被害を語る際に話題によく上る三陸地方の大津波も、八雲さんはすごく身近に感じていたんですね。ここまで大きな災害がくり返されると、八雲さんの言わんとすることも当たっているような気になって来ます。喜んでいるのじゃありませんよ、逆に困惑している、心配になってくる。


 ウェブを介して情報を収集する手癖の付いてしまった人には、はっきりとした触感となって感じられる話なのですが、海外の視線はまさに八雲さんが書いたこの“不思議な度量”に今なお注がれていていて、むしろ勢いは強まっている。一挙手一投足を睨(ね)め付けるかの如しです。“反抗するその力よりも遥かに勝っている”日本人の“耐え忍ぶその力”に対して唖然とし、いや、そろそろ愕然とする域に踏み込んで見えます。


 僕たちの身体に染み入ってしまった忍従の力が、かえって“国民的生命の無上の危機”へと僕たちを追いやっていないか、真剣に考える必要がありそうです。現代のクロパトキンの侵入は軽率な威嚇程度では済まない。“甘従(かんじゅう)と忍耐”では抗しきれない相手のように思えます。


 八雲さんの遺した言葉を日本人礼讃と捉え、美しい態度、素晴らしい姿じゃないか、さあ頑張ろう、いっしょに耐えていこう──そのようにまとめるのが普通かもしれないけれど、僕にはどうしてもそうは思えないんですね。きっと八雲さんも望まないように思えます。


(*1): The Romance of the Milky Way and other studies and stories(天の河縁起そのほか)「日本からの手紙」 小泉八雲 1905 大谷正信訳 全集第7巻 485-487頁
(*2):同487-488頁
(*3):同488頁
(*4):同506-507頁
(*5): http://meiji.sakanouenokumo.jp/

2011年11月17日木曜日

“無味に思える”



 蛙(かえる)の冷たい、しっとりと湿った、緊(は)りの無い天性

に関して斯(か)く詩人が無言でいるのを怪しんでいる間に、突然

自分の胸に浮かんだことは、自分が読んだ他の幾千という日本の詩歌

に、触覚に関して詠(よ)んだものが全く無いという事であった。

色、音、匂いの感じは、精緻驚くばかりにまた巧妙に表わされている。

が、味感は滅多に述べて無い、そして触感は絶対に無視されている。

この無言もしくは冷淡の理由は、これをこの人種の特殊な気質または

心的慣習に求むべきかどうかと胸に問うてみた。が、まだ自分はその

疑問を決定することが出来ずにいる。この人種は、西洋人の舌には

無味に思える食物で幾代も生活し来たっていることを憶(おも)い

起こし、また、握手とか抱擁とか接吻とか或いは愛情のほかの肉体的

表明とかいう動作を為せる衝動は、極東人の性質が実際全く知らずに

いるものということを憶い起こすと、愉快なものにせよ、不愉快なもの

にせよ、とにかく味感と触感とは、その発達が日本人は我々よりも

遅れているという説を抱きたくなる。(*1)


 小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんが書かれた文章です。八雲さんは身も心も日本に投じ、この地で独自に発達を遂げた文化や思想を貪欲に吸収していきました。微に入り細を穿って書き留められた光景は、伝説やおとぎ話も含めて美しく、機微を含んでずいぶんと胸の奥深くまで沁みわたるのだけど、なぜか“食べもの”だけが蚊帳の外に置かれて見える。一体全体それはどうしてなんだろう、と先日来くずくずと考え続けて来た訳です。


 先におこなった抜き書きからは八雲さんが日本の食事に物足りなさをどうやら感じ、それを悔しく思っていた様子が読み取れたのでしたが、上の文章を読むと嫌悪とまでは言いませんが、和食に対してかなり辛辣でどんと突き放している雰囲気があります。出版された時期から察するに、来日して七年か八年が経過していた頃でしょう。十分に風土に慣れ親しみ、四季を通じて多彩に変化していく日本の食料事情も飲み込めた時期です。そんな日本通の八雲さんから“西洋人の舌には無味に思える”と僕たちの食生活を評されてしまうと、いささかショックです。


 隣国である大韓民国が小学校の給食にキムチを添えることを義務付けたりした理由がそうなのだ、と教わりましたが、味覚というものは幼年期に完全に組み立てられ、その時期に刷り込まれないと生涯にわたって“美味しい”とは感じ取れなくなるものらしいのです。人間の味覚、嗅覚の仕組みというのは実に不思議です。家庭の事情や根っからの異邦人という生来の体質から、地球のあちらこちらを転々として過ごしてきた八雲さんにとって、その四十年間に刷り込まれた食文化の情報量はさぞ激烈で膨大なものだったでしょう。そんな彼にとって日本での食事(醤油、味噌も含めて)は、正直言って味気ないものだったに違いありません。これが案外真相なんでしょうね。


 そろそろ八雲さんをめぐる“食べもの”の話はやめにしましょう。いえ、何も和食をぞんざいに言われて気分を害した訳ではなくって、八雲さんの視点の面白さをもっと書き留めたくなっただけです。上の文章にある“触感”の話などきわめて面白いですよね。百年前の記述なのだけど、時代を超越した日本人論になって胸に迫ります。


 海外での生活経験が豊富な友人から“握手”の話を聞かされたことがあります。出逢いや別れに際して交わされるあれですが、日常の何気ない儀礼に過ぎないと思われることなれど、そこで取り交わされる感情の綾は相当なものらしい。正のものもあれば負のものもありますが、実に多彩で大量のものが“触れ合い”を介して瞬時に行き来し、互い互いに汲み取っていく。文中にある“肉体的表明”という語句は古めかしい感じを与えるけれど、閃光にも似たまばゆい面持ちの、昂揚を誘う時間を築いている。


 好感や信頼、融和、解放、休意、深慮、はたまた求心なり恋慕──実際のところはそんな単語をずらずらと述べていたわけではありませんが、数秒間に過ぎなかった一度の握手について、手のひらに宿る体温の印象やそこから派生する揺らぎや安息、土台に眠る気質や知性の奥行き、互いの状況と将来の展望といったことについて嬉々として語ってやまない友人を見ていると、「触感」は日本人の完全に出遅れてしまった分野だと素直に認めない訳にはいかない。対人間の交感や情報のやり取りを、ほんとうに真摯に積極的に捉えている印象を受けました。こりゃ敵わない、これが海外の基準だとすれば日本人の日常など“無味”で“遅れている”、空洞化していると揶揄されても仕方ないかな、と思います。


 いつか上に書いたようなあざやかな、めくるめく明るさに充ちた“握手”が僕にも出来たらいいな。それにはもっともっと修練が必要だな──そんなことを夢想しているところなのです。

 
 

(*1): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「蛙」 小泉八雲 1898 大谷正信訳 第5巻 419-421頁 引用箇所には続きがあって、八雲さんは日本人の指先の器用なことを褒めたたえ、超絶技巧の工芸品を例に引いて後段を締め括っています。鈍感というのではなく、方向が違うのだと言いたいのでしょう。叱られないよう、そちらも合わせて書き写しておきましょう。(でも、日本食の味気なさについて補完する言葉は、最後の最後までないんですよ!)

──日本人の手業(てわざ)の成功は、幾多特殊な方向に発達している触覚の、ほとんど比較にならぬほど精緻なことを確証している。この現象の生理学的意義は何であろうとも、その道徳的意義は極めて重要である。自分が判断し得ただけのところでは、日本の詩歌は、我々が美的と呼んでいる高等な感性に微妙極まる訴えを為しながら、劣等な感性は普通これを無視しているのである。この事実は、他の事は何ひとつ表示しておらぬにしても、“自然”に対する最も健全な最も幸福な態度を表示しているのである。(中略)日本人だけが百足虫(むかで)の形態を美術的に使用し来たっているという事実は意義のないことであろうか。……模様のある革の上をば炎の小波のごとく 走っている金の百足虫(むかで)!が附いている京都製の自分の煙草入れを読者諸君に見せたいものである。

2011年11月11日金曜日

“朝食は汁と魚と”



 朽ちかけた背表紙に手のひらを茶色くし、舞い散る粉でソファを汚しながら古い全集を読み進めるうちに、一枚の“忘れ物”を見つけました。図書館の本には思いがけないフロクが付いていることがあります。


 四つ折りにされたわら半紙(今ではなかなかお目にかからない)が頁と頁の間に挟まっています。「生活設計表」と上に書かれてある。おとなの字です。謄写板によるものか、黒いインクがところどころ霞んだり滲んだりしながら几帳面にびっちりと罫線が引かれており、横軸には等間隔で左から右に6,7、8──と数字が刻んであります。硬い鉛筆で書かれた幼さの残る文字が行間で踊り、「起る」だの「飯」、「学校」だのと読めます。時どき「○○○公園にいった」とか「子どもの日で外出」とあります。どうやら小学校高学年か中学生による一行形式の日記のようです。生活習慣を意識付けるための宿題だったのでしょう。


 「テレビ」は夜に限って1時間ほど観ています。就寝はほぼ毎日一定で9時です。昨今の傾向からすれば随分と早い時間です。紙そのものから染み出た油か何かが本の頁を真四角に染めており、両者が長い歳月ぴたりと寄り添っていたことが察せられる。ワードプロセッサーもなかった時期のものです、かれこれ四十年ほども遡った頃の日記でしょうか。“2年5組№13”と書かれた下に名前が読めます。落とし主は男の子ですね。彼がこの全集が明るい場所に並んでいた頃の最後の読者だったのかもしれません。


 百年前に亡くなった小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの八十年前に出された全集に、四十年前の日記が挟まって眠っている。歳月を跨いで先人との会話が再開されていく、溝がさっと埋まって交感がさんざめく感じが嬉しいし、愉快です。


 僕がこうして書き綴っているブログという名の吐息や囁きも、いつしか“落し物”となって忘れ去られ、40年後なり100年後に偶然に読まれるものだろうか。そのとき、子孫たちはどんなまなざしを向けてくれるものだろうか。そんな夢想もしてしまうのでした。


 28.8年とか30年とか、はたまた2万4千年という年数を眉根ひそませ考えることを僕たちは今、(はた迷惑な話で怒りも湧きます)強いられています。ですから、未来を想うことはどうしても複雑な心境になります。もしかしたら怨嗟に満ちた目線でこの文章だって読まれるのかもしれない。どうして逃げなかったの、どうして手荷物ひとつで旅立たなかったの、そもそも何であんな未完成な機械に頼ってしまったの────。図書館の忘れ物のように気持ちをなごませる、微笑ましさと懐かしさを感じさせるもので在って欲しい、そんな穏やかな将来であって欲しいと願わずにはいられない。


 脇道にそれちゃいましたね、話を戻しましょう。八雲さんの物語にどうして醤油や味噌が見えないか、その正確な理由は結局分かりません。臭いとか不味いと疎(うと)んじる気配もない。でも、全集のなかから食事に関する記述(節子夫人の懐旧談も交じる)を抜き書きしてみると、八雲さんの筆のためらいがなんとなく分かるような気になります。もしかしたら八雲さんにとって食事は、乗り越えられぬ大きな壁であり、そっと意識から外したかったのかもしれません。


 学校から帰ると直ぐに日本服に着換え、座布団に座って煙草を

吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。

何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りま

した。西洋風は嫌いでした。西洋風となるとさも賤(いや)しんだ

ように『日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似を

しますか』という調子でした。(節子夫人のはなし *1)



 決して一度も、西部日本の何処ででも、西郷に居た時ほど居心地が

よかったことは無い。薦められて行った宿屋には、客は友と自分と二人きり

であった。(中略)食物は驚くばかり上等で、珍しいほど変化に富んでおり、

欲しければセイヨウリョウリ(西洋の料理)を──フライにした馬鈴薯添

えてのビフテキ、ロースト・チキンその他を──注文してよいと言われた。

自分は旅行中は純日本式食事を守って手数を避けることに決めているから、

その申出を利用はしなかった。(中略)日本全国のうちで一番原始的な

土地へやって来たのだから、近代化するすべての勢力の範囲外はるか遠く

に自分を見出すことと想像していたのであった。だからフライにした馬鈴

薯添えてのビフテキを思い出させられたのは幻滅であった。(*2)



 1891年6月 松江にて(中略) 私は私自身の弱点を白状するのは

非常に恥じ入ったことではありますが、しかし事実は申し上げなくては

なりません。実は私は十ケ月間というものは日本食ばかりを食べていて、

他にはいかなる食物も口に入れなかったので、つい肉食を腹一杯食べる

ように余儀なくされたのであります……たった二日間だけの肉食生活

ではありましたが……。そしてその結果病気にかかってしまいましたので、

日本食で養生することが出来なくなりました──鶏卵でいくら勢いをつけ

ても駄目なんです。私は牛肉、鳥肉、ソーセージ、フライにした固形物等を

驚くばかり貪食し、あまつさえビールを鯨飲しました──これというのも

私は一人の外国人の料理人を松江で僥倖(ぎょうこう)にも見出したから

であります。私は大いに赤面しております。しかしこれは私の罪でもなけ

れば日本人の罪でもありません。皆私の祖先の罪なのです──すなわち

北方人類の凶暴にして狼のごとき遺伝的本能とまたその傾向とに原因して

いるものであります。父およびその他の人達の罪悪なんです。(*3)



 食物には好悪(こうお)はございませんでした。日本食では漬物でも、

刺身でも何でも頂きました。お菜から食べました、最後に御飯を一杯だけ

頂きました。洋食ではプラムプデインと大きなビフテキが好きでございま

した。(節子夫人のはなし *4)



 1893年10月13日(中略)午前七時──朝飯。極めて軽い物──

玉子と焼きパン。ウイスキー小匙入れたレモナードと黒コーヒー。妻が

給仕する、私は妻にも少し食べさせようとする。しかし妻は少ししか

食べない──あとで一同の朝飯の時にも顔を出さねばならぬから。(*5)



 二番目の旅行記と三番目の手紙などを読むと、身も心も日本に染まろうと願う余り、身体の要求を無理やりに八雲さんは抑圧していて、裂け目やひずみを来たしてしまった印象を受けます。また、こちらも旅行の記録ですが、八雲さんが日本の食の慣習に触れ、少なからぬ興味を示しているくだりがあります。


 老主人が私を湯殿へ案内して、私を子供扱いに主人自ら強いて、私を

洗ってくれた間に、主婦は米、卵、野菜、菓子などの旨い小さな、ご馳走を

私のために調理した。私が二人前ほど食べた後でも、彼女は私に満足を

与えなかったということをひどく気にして、もっと沢山料理を作りかねた

ことを大いに詫びた。

 彼女は『今日は十三日で、盆祭の初めの日で御座いますから、魚があり

ません。十三日、十四日、十五日には誰も精進致します。十六日の朝は、

漁師が漁に出かけますので、両親とも生きている人は、魚を食べてもよろ

しいのです。しかし、片親のない人は、十六日でも食べられません』と

言った。(*6)


 東洋の信仰には“食を控えること”で精神的な高みを目指したり、霊的な交信を願う根強い流れ(*7)があって、断食修行や即身成仏がその究極のものとしてあります。日本という国に魅了され、その文化をとことん愛し貫いた男が和食のみで健常な心身を保つことがならず、西洋料理を定期的に摂取せねばならなかったことは恥辱とまでは言いませんが、硬いしこりを彼の精神中に育てたように思われます。(*8)


 午前三時半── 一睡もできなかった──夜更けて山から下りてきた

連中や、参詣のため到着した者共で夜中のどさくさ──下女を呼ぶ手の

音が絶えない──隣室は飲めや歌えの大騒ぎ、折々どっと哄笑(こうしょう)

が起こる……朝食は汁と魚と御飯。(*9)


 小泉八雲さんの全集でようやく見つかったのは、味噌汁でもなければお吸い物でもない、ただの“汁”でした。前夜の不眠にいらだつ気持ちもあったでしょうが、なんとも淋しく直截な表現です。汁、たしかにスープなんだけど、こんな書き方は珍しいですよね。


 日本を舞台に選び、日本人の生活を描けば、自ずと味噌汁や醤油が現われて腋をかためるというのでなく、書き手のこころの有りよう次第で違ってくる。劇中それらが闊歩すると僕たちは“自然なこと、普通の場景”と受け止めますが、書き手によっては底なしの作意をこめて描くことだってある訳です。また、意識すればこそ、想いが強ければこそ書けないことって人間にはあるものです。八雲さんの見えない味噌汁はその証しとなっている。味噌汁の記述は結局なかったけれど、番外編ということで書き残しておきます。


 八雲さんの物語には“転生譚”が多い。今度どこか別の世で八雲さんと逢えたら、と思います。僕たちがこれからどう生きるべきかの助言も欲しいし、味噌汁や醤油に対する感想もそっと耳打ちしてもらいたいですね。


 今年の夏に冷房を我慢したせいもあるのでしょうか、ここ半月の気候に僕の身体はついていけません。体温調整が利かず、いくら重ね着しても寒くて寒くて仕方ない。



 そちらはどうですか。寒くしていませんか。

 どうか元気に、気持ちも身体もあたたかく、

 あたらしい季節の幕を開けてください。


(*1):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 308頁
(*2): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第23章 伯耆(ほうき)から壱岐(おき)へ」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳  第3巻 740-741頁
(*3):「チェムバリンに」 小泉八雲 金子健二訳 第9巻(書簡集) 523-524頁
(*4):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 333頁
(*5):「ベーシル・ホール・チェムバリンに」 小泉八雲 大谷正信訳 第10巻(書簡集) 358頁
(*6): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第6章 盆踊」 小泉八雲 1894 第3巻 171頁
(*7):これは上村一夫さんの作品にも顕著でしたね
(*8):三月以前は口にする必要も何もなかった横文字の物質をひっそりと赤身や脂に紛れ込ませた牛肉を“驚くばかり貪食”している僕たちの今を、いったい彼ならどのように見てどのように感じるものか。『現代の便利な物』である汽車を嫌い、電話を家に引くのを断乎として許さなかった男の目に、ふたたび光を増した夜の街がどのように映るものか。100年前に独り煩悶していたこの心根(こころね)の誠実過ぎる男に対して、僕は申し訳ない気持ち、恥ずかしい気持ちでいます。
(*9): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「富士山」 小泉八雲 1898 落合貞三郎訳 第5巻 281頁
最上段の写真は今やっている展示会のポスターです。行きたいなあ。

2011年11月10日木曜日

“二三の料理を”



 イタリアの伝記映画を観終えると、正午をちょっと回った辺りです。まだお腹も空いていませんから、その足で真っ直ぐ図書館に行きました。


 パソコンで蔵書検索をかけ、小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの全集(*1)を出してもらいました。別巻一冊を加えると全部で18冊、かなりの分量です。80年以上前の本ですから革の背表紙部分に崩壊が始まっている。クッキーが割れて粉々になるような具合です。手が汚れるので気を付けてください、重いのでどうぞこのまま、と親切な館員の方から言われ、整理作業用のワゴンに載せたまま館内をきゅるきゅる押して歩きます。なんか普通でなくって、少しだけ得意な気分。


 フロアには割合にひとの影があります。けれど、こちらの気のし過ぎかもしれないのですが、糸のほつれた感じというか、やや剣呑な空気が漂っている。館員から何事か注意された男性が辺りはばからずに大声で意見してみたり、長く沈んだ溜め息を繰り返すひと、呼吸器系の発作かと心配になるひどい咳き込みを重ねる人などが耳に障り、気持ちを泡立てます。あれだけの天災と混乱を経たのです、誰の身にも疲労なり心配は蓄積なっているのだと思います。


 窓際のソファに腰を下ろして外を見やれば、灰色の空に雲が蛇のようにぐわりと逆巻き、たなびいている。以前観た「怪談」という映画(*2)を思い出します。八雲さん原作のあの「怪談」です。あれには物凄い空が描かれていましたね。


 いよいよ小雨がぱらつき出しました。誰でもそうなのかもしれないけれど、僕は“幽霊”の夢をときどき見てしまい、わっと叫んで跳ね起きることがあります。長い髪のおんなだったり、見知らぬ中年男だったり日によって違うけれど、部屋に無表情でするすると入って来たり、寝ている僕にがばりとのしかかってくる。こんな年齢になっても恐怖映画が苦手で逃げ回っているのは、どこかで超自然のことを信じているせいかもしれません。


 けれど、「怪談」に代表される八雲さんの世界は別物です。多くが悲恋を土台にしているので全篇がうつくしい旋律に彩られ、経験値の少ない唐変木の僕にも熱く迫って来るもの、強く揺さぶるところがある。甘っちょろいと思われそうだけど、奇蹟とか運命とか、魂のことってやはりこの世に有るように思えて八雲さんの書くものがどれもこれも本当と感じられる。


 こうして全集をひもとき書簡集も含めて読み進めていくと、さらに彼の人柄や性格も手のひらにしっくり伝わるような感じでこころ強いというか、どこか励まされるような気持ちになりました。あくまで現実とは違う次元であって、生きた友人同士が膝を寄せ合い談笑する嬉しさ、愉しさには遠く及ばないにしても、人間の“核”(と書くと今は胸騒ぎするところがあるのだけど、でも“芯”とか“核”という強い響きとイメージにすがり付きたい時もあります──)に触れ合うような悪くない時間になりました。


 わざわざ足を運んで八雲さんの道程を探った理由は、もちろん“味噌”や“醤油”の記述の有無、表現なり反応に対する好奇心に外なりません。結論から言えば(僕の目がふし穴でなければですが)八雲さんの視界に味噌や醤油はまるで無いんですね。落胆を通り越して不思議であり、とても興味深く思えました。婦人の懐旧談で漬け物(奈良漬)なんかが不意にクローズアップされたりはしますが、味噌と醤油はまるでこの世に存在しないかのようです。


 明治23年(1890)、四十歳のときに横浜に上陸して以来、十四年間に渡って日本に居住してやがて心臓を患い、愛妻節子さんの側で眠るように亡くなってしまう八雲さんでしたが、驚嘆させられるのは執拗で飽くことなき日本文化への探求、その凄まじさ、その厚み、堆積です。


 ───蝉(せみ)、蜻蛉(とんぼ)、蝶といった小さきものと文人との関わりかた、仏具のかたちとそこに込められた意味、日用食器の装飾と由来、儀式、言葉、神話、日本人の骨格、瞳なり髪といった部分の特性、売り子の声、子供の遊び唄、それに派生し絡まっていく宗教観と死生観、聖書との交差、呼び覚まされた記憶から爆発的に連なっていく欧州文化に対する意識改革、視野の拡大──八雲さんの旺盛な好奇心は全方位に駆け巡り、まぶしく連射され続けます。


 込み入った内容のはずなのに、愛着と憐憫が泉のように溢れてたゆたい、至極おだやかな面持ちの文面になっている。硬軟交互に綾織られた言葉を目で追うと、とても知的で趣味もいい友人とおしゃべりしているような気分です。


 博覧強記の八雲さんが全身全霊をあげて漁にかかった日本で、その網に不思議と“醤油、味噌”が入ってこない、というより、“食べもの”への執着がすべからく薄い。たとえば「舞妓(まいこ)」と題された随想には悲しい因果話が挿入なっています。旅人が山峡で道に迷い、偶然見つけた家に一晩だけ厄介になる。主(あるじ)は妙齢のうつくしい女性であって、その容姿と立ち居振る舞いが高貴な血筋を連想させ、男のこころを虜にしていく。腹を空かせた男におんなは出来る限りのもてなしをするんですね。



 飢えていた旅人は、この勧めを非常によろこんだ。若い女は小さな火を

焚いて、黙ったまま、二三の料理を調(ととの)えた──菜の葉を煮たもの、

油揚、干瓢、それに一杯の粗飯──それから、その食物の性質について、

詫びながら、手早く客の前へ出した。が、彼の食事中、女は殆ど物を言わ

なかったので、その打解けぬ様子は彼を困惑させた。彼が試みた二三の質問

に対し、彼女は単に頷いたり、あるいは僅かに一語の返答をするに止まる

ので、彼は間もなく談話を控えてしまった。(*3)


 同様の場面が泉鏡花(いずみきょうか)さんの作品(*4)にもありました。ほぼ同時代の作品なのに、鏡花さんのものと比べると八雲さんの筆が“食べもの”に関してびっくりするぐらいぞんざいなのが分かります。“飢え”を抱えた人間と真正面から向き合うものになっていない。斜(はす)に構えた調子が独特です。


 旅行記の一節にはこんなくだりがあります。これなんかも世界を構成するほかの要素から“食べもの”だけが剥離しているというか、どうも上手く噛み合っていないように感じられる。



 その宿屋は私に取っては極楽、そこの女中達は天人のように思われた。

それは私があらゆる『現代の便利な物』のある欧州式のホテルで安楽を

もとめようと試みた一つの開港場から丁度逃げ出したところであったから

である。それ故もう一度浴衣(ゆかた)を着て、冷(すず)しい畳の上に

楽々と座って、よい声の若い女達にかしづかれて、綺麗な物に取りまかれ

て居るのは、十九世紀のすべての悲しみの償いのようであった。筍や蓮根

が朝飯に出て、極楽のかたみに団扇(うちわ)を贈られた。(*5)


 天女に給仕される無上の想いに酔いながら、八雲さんは極楽での食事を書き飛ばしています、まるで怖れるように、まるで逃げるように──。とても奇妙な後味を残します。


(*1):小泉八雲全集 第一書房 1926-1927 次回も含め引用はすべて当全集より 当用漢字に直したり旧仮名遣いを変更したり手を入れてある
(*2):「怪談」 監督 小林正樹 1964 予告編を下に貼っておきましょう
(*3): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第22章 舞妓について」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 全集第3巻 680-681頁
(*4):「高野聖」 泉鏡花 1900 

「さて、それから御飯の時じゃ、膳には山家(やまが)の香の物、

生姜(はじかみ)の漬けたのと、わかめを茹(う)でたの、

塩漬の名も知らぬ茸の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころ

ではござらぬ。

 品物は侘しいが、なかなかの御手料理、飢えてはいるし、

冥加(みょうが)至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に

肱(ひじ)をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。」

http://miso-mythology.blogspot.com/2010/12/1900.html
(*5): Out of the East: Reveries and Studies in New Japan(東の国から)「夏の日の夢」 小泉八雲 1895 田部隆次訳 全集第4巻 15頁 

2011年10月31日月曜日

“ひとり観”



 前からも後ろからも真ん中あたりの列、中央寄りの席に座っています。国家元首か大富豪がプライベートの上映室にワイン片手に陣取った風でもあり、見た目には豪華な感じがしないではありません。夕方の回なのに、いや、夕方の回だからなのか分からないけれど、結局誰も入って来ないのです。百席ほどの館です。スクリーンを前に最初から最後までひとり切り、独占状態で映画を観ました。こんな経験はそうそうなく、生まれて此の方三度目ですね。


 三度というのが多いのか少ないのか、僕には判断がつきません。もっと田舎の映画館ではそんな光景が日常茶飯なのかもしれないし、存外都会だってよく起きる事かもしれない。大した話じゃないかもしれないけど、書き留めたくなる話もそうそう無いしね。まあ、とにかく久しぶりの“ひとり観”だったわけです。



 お客はひとりと考えて暖房費をケチったのではないのでしょうが、どうも肌寒くてたまらない。映画館という場処は適度に人の気配やざわめき、体温や吐息、咳き込んだり笑ったり、鼻すすったり、音や画面に驚いて傾いだり、そういう要素がないと妙に淋しく、ひどく寒々しいものですね。暖房が切られたせいじゃなく、“ひとり”ということが身にこたえるのです。奇妙な体験に胸躍らせていた前の時とは違って、あまり嬉しい気分じゃありません。
 

 途中遅れて入ってきた客が指定の席に座ろうとしてじたばたし、他の客の足を踏んでちょっとした騒ぎを起こしてみたり、隣りに座った観客のクスリと笑う気配を好ましく思ってみたり───。ささやかな事ですが、人間って面白いな、素敵だな、と感じます。つまりはひと恋しさを埋める効果も劇場には確かにあって、単に映画を眺めにいく処ではないのでしょう。でなければホームシアターなりベッドルームの液晶テレビに役目をとうに譲っているはずだもんねえ。



 ホットコーヒーにすれば良かった。脇の椅子からコートを取って首から胴まですっかり覆い、大きな茶色い照る照る坊主になりました。さらにその下で自分の身体をきゅっと抱きしめながら見ていました。


 映画はスペインの作品(*1)でした。いのちの炎のまさに消えかかろうとする男が主人公です。特殊な状況下で神経のひどく研ぎ澄まされていく最後の二ヶ月間を、残される家族の身の末や自分に関わるひとの自活の行方を自問自答しながら、懸命に、ぼろ布(きれ)みたいになりながらも生き抜いていく、そんな内省的な内容でした。


 日常の“食事”の光景がとても丁寧に取り上げられていたし、生きながらえることで訪れてしまう切なく胸をふさぐ場景も逃げず果敢に描かれている。僕の置かれた状況とリンクする(いや、不治の病と闘っている訳じゃないです)ところもあって、それはそれで悪くありませんでした。整頓し切れぬまま乱雑を極めてしまった胸の奥の部屋を、数名のボランティアの援けを借りながらことこと掃除していく、そんな風な“双方向の感覚”があって映画鑑賞自体は“充ちた時間”であったと思います。


 けれどねえ、ひとりで、連れがいないという意味でなく、本当に“ひとり”で映画館で映画観てるって、人間の生活としてどうなんだろう。身に沁みて考えさせられる時間になりましたね。


 夜風に身をすくませながら車に乗り込み、FMから流れるクラシックを大音量にします。さびしさを紛らわせたい一心です。今番組表で調べてみたら、どうやらラフマニノフのピアノ協奏曲。映画を反芻し、あれこれ想いながら走りました。



 秋はいよいよ深まります。

 どうか早め早めに一枚羽織り、指先、足先まで温かくして過ごしてください。

 生命(いのち)の炎を意識しながら、大事に大事に歩みを続けてください。


 すばらしい錦秋を、すばらしい四季の移ろいを──


(*1): BIUTIFUL 監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 2010

2011年10月24日月曜日

井伏鱒二「黒い雨」(1965)~さむけ~



 上に貼ったのは映画「黒い雨」(*1)のポスターです。主演を務めた女優田中好子(たなかよしこ)さんが震災から一ヵ月後に亡くなり、また、世間の原発事故に対する動揺とも共鳴するものがあって一時期ずいぶんとクローズアップされました。原作(*2)は1965年から翌年にかけて連載された井伏鱒二(いぶせますじ)さんの小説です。

 恥しいことにこれまで僕はこの本を読んでおりませんでした。今回初めて手に取り、就寝前や交通機関で長時間移動する際に読みすすめた次第なのですが、当然ながら他人事ではなく、憂いをもって臨まなければなりませんでした。

 このブログは味噌や醤油というものがどのように日本人の読んだり観たりする娯楽に関わり、そこでどのような役割を担ってきたかを読み解く目的があります。事故をめぐって僕の内奥にはもろもろの残響が居座っているのだけど、とりあえずそれらを吐き出すつもりはありません。「黒い雨」中の“味噌”について絞り込んでメモしておこうと思います。

 閑間重松(しずましげまつ)とその妻シゲ子、それに親戚から預かっている年頃の姪矢須子(やすこ)の物語です。彼らは原子爆弾が炸裂した広島の街を命からがら逃げ延びた過去を持ちます。お話の上での現在は“終戦後四年十箇月目”(*3)といいますから、昭和25年(1950)の6月ということになりますね。

 矢須子の縁談がいくつか流れた背景にあるのが被爆への偏見と考えた重松は、己が終戦後書きとめた「被爆日記」と矢須子の日記を清書して相手に渡すことが最良と思い立ち、机に向かって一心不乱に文字を写していくのでした。矢須子はあの光線や炎を直接浴びてはいない、四年経った今もこうして元気に、いや一層艶やかに花咲くように暮らしているではないか──

 しかし、この詳細な記憶の掘り起こし作業と前後して矢須子の体調は急速に悪化していき、当初の思惑とは離れた展開になっていくのでした。縁談うんぬんはすっかり霧散し、生命(いのち)のともし火を守るための険しい闘いに入っていく。ふたつの日記に妻シゲ子の綴る更にふたつの記録、すなわち“戦時下の食糧事情”と「高丸矢須子病状日記」が加わって、彼らを襲った災厄の詳細が浮き彫りになっていくのでした。

 味噌についての記述を抜き書きし、これを時系列的に並べ直してみます。そうすると重松と家族、および、当時の人々より味噌に向けられるまなざしの質が分かりますし、味噌が担った役割も見えて来ます。
 
 まず重松の幼少のころ、そして、会社員になった頃のエピソードに味噌が顔を覗かせています。味噌は重松に寄り添い、たいへん印象深い顔立ちを見せています。
 この仲三さんは小畠村の谷口屋という屋号のうちのもので、僕は
子供のころ、この人の父親から鰻(うなぎ)の穴釣の仕方を教わった。
そのとき釣の余興として、竹藪から取って来た筍(たけのこ)を河原の
焚火(たきび)で焙(あぶ)って食べることを教わった。筍を皮の
ついたまま焚火で焙って皮を剥き、最寄(もより)の家で貰って来た
味噌を湯気の立つ筍に塗って食べるのだ。(*4 )

 次に、会社の運営を円滑にするために、被服支廠に対して人聞きの
悪い奉仕をする。こちらとしては出血作戦をしているようなもので、
先方としては濡手(ぬれて)に粟(あわ)である。
僕はそんなことで厭な思いを何度も経験した。最初は入社して間も
なく味噌を仕入れたときである。備後府中町の松岡という味噌醸造所
から、四斗樽(だる)入りの味噌五十樽を買ったとき、その半分の
二十五樽は被服支廠へ譲った。(*5)
 妻シゲ子によるノートからは戦況の悪化が読み取れます。物資の流れが思うようにならなくなり、工夫して乗り切っていく様子がうかがえます。穀物や野菜が入手しにくい中で、なんとか腹を満たし、食欲を封じる手段として味噌や醤油の活用が描かれる。ここで味噌はずいぶんと褒められています。
 それからまた、米に大豆を入れたのを配給されることが
ありました。でも、大豆を混入して飯を炊(た)くと臭みが
移って食べにくくなりますので、大豆は選り出して、一合
あまり一夜(よる)水にひたしまして、翌朝、擂鉢(すりばち)
で磨(す)りつぶして木綿布で漉した汁を、味噌汁や醤油汁に
入れたりいたしました。また汁だけを豆乳として、多少糖分を
入れて飲むこともありました。ときたま、大豆のしぼり滓は
醤油で煮て副食物にもしておりました。
 代用食のパンは焼いて味噌をつけ、または味噌をつけて焼いたり
して食べまして、主食を延ばす貴重な材にしておりました。
パンのときには、つくづくバタやコンビーフの味覚を思い出す
ことでした。しかし味噌は東洋在来の調味料として、塩や醤油に
較(くら)べて実に堂々たるものだと思うようになりました。
戦時下になってから漸(ようや)くそれに気がついたのでございます。(*6)
 さらに食糧事情は悪化の一途をたどり、味噌すらも底を突く勢いとなります。そんな中での原子爆弾の投下──。九死に一生を得ての逃避行の先々で、かろうじて蓄えられていたものが床下や納屋から取り出されて一行の口を悦ばせていきます。
 重松は好太郎さんがコブツを仕掛けるとき、ひとりごとのように
ぶつぶつ云いながら鎌で割竹を削っていたのを思い出した。
「ほんまに、どえらい食糧難じゃ。糧秣廠の炊事部ですら、味噌の
配給が間に合わんちゅうて、おろおろしておった。明日は塩汁にするか
味噌汁にするか、見当がつかんそうな。献立表を書こうにも書けん
そうな」と云っていた。あのころはお互にひどい食生活であった。(*7 )

 古江に着いたのは午前六時半ごろ。農家はまだ雨戸をしめて
いたが、能島さんの奥さんの生家ではお父さんとお母さんが、
蔵の戸を明けて私たちを待っていて下すった。私たちは荷物を
卸して土蔵に入れた。能島さんの奥さんは念のためだと云って、
私たちに荷物引換の証文を書いてくれ、私たちは母屋(おもや)の
座敷にあげて茶菓子の代りに味噌を添えた胡瓜を出して下すった。
みんな親切な人ばかりである。(*8 8月6日)

 僕は敗残の百姓一揆(いっき)のようだと思ったが、竹槍を
つきながらシゲ子に脇(わき)を支えられて坂を登って行った。
そのとき初めてシゲ子が頭の髪を焦がしていることに気がついた。
「いつ髪を焼いた」と訊(たず)ねると、六日の空襲のとき焼けた
らしいと云った。
 昼飯は携帯餱糧(こうりょう)の焼米で、お菜は菜種油で
煠(いた)めた味噌である。その他には桜の花茶が添えてあるだけ
だが、我家の料理としてはこれでも最上の部類に入るのだ。
(*9 8月8日)

 矢須子は岡持ちのなかのものを一つ一つ食卓に載せた。会社の食堂で
仕出したものは、桑の葉の天麩羅(てんぷら)五枚、なめ味噌と食塩、
お新香二片、フスマを混ぜた麦飯の丼(どんぶり)である。これが四人
ぶんあった。桑の葉は炊事部の社員の発案で、工場の横の桑畑から採取
したものであるそうだ。戦争のため農家では養蚕を中止して、桑の枝を
刈込んで野菜の間作をやっている。今、桑は切株から土用芽を出して、
食べころの若葉をつけているそうだ。(*10 8月13日)

 朝飯はフスマを入れた麦飯と微塵切(みじんぎ)りの芹の
味噌汁で、昼の弁当は同じ飯のお握りと貝の佃煮である。芹は
四月すぎると蛭(ひる)の卵や幼生が附着しているから、
普通なら食べないことになっている。
僕の隣の席にいた中田君という中年すぎの工員が、食事運びの
女の雇員に、
「味噌汁はよく煮たのか」と聞くと、「いつもの倍くらい長く
煮てあります」と云った。
横合から僕が「弁当の貝の佃煮は蛤(はまぐり)かね」と聞くと、
「潮吹貝です。潮水で煮たのを闇屋が持って来たので、調理場さんが
お醤油で煮詰めました。皆さんの昼食のお菜です」と云った。
(*11 8月14日)
 終戦をもって重松の「被爆日記」は途切れます。原子爆弾が炸裂したとき頬に裂傷を負った重松は自身の健康を気遣い、何を食べるべきか、どんな療法を続けるべきか模索する毎日です。“終戦後四年十箇月目”の日常には味噌が静かに寄り添っていました。
 もう一人の仲間の浅二郎さんは、庄吉さんと同じく自発的に
勤労を買って出た奉仕隊員として広島に出かけていて被爆した。
(中略)この人の栄養の摂りかたは、巡回診察医の指示には従わないで、
お灸の先生に教わった安あがりの方法に従っている。食事は三度三度、
油揚と切干大根を入れた味噌汁を二杯と生卵を一つ必ず吸って、
一日に一回はニンニクを食べている。手当としては週に一回お灸を
すえる。(*12)

 重松は箱膳(はこぜん)の前に坐って、茶色の液体が入っている
ボテボテの茶碗を取りあげた。これは夕食前の重松の飲みもので、
内容は、乾燥させたゲンノショウコ、ドクダミ、ハコベ、オオバコを
煎じた汁である。
 膳の上のお料理は、ミツバの根を刻んで入れた舐味噌(なめみそ)と、
卵焼と、沢庵と、それから鰌(どじょう)の浮いている味噌汁である。
「こりゃあ豪勢だ」と重松は、鰌汁の椀を取った。(*13)
 この「黒い雨」は実在の人物の日記を基幹に据えたもので、当時広島に住み被爆した多くの人たちの実像に迫っていると思われます。作者は同県出身でもあり、直接原子爆弾のもたらした惨禍を目にしていないにしても極めて身近なものと感じたことでしょう。終戦を四十代後半で迎えており、世相や民衆の奥底に潜むものも十分に透かし見る度量も育っていたはず。その地その時に渦巻いた修羅の詳細を脳裡に再現し、肉薄することは可能だったことでしょう。ですから、物語のなかの重松一家を支える“食生活の面立ち”は想像ではない、偽りのない“広島での日常的な食事”に他ならないのです。
七月二十六日 晴 涼風
朝、三十八度の熱、さむけ。味噌汁、海苔、らっきょう、漬物、卵、
御飯半膳。(*14)

七月二十七日 晴 むくむくと夕立雲
朝、三十七度。気分よろしく、朝飯は茄子の味噌汁、いんげん豆、
卵、御飯二膳。
久しぶりに笑う。(*15)

七月二十八日 快晴 お昼ごろ夕立 すぐ快晴(中略)
病人、気分よろしく、熱三十七度。朝飯は、ずいきの味噌汁、
ラッキョウ、卵、漬物、御飯二膳。
三度目の腫れもの潰れ、病人自身で膏薬を貼る。(*16)
 “病状日記”にも味噌汁は寄り添い続けます。災厄から“四年十箇月”も過ぎて後、唐突に、まるで奈落に落とされるように暮らしを、夢を、未来を剥奪されていく若い娘が淡々と描かれています。彼女は何ものかに祈る想いで必死に食べものを口にしていったのでしょうが、物語は娘の行く末を描こうとせず、あいまいなままで筆を折ってしまうのでした。

 味噌が消化管を保護して放射線障害の進行を緩和し、被曝した人たちを助けるのではないか、毎日の摂取が有効ではないか、大事ではないか、という“噂話”があります。僕もその話題をここで取り上げましたし、祈る思いで毎日飲んでもいます。

 しかし、こうして「黒い雨」の徹頭徹尾“味噌”と歩んでいる日常描写に触れてみると、“助かる”とか“助ける”といった表現は簡単に口にすべきではないと分かります。助けられない、救えない、どうしようもない、遠巻きにして見守るしかない、祈り続けるしかない、そういった事が現実にあることを思い知らされた、学ばされた気持ちで今はいます。

 そうして思うのです。子どもを逃がしてあげなさい。逃げるのが正しい、そういう戦法もあります。相手は無慈悲な化け物であって、祈りなど通じない。相手が悪過ぎるのです。


(*1):「黒い雨」 監督 今村昌平 1989
(*2):「黒い雨」 井伏鱒二 新潮社 1966 手元にあるのは新潮文庫74刷 引用頁もこの文庫版のそれを表わします
(*3):11頁
(*4):257頁
(*5):217頁
(*6):80-81頁
(*7):74-75頁
(*8):17-18頁
(*9):183頁 
(*10):357‐358頁 
(*11):366頁 
(*12):31頁
(*13):72頁
(*14):289頁
(*15):290頁
(*16):293頁 

ちなみに上記と重複しない“醤油”単体の登場する箇所は次の通り。その香りや味は困難な食糧事情を支えていく工夫のひとつとなって彼らの暮らしのなかで点滅している。やや出しゃばった感じが印象に残りますが、これ等の解釈はまた何時かといたしましょう。
 その蓮田の岸の草むらに、一羽の白い鳩がうずくまっていた。そっと近づいて両手で摑まえたが、鳩の右の目はつぶれ、右側の肩のところの羽がちょっと焦げていた。僕はこいつを醤油の附焼にして食ってやろうと食指を動かしたが、空に向けて放り出す仕方で逃がしてやった。(218頁)

 僕が葬式の読経をすませて寓居(ぐうきょ)に引返して来ると、燈火管制で締めきった雨戸の外まで餅を焼く匂がにおっていた。醤油の附焼にしているのだと分った。(中略)客人が土産に持って来た餅だろう。矢須子とシゲ子は、がつがつ餅を食べていた。(230頁)

 僕は工場長の向かい側に腰を卸した。「降伏らしいですな」
「どうも、そうらしい」と工場長は、案外あっさり云った。「今、陛下が放送されたんだ。しかしラジオの調子が悪くってね。工員が調節したが、いじればいじるほど悪くてね、はっきり聞えないんだ。しかし、とにかく降伏らしい」
 食卓の上にあるフスマを混ぜた丼飯(どんぶりめし)は、かさかさに乾いて蝿がたかり、醤油で煮しめた潮吹貝にも蝿がいっぱいたかっていた。誰もそれを追い払おうとする者はいない。
「さあ諸君、元気を出して食べよう」と工場長が、取って付けたように大きな声を出した。(382頁)

2011年10月23日日曜日

You are what you eat



 先日、何年かぶりにある映画(*1)を観直しました。

 仕事に行き詰まった初老の作曲家が主人公。溺愛する娘を喪い、そのあげく妻との仲もこじれてしまったのか、単身海辺の避暑地にやって来ます。持病である壊れかけの心臓を療養するのが目的ですが、精神的に追いつめられての雲隠れ、逃避行なのは誰の目にも明らかです。そこで出逢った眉目秀麗な少年タッジョに目を奪われ、平衡を失っていた男の魂はさらに深く傾いで転覆寸前となるのでした。


 物語の背景にあるのは“疫病”の蔓延です。“死”を強く意識させて男の内面や美意識を彫り込んでいく。

 登場人物を追い込み、魂の振幅を後押しするのは作劇上の技法としては常套手段であって、悪魔や犯罪者の群れなんかが背景を彩ります。けれど、この映画のあまりの生々しさ、現実世界と共振するさまに意表を突かれ愕然としてしまいました。原作をひもといてみれば、男は喉の渇きを潤すために腐れかけの苺を(十分に疾病のリスクを承知していながら)口にしており、それが原因で罹患して終幕意識を失います。情報の隠蔽と規制、出版物の購入差し止めなどが描かれてもいます。ロマンティークな気分は遠のいてしまい、黙示録の光景、恐るべき啓示として目に映ってなりませんでした。

 また、昨日には一通のお手紙をいただきました。まさに渦中のなかの渦中に住まうひとからで、そこには「この度の原爆事故の一刻も早い収束を祈っています」と書かれていました。“原発”ではなく“原爆”と綴られている。間違いには違いないが、実感として当たっている、正しいと僕は感じています。


 津波に襲われ破壊し尽くされた沿岸部にたたずんだとき、僕の意識は大戦の惨禍と無理なく直結しました。手紙の女性が原発と原爆を連結して筆を走らせてしまったのは、恐らく自然すぎるほど自然な思考の流れが彼女の脳裡にあったためです。もっともな事態です。

 
 本能や直感を冷笑し、冷静さ、科学的根拠の名のもと言われるまま(というより“言われないまま”というのが実態に即しているように思えますが)行動するだけで本当に大丈夫なのか。僕のなかでは盛んに波立つものがあって、落ちつかぬ日々を過ごしています。


 なるほど放射線障害とイタリアの古都を襲った疫病は違います。また、発電所事故と広島、長崎を襲った原子爆弾の炸裂とは無関係です。けれど、私たちは何かしらの地図を頼りに、自分たちなりに道を見定めながら歩いていくべきだと感じます。ロシアの事故、目を覆う戦禍、しのび寄る疫病といった先人の背負った“現実”をそっと懐中に忍ばせて、自分たちなりの歩みを続けなければいけない。



 You are what you eat ──そんな言い回しを以前教わりました。


 これからの僕たち、そして、僕たちの次の世代にとってこの言葉の放つ意味は何層にも膨らんでいくでしょう。食べることに限らず、読むこと、見ること、学ぶことといったあらゆる“摂取”行為が次の一手を大きく左右していく。


 弛緩してばかりはいられない。笑ってばかりの時代は過ぎたように思えます。ふくらはぎか足裏か、どこかには緊張を引きずりながらしっかり歩んでいきたい、そう思っています。

(*1):Morte a Venezia / Death in Venice 監督ルキーノ・ヴィスコンティ 1971

2011年10月13日木曜日

リシャール・コラス「紗綾 SAYA」(2011)~あれば十分です~



 リシャール・コラスさんの新刊「紗綾 SAYA」(*1)を読みました。湿り気をうしなって砂交じりの仲になった夫婦が登場します。寝室も別にしてしまい、実のある会話も成立せず、もはや難しい局面に入りつつある。寝たきりとなった家族も抱え、青息吐息の毎日です。そのような膠着した局面で男は運命的な出会いをしてしまうのでした。ぼんやりした雨雲がすべてを覆っていく、そんな筋立てです。


 夫婦の危機や嫁姑の確執は物語の題材として真新しいものではなく、むしろ陳腐なものです。わざわざ抜き書きして記録するに値する文章、作品とは誰も思わないかもしれないですね。人によっては途中で放り投げてしまうかもしれない。 


 けれど、この物語をつらぬく視座が、実は前作「遙かなる航跡」(*4)に引き続いて登場したある人物に置かれたものであり、新旧ふたつの物語がこの人物を間に挟んで秘かに連結し、最終的に螺旋を描き天空に向かって飛翔を開始しているのだと巻末で知れると、僕の胸には言いようのないおごそかな想いが湧きました。一見ステレオタイプの不倫劇に見えるけれども、かなり緻密にふたつの物語は構築されて世に送り届けられている。


 ウェブを検索すると作者のインタビュウ(*5)が見つかります。震災と発電所事故という巨大な壁がたくさんのひとの行く手を阻(はば)んで、航路を揺るがし、ひどく狂わしてしまった。このような時に求められるのは人とひとの心を繋ぐ“絆(きずな)”であり、その確認が大切と思う。そんな啓発の念をこめて上梓したことが静かな口調で語られています。


 物語のなかの男女とそこに関わる若い娘は、最後散り散りとなって自壊していくのでしたが、作者は前作の主人公だった人物(作者の分身)の視線を“絆”と為して離散を食い止め、忘却の淵に追い払われるところを寸でのところで回避しているように見えます。救われない話に見えて、ぎりぎりのところで救われているのですね。


 誰もが同じようなものを抱えて人生という演目をこなしている。“ばみり”が見当たらずに途方に暮れたときには自分の物語を隣人に預けてみてはどうか。そうして気持ちを整理し、呼吸を整えてみてはどうか。家族の絆だけでは何ともならぬ凄惨な現状にたじろぎ、自棄的な行動に走らず、思い切って“他人との絆”に賭けてみてはどうか───そのようにコラスさんは言いたいのでしょうね。


 本国フランスで二年も前に出版され、こんどは作者自身の翻訳で世に送り出された日本語版「紗綾 SAYA」は、作者の言う通り“震災後の物語”として記憶に刻まれていい、こころざしのともなった一冊のように受け止めています。


 さて、味噌汁の記述を並べてみましょう。

 夫との関係は、すっかり冷えてしまいました。毎日夕食まで

帰るかどうかもわかりませんから、夫のためにわざわざ食事を

用意しません。炊いたご飯と残り物のおかず、それに味噌汁が

あれば十分です。

 ビールを冷やし、簡単なつまみを用意するだけのこともあります。

夫はきちんとした食事がなくても、冷えたビールとつまみがあれば、

それで満足なのです。(*1)

 “習慣化”したり“義務”を感じ始めると、どのような崇高な行為であっても生彩をたちまち喪っていく。先日読んだ本(*2) にそんな記述がありました。そうですね、たしかにそういう時期って在るもの、起こるものです。仕事だってそうだし、遊びだってそう。食事はその典型です。“日常のかなめ”となるのはリズムの持続であったり程度の保持であったりする訳で、どうしてもループを作って“習慣化”させていく流れです。


 祭事であったり記念日だったり、それは人それぞれではあるけれど、特別な日に特別なものを存分に食べて“習慣”を押し崩す。難しい言葉を持ち出せば“蕩尽(とうじん)”して疲れたこころを洗濯する。そんな工夫を僕たちはします。けれど、それすらも“義務”的な色彩を帯びてくると気持ちはやや乖離してしまうし、解放感どころか窮屈を覚えたりもします。シンプルなのだけど、シンプルでいられない。歯痒い“難しさ”があります。


 上に引いたのは「紗綾 SAYA」の最初の方に登場する場面です。習慣として義務として食事は作られ列をなしていく。“炊いたご飯、残り物、簡単なつまみ”といった表情に乏しい字面(じづら)が蛇のようにとぐろを巻くばかりで、そこには共振を誘うものはありません。


 “それに味噌汁があれば十分”という言い回しはそれにしても強烈です。願いや祈り、気づかいは微塵もこめられていないし、健康にも寄与しない、具のほとんど入っていない生しょっぱい液体が目に浮かんできます。肘鉄を喰らったような気分です。


 “味噌汁”はさらに続いて次のような、どんよりと曇った風情で再度振る舞われています。


 朝、夫と子どもたちの食事はトーストにヨーグルトと簡単に済む

のですが、義母だけはそうはいかないのです。彼女にはきちんとした

和食を出さなければなりません。味噌汁に魚沼産の炊きたてのごはん、

旬の魚、お新香と梅干。それらをきちんと用意させる上に、毎朝違った

食事でないと許してはくれません。私にとって義母の要求は、大きな

負担です。

 それでも毎朝きちんと準備をし、今日もお盆にお絞りと箸をのせ、

味噌汁にごはん、お新香と梅干、のりが入った箱をきれいにセット

しました。お皿にほんの少し醤油をかけた大根おろしを置いて、焼き

たての鮭をつけて、お膳は整います。

 小さなお盆にティーポットと茶碗、茶筒を揃え、台所に誰も入って

こないことを確認してから、私はエプロンのポケットからスポイトを

出しました。(*3)


 年老いていよいよ介護の手を要するようになった姑なのですが、プライドが高く、意地だけは堅牢を保ち、他者への高圧的な態度を崩そうとしません。世話するおんなの内面では堆積するものがいっぱい一杯になっていく。極限に至った憤懣は“スポイト”から零れる水滴という形でついに顕現し、ちょろちょろと洩れ始めてしまいます。


 ここで食事はまさに“義務”となり“習慣化”しています。弱い立場のおんなにとって、それがどれ程ひどく内面を荒廃させるかを、写実的に、けれど、やや誇張して作者は書いていく。漬け物と共に味噌汁が執拗に、印象深く顔を覗かせていますね。


 コラスさんは前作で外から見た日本を描き、“非凡なもの、例外的なもの、普通でないもの”の一翼に和食を置きました。味噌汁も驚きと憧憬の視線をまとって陸続と登場し、読み手の僕を大いに悦ばせたのでしたが、今作では一転して暗い様相を呈して並んでいる。コントラストが鮮烈です。


 絆によって結ばれていく人生という名の永久螺旋──。その両側面、日なたと日かげのいずれにも“味噌汁”があって僕たちをそっと見守っている。“習慣”の中で埋没してウヤムヤに見えるけれど、思えばなかなかの存在感ある脇役だったりする。境界線にたたずむ仏蘭西生まれのひとりの男が注ぐまなざしの、堅さ、純度を感じます。


(*1):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社 引用は14頁
(*2):EMMANUELLE,New Version エマニエル・アルサン 安倍達文訳 1988 二見書房 「もしそれが習慣的なよろこびであるとすれば、そのよろこびは、芸術的な性質を持つことをやめてしまう。非凡なもの、例外的なもの、普通でないものだけが価値を持つのです。つまり『決して二度と見ることができないもの』にこそ、価値があるのです。」(237頁)
(*3):引用は16-17頁
(*4):「遥かなる航跡 La Trance」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 集英社インターナショナル 2006  
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/11/la-trance2006.html
(*5): http://www.sankeibiz.jp/econome/news/110917/ecf1109170501000-n2.htm

2011年9月30日金曜日

魚喃キリコ「こんなふうな夜の中で」(1999)~かしてくんないー?~



  ピンポーン、とチャイムの音がして、のぞみが顔を上げる

りょう「(声)のぞみさーん オレーー しょう油かしてくんないー?」

  のぞみ、手に持った本を閉じ、しょう油差しを持ってドアに向かう

りょう「あ ごめん 今 野菜炒め作ってるとちゅうなんだけどさー

    しょう油きらしちゃってて これないとさー」

  笑顔で応えるのぞみ。りょう、しょう油差しを受け取る

りょう「のぞみさん 夕ごはん食べた?」

のぞみ「食べたよ」

りょう「なに食った?」

のぞみ「コンビニのおべんと」

りょう「ん じゃ あとでお礼する」

  りょう、廊下を進み“となりのとなりの”自室へと向かう

のぞみ「ミナちゃん 元気-?」

りょう「おう 元気だよー」

のぞみ「ミナちゃんによろしくねー」

りょう「うーーッス」(*1) 
 

 隣家を訪問したところ、帰り際に桜蓼(さくらたで)をまとまっていただきました。

 指し示された庭の片隅には、すらりと腰の高さほどにも伸びた草が群生しており、その先っちょに目を凝らせば白く小さい花が数珠繋ぎとなって並んでいる。ひとつひとつが清楚な、けれど、きっちりした逞しさをそなえた顔付きです。

 今がちょうど見頃だから良かったら持っていって。雑草の一種には違いないけど、ちょっとおもしろいでしょ──。庭木を愛する婦人にとって、雑草だろうと何だろうと花に順列はないのです。有り難く頂戴しました。眺めていると元気をもらえる感じです。


 同じタデ科で花弁が桃色に染まっているのも一緒にもらい、それが染料の素になる藍(あい)だと教わりました。藍色といえばずいぶん豪胆で頑丈そうな色です。その源となっているのが、かくも痩せて華奢(きゃしゃ)な面影の草なのかとびっくりした次第です。こんな歳になっても僕は世界をよくよく知らない。未開拓の地平ばかりが周りに広がっている。

 考えてみれば人の一生というものは身近な地勢や町並みの把握、それに家庭なり職場でのなにがしかの環境改善の繰り返しであって、ひとりひとりが捜索者や開拓民で終わってしまうのでしょうね。見切った、見取ったとはなかなかならない。独り暮らしを始めたときの鼓動の高鳴りが程度の差はあれ、ずっと続いていくのかもしれない。


 さて、上に引いたのは魚喃キリコ(なななんきりこ)さんの「こんなふうな夜の中で」という作品の冒頭箇所です。おんなはひとり住まいです。自室で本など開いて和(なご)んでいると、廊下に面したドアが不意に叩かれる。若い男の声がします。“しょう油”が切れてしまったので貸してくれないかと言うのです。男は同じアパートの住人で、同世代の娘と同棲しているのでした。旧知の仲であるらしいおんなは挨拶を交わし、気安く“しょう油”を貸すのでした。若い時分の仮住まいには、確かにこんな軟らかな空気が漂っていますね。


 後日、こんどは連れの娘と廊下で顔をあわせ、“しょう油”の礼を言われてこそばゆい思いをするのでしたが、その照れ笑いするおんなの内実には少しばかり輻輳(ふくそう)する思いが宿っていたのです。時には声掛け合って外食するほど、均衡(バランス)のうまく育った三人だったのだけど、いつしかおんなの胸には人を恋うることへの勃(つよ)い撞着が芽吹いてしまい、脇の甘い男に対して大胆な物言いを始めてしまう。

 あたかも映画のフィルムが唐突にちぎれてしまうようにして物語は断絶し、僕たちの眼前で幕は降りていく。不安定なおんなの心情と、これに共振して境界膜をあやふやにしていく隣人の生理をさらりと提示するに止め、事の顛末をそれ以上寄り添って見届けはしない。見切った、見取ったとはならない。わずか12頁ながら、無常観を烈しく滴(したた)らせる作品になっています。


 読んだ瞬間、上村一夫(かみむらかずお)さんの「同棲時代」の挿話(*2)を思い出しました。主人公の今日子と次郎の部屋の並びに別のカップルが越してくる。扉がトントンと叩かれ、“醤油”を貸して欲しいと頼む声が聞こえてくる、そんな出だしでしたね。


 ふたつの漫画の間には25年以上の歳月が横たわっていますが、若者たちの面立ちと纏(まと)う空気はすっかり重なって見えます。類型的(ステレオタイプ)と決めつければそれまでだけど、何故そんな作劇上の決め事が時代を跨いで生き続けるのだろう。無理を感じる読み手がいないのはどうしてなのか。醤油がその役割を担うのはナゼなのか。


 赤の他人同士が隣り合って住まう場合、そこに結界が生れるのは当然のことです。警戒し、疎外し、ときには反目すらします。ほのかな関心を抱いたとしても距離を縮めるに至らず、乾いたすれ違いの日々を送ったりもします。

 そんな膠着した時間をひょいと覆(くつがえ)し、生々しい部分を発露させた人間対人間の交感が始まっていく。そのきっかけが“しょう油”の貸し借りというのは、実に不思議で興味深いことです。

 ずうずうしいと悪態をつかれることなく、他者の領域にするする侵入して境界をなし崩しにしていく。洗剤でなく、電池でなく、殺虫剤でもなく、お金じゃなく、“しょう油”が緊迫を解いて人間の内奥を外へとみちびいて行く。僕の目には“しょう油”の行き来を端緒にして、他者を縁者に次々と変えていく様子がなにか奇蹟か魔法みたいに映ってしまう。


 日に日に寒くなる秋の大気が桜蓼(さくらたで)や藍を咲かせるように、しょう油の成分に含まれる何かが僕たちの本能を揉みほぐし、開花を誘っているのかもしれません。緊張や不安を解き、リラックスさせる効果があるのかもしれない。

 
 春咲くばかりが花じゃない。秋にだって冬にだって、咲き誇っていい。

 しょう油を舐めて、もう一花、いえ、もう二花も咲かせてみましょうか。

 
(*1):「こんなふうな夜の中で」 魚喃キリコ 1999 「短編集」 飛鳥新社 2003 所収  初出はマガジンハウス「anan臨時増刊号 コミックanan」5月20号
(*2):「同棲時代」 上村一夫 1972-1973  VOL.57「夏のとなり」 
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/05/197214.html

2011年9月26日月曜日

桐野夏生「玉蘭」(2001)~そこに何かを見出したのか~



「お食事持ってきましたよ」

 谷川が窓際にある小さなテーブルの上に盆を載せた。白飯に炒め

物のおかず、小皿に梅干しが添えてある。塗り椀があるのを見ると、

味噌汁が付いているのだろう。(中略)

 浪子(なみこ)は谷川が出て行った後、部屋にひとつしかない中国

風の椅子に腰掛けて、光代の手料理を食べた。すっかり冷めていたが、

小さな角切りの豆腐の入った味噌汁は懐かしく、旨かった。梅干しも

日本の白米も、物質のすっかりなくなった広東では手に入れることの

できないものばかりだ。

(中略)

「いいよ、それより飯食ったか」

 質(ただし)は浪子の方を見ずに尋ねた。浪子は谷川が運んで

くれた冷たい夕食のことを告げようかどうしようかと迷ったが、

結局黙っていた。(中略)

「食べてないの?ここの奥さんのご飯は日本食だからね。旨いよ」

空腹ではないかと気遣ってくれないのか、あなたの妻になったのに。

気の回らない質に苛立ち、とうとう浪子は言い放った。

「あなたが帰って来ないから、あなたの分食べちゃったわ。久しぶり

にお味噌汁飲んで感激したわよ。おいしゅうございました!」

 質はやっと返答を返した浪子の顔を見た。そこに何かを見出した

のか、急に痛ましそうな表情をした。自分の顔に何が現れているのだ。

旅の疲れか惨めさか、病の徴(しるし)か。鏡が見たい。浪子は不安

になり、思わず両手に顔を埋めた。(*1)


 “食べもの”を登場人物のこころと連結させて、物語の色彩と濃淡をコントロールしていく。ときには“色気”と“食い気”を強引にない交ぜにし、個としての人間の輪郭を多角的に照射して浮き上がらせる。それによって読者の感情をも変幻自在に操ってみせる。稀にではありますが、そんな舌を巻く描写にぶち当たるときがあります。凄腕の書き手が日本にはいて、桐野夏生(きりのなつお)さんはそのひとりだと僕は思っています。


 十年も前に書かれたものですが「玉蘭(ぎょくらん)」という作品があって、恥ずかしながら今ごろになって手にして読んだのだけど、実に濃厚な味わいで胸に応える読書、硬い芯のある週末となりました。

 冒頭から末尾まで貫いている清澄な趣き、真摯な世界観もさることながら、使えるものは何だろうと動員して舞台をくまなく飾ろうとする作者の貪欲なまなじり、狂気にも似た緻密さにすっかり惚れてしまいました。当然“食べもの”も豪奢に、けれど無駄なく配置されている。


 たとえば物語の前半、航海の間、極度の緊張を強いられて魂をすり減らした船乗りがようやく陸にあがり、次の出航までに揺らいでしまった自分をどうにかこうにか立て直すために酒に溺れ、破壊的な面持ちで猟色していく夜が描かれるのだけれど、その際に男が歩んでいく場処は“食品市場”なのでした。異国のマーケットですから、甕(かめ)や篭(かご)に入れられた蛇やら犬やら蛙やら、おどろおどろした“食べもの”が列をなして視覚と嗅覚をいたく刺激します。それらは男がこれから挑もうとする官能の闇を、黒々と補強して塗り固めている。(*2)


 また、回復不能な喪失感を抱えた初老の男が人生に疲れ、自死することをいよいよ望んで、季節外れの雪に染まる別荘地をひとり放浪する場面が後半に訪れるのですが、奇抜な風体の老女が唐突に現われて男に救いの手を差し伸べます。おごそかな幽棲へと男を導いていくこのおんなには、異国帰りの破天荒な性格が割り当てられており、食事の場面では白飯に臆することなく砂糖をまぶし、さらにミルクを注いで食べて見せるのでした。男は唖然として声を失うのですが、その“普通とは違う食べもの”とおんなの堂々たる食べっぷりを好ましく思い、いつしか死の誘惑を断ち切っていくのです。(*3)


 “食べもの”と情感が編みこまれていて、どちらも実にうつくしい。
 

 僕たちの日常を覆う“食べもの”とこれに寄り添い萌芽していく人情の機微を、桐野さんは透徹した目線ですくい上げていく。そうして、両者の関係を再構築して自らの劇世界に植え替えて行き、リアルな色調で虚構世界を彩って見せるのです。咀嚼と血肉化の連携が見事ですね。


 上に引いたのは物語の中段にあって、先の二例にあるような感情の湧昇、凝縮とは真逆の動きが見られる場面です。


 不幸な生い立ちのおんなと男が出会い、おんなは未来を託して身ひとつで男のもとに走ります。転がり込んだ住まいは賄いつきの下宿の三階であり、疲れて空腹のおんなに冷めた夕食がひと揃え届けられるのでした。これが“普通の食べもの”それも異国(上海)にあって場違いな感じの「日本食」であるのが興味惹かれるところです。


 帰宅した男はどこかで酒をあおってきた様子であり、おんなの同居にどう反応していいのか戸惑いを隠せないでいます。おんなはおんなで疑心暗鬼にとらわれ男に食ってかかるのでしたが、その台詞には“味噌汁”が取り込まれており、きわめて強いスポットライトが浴びせ掛けられている。


 虚ろな逡巡やどうしようもない感情の交錯が誘爆して次々と蒼黒く燃え立ち、気持ちをどんどん落ち込ませていく。情愛のあかあかとした焔が鎮火しかけて危機的な状況にあります。「日本食」と“味噌汁”があわせ選ばれ、そのかたわらを占めていく。それは作家の生理というのではなく、長い時間かけて僕たちに刷り込まれた“食べもの”と魂の相関について、桐野さんなりに手づかみし辿り着いた風景、逃れようのない、まさに目前で展開される“僕たちの場景”であるように感じます。


 冷めた味噌汁のすっと鼻孔を透きあがる、潮風のような尖った気体の奥で夢の残滓がどこか香るようであり、なんとも切ない微動を引き起こす。味噌汁とは哀しい“食べもの”なのかもしれませんね。


(*1):「玉蘭」 桐野夏生 2001 朝日新聞社 引用は186-192頁 初出「小説トリッパー」1999-2000
(*2):同136-137
(*3):同365頁

2011年9月24日土曜日

栗村実「飯と乙女」(2011)~Rabbit for Dinner~



 “色気より食い気”(“花より団子”も同工異曲かな)といった言い回しが僕たちの暮らしのなかには脈々と活きています。情念や恋慕、性愛といった階層と“食べもの”はシーソーの両端にすっかり分け隔てられてしまい、ぎっこんばったんを繰り返しているみたい。 “食べもの”を介したラヴストーリーがそのためか、なかなか充実しない、育たない。


 テレビドラマはそんなのばかりだって。いや、ここで言うのは単純に食堂や酒場を舞台にしているかどうか、ということじゃなく、もう少し粘っこい話です。


 現実を見渡しても、仲の良い夫婦や恋人の隙間は定番の欧州料理やエキゾチックな中東料理なんかがかろうじて埋めがちであって、和食の旗色はさらに悪い。掘り進めていけば傑出した表現も見つかってこの頁でもいくつか紹介した通りなのですが、味噌や醤油と限定する以前のずっとずっと前段からしてきびしい戦局な訳です。本当に料理がからむと色っぽくならない。人間の生理なんだと言ってしまえばそれまでだけど──。


 “食べもの”を挟んで男女が向き合い魂をせめぎ合っていく、そんな様子を果敢に描いたものとしては、伊丹十三(いたみじゅうぞう)さんの遺した一本の映画(*1)が僕の記憶には鮮やかです。あれは演技者、文筆業ともに伊丹さんという人が独特のポジションを確立していたためでしょうね。日本人という立ち位置を嫌い、常に国際人を意識した結果であったように思えます。日本人が日本人の官能を描くとき、どちらかと言えば料理は邪魔になってしまう。


 そのような訳で、いつも不思議を感じながら僕は日本の小説や映画に挿し挟まる“食べもの”を見つめてしまう次第なのですが、先日、栗村実(くりむらみのる)さんという人が監督した「飯(めし)と乙女」という映画(*2)を観ながら、思いはより一層強まるばかりで、まあ、そういう作品、つまり思考や対話を煽るのが当初からの狙いみたいな世界観だったのだけど、それにしても全篇“食べもの”に覆いつくされていながら、かくも大きく“色香”との距離を置いてしまうものかと驚いてしまったのでした。


 夜半から明け方まで営業している気の置けないダイニングバーの、狭い調理場で夜毎奮闘する娘(佐久間麻由)や、常連の男女それぞれが抱える“食べもの”への憧憬、(当人にとっては心底重大な、傍目には奇妙な)食べることへの嫌悪感、抵抗感が描かれていきます。魂が決壊して相手をきつく抱き寄せ、暗く冷えた床に熱い身体を転がしていったり、精神世界の融合を果たした男女が互いの裸身を噛み合うという切々とした時間も訪れるのだけれど、にもかかわらずどこか乾いている。何故にこうも醒めた感じになるのか、不思議なんですね。


 役者に色香がないというのではなくって、また、画面に力がないというのでもなくって、何というか、やはり「距離」が遠い。“食べもの”のベクトルと情念のベクトルが相互干渉して失速していくように見える。


 演出者が虚弱体質であるとか、生に向かう執着の極端な薄さみたいなものが反射したかと疑ったのだけど、一概にそうとは言えないみたい。と言うのは、この「飯と乙女」の末尾には同じ栗村さんが演出した8分間の短編(*3)が付されていて、これもまた“食べもの”を主軸に据えたお話なのだけど、こちらは打って変わって血肉の臭いの生々しく、料理に競うように盛り込まれた男女の情念が室内に揮発し存分に香り立っても来て、僕の五感を大いに震わすところがあったのです。


 イタリアを舞台にし、画家の親子が登場し、そこに攻撃的な物腰の大人のおんなが闖入し、原型とどめる兎の肉が包丁で裂かれ押しつぶされして調理されていく、その過程が加わりもするから“非日常”はいよいよ極まっていく。昂奮を誘う罠はふんだんに仕掛けられ、僕たちの足元をすくおうと待ち構えています。なんだ、やれば出来る人なんじゃん。


 だったらどうして。男女の吐息の匂い迫ってくるような夜陰(やいん)やねっとりと絡み合う視線なんかと“料理”があまりに似合い過ぎて、先の淡泊な本編(日本篇)との段差は一体全体なんだったのだろうと首をひねり、混乱してしまうのでした。


 日本人の抱える穏やかさ、幼さ、歯切れの悪さ、深慮、虚ろさ、空白、息づく種火といったものを“和食(もしくは家庭料理)”のさっぱり感、小分け感、インスタント感を介して捉えようとした、ある意味“確信犯”だったのかと今は勝手に思ったりしています。



 どのような映画であれ小説であれ底の浅い予定調和に終わるのでなく、常識を軽々と超えて混迷を誘ったり、逆に収拾のつかぬ内実の整理に役立ったりする、そんな“高ぶったもの”が具わっていてもらいたいものですが、僕にとってこの二篇はいずれも虚を衝かれるところがありましたからね、悪くない時間なのでした。


 栗原さん、佐久間さん、そして関わった皆さん、美味しかったですよ、ごちそうさまでした。これからも面白い切り口で世界を料理していってください。



 連休をとれないどころか、なにくそ、の勢いで働いている人も多いでしょう。

 どんな現場でも、ところどころには得難い瞬間が潜んでいる。

 どんなに地味と思える仕事にも探せば色香はあると思うし、

 美しい瞬間はきっとあると思います。いい週末を──


(*1):「タンポポ」 監督 伊丹十三 1985
(*2):「飯と乙女」 監督 栗村実 2011
(*3): Rabbit for Dinner 監督 栗村実 2011
最上段の絵は劇中に挿入される絵で、Sandro Chiaという人の作品らしいです。気持ちが引きずられ、渦巻きにされちゃうような力がありますねえ。引用は下の頁から
http://culturedart.blogspot.com/2010/11/rabbit-for-dinner-chia.html

2011年9月22日木曜日

“planet Earth”




 食べ物とは無関係なんだけど、

 あまりに綺麗なんで貼りたくなりました

 こんな素敵な場処に、不粋なものを撒いてはいけない

 罪つくりなこと、と思いますね



 宇宙とはあまり関係ないのだけれど、思いつくまま続けます。
(台風のせいかもしれません。気圧の変化で頭がぼうっとしているところがあります。)


 日々の諸相を言葉に変えて綴ること、すなわち“日記”がかくも人気を博し、大量に生い茂ったことは過去なかったように思います。ウェブ上には赤なり蒼なり色とりどりに今日も乱れ咲いて、僕たちの目を和ませていく。


 こんな言葉を贈られたよ、偶然電車で乗り合わせた人が面白かったよ、満開の花がきれいだったよ、さびしげな湖にひとりで佇んでみたよ、エトセトラエトセトラ──。


 書き手の人柄、世界観、嗜好が透けて見えてくる。両の掌にすくった感動や惑いといった五感の記憶が、指の隙間からさらさらと洩れて消えていくのを必死で堰き止めているようにも見えて、健気だな、頑張ってるな、それに時間は残酷だな、とも思います。


 他人の目を意識する以上、話のネタは自ずと絞られてしまう。表向きは無難なものになるのが普通だけど、反面、ウェブ独自の匿名性にすがり内奥をそっと吐露する頁もあったりして、そんな文章に突き当たると実にうれしい。


(身勝手と承知しながらも)行間に隠された書き手の想いを手探ったりする時間は、何と言おうか、さながらマッサージ師になって指先に神経を集中し、肌の奥に潜むコリを見据えていくような感覚がある。それに、単調過ぎる日常によって胸奥で生じてしまいどうにも埋まらなくなった暗い裂け目が、透明な熱い接着剤を流し込まれふさがれていくみたいな、そんな不思議と慰撫される気分もあって悪くないのです。面白いですよね。

 
 先日、ある女性の日記(*1)を読みました。生涯を通じて綴った膨大な量の、それはほんのほんの一部に過ぎなかったのですが、圧倒され、呼吸が止まるような言葉や場面の連続でした。鮮やかで烈しい感情の起伏が眼前に迫って蘇えり、八十年程も前に起きたこととは到底思えない。


 ささやかな毎日を点描する僕たちのものと、全霊を傾けて刻んでいった彼女の日記とでは比ぶべくもないのだけれど、何事につけそうでしょうが月を跨ぎ年を跨ぎ、長く細く続けていくのも悪くない、きっと意味あること、大切なことなんだと鼓舞されるところがありました。



 季節は秋──同じ時代を偶然に歩む多くの善き人たち

 これからも堅実に、ささやかに歩んでいきましょう

 そうして、日々芽生える思いを綴っていきましょう


(*1):「インセスト―アナイス・ニンの愛の日記 無削除版 1932~1934」 アナイス・ニン 杉崎和子訳 彩流社 2008

2011年8月30日火曜日

“絵”



 “絵”を観に行きました。休みを利用しての日帰り旅行。“たった一枚”の絵を見るためしては目的地が遠過ぎます。往復に時間を食いますし、朝早いうちに出立しなければなりません。「何もそこまでして」──自分でも酔狂と感じます。


 ピカソの“ゲルニカ”。小学校や中学校の美術や歴史の教科書にも写真が載るこの絵は、だからほとんどの人にとって既知の、もはや鑑賞に値しないありふれた作品となっていますね。これから見(まみ)えようとするのは、その“ゲルニカ”なのでした。


 知識や情報のインプットが背中を押しているのは違いないですね。図書館で評論二冊を借り受け、ざっと目を通してあります。どのような手順で仕上がっていったか、眼前でどんな人間ドラマが繰り広げられたか、その生い立ちはおおよそ理解しています。知れば知るだけ風が吹き抜け、いつの間にか芯に忍ばせた部分にまで炎がおよんでいる。油断大敵、火がぼうぼう。


 気持ちにずいぶんと弾みが付いてしまった。“絵”それのみの魅力に煽られほだされる次元から、絵筆を握る創造者の内奥へと興味の幅がずんと広がります。どうしても“実物大”を感じたくなりました。


 窓のむこう、車の背後に飛び去っていくのは、青々と茂った田んぼであり、蕎麦(そば)や大豆の植わった緑色の絨毯です。スペインの乾いた白い大地ではもちろんありません。道端には草木塔がたたずみ、そこかしこに小さな祠(ほこら)がちょこんと在って、なかには男性器を模した石など正面に飾られていたりするのです。日本の田舎道以外の何ものでもない場所を駆けていく。つまり“ゲルニカ”は“模写”であって実物ではない。


 たかだか“模写”を目指して大の男が突っ走るのは、よほど滑稽に目に映るでしょうね。僕を突き動かしたのはこの“模写”が、小学校や中学校の美術の時間や高等学校の文化祭でよく行なわれる類(たぐ)いのものでなく、ひとりの画家が三ヶ月を費やして本気で取り組んだ結果であるからです。そうでなければ訪れる必要を全く感じない。


 伝えるローカル紙の記事と写真から目が離せなかった。ある画家が別の敬愛する画家とすっきり融合する目的として“模写”が行なわれた気配が濃厚であり、黙黙と線を引き、深く頷きながら色をひとつひとつ置いていったであろう崇高な空間と時間が行間から垣間見れて、こころをきつく縛りました。


 廃校となった元分校の二階が画家のアトリエに提供されており、そこに隣接する、以前は体育館として使用されていた広い場所で“ゲルニカ”が再現されたのです。僕ひとりのためにわざわざ鍵を開け、にこやかに出迎えてくれた施設の責任者の方から製作の裏話を聞くのは実に刺激的で、静かな興奮をまたまた誘うのでした。


 手入れはされているとはいえども廃校は廃校ですからね、淋しげな風情が壁や床板に宿り、子供たちの歓声をかすかに幻聴するような空間なのだけど、其処ここから“ふたりの画家”の気魄と執念があざやかに湧き溢れてくるようで、居るだけで大層愉快なのでした。


 今は正面奥の壇上にひろがる壁一面を埋めるように立てかけられた“絵”は、昔々に教科書で眺めたものとはまるで違って見えました。肌色に染まった人物、青が配された足や指、茶色に逆立つ馬の体毛───死者と絶望のうずたかく堆積し、世界が静止して見えた白黒二色の図案(と、勝手に思い込んでいた)ものが、生ける者たちの吐息や叫喚ですみずみまで満たされていき、残酷だけどすこぶる美しいと感じました。こんなにも鮮やかな“精気”に満ちた絵であったか、と強く感嘆させられた次第です。


 その場に足を踏みしめ、広さや大きさに真剣に対峙しなければ決して伝わってこないものや場所が確かにありますね。写真や映像では駄目で、自らの眼球で視止める必要がある、そういう空間。五感をフル稼働して吸収する、そんな時間はホント大切だなあ。


 また、人がひとに興味なり愛着を覚え、同化をもくろむようにして“後追い”していく行為の、ささやかさ、切なさ、素晴らしさも同時に感じられる時間で実に有意義な小旅行だったのです。


 三月以降の鬱屈した思いが断ち切れそうな“錯覚”を、束の間といえども持てたのは嬉しいですね。実際走り出してみれば気分は上々、悪くありませんでしたよ。晩夏のぼうっと軟らかい陽射しに染まった河を渡り、翳(かげ)が増した峠を越え、青い空の下をひたすら突き進むことの爽快さは格別でした。やはり人間は出歩かないと駄目だな、と思いましたね。


 仙台市からはざっと三時間ですが、たまには思い切り足を伸ばしてはどうですか。“ゲルニカ”以外は特段めずらしいものは何もない町ですが、とても気持ちのいいところでしたよ。久しぶりに深呼吸ができた感じでいます。


2011年8月16日火曜日

宮崎駿「コクリコ坂から」(2011)~ドボドボ注ぐ~


○コクリコ荘・食堂

  開いたガラス戸から、降りて来る人の姿が見える。朝の挨拶。

  割烹着姿で釜敷におろした釜から、熱い飯をおひつに移して

  いる海。牧村が配膳を手伝う。(中略)

  味噌汁を椀にすばやく注いでいく海。

  牧村がお盆に移し変えてテーブルに運ぶ。納豆に醤油をドボドボ

  注ぐ北斗。

牧村「わあ、またそんなに醤油入れて!」

北斗「これがいいんじゃない」

  平然とかきまわす北斗。(*1)


 暑さの質感が変わり、網戸越しの夜風が乾いてきました。夢にうなされたのか、それとも捕食者の不意の出現に慌てたのか、蝉が、ぎゃっぎゃっぎゃっ、と不意に大声を立てます。もしかしたら天に召される時が来たのかもしれない。秋の虫がもう盛んに鳴いています。少しずつ少しずつ季節は変わっていきますね。皆さんお住まいの町の雰囲気はいかがですか。まだまだ夏は居座っていますか、それとももう引越しを始めていますか。


 そろそろ寝なきゃいけないのですが、仕事の関係で連休を謳歌出来ない僕としてはビール片手の夜更かしが気分転換には欠かせないところがあって、たまにはこうしてズルズルとみっともない文章を叩きたくもなるのです。


 先日、公開されて間もないアメリカ映画(*2)を観ました。ブラッド・ピットが父親を演じた話題作ですが、遅い時間のレイトショーとは言え、わずか三人しか観客がいないのが不思議でした。まあ、ゆったり出来て嬉しいのだけど。


 今では落ち着いた年齢となった“息子”の視線が物語を一直線に貫いているから、僕みたいな中年男としてはそれだけでびんと結線されてじんじんと伝わるものがある。けれど、性差や年齢を越えて共振を誘う仕掛けが盛りだくさんに作り込まれているからね、映像に愉しみや安らぎを感じるひとであれば、誰でもきっと充実した時間を過ごせるのじゃないかな。是非ご覧なさい、これは凄い。


 なにもそういう自分を売り込みたいのじゃなく、なんていうか、この映画の突き抜け方をどうにかして伝えたいだけなんだけど、まったく困るぐらいに泣かされました。三人だけで良かったよ、ほんと。恥ずかしくってなかなか席を立てなかったもんね。


 食卓の場景が幾度か映し出されます。最近のアメリカの映画は美術や小道具の発言力がほんとうに凄くて、パスタとかケチャップとかいずれもささやかなものなのだけど、人物の感情を左右し、逆に心象を雄弁に語ってみせたりして度肝を抜かれることが度々あります。この作品もきっとそうなんだろうなあ。アメリカに住まう人には劇中出てくる家族のふところ具合が手に取るように分かり、また、堆積した味覚、嗅覚の記憶を総動員して劇世界に溶け込んでいけるのでしょうね。豆料理が印象的でね。あの意味、ずっと考えているところです。


 その点、日本の映画は料理を使って人物の造形につなげてみせる辣腕家は何人もいるけど、観客を当てにしないというか、信用しないというか、味の薄い会話で補ってしまう悪い癖があるように思えます。


 たとえば上に引いた宮崎駿(みやざきはやお)さんの「コクリコ坂から」なんかも勿体ないというか、一歩出しゃばり過ぎの感じがするよね。北斗(ほくと)という名の研修医が“醤油をドボドボ”と使う。これまで見たようにその行為は男なら“父性”と結びつき、女性の場合(*3)には“男勝り”“ユニ・セックス”へ傾かせる効果があるのだけど、そういった事を思い巡らす受け手側の時間をまるで許さず、間髪入れずに「わあ、またそんなに醤油入れて!」と台詞を詰め込むのは昨今の世界基準からすれば大いに見劣り、聞き劣り(そんな言葉あるのか)するところです。


 さてさて、そろそろ寝ましょう。もういい加減酔ってますし。

 皆さん、おやすみなさい。楽しい夢を、ゆったりした眠りを。



(*1):「脚本 コクリコ坂から」 宮崎駿 丹羽圭子共著 角川文庫 2011
最上段の画像は映画から 監督 宮崎吾朗 2011
(*2): The Tree of Life 監督テレンス・マリック 2011
(*3):以前こんな作品がありましたね。姉妹のなかでおんなおんなしていない娘が醤油をドバドバ使っていました。
吉田秋生「海街diary」(2006-)
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/diary2006.html

2011年8月15日月曜日

瀬戸内晴美「諧調は偽りなり」(1981)~ここに来ていてよかったな~


 無想庵は縁側で土びんをかけた七輪をばたばたしぶ団扇で扇(あお)

いでいるところだった。

「おう、どうした」

 黙って縁側に立つ辻を見かえって、無想庵はいつもの声で訊いた。
 
「うん、ちょっと来てみたくなった」

「まあ上り給え、ちょうど飯が出来る。朝昼兼用だ、食っていけよ」

「…………」

 辻は縁側から上った。土びんの中が煮立ってくると、無想庵は

そこへ味噌を入れた。

「あっ、茶じゃなかったのか」

「味噌汁さ、昆布でだしをとって、ついでにそいつが実ともなる。

どうだ、頭がいいだろう」

「おれにやらせりゃ、ぬたの一つもつくってみせるのに」

「空想の中ではどんな料理も出来るさ」

 無想庵は土びんを七輪から下ろすと、座敷へ持ち込んだ。残り火は

火鉢に移す。すっかり山の生活が身にそったような手つきだった。

「どうした、浮かない顔をしてるぞ」

 無想庵は箸をつけない辻にようやく気がついたようにいう。

「酒はないか」

「少しそこに残っている。一合もないね」(中略)

「神近が大杉を刺した。大杉は死ななかったそうだ」

「あっても不思議じゃないことだ」

 無想庵はそれで了解したというように、

「酒もいいが飯も喰い給え、うまいぞこの味噌汁」

という。辻は酒の入った湯のみを大切そうに薄い両の掌で

包んでいる。

「ここに来ていてよかったな」

 無想庵がいった。

「そういうことさ」

「大杉も悪運の強い奴だね。しかし女は怖いな、のぼせ上ると

何をするかしれやしない」

 無想庵は山に入ると何ヵ月でも新聞を見ようとしない。せっかく

山に入って、下界の猥雑なニュースなど一切聞きたくないというのだ。

 辻はズボンのポケットに入れてきた新聞の切り抜きを出さなくて

よかったと思った。

 無想庵は黙々と食事をつづけた。変な味噌汁もさも美味そうに

ふうふうふきながらすすっている。

 辻は一合に満たない酒で全身が暖まってきた。胸につかえていた

ものが、酒にとかされたように軽くなった。(*1)


 ふたたび瀬戸内晴美(せとうちはるみ 現在は瀬戸内寂聴(じゃくちょう))さんの「諧調は偽りなり」から引いたものです。


 比叡山の宿坊に蟄居(ちっきょ)していた辻潤(つじじゅん)さんのところに下界より手紙が届きます。愛しさゆえに教職まで振り捨てて一緒になり、子供まで生した伊藤野枝(いとうのえ)さんが大杉栄(おおすぎさかえ)さんのもとへと去り、深く傷ついていた辻さんだったのです。平静さと活力を取り戻すためには情報を遮断して翻訳にでもいそしんだ方が良いと考え、親友の武林無想庵(たけばやしむそうあん)さんを頼って緊急避難していたのだけど、自分を捨てたおんなと奪った男の近況を知らせる善意の手紙が追いかけてくる。開封して一瞥した辻さんのこころは瞬時に波立ちじっとしておれなくなって、少し離れて住まう親友を足早に訪ねたところです。


 大正時代の突出した思想家大杉栄さんはただ漫然と机上に思索を積み重ねるのでなく、自ら実践する道を模索しました。そのひとつが“フリーラブ”であり、改革と呼ぶよりは“実験”みたいな空気が漂って感じられるのだけど、その後しばらくして訪れた騒動が世に有名な“日蔭の茶屋”事件です。奔放な性格や直線的な物言いをする伊藤野枝さんに惹かれて関係を持った大杉さんを、経済的にも精神的にもずっと支えていた神近市子(かみちかいちこ)さんがいよいよ見過ごせなくなって、懐中に忍ばせていた短刀で刺して深手を負わせ逃走した事件でしたが、それを報じる新聞記事の切り抜きが手紙に挟まっていたのでした。


 おどけた風情で出現した“土びん味噌汁”は、蒼ざめ息を乱してやって来た男の硬く尖ったものをうまくかわし、またたく間に緊張をゆるりと解く役割を果たしています。情念とは遠く隔たった場処に住まっていることを認識させ、昂揚や興奮を沈静させていく。そんな味噌汁の特性をうまく捉えて、実に効果的に使われています。親友がお茶をすすりながら執筆に励んでいたらどうだったか、味噌汁でなく手酌で酒をあおっていたらどうだったか。違った風景や展開になっていたのじゃなかろうか。


 この「諧調は偽りなり」には、もうひとつ味噌汁へ言及した箇所が見止められます。上に引いたものと合わせ読めば、いかに作者の瀬戸内さんの内部で“味噌汁”を別格視しているかが分かります。それは単に瀬戸内さん個人の妄念ではなくって、僕たち日本人の誰でもが抱え込む巨大な、そして、延々と続いていく夢なんだと思いますね。

 
 宮嶋が山を降りる前、宿院で無想庵と三人、夜を徹して飲んだ

ことがあった。何のために生きるのかと、酔った頭で論じあって

いた。(中略) いつのまにか、愛だの、女だのという話に移っている。

辻も尺八を吹くのをやめて話に加わった。

「何だかだといったところで、心から愛し合う女がいないのは不幸

だ。それを酒でごまかし、更には金で買える女を抱いてごまかす。

ごまかしばかりの生活は絶望的になるのが当然だ」

「全くそうだ」

と辻が口をはさんだ。

「欲しいものは、全身全霊で愛してくれる女の愛だ。全部でなきゃ

意味がない」

「愕いたなあ」

 酔っ払った宮嶋が大声でいう。

「無想庵や辻潤がそんな甘いことを考えているとは、この叡山で

それを聞くとは……何がスチルネルだ、何が摩訶止観か、聞いて

あきれらあ」

「手めえなんか、相思相愛の麗子がいるからそんなでかい面を

しているんだよ」

「可愛い女房がいて、子煩悩で、どんなに外ではめを外して遊蕩

したところで、帰ればあたたかい味噌汁と女房のいる寝床の待っ

ている暮らしの中で、小説を書こうなんていう料簡が、そもそも

不埒(ふらち)なのだ」(*2)


 なんか変な論法ですねえ。捨てられたり、壊したりで面目を失った男ふたりが家庭を維持し続ける宮島資夫(みやじますけお)さんをやっかんで吠えている。酔った男の会話なんて所詮こんなものですが、愛するおんなと味噌汁が“あたたかい”という形容でしっとり粘着して一体となり、男においでおいでと手招きしているのが見えてしまう。なんとも言えぬ気分です。どう抗っても無駄な話と分かってもいる、僕たち男には所詮負け戦ですからね。そして男たちと対峙するおんなの皆さんも含めて、誰もが味噌汁の重力圏内で遊泳するしかないのでしょう。


 無理は禁物、どうぞ、ゆったりとこころ弾む遊泳を。浮き輪を持ったり、共に泳ぐ相手を励みとして長距離遊泳を続けていきましょう。今年も折り返し地点を過ぎましたね。後半戦を頑張りましょう。


(*1):「諧調は偽りなり」 瀬戸内寂聴 初出「文藝春秋」1981年1月号~1983年8月号 手元にあるのは「瀬戸内寂聴全集 第12巻」新潮社 2002 引用箇所はその514-516頁。
(*2): 同535-526頁 ちなみに辻潤さんの“辻”だけど、正しくは「辶」(しんにょう)の点が二つです。最上段の写真は前回でも紹介した映画「エロス+虐殺」の一場面。

大塚英志「三ツ目の夢二」(2008)~味気ねぇなぁ…~



  人の手に掴まれ宙に浮いた陶製の醤油差し

  ドボ ドボ ドボ…と黒い液体が注ぎ口から流れ出る

  朝日が射し込むリビングルーム。テーブルを囲む家族

  醤油を注ぐ男(大杉)は傍らの新聞を読むのに忙しい

野枝「あなた かけ過ぎですよ」

大杉「ああ スマン スマン」

野枝「最近 なんでも濃い味にしてしまって…

   お体にさわりますよ…」

  大杉、意に介さずに醤油でべっとりとなった料理、肉か

  刺身か分からぬものを箸でひと切れつまみすると、パク…

  と口に放り込む

大杉「味気ねぇなぁ…」

  パリーンという皿の割れる音!(中略)

  向かい側に座った野枝が投げた皿が大杉の額を直撃

野枝「せっかく作ったお食事を 味気ないなどと!!」(*1)


 いまから90年ほど前、1923年9月に首都圏を襲い、死者、不明者10万人以上を出した“関東大震災”。その惨状をつぶさにスケッチした絵の展示会が、今月末より墨田区横網町公園にある復興記念館で催されます。描き手は抒情作家としてつとに知られた竹下夢二(たけしたゆめじ)さんです。(*2)


 女性の繊細さ、快活さを表現して絶大な人気を得た夢二さんでしたが、震災時には混沌とした街なかに飛び出して現実を活写していたのですね。お近くのひとはどうぞ足をお運びください。僕はなかなか都合が付かずにいますが、ゆったりとそんな夢二さんの絵と向き合えたなら、きっと意味深く濃厚な時間になるでしょう。


 上に引いたのはちょうどその頃、つまり震災前後の夢二さんと彼の周辺を題材に選んだ漫画(*1)の一部です。亡き恋人への想い断ちがたい夢二さんは、ずるずると煩悶を重ねたあげくにおんなの面影を追って黄泉の国まで降り下ってしまいます。紆余曲折を経てなんとか生還するのだけど、以来、おぞましい霊能力をそなえてしまうのです。あまりにも荒唐無稽な幕開けです。


 死んだはずの夢二さんが舞い戻ったため現世は時間の歩みを止めてしまい、やがて暮らしの諸相はあるべき歴史からふわふわと乖離を始めるのでした。僕たちの見知った記憶や知識と微妙に顔付きを異にしていき、大震災の発生がどんどん“先送り”ともなって、大正はそのまま文化の爛熟を極めていく。


 第三の恋人お葉さんや、彼女の胸に抱かれて共に絵のモデルを務めた黒猫といったものにとどまらず、川端康成さんや田川水泡さんといった実在の人物が入れ替わり立ち代りしながら顔を覗かせ、夢うつつの出来事がつづられていく、という、まあ、かなり無茶苦茶なお話なのです。普通なら綺麗さっぱり忘れてしまう類いの絵空事なのですが、最終話に“醤油”を描いた箇所があったものだから急に磁力を増して来ました。


 家族の団欒が描かれていますね。屈強そうな男が朝食の席で醤油を大量に使い、妻らしきおんなに叱責されている。読んでいるのはどうやら英字新聞(いや、巴里から持ち帰った仏字新聞かもしれません)で、手元には味噌汁椀も置かれています。これは大杉栄(おおすぎさかえ)さん、なんですね。


 僕が抱える大杉さんのイメージはもっと線が細くて、叩(はた)かれて舞うおしろいにぼんやり包まれるような、それとも艶めかしい芳香が首筋あたりにゆらめく風であり、かつて映画(*3)の中で細川俊之(ほそかわとしゆき)さんが演じてみせた際の印象が絶対的に強いのだけど、こっちの腕は馬鹿みたいに太いし、胸板も無駄に厚そうで、なんかチャールズ・ブロンソンかミッキー・ロークを彷彿させます。盛り上がった額、張ったアゴ、険しい目つき。攻撃的な男の体臭がぷんぷんして来ます。


 叱られているのが大杉さんなら、テーブルの反対がわで声を張り上げているのは伊藤野枝(いとうのえ)さんとなり、ぐるり囲んでいるのは彼らの子供たちになります。“無政府主義”を唱えて時の権力に監視され続け、大震災のどさくさに紛れて偶然連れ立って歩いていた幼い甥っ子ともども拘禁され、肋骨を何箇所も折る容赦ない拷問に遭い、その果てに絞殺されてしまう大杉さんと伊藤野枝さんなのですが、時空が歪んだしまったこの漫画世界では地震がいつまで経っても起きません。きっかけを失って、彼らはおかしな具合に“生き永らえてしまっている”のです。


 崩壊を免れた浅草十二階が夜空にそびえ、満艦飾に彩られた街路に嬌声が飛び交う。“有り得ない繁栄”は大杉さんたちの生活も底上げしているのであって、実際はこんな風ではなかった。あの有名な日蔭の茶屋(ひかげのちゃや)事件以降、評伝を読む限りにおいては彼らの生活の実態は相当にきびしかった。言論を封じられて元々収入が不安定だったのだけど、事件以来愛想を尽かして仲間が次々と離れていったのが何と言っても響いた。


 瀬戸内晴美(せとうちはるみ)さんは著書のなかで、当時の彼らの日々を丹念につなぎ直して僕たちに提示しています。史実にのっとり整理された資料的価値の高い労作なのだけど、大杉さんたちを襲った窮乏ぶりがどれほどであったかを次のような逸話でもって簡潔に説いている。


 赤ん坊の生れた直後、有楽町の服部浜次の娘の清子が母親に

いいつけられて手伝いに来たことがあった。若いぴちぴちした

娘は、二日もいると、黙って逃げ帰ってしまった。

「まあお清、どうして帰ったの」

「だっておっかさん、あの家ったら、なあんにもないんだもの」

「なあんにもって何が」

「お台所のものよ、お米でしょ、お醤油でしょ、お砂糖でしょ、

なあんにもないの」

 清子は訴えながら笑い出してしまった。

「お米がありませんよ、買って下さいっていっても、だあれもおあしを

くれないんだもの、どうやって料理するのよ、あたし困るわ」

 母親もそこまで徹底した貧乏だったのかと呆れてしまった。(*4)


 ドボ ドボ ドボ…と料理にかける醤油など、どこにも無かったのです。白いテーブルに可愛らしいお揃いの洋服、食べ切れない程の食事、それはすべて夢以外の何ものでもなく、狂って停滞する時間のなかで大杉さん、野枝さんがどれだけリアルな地平から逸脱してしまったかが読者に分かるよう、あえて滑稽と思えるほどの誇張が施されていたのです。何気ない光景で読み流してしまいそうですが、案外に意味深な描写になっている。


 この事、つまり“有り得ない繁栄”にどうやら勘付いてしまった大杉さんは、本来の時間へ飛び去る決意を密かに固めるのでした。命運を共にした野枝さんと甥子さんを虚構の世界に残し(そのまま彼らは生き永らえさせて)、ひとりきりで震災のあった時空、すなわち拷問され、絞殺されると決められている無慈悲で残酷な現実へと旅立っていくのです。


 苦境を回避させ、絶望を緩和し、奇蹟を連続させる。創作とはまるで魔術です。誰もがそれを望むし、僕だって空想にしばしば耽溺します。この漫画は大杉栄という稀代の思想家が透徹した目線でそんな魔術(“夢”)を打ち砕き、創作による救済を踏みにじり、現実世界に堂々と殉じていく、つまり天命に身を投じていくという点で徹底しており、どこまでもある意味醒めている。醒めていながらも生き生きと昂揚するものがあって、余韻が後を引き、やんわりと鼓舞されるところがあるのです。


 フィクションに逃げ込んでいながら、そのフィクションを登場人物が拒絶していく、そんな姿に考えさせれ、勇気付けられもします。切れ味抜群という訳ではないけれど、なかなか考えさせる構造になっておりました。



 一瞬顔を覗かせた醤油は典型的なイメージの分担“男らしさ、父性”とここでは結びついており、そこから内奥にそっと息づく家族への深慮を下支えすると共に、ここでは夢からの「覚醒」のきっかけとなって起動している。作者の大塚英志(おおつかえいじ)さんと作画担当のひらりんさんがどこまで意識して“醤油”を登用したのかは分からないけれど、醤油が醤油らしく存在を主張して、物語を補強する柱のひとつになっていたように僕には思えます。ごちそうさまでした。


 細川さんの演じた大杉さんも最後に貼っておきましょう。う~ん、やっぱりこっちの方が艶があって、僕は惹かれちゃいますねえ。



(*1):「三ツ目の夢二」 原作大塚英志 作画ひらりん 徳間書店 初出「月刊COMICリュウ」2008年10月号-2010年11月号 引用は単行本2巻最終話「第伍絵 パノラマ」175頁及び185頁 紹介した醤油の描写はしたがって厳密には2010年のようですが、連載物の慣例にしたがい表題には2008年をここでは掲げてあります
(*2): http://www.tokyoireikyoukai.or.jp/event/
(*3):「エロス+虐殺」 監督吉田喜重 1970
(*4):「諧調は偽りなり」 瀬戸内晴美 初出「文藝春秋」1981年1月号~1983年8月号 手元にあるのは「瀬戸内寂聴全集 第12巻」新潮社 2002 引用箇所はその359頁。ちなみに「諧調は偽りなり」の前段にあたる「美は乱調にあり」(1965)では伊藤野枝さんが大杉さんと出会う前の様子がやはりつぶさに書かれていますが、そこでは前夫の辻潤(つじじゅん)さんとの生活を支えるため、野枝さんが隣家から味噌や醤油を借りている様子が挿入されています。「この提案にはらいてうも有難がり、早速、野枝の近所の上駒込の妙義神社の近くへ引越してきた。この頃の辻家の裏隣には垣根ひとつへだてて野上彌生子と豊一郎の家もあり、野枝はへかけこんで野上彌生子の家へかけこんで、醤油をかりたり、味噌をかりたりしながら、休速に親しくなっていた。」(同全集12巻193頁)

2011年8月6日土曜日

式貴士「カンタン刑」(1975)~ゴクリと飲み下した~



「のども涸(かわ)いたな……」

 その声を待っていたかのように、床の壁の一隅が四角く切り抜い

たように動き、独房の中に箱型の形になってせり出してきた。 

蓋(ふた)を開くと、中に五目飯と湯気の立った味噌汁が入っている。

(中略)

 味噌汁をゴクリと飲み下した八朗は、再び、

「ゲエーッ!」

 と吐瀉(としゃ)した。これまたゴキブリ汁だった。味噌と一緒に

ゴキブリを摩り潰したものを湯にとかし、同じく摩り潰したゴキブリを

ウドン粉で固めてスイトン状にして、味噌汁に浮かしたものであった。

 ゲエゲエ吐き出し、汚物を手の甲で拭いつつ、おっかなびっくりふり

向くと、もう丼の上にはゴキブリが小さな蟻塚(ありづか)のように群が

り、床にぶちまけられた味噌汁にもゴキブリたちがひしめいていた。(*1)



 この春、法務省より出された公告のなかに興味深いものが見つかりました。抜き書きするとこんな感じです。

法務省入札公告 次のとおり一般競争入札に付します。 平成23年5月10日 支出負担行為担当官  法務省大臣官房会計課長  
  
1 調達内容 
(1)品目分類番号 1 
(2)購入等件名及び数量 米味噌460,558kg(単価契約) 
(3)調達案件の仕様等 入札説明書及び仕様書による。 
(4)契約期間 契約締結の日から平成24年3月31日まで     
(5)納入場所 法務省大臣官房会計課長が指定する場所       
 

 受刑者の食膳用でしょうが、もの凄い量です。ダンプカーで40台以上もの味噌を求められて、はい了解、わかりましたと即納可能な蔵元は限られるでしょうね。


 平成22年の犯罪白書(*2)を読むと、「刑事施設の年末収容人員は,(中略)21年末現在は,7万5,250人(労役場留置者1,132人を含む)」とあります。それだけの人間が仮に一日2杯の味噌汁を飲み、その1杯あたり14g程度の味噌を用いると推定するならば、毎日消費されるのはざっと計算して2トン量です。飽きの来ない献立が工夫されて年間200日程度に限って出されるとしても、のど奥に消える生味噌の総量は400トンに膨れ上がる。刑務官や事務職の人へ振舞われる分も合わせれば、460トン量の調達目標はいささかも不自然ではないのです。


 もちろん多種多彩な食べ物が同様の流れで集められ、丹念に調理をほどこされてから振舞われる訳だから、味噌汁だけに特別な光が注がれているのではない。僕の偏った目線がちょっとだけ輪郭を浮き出させているにすぎない。


 それにしても、こうやって“味噌求む、全部で460トン”とやられると唸らざるを得ない。家庭や職場の枠を軽々と越え、高い塀をもあっさりと味噌が飛び越えていくようです。460トンもの茶色いかたまりが宇宙から来たアメーバ怪獣みたいにもぞもぞコンクリート塀に押し寄せ、がばりと鎌首をもたげて塀の向うにどろどろと侵入する、そんな様子を僕は想い描いて息を呑んでしまいます。


 “刑務所”と味噌汁をきゅっと繋げた文章がそういえばありましたね。そうそう、関川夏央(せきかわなつお)さんでした。(*3)日本に居住して間もない外国の兵士がおのれの行動をよく自制し、借りてきた猫みたいに大人しくしている。その理由は「日本の刑務所を、とりわけ刑務所の食事を、さらにとりわけミソ汁を恐怖しているから」という実に嘘っぽい冗談まじりの記述だったけれど、僕たちの意識の中にはどうも刑務所の光景と味噌汁椀がきっちり二重写しになってるところがある。それは間違いないところです。


 大正時代の活動家、大杉栄(おおすぎさかえ)さんもその著述(*4)の中で、かつて収監された千葉の刑務所(当時は監獄)に触れ、次のような一文を残しています。


第一に期待していた例の鰯が、夕飯には菜っ葉の味噌汁、

翌日の朝飯が同じく菜っ葉の味噌汁、昼飯が沢庵二た切と

胡麻塩、と来たのだからますます堪(たま)らない。(*4)


 海の近くと聞いていたから食事はきっと鰯(いわし)尽くしに違いないと想像していたのに、イワシのイの字もない粗末な献立にひどく落胆したことを懐旧しています。勝手に期待した方が悪いのですが、ここで味噌汁は二度続けて引き合いに出されて完全に仇役に回っています。こん畜生!味噌汁め、菜っ葉の味噌汁め、もううんざりだ味噌汁、って感じですね。


 怨みがわしいったらありませんが、そのとき僕たちの目に浮かんでくる光景、つまり鉄格子のはまった窓や何もない部屋、粗末な着物、腹に響く号令といったものに味噌汁がまったくもってお似合いだから困っちゃう。あるか無しかの野菜の切れ端を漂わせ、ことさら椀の中で薄くたなびく味噌汁が受刑者の暗い面差しを見上げている様子がありありと浮かんで来ます。


 最上段に引いたのは式貴士(しきたかし)さんの短編の冒頭に近い部分で、これも刑務所が舞台です。架空の刑罰“カンタン刑”の初端を描いた場面で、連続殺人を犯した男に死刑より重い、けれど実に“簡単”にして効果絶大な“ゴキブリ責め”が淡々と為されていくのでした。思わず顔をしかめてしまう壮絶な場面なのですが、描写はこれに止まる事なくどこまでもその後エスカレートしていくのでした。


 (特別仕立ての)寿司や団子、シチュー、ケーキといったものがひっきりなしに供せられます。だから、それら豊富な料理の中の一品に過ぎない訳なのだけど、独房に放り込まれた男が最初に目にし口にしたものとして他とは違う、なにか強烈な光彩に味噌汁が染まっているのは明らかです。


 よく言われる“臭い飯”とは旨味や粘りの少ない安価な“米飯”を差すのでしょうけれど、これとしっかりと寄り添うかたちで“味噌汁”がセットになって控えている。家庭の味、母親の味、惚れたおんなの味として僕たちの魂に君臨する一方で、寒々とした作用を受刑者のこころに及ぼし、異なる酷薄な印象を刻んでいる。


 様々な理由から重たい門を叩いてしまい、社会から弧絶した塀の奥へと身を投じていく者に対して、味噌汁は妙に淋しい、どうにもやるせない顔つきを作って出迎えて、上目遣いで見つめ返してくる。豊かさと団欒、これに背反する貧しさと孤立。不思議ですね、これほど両極端な象徴を担った食べ物は、世の中にそうそう無いのではなかろうか。




 さて、話かわって、収穫をにらんで稲の放射能測定が始まりましたね。一体全体この先どうなるのか、戦々恐々して結果を待つひとが僕の周りにはとても多いです。どう転んでも計測値を巡って意見や憶測が飛び交い、不安に駆られた僕たちは食べ物の取捨選択をぐんぐん加速させることになるでしょう。


 思えばこの時期、塀の内側で暮らさねばならない七万からなる人たちにとっては、“食べ物の取捨選択”は夢のまた夢であり、十中八九は適えられない“ささやかにして遥か遠くにある自由”です。与えられたものを与えられるまま文句を言わずに口にせねばならない。かくも環境破壊が拡がり、食べ物、飲み物への信頼が根こそぎ損なわれていく事態は誰も想像し得なかったわけだけど、こうなってみると服役、拘留といった“食べ物、飲み物の取捨選択を禁ずる刑罰”は怖さをずんずん増してきますね。


 愛憎や色欲、物欲に虚栄といったものは生きて暮らす人間にはかならず付いてまわる自然な感情であり、その振幅が歓喜の瞬間に連なり、また、犯罪にも直結します。根っこは一緒で、勢いが過ぎれば誰でも、それこそ明日にでも罪人となり罰せられもする。


 このたびの入札に参加し食品を納めるひとには、しっかりした安全なものを選んでもらいたい。ありがとよ味噌汁、菜っ葉の味噌汁、頼むぜ、俺の身体を守ってくれよ味噌汁、そう言わせるような460トンをどうか納めてもらいたい。そんなことを本気で思っているところです。


 とうとう八月。暑さもきびしさを増しています。どうか健康に留意して、元気に爽やかにお過ごしください。むせるような熱気に思考を惑わせ、差配を誤り、つまらぬ勾留などされませんよう。団扇あおいで冷気を送り、ゆめゆめ油断することなくお暮らしください。



(*1): 「カンタン刑」 式貴士 1975 初出は「奇想天外」同年9月号 手元にあるのは2008年の光文社文庫「式貴士 怪奇コレクション カンタン刑」で、冒頭に所収されている。ちなみにカンタン刑の“カンタン”とは中国の故事“邯鄲(かんたん)の夢”“邯鄲の枕”から来ています。
(*2): http://www.moj.go.jp/content/000057052.pdf 
(*3):「ゲート前の外人バーで」 関川夏央 1988
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/07/1988.html
(*4): 「獄中記」 大杉栄 1919 「青空文庫」に収まっています。衒いのない、噛み砕いた表現で読みやすい。百年近く前の文章とは到底思えません。http://www.aozora.gr.jp/cards/000169/files/2583_20614.html

2011年7月30日土曜日

山田太一「舌の始末」(1975)②~味ごときでごたごた言っている~



 微妙な味覚というものに、私は長いこと反感があった。

 味についてごたごたうるさい事をいう男を見ていると、目の前で

刺身にケチャップをつけて食べたくなるというようなところが

あった。それは、あきらかに戦争中の初等教育、戦中戦後の食糧

難がはぐくんだもので、今でも教科書にのっていた西郷隆盛(さい

ごうたかもり)・従道(つぐみち)兄弟のエピソードなどが、心理

的圧迫としてはたらいていることに気づいたりするのである。(中略)

 老女中が箱膳(はこぜん)のようなものに朝飯をのせて持って

来る。その“おみおつけ”がうまくないと従道さんが文句をいうの

である。薄すぎるというような事だったと思う。(中略)

従道さんが文句をつけると、老女中はあやまるのである。今なら

「やめさせてもらうわ」という所であろうが、明治だからあやまる。

しかし、老女中の練達とでもいうか、ただではあやまらない。一言

つけ加えるのである。「お兄さまがなにもおっしゃらなかったので」と。

 そこで従道さんは、パタリと箸をおとし「さすが兄上」男子たる

ものがおみおつけの味ごときでごたごた言っているようでは出世し

ないと奮起したというような話なのである。(中略)以後二十数年、

食べ物に文句は言わないぞ、(中略)という気持ちで戦後を生きて来た。


 山田太一(やまだたいち)さんが70年代に書いたエッセイから、もう一箇所“おみおつけ”に言及しているところを抜き書きしました。食べることがそのまま生きることに直結し、とりあえず食悦を封じて懸命に腹を埋めることに注力しなければならなかった山田さんたち世代にとって、手の込んだ料理や微妙な匙加減といったものはあくまで人生の二次的な、瑣末な事象であり、男子たるものが軸足を置いて良い場所ではなかった。まずは言葉を尽くした人間同士の交流なり交歓があり、誰もが社会で躍進することを関心の上位に置いていた、いや、そうあるべきだと叩き込まれたのです。


 僕はこれまで食べ物と創作世界との関わりについて、ずいぶん意識を傾斜させた時間を過ごしてきました。元々山田さんが描くホームドラマは刺激的に目に映り、気懸かりな作家のひとりとして追跡をしてきたつもりだったのですが、気付いてみれば山田さんの描く世界に味噌なり醤油なりの影はとても薄いのでした。それはご自身が上に引いたような教育を受け、そんな暮らしを実践してきた結果だったのかもしれないですね。


 本当を言えば山田さんの言葉はこの後もつづき、“心理的圧迫”に左右される身の上に疑問を抱き、このままで良いのだろうかと押し問答した末に尻切れ蜻蛉のあいまいなかたちで筆を置いておられる。整理しきれぬ在りのままの心を綴っていて、とても人間くさい文章です。


 作品世界での味噌、醤油の記述はほとんど見受けられない山田さんですが、内奥には明暗を雑居させた“おみおつけ”が見つかってしまうのは興味深いですね。また、子供たちのその後の暮らしぶりを硬い枠にはめていき、極端に節制することを強い、不満は噛んで呑み下すことを賞賛する戦前、戦中の教育の現場に“薄味のおみおつけ”があったことも、味噌汁と日本人の魂とが癒着する広さ、根深さを思わせて面白い。


 ひるがえって僕たちの今をかえりみれば、国中に汚染された肉があふれ、不明瞭で後ろ向きの基準値に即した作物がどんどん流通して食卓へ、学校給食へと販売されていきます。海外のメディアが疑問視する国民のおだやかな沈黙、異様とも言える従順さというものが、山田さんたち世代から、いや、さらにずっと以前からの教育訓練の結果なのかな、なんて想像も働いてしまうのです。


 事態は“味が薄すぎる”というようなレベルではないのですから、ひとりひとりが言いなりにならず、“食べ物に文句を言うべき”なのです。疑問や希望を告げるべきときは告げて、日々の“食”をことさら大切にしていかねばならない。


 行政や経済のトップに座るのは似たような訓練を経て“出世”した人たちでしょう。数値についてごたごたうるさい事をいう奴を見ていると、目の前で刺身にケチャップをつけて食べたくなるというようなところがあるでしょうが、意に介さず勝手に食べさせておけばよいのです。


 毅然として僕たちは食べない、そういう時間がこれから大事になると思いますね。


(*1): 「舌の始末」 山田太一 1975 「路上のボールペン」冬樹社 1984 所載。手元にあるのは 新潮文庫 1987 

山田太一「舌の始末」(1975)①~そもそも汁という言葉が~



 味噌汁(みそしる)という言葉が、私はどうも気にくわない。

朝のさわやかさがない。実も蓋もないという気がする。鼻汁を連想

するといえばいいがかりをつけているようだが、そもそも汁という

言葉が嫌いなのである。「おみおつけ」といいたい。しかしいま、

会話ならともかく文章の中で「おみおつけ」と書くと、やや普通で

ない印象をあたえるような気がする。味噌汁が大勢を占めている。

「おみおつけ」にこだわると、偏屈という感じになる。(*1)


 仕事から帰ってテレビを点けると、ちょうど衛星放送で映画(*2)が始まったばかりでした。山田太一(やまだたいち)さんの幽霊譚を原作としていて、これは封切りの際に確か観ています。


 はてさて、どこで観たのだったか──。調べてみれば二十三年も前に作られている。当時働いていた郊外の町の古びた映画館だったか、それとも電車をわざわざ乗り継いで出かけた街の大きな劇場だったものか。人の多く行き交う気配をおぼろに感じはするけれど、詳細はもう蘇えっては来ません。人間の記憶なんてあやふやで儚いものですね。人生の転機となった瞬間や既成概念をぶち壊してまばゆい覚醒をともなうものでもなければ、どんどんと霞んで消えてしまう。


 その頃の僕は経験値がまるで低かったものだから、映写幕からばあっと反射してくるものは当然少なくって、特段の感慨をこの現代の怪談噺に抱くことはなかった。二十数年を経て再度こうして向き合ってみると、今度はあろうことか食い足りなさを覚えてしまう始末。映画や小説の色艶(いろつや)、膨らみというやつは、送り手と受け手の“噛み合わせ”次第だとつくづく感じます。


 もっとも興味深く、面白くは観たのです。なにより大震災を経たばかりだし、弔いは身近に連なっています。生命を奪われる瞬間であるとか人生の意義とか、人がひとを葬送する意味なんかをあれこれ考えながら観れましたから、相応に密度ある時間だったのだけど、このところ“しがらみ”の茂り具合がぐんと増してきた我が身には、劇中の風間杜夫さん演ずる四十男の無責任感、浮遊感がやや鼻に付き集中を妨げるものがありました。


 いつの時代にも心労の種、苦しみの河は日常に潜みます。誰ひとり得心しない、矛盾や不満を抱えながら死んでいく、それが世界の内実じゃないかとも思います。この映画の作られた頃にしたって悩みや哀しみが世間に渦巻き、むなしさは人のこころに巣食っていたはず。僕にしたって例外でなく、鬱々として苦しい毎日でした。だから、僕たちのいま住まう環境をいたずらに特別視するのは、傲慢なことにきっと違いない。


 しかし、それにしたって、ここまで閉塞感に包まれた現況、半端でなく未来を覆う“しがらみ”の大量発生というのは強大なものがあって、人間の視線ってやつをすっかり変質させてしまうように感じます。こころの奥底に広がるが池はさわさわと波立ち、昏い光に染まってしまう、水面(みなも)を寄せ渡る風はどこか微妙に焦げ臭い気がしてならない。


 過去に林立する創作劇の根幹を揺さぶり、場合によっては鋸(のこぎり)引きして蹴倒しかねない、そのぐらいの心境の変化が訪れている。赤々と目をつらぬく落ち日と、蒼白き雷光にでろでろと照らされながら黄泉の境を越えていく、哀れないくつかの魂を映画の奥に看取りながら、世界が新たな局面へ足を踏み入れた実感を想わないではいられませんでした。


 話が余計な方へと流れました。そうそう、山田太一さんのことでしたね。若い頃に綴られたエッセイのなかで「おみおつけ」に言及しているくだりがあります。上に引いた箇所で山田さんは、「おみおつけ」が僕たちの深層に不潔感や貧乏臭さ、不味さといった負の印象を刻みがちな理由のひとつは“味噌汁(みそしる)”という響きにあるのではないか、と指摘しています。


 味噌汁を人間の“汗(あせ)”と絡めて書いたもの(*3)はありましたが、ずるぺちゃとした“鼻汁”を臆することなく並列してみせるのだから、さすがに山田さんです。なるほど「汁(しる、じる)」という響きはあまり僕たちのなかで“さわやか”なイメージを結ばない。郷土料理にはナントカ汁と呼ばれる鍋が多いから、それこそいいがかりをつけるなと叱られそうだけど実際そうなんだから仕方がない。


 顔から同じように流れ出る粘液でも、唾液(だえき)と鼻汁(はなじる)では雲泥の差があります。長く情熱的に接吻を交わした果てに唾液まみれになるのはうっとりとして良いばかりですが、鼻汁まみれになるのは厭です。不思議ですね、鼻くそでなく鼻汁ならば、成分だって唾液とそんなに違わないでしょうに。うまい“つゆ”に舌鼓を打ってもそりゃ良かったねで済むけど、うまい汁(しる)を吸うと軽蔑されて後ろ指を差されたりもしますね。


 味噌汁に仮託される人情の機微は実に多彩であり、複雑です。これに対して醤油をベースとする“お吸い物”はドラマのなかでなかなか活きて来ない。もわもわとした濁りや排泄物に近似した色、汗のような匂いが人間の混沌とした内奥ときつく線を結ぶのかもしれません。


 山田さんに刃向かうつもりは毛頭ありませんが、こと創作の世界においては「おみおつけ」でなく「みそしる」の方がずっと良いように僕は感じています。




(*1):「舌の始末」 山田太一 1975 「路上のボールペン」冬樹社 1984 所載。手元にあるのは 新潮文庫 1987  
(*2):「異人たちとの夏」 監督 大林宣彦 1988。最上段の絵は劇中登場する前田青邨(まえだせいそん)の「 腑分け」
(*3):「イン ザ・ミソスープ」 村上龍 1997 
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/07/1997.html

2011年7月27日水曜日

斎藤澪「この子の七つのお祝いに」(1982)~よく見るとそれは~


でも、私がいくら詫びても、説明しても、真弓の心は

もとには戻りませんでした。まったく口をきかず、蒲団に

潜ったままなのです。私が新聞を読んでいる。部屋がひっそり

静まっている。寝ているのかなと思って、そっとうかがうと、

蒲団の端から二つの目がじっとこっちを睨んでいる。

その目の冷たさ。不気味さ。

 その頃からです、真弓の異常さを知ったのは。

真夜中に、ふっと目が覚めると、枕元に真弓が坐っている。

味噌汁を作ろうと甕(かめ)の蓋(ふた)を取ったら、

白いカビが生えている。しかしよく見るとそれはカビでなく、

縫い針なんです。気をつけて周囲を見まわしたところ、大根

にも豆腐にも、無数の針が刺してある。こんなこともありま

した。私が可愛がっていた犬が、ある日消えていました。

餌入れをみると、猫いらずが湿った残飯が入っていました。(*1)


 いとしい男がこころ離れしていく、気持ちはもう此処にはないのだ。横顔を見やりながら、おんなが徐々に狂っていきます。やがて病床からずるり這い出していき、周辺のありとあらゆるモノを変質させることに残った力を注いでいく。


 斎藤澪(さいとうみお)さんの「この子の七つのお祝いに」の終盤に描かれた光景です。中でも秀抜なのは、ぬめぬめと銀に光る縫い針を、取り置いていた“食べもの”に突き刺すくだりでした。ひゃあ、これは怖い。


 縫い針であれ釘(くぎ)であれ、細くとがったものを人形や写真のなかの人物に突き立てる行為は作劇における常套手段になっていて、もう誰ひとり驚かない訳ですが、斎藤さんのこの“食べもの突き刺し”描写は意表をまったく突いてきて心底慄然といたしました。


 映画(*2)では、この真弓というおんなを岸田今日子さんが演じていましたね。背をまるめて座卓に向かい、呪詛の文句をもわもわと小声で放ちながら、大根の生白い腹めがけて針をぶち、ぶち、ぶちりと刺し続ける岸田さんの様子は恐怖を超えて思わず笑ってしまう域に達しており、観ていてとても楽しかったのでしたが、こちらの原作は到底笑えない、真に迫った怖さとそこはかとない哀しみが霧のように重く漂って、追い払いたくともねばねば纏わり付いて消えてくれない感じです。凄まじい一瞬でしたね。


 むしゃくしゃした気分を打破するために、僕たちは集中して何事かにのめり込むことが往往にしてあります。歌ったり、身体を鍛えたり、車で走ったり、旅行したり、愛し合ったり──それはとても自然なことだし、人間らしい花火みたいな一瞬だと思うのです。コップや携帯電話といった物に八つ当たりしたり、酒に呑まれたり、そんな事したくないのに恋人を邪けんに扱ったりするのだって、やや暴発気味ですが生きた花火の時間に違いない。


 映画での岸田さんには大根や豆腐を男の代用品として捉えている気配が濃厚で、ぶすりぶすりと刺す行為でもって鬱積を晴らして見えました。どれだけ目を剥こうが、どれだけ陰惨な言葉を吐こうが、どこか健常者の面持ちを含んでいたのです。蒼白く、細く流れる花火を間近で観るようで、ああ、人間だったらそんな気分にもなるだろうな、と共振する余地がまだあったのです。ところが齋藤さんの書いたものは全く違う、安っぽい同情を拒絶している。


 幼い娘を亡くしたばかりで、火の消えたようになった一間限りの安アパートです。病弱のおんなのために簡単な食事を作ってやっていたに違いない男が、再び味噌汁を食べてもらおうと思い立ち、流しの下にでも置かれていた小さな甕(かめ)を覗いた末に奇妙な光景を見止めてしまう。


 カビかと思えば無数の針がてらてら反射し、まるで味噌の表面に菌糸が蠢いて見える。これはもう花火とか鬱憤晴らしだとか、そんな呑気な事を言っていられる次元ではない。その時の男の驚きやおののきはいか程であったものか。想像すると、指先から肩や胸へとたちまち鳥肌が立って胸が悪くなる感じです。


 傍らにはこんもりと盛り上がった蒲団があり、おんなが息をころして男の動静をうかがっている。男の依代(よりしろ)として“食べもの”を選び、当り散らしたのではなかったのです。男に針を千本喰わせ、自らも針を千本呑んですべてを崩し去ろうとおんなは決めている。家庭や家族の幸福の代弁者となる味噌を破壊し、これまでの航跡を破壊し、男とのなれそめも必死の逃避行も、充実した懐胎と温かい乳児の匂いと、笑顔やささやきや抱擁や、あの頃の暖色に霞んで見えた未来も何もかも、宇宙のすべての一切合切を灰燼(かいじん)に帰す覚悟におんなは至ったということなのでしょうね。


 映画を楽しめた人には、機会を見つけて齋藤さんの文章をさらりと一読されることをお薦めします。岸田さんだけでなく、岩下志麻さん、杉浦直樹さん他の熱演をさらに補強し、群れ集う孤高の魂たちをおごそかな昇天へと導いてくれます。





(*1):「この子の七つのお祝いに」 斎藤澪 1982 角川書店 カドカワノベルズ
(*2):「この子の七つのお祝いに」 監督 増村保造 1982

2011年7月26日火曜日

吉村龍一「焰火(ほむらび)」(抄録)(2011)~かさぶたのように~



枝を拾って火をおこす。鉄鍋に湯を沸かし、ぶつ切りにし

た身欠き鰊と、ささがきにしたウドをほうりこんだ。湯だっ

てきたよころで味噌を溶いた。

「たんと食え」

椀に山盛りだ。一口啜ったおれはうなってしまった。鰊の

ダシが味噌となじんでいる。どっしりと腹わたに沁みる。(*5)


 カナカナと哀しく唄う蜩(ひぐらし)の合唱に続き、盛夏の訪れに狂喜するかのような油蝉が鳴き出しました。事故の影響で何百万、何千万、いや、もしかしたら何億もの蝉の幼虫が暗い地中で息絶えたのではないか、目がただれ、身体を焼かれし、きゅうきゅうと悲鳴をあげながら苦しんでいたのではなかろうか、と怖い想像をしておりましたので、いつにも増してこころに迫る声となって聞えます。生きていてくれて、ほんとうに有り難うね。



 さて、上に引いたのは、吉村龍一(よしむらりゅういち)さんの小説「焰火(ほむらび)」からの一節です。第6回「小説現代」長編新人賞の受賞作として、同誌8月号に断片のみになりますが掲載されています。以下、幾らか内容に触れますのでご用心。年末には単行本化されるとの話です。一気呵成に物語に身を投じたい人は、それまでひたすら耳をふさいでお待ちください。


 集落から代々疎外されてきた家筋(獣を狩り、皮と肉をさばく家系)に育った若者が、村の男たちからの悪辣な私刑に反撃して死闘を繰りひろげます。ぞっとする描写の連続なのですが、つよく惹き付けられる瞬発力、豊かな“しなり”のようなものに溢れていてとても面白く読みました。


 その後、旅の途中の親切な船人にからくも救われ、若者はまさに九死に一生を得るのですが、ひと息ついてから振る舞われた食事が上のような“味噌鍋”だったのです。干し魚と山菜の具体名が素朴な味わいや匂い、質感をありありと夢想させ、そこに“なじんだ”味噌の厚みのある香りが加わって鼻先に立ちあがる。適確で無駄のない描写となっていました。


 若者にとって味噌はご馳走であり、それを口にするのは歓喜の瞬間だとわかります。選考委員のお一人の言葉によれば、時代設定は昭和初期とのことであり、その頃の味噌の存在感が再現されているだけでも紹介に値すると思われたのですが、僕にとってもっと驚きであり、大いに楽しくもあったのは以下に並べた“味噌地蔵”のくだりなのです。


 古代信仰の現場においては“聖域”と呼ばれる場処に死骸や汚物を放り入れたり、タブー視されがちな行為(例えば男女の交接)をあえて持ち込むことで聖性をより高める、そんな意識の大跳躍が図られたと聞いています。また、今でこそ整然として美しいお坊さんの袈裟(けさ)ですが、少し前までは図柄など混沌とした“つぎはぎ”然としていましたね。あれなども遥か昔にお坊さんが供養と修行のため、埋葬間際の死者を覆っていた布を譲り受けて我が身に纏(まと)っていたことに由来していると聞きます。これはよく知られた話ですね。


 聖性をより高めるために穢(けが)していく。醜悪な外貌を強いて力を数段高めていく。一見真逆なマイナスとも思える行為をもって、信仰の対象となるものがいかに寛容であるかを広く知らしめ、精神世界の奥行きをぐんと延ばし、結果として内在する輝きを増強する。洋の東西を越えて共通する宗教の暗い一面です。


 毎年仕上がった味噌を祠(ほこら)に献上し、そこに祀(まつ)られた地蔵像の顔や頭にすり付けるという風習は、日本のあちこちにひっそりと根付いたものとしてこれまで見聞きはしていましたが、ここまで明瞭に小説世界で取り上げられたのは初めてのように思います。


 汚さ、醜さ、臭さを端整な優しい顔立ち、柔らかなそうな丸まっちい肢体にごわごわと付着させ、常人の意識や感覚をはるかに凌駕した強靭な息吹を石の身体に宿らしめる。物語の重要な支柱のひとつとして採用されて、繰り返し何度も若者の意識に立ち昇ってくるこの味噌地蔵の面影は、実に味わい深いものがあります。


 食べものが仲立ちしていく魂の世界。味噌と日本人との結びつきの深さと長さ。僕たちが味噌に対して抱く両極端の想い、憧憬と侮蔑。それがない交ぜになって風となり、時代をこえて吹き抜けていく。──そんな事を考えるきっかけとなってくれて、実に刺激的でした。


 年末に明らかにされるだろう吉村さんの物語世界と再度まみえるのが、今からとても楽しみです。生きていれば必ず手にするでしょうね。


 お堂の床板はひんやり湿っていた。

 背中が心地よい。

 味噌まみれの石仏がこちらを見下ろしている。かさぶたの

ようにただれた味噌はすっかり水気をとばし、表情をあいま

いにかえていた。

 脱ぎ散らかされた衣服が蛇のようにからんでいた。おミツ

の着物の赤がひときわ目についた。(*1)




 地蔵さまは汚かった。かびがはえていた。顔にぬりたくら

れた味噌はひびわれている。表情もわからないほどだった。(*2)



 味噌は酸っぱくなっていた。鼠のかじったあともある。そ

れをみかねたお父が顔を洗ったことがあった。きれいにして

やろうとの一心だった。しかしその晩から原因不明の高熱

にうなされてしまった。(中略)味噌が落とされた地蔵さまが

怒っている。それがお告げのこたえだった。翌日お母が味噌を

塗りなおしたとたん父はけろりと起き上がった。(*3)



 とぎれとぎれに言葉を叫ぶ。着物をはだけたまま繋がりあ

う。うめきがお堂にこだまする。よごれきった味噌地蔵が、

錫杖(しゃくじょう)を手にこちらを見据えている。地蔵さまぁ。

おらだをお救いください。おれとおミツをあったけぇ場所さ

連れてっておごやい。(*4)


(*1):「焰火(ほむらび)」(抄録) 吉村龍一 「小説現代」 講談社 2011年8月号所載  240頁
(*2):同248頁
(*3):同248頁
(*4):同253頁
(*5):同260頁

2011年7月21日木曜日

和田竜「醤油 北条氏康に無茶苦茶怒られる」(2011)~そんな予測もできないで~



 しょっぱいものが大好きで、何でもかんでも醤油をぶっかけては

口に入れるので、一緒に食事をしている人を唖然とさせることも

しばしばである。(中略)従って、刺身を食い終えた後も、醤油は

皿の上にたっぷりと残っている。

「リョウ。昔の侍はな、食べ終わると同時に醤油もなくなるように

考えて注いだもんだ。そんな予測もできないでどうすんだ、お前」

 そんな僕の食癖に怒った父は、こういうイイ話をして、小学生の

僕を叱ったことがある。(*1)


 上に引いたのは和田竜(わだりょう)さんのエッセイの一部です。五ヶ月ほど前の新聞に載っていました。我が子の食卓での所作に目くじらを立てる、頑固っぽい父親が登場しています。小皿に注がれるわずかの醤油が気になって気になって仕方ないのです。同様の風景をどこかで目にした覚えがあるのですが──、そうだ、亡き父親を述懐する向田邦子(むこうだくにこ)さんの文章にもこれとそっくりの場面がありました。


 子供のころ、小皿に醤油を残すとひどく叱られた。

 叱言(こごと)を言うのはたいてい父であったから、父と一緒の食事で

醤油を注ぐときは、子供心にも緊張した。(中略)

「お前は自分の食べる刺し身の分量もわからないのか。そんなにたくさん

醤油をつけて食べるのか」

 早速に父の叱言がとんでくるのである。(中略)

 豊かではなかったが、暮しに事欠く貧しさではなかった。昔の人は

物を大切にしたのであろう。今でも私は客が小皿に残した醤油を捨てる

とき、胸の奥で少し痛むものがある。(*2)


 1969(昭和44)年生まれの和田さんのお父様と、向田さんの厳父とでは世代がまるで違います。育った環境も世相も当然異なっているのですが、顎のしっかりした面貌やらんらんと光って怖い眼(まなこ)が両者共に想像されて、僕にはまるで生き写しみたいに感じられるのです。


 和田さんの見立てによれば、お父様は戦国武将“北条氏康”の逸話に影響を受けていた気配なのだけど、同じことが向田さん側にも起こっていたかどうかは全くもって分からない。(*3) もしかしたら教科書のたぐいに長らく紹介されていて、ある年齢以上の人には耳にタコが出来るぐらい聞かされた説話なのかもしれない。調べれば調べられなくもないけど、正直言えばあまり触手が動かないですね、探る気力はありません。


 追跡不能の領域として謎は謎として残し、手をつけずにそっと箱に小田原北条氏は仕舞うこととして、けれど、およそ三十二年という長い歳月を越えて和田さん、向田さんお二人の“父親の記憶”が輪郭をするり重ねていく現象はとても興味深いことであり、気ままな想いをふわふわと馳せてしまう訳なのです。


 醤油の価格はピンきりです。1リットル換算で500円を越える、そんな高級品を使っている家庭は少ないでしょう。仮にそんな値段の品を使っていたとして、山葵(わさび)や脂(あぶら)にうすく濁って小皿に取り残されるのは多くて20ミリリットルでしょうから、やがて流しに捨てられる宿命の醤油はどんなに高く見積もっても、せいぜい10円程度にしかならない計算です。世の中には桁外れの吝嗇家もいてヒステリックに叫びまくる場面も確かにあるのでしょうが、ここでは単に金銭のことではない、もう少し別の湿った想いが宿っている。


 むらさきの液面の奥に潜んでいる仕事人の苦労──土を耕し、種をまき、雨に濡れ風に吹かれしながら、夏にはぎらぎらした直射日光に肌を焼きつつ穀物を育て上げ、重たい思いをして醸造家にようやっと手渡した後には、今度は蒸気や熱水と闘う汗と涙の仕込み現場に委ねられ、別の者が手塩をかけて醤油作りに励んでいく。一次産業であれ二次産業であれ、ものを創るという行為の蔭には想像を絶する対流や淀みがある。たくさんの人手と時間が費やされていく。


 そんな苦労の堆積を透かし見れずに、茫茫と背丈だけは育っていく子供の将来にいたたまれなくなり、彼らの“想像力の欠如”を補うべくしてついつい口が滑るのでしょう。眉寄せて浪費を叱っているのではない、いずれの日にか我が子が“食べ切ることの美しさ”、“始末のすがすがしさ”を体得してくれることを願っている。


 醤油の使い方をきっかけと為して人生や仕事への洞察力に磨きを掛けていく、その親から子への“直伝の時空間”がとても好ましく目に映ります。その役割がしっくりと男側、父親たちに結像していくのも大変興味引かれるところ。味噌(汁)に母性を思い、醤油に父性を覚える、そんなイメージの住み分けがあって面白いですね。


 紙面から切り取り、手元にずっと保管しながらも取り上げずに来たのは、もちろん大震災のためです。向き合うにはやや風情が硬く窮屈だった。それに、僕の惹かれて止まない艶やかな領域、つまりは恋慕や性愛、霊肉の一致する段階と食物との関わり方とはやや乖離したものにも思えて、どうにも弾みがつかなかった、萎えてしまった。


 ところがここに来て事情が変わりました。“節電の夏”の到来です。ご承知の通り、大口需要家の皆さんの創意工夫により計画停電の実施はこれまでありませんが、家庭に職場に節電に努め、僕たちもまたこの特別な夏に立ち向かっています。そこでふと和田さんのエッセイが思い返された次第なのです。


 余分なものを溝(どぶ)に捨てることのないよう“予測”をしながら物を選び、電気を上手に使い、身の丈に応じた暮らしをする。“昔の侍”のように“美しく使い切る”、そんな暮らしぶりを僕たち3.11以降の列島居住者は求められている。


 「繁栄」という言葉には、無駄や不明瞭さを帯びる「繁雑」にどこか通底する感じがあります。得体の知れぬぐにゃぐにゃの尾ひれが付き纏っていく。そのようなわけの判らないものでなく、努めてシンプルに、所作ひとつひとつに“美しさ”を宿しながら、この不安な時期を乗り越えていけたらいいと願います。

 花を愛で、着実に学び、そうして堅実にこの夏を暮していきたいものです。


(*1):和田竜 「醤油 北条氏康に無茶苦茶怒られる」 朝日新聞 2011年2月19日 持ち回り連載「作家の口福」欄に寄稿されたもの 
(*2):向田邦子 「残った醤油」 初出は「新潟日報」1979 エッセイ集「夜中の薔薇」(講談社1981)所載 僕の手元にあるのは後年出された文庫版 上記画像も
(*3):和田さんのエッセイでは、北条家の食事で問題視されたのはご飯にかけられた“汁”の量であったと紹介されています。家督を譲り隠居の身となった氏康が息子の氏政と食事をしていたところ、汁がけを二度所望した様子を見て目先が利かぬ男と判断、北条家の行く末を深く案じた、という内容です。“汁”と醤油ではずいぶん趣きが違うが、この話をかつてインプットされたお父様が和田さんの癖を正すために引き合いに出したのらしい。蛇足ついでに書けば、この北条家の逸話に関しては本によって細部がまちまちであり、たとえば青木重數(あおきしげかず)さんの著した「北条氏康」(新人物往来社 1994)においては“汁”ですらなく湯漬け用の“湯”となっています。いずれにしても“昔の侍”が醤油の使い方で揉めて場が騒然となった訳ではないみたい。なんだか拍子抜けだなあ。安堵と物足りなさが交ざった気持ちです。