2011年10月23日日曜日
You are what you eat
先日、何年かぶりにある映画(*1)を観直しました。
仕事に行き詰まった初老の作曲家が主人公。溺愛する娘を喪い、そのあげく妻との仲もこじれてしまったのか、単身海辺の避暑地にやって来ます。持病である壊れかけの心臓を療養するのが目的ですが、精神的に追いつめられての雲隠れ、逃避行なのは誰の目にも明らかです。そこで出逢った眉目秀麗な少年タッジョに目を奪われ、平衡を失っていた男の魂はさらに深く傾いで転覆寸前となるのでした。
物語の背景にあるのは“疫病”の蔓延です。“死”を強く意識させて男の内面や美意識を彫り込んでいく。
登場人物を追い込み、魂の振幅を後押しするのは作劇上の技法としては常套手段であって、悪魔や犯罪者の群れなんかが背景を彩ります。けれど、この映画のあまりの生々しさ、現実世界と共振するさまに意表を突かれ愕然としてしまいました。原作をひもといてみれば、男は喉の渇きを潤すために腐れかけの苺を(十分に疾病のリスクを承知していながら)口にしており、それが原因で罹患して終幕意識を失います。情報の隠蔽と規制、出版物の購入差し止めなどが描かれてもいます。ロマンティークな気分は遠のいてしまい、黙示録の光景、恐るべき啓示として目に映ってなりませんでした。
また、昨日には一通のお手紙をいただきました。まさに渦中のなかの渦中に住まうひとからで、そこには「この度の原爆事故の一刻も早い収束を祈っています」と書かれていました。“原発”ではなく“原爆”と綴られている。間違いには違いないが、実感として当たっている、正しいと僕は感じています。
津波に襲われ破壊し尽くされた沿岸部にたたずんだとき、僕の意識は大戦の惨禍と無理なく直結しました。手紙の女性が原発と原爆を連結して筆を走らせてしまったのは、恐らく自然すぎるほど自然な思考の流れが彼女の脳裡にあったためです。もっともな事態です。
本能や直感を冷笑し、冷静さ、科学的根拠の名のもと言われるまま(というより“言われないまま”というのが実態に即しているように思えますが)行動するだけで本当に大丈夫なのか。僕のなかでは盛んに波立つものがあって、落ちつかぬ日々を過ごしています。
なるほど放射線障害とイタリアの古都を襲った疫病は違います。また、発電所事故と広島、長崎を襲った原子爆弾の炸裂とは無関係です。けれど、私たちは何かしらの地図を頼りに、自分たちなりに道を見定めながら歩いていくべきだと感じます。ロシアの事故、目を覆う戦禍、しのび寄る疫病といった先人の背負った“現実”をそっと懐中に忍ばせて、自分たちなりの歩みを続けなければいけない。
You are what you eat ──そんな言い回しを以前教わりました。
これからの僕たち、そして、僕たちの次の世代にとってこの言葉の放つ意味は何層にも膨らんでいくでしょう。食べることに限らず、読むこと、見ること、学ぶことといったあらゆる“摂取”行為が次の一手を大きく左右していく。
弛緩してばかりはいられない。笑ってばかりの時代は過ぎたように思えます。ふくらはぎか足裏か、どこかには緊張を引きずりながらしっかり歩んでいきたい、そう思っています。
(*1):Morte a Venezia / Death in Venice 監督ルキーノ・ヴィスコンティ 1971
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