2011年10月13日木曜日

リシャール・コラス「紗綾 SAYA」(2011)~あれば十分です~



 リシャール・コラスさんの新刊「紗綾 SAYA」(*1)を読みました。湿り気をうしなって砂交じりの仲になった夫婦が登場します。寝室も別にしてしまい、実のある会話も成立せず、もはや難しい局面に入りつつある。寝たきりとなった家族も抱え、青息吐息の毎日です。そのような膠着した局面で男は運命的な出会いをしてしまうのでした。ぼんやりした雨雲がすべてを覆っていく、そんな筋立てです。


 夫婦の危機や嫁姑の確執は物語の題材として真新しいものではなく、むしろ陳腐なものです。わざわざ抜き書きして記録するに値する文章、作品とは誰も思わないかもしれないですね。人によっては途中で放り投げてしまうかもしれない。 


 けれど、この物語をつらぬく視座が、実は前作「遙かなる航跡」(*4)に引き続いて登場したある人物に置かれたものであり、新旧ふたつの物語がこの人物を間に挟んで秘かに連結し、最終的に螺旋を描き天空に向かって飛翔を開始しているのだと巻末で知れると、僕の胸には言いようのないおごそかな想いが湧きました。一見ステレオタイプの不倫劇に見えるけれども、かなり緻密にふたつの物語は構築されて世に送り届けられている。


 ウェブを検索すると作者のインタビュウ(*5)が見つかります。震災と発電所事故という巨大な壁がたくさんのひとの行く手を阻(はば)んで、航路を揺るがし、ひどく狂わしてしまった。このような時に求められるのは人とひとの心を繋ぐ“絆(きずな)”であり、その確認が大切と思う。そんな啓発の念をこめて上梓したことが静かな口調で語られています。


 物語のなかの男女とそこに関わる若い娘は、最後散り散りとなって自壊していくのでしたが、作者は前作の主人公だった人物(作者の分身)の視線を“絆”と為して離散を食い止め、忘却の淵に追い払われるところを寸でのところで回避しているように見えます。救われない話に見えて、ぎりぎりのところで救われているのですね。


 誰もが同じようなものを抱えて人生という演目をこなしている。“ばみり”が見当たらずに途方に暮れたときには自分の物語を隣人に預けてみてはどうか。そうして気持ちを整理し、呼吸を整えてみてはどうか。家族の絆だけでは何ともならぬ凄惨な現状にたじろぎ、自棄的な行動に走らず、思い切って“他人との絆”に賭けてみてはどうか───そのようにコラスさんは言いたいのでしょうね。


 本国フランスで二年も前に出版され、こんどは作者自身の翻訳で世に送り出された日本語版「紗綾 SAYA」は、作者の言う通り“震災後の物語”として記憶に刻まれていい、こころざしのともなった一冊のように受け止めています。


 さて、味噌汁の記述を並べてみましょう。

 夫との関係は、すっかり冷えてしまいました。毎日夕食まで

帰るかどうかもわかりませんから、夫のためにわざわざ食事を

用意しません。炊いたご飯と残り物のおかず、それに味噌汁が

あれば十分です。

 ビールを冷やし、簡単なつまみを用意するだけのこともあります。

夫はきちんとした食事がなくても、冷えたビールとつまみがあれば、

それで満足なのです。(*1)

 “習慣化”したり“義務”を感じ始めると、どのような崇高な行為であっても生彩をたちまち喪っていく。先日読んだ本(*2) にそんな記述がありました。そうですね、たしかにそういう時期って在るもの、起こるものです。仕事だってそうだし、遊びだってそう。食事はその典型です。“日常のかなめ”となるのはリズムの持続であったり程度の保持であったりする訳で、どうしてもループを作って“習慣化”させていく流れです。


 祭事であったり記念日だったり、それは人それぞれではあるけれど、特別な日に特別なものを存分に食べて“習慣”を押し崩す。難しい言葉を持ち出せば“蕩尽(とうじん)”して疲れたこころを洗濯する。そんな工夫を僕たちはします。けれど、それすらも“義務”的な色彩を帯びてくると気持ちはやや乖離してしまうし、解放感どころか窮屈を覚えたりもします。シンプルなのだけど、シンプルでいられない。歯痒い“難しさ”があります。


 上に引いたのは「紗綾 SAYA」の最初の方に登場する場面です。習慣として義務として食事は作られ列をなしていく。“炊いたご飯、残り物、簡単なつまみ”といった表情に乏しい字面(じづら)が蛇のようにとぐろを巻くばかりで、そこには共振を誘うものはありません。


 “それに味噌汁があれば十分”という言い回しはそれにしても強烈です。願いや祈り、気づかいは微塵もこめられていないし、健康にも寄与しない、具のほとんど入っていない生しょっぱい液体が目に浮かんできます。肘鉄を喰らったような気分です。


 “味噌汁”はさらに続いて次のような、どんよりと曇った風情で再度振る舞われています。


 朝、夫と子どもたちの食事はトーストにヨーグルトと簡単に済む

のですが、義母だけはそうはいかないのです。彼女にはきちんとした

和食を出さなければなりません。味噌汁に魚沼産の炊きたてのごはん、

旬の魚、お新香と梅干。それらをきちんと用意させる上に、毎朝違った

食事でないと許してはくれません。私にとって義母の要求は、大きな

負担です。

 それでも毎朝きちんと準備をし、今日もお盆にお絞りと箸をのせ、

味噌汁にごはん、お新香と梅干、のりが入った箱をきれいにセット

しました。お皿にほんの少し醤油をかけた大根おろしを置いて、焼き

たての鮭をつけて、お膳は整います。

 小さなお盆にティーポットと茶碗、茶筒を揃え、台所に誰も入って

こないことを確認してから、私はエプロンのポケットからスポイトを

出しました。(*3)


 年老いていよいよ介護の手を要するようになった姑なのですが、プライドが高く、意地だけは堅牢を保ち、他者への高圧的な態度を崩そうとしません。世話するおんなの内面では堆積するものがいっぱい一杯になっていく。極限に至った憤懣は“スポイト”から零れる水滴という形でついに顕現し、ちょろちょろと洩れ始めてしまいます。


 ここで食事はまさに“義務”となり“習慣化”しています。弱い立場のおんなにとって、それがどれ程ひどく内面を荒廃させるかを、写実的に、けれど、やや誇張して作者は書いていく。漬け物と共に味噌汁が執拗に、印象深く顔を覗かせていますね。


 コラスさんは前作で外から見た日本を描き、“非凡なもの、例外的なもの、普通でないもの”の一翼に和食を置きました。味噌汁も驚きと憧憬の視線をまとって陸続と登場し、読み手の僕を大いに悦ばせたのでしたが、今作では一転して暗い様相を呈して並んでいる。コントラストが鮮烈です。


 絆によって結ばれていく人生という名の永久螺旋──。その両側面、日なたと日かげのいずれにも“味噌汁”があって僕たちをそっと見守っている。“習慣”の中で埋没してウヤムヤに見えるけれど、思えばなかなかの存在感ある脇役だったりする。境界線にたたずむ仏蘭西生まれのひとりの男が注ぐまなざしの、堅さ、純度を感じます。


(*1):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社 引用は14頁
(*2):EMMANUELLE,New Version エマニエル・アルサン 安倍達文訳 1988 二見書房 「もしそれが習慣的なよろこびであるとすれば、そのよろこびは、芸術的な性質を持つことをやめてしまう。非凡なもの、例外的なもの、普通でないものだけが価値を持つのです。つまり『決して二度と見ることができないもの』にこそ、価値があるのです。」(237頁)
(*3):引用は16-17頁
(*4):「遥かなる航跡 La Trance」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 集英社インターナショナル 2006  
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/11/la-trance2006.html
(*5): http://www.sankeibiz.jp/econome/news/110917/ecf1109170501000-n2.htm

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