2009年8月31日月曜日

谷崎潤一郎「少将滋幹(しげもと)の母」(1949-50)~泣きみそ詩人~



 従来藤原時平と云うと、あの車曳(くるまびき)の舞台に

出る公卿悪(くげあく)の標本のような青隈(あおくま)の顔を

想い浮かべがちで、何となく奸佞(かんねい)邪智な人物の

ように考えられて来たけれども、それは世人が道真に同情する

余りそうなったので、多分実際はそれ程の悪党ではなかったで

あろう。嘗て高山樗牛(ちょぎゅう)は菅公論を著わして、

道真が彼を登用して藤原氏の専横を抑えようとし給うた

宇多上皇の優握(ゆうあく)な寄託に背いたのを批難し、

菅公の如きは意気地なしの泣きみそ詩人で、政治家でも何でも

ないと云ったことがあるが、そう云う点では時平の方が

却(かえ)って政治的実行力に富んでいたかも知れない。(*1)


 これまで漠然と避けていた谷崎潤一郎さんの作品を、思うところがあって今更ながら読んでいます。こんな齢になるまで放っておいたのは明らかに間違い。いや、それともこれでいいのかな。本との出逢い、昔観た映画との再会、不意討ちを喰らわせ胸に飛び込む音楽──まみえるべき時期を何故か知るようにして突如彼らは立ち現われます。この世にはそんな不思議って、確かにあるみたい。


 絶世の美女と噂される“北の方”をめぐって、複数の男たちの想いと行ないが衝突していきます。いくらかお伽話じみた箇所もありますが史実に基づくお話しで、悲喜こもごもが絡み合う様子は祭事空間の狂熱を想起させるものがあります。人がひとに激しく惹かれていく、そして別れていくことのどうしようもない顛末が描かれており、随分と考えさせられるものがありました。


 こころを奪われ、その後、手の届かぬ場処へと背を向けて去っていった愛しいおんなの面影をなんとか振り切ろうと煩悩にまみれた男どもが模索します。仏法の“不浄観”を支えとして記憶からの脱出を試みたりするのですが、結果的には上手くいきません。じたばたと奔走しまくる後半部分は、読んでいる此方の気持ちもざわざわと泡立ち狂ってしまうぐらいに凄絶です。



 無理だよ、そんなことしたってさ、出来ないものはできないものだよ、と谷崎は僕たちにつぶやいてみせます。そうかもしれませんね。ひとの心とは相当に我がままで不器用なものです。


 最初に引いたのは冒頭近くの一部です。物語で重要な役回りを担う、時の左大臣藤原時平を紹介するにあたって、好敵手であった右大臣の菅原道真を引き合いに出して評しています。“泣きみそ”という表現が使われていました。


 高山樗牛(たかやま ちょぎゅう *2)さんの「菅公伝」は「樗牛全集」の3巻にも収められており、どちらも現在国会図書館のウェブ上のアーカイブで見ることが出来ます。読みにくい字を辿ってみたのですが、僕の目が節穴であり見逃した可能性も皆無ではないけれども、“泣きみそ詩人”という言い回しは見つかりません。似たような文章はあります。例えばこんなくだりです。


 公や静に往時を懐慕し、現況を思料し、咏嘆によりて其の哀情を遣るべき也。天は公に授くるに詩人の天分を以てし、而して先ず公に與ふるに政治家の境遇を以てせりき。公の政治家たりしや煩悩内に公を苦め、●奸外に公を陥れ、遂に公をして無告の流人たらしめき。然れども悲し哉是の如くするに非ざれば公は遂に詩人たる能はざりし也。而かも公は死に至るまで是の天分の地に居るを悲み、静に春秋の榮楽を観じて何時かは昔日の榮華に踊る有らむ事を望みたりき。(*3 ●読めません!)


 どうも谷崎さんが独自に登用した表現ということらしい。東京の日本橋に生まれ、関東大震災後に神戸に移り済んだ谷崎さんの口から“泣きみそ”という言葉が出ていることからするならば、どうやら絞りこまれた地方、区域でしか通用しない特殊な蔑称ではなさそうです。“泣きみそ”と言い著わす情景は昭和二十年代の日本の津々浦々で普通に展開されていた、と捉えて良いのでしょう。


 あえて別項で取り上げるほどにも感じない内容なのでこの場に連記してしまえば、池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」には「泣き味噌屋」(*4)という題名の一篇があります。鬼平こと長谷川平蔵のフィールドはご承知の通り江戸八百八町であり、地方出身者の坩堝であります。今ではほとんど耳にしない“泣きみそ”はやはり全国区の蔑称であった可能性が高い。



 ここで例によって辞引きを手元に寄せてみましょうか。なき-みそ【泣(き)味噌】「泣き虫」に同じえっ、これだけなんだ。おやおや。では、次に「泣き虫」を開いてみましょう。なき-むし【泣(き)虫】ちょっとしたことにもすぐ泣くこと。また、その人。泣き味噌。泣きべそ。(小学館「大辞泉」)


 “泣きみそ”は“泣き虫”と同意語ということになり、垣根はまるで無いようです。けれど、どうでしょう。“泣きみそ”は“泣き虫”なんでしょうか。



 かつて幼少のころ、僕は随分と涙をこぼす子どもでした。泣いてヒクヒクとしゃくりあげることを烈しく恥じて、こうなった事態に赤面してさらに泣くという悪循環にいつも悩んだものです。そのようにして咽喉をウクウクといつまでも引きつらせる情けない僕を、級友たちは困り顔で取り囲むばかりで小馬鹿にすることなく見守ってくれたのですが、その優しさがまた身に堪え、目にひりひりと沁みて更なる涙を誘うのでした。可愛らしい同級生の女の子もどうしたものかと遠巻きにして見ている。ああ、恥ずかしい、泣けてくる、ウクウク…


 僕はその時、自分のことを“泣き虫”であると定めていた気がします。そんな己自身をとことん嫌悪し、この世界から消してしまいたいと深く願ったものでした。泣き虫、毛虫、はさんで捨てろ、という訳です。ムカデ、ゴキブリ、ダンゴムシ、泣き虫、毛虫、はさんで捨てろ、おまえはクラスメイトの末席に座る価値ない敗北者だ。


 そのような自意識過剰の実体験を踏まえて言うならば、“泣きみそ”という響きは随分とやさしく耳朶を打ち、いい言葉だなと思うのです。“泣きみそ”とは、すなわち“泣いてばかりいるみそっかす”です。言葉の構成、骨格を見据えれば、この泣きじゃくる子どもの現時点は成長の過程の大事なひとつなのだと判ります。いつかこの児もいっぱしの味噌汁になる、自分たちの仲間になるのだと誰もが思い、ゆったりと受忍していく雰囲気が自ずと生まれてくる。


 泣いている当人はとことん情けなく悔しさに身悶えするのは変わりませんが、どんなに恥ずかしくても決して“虫”ではない。少なくとも“半人前”として“人”の地位を保つことが出来ます。なにくそ、負けるものかという気持ちが湧く、そんな余裕が生まれてくる。


 いつ頃から“泣き虫”が“泣きみそ”と入れ替わってしまったものか。湿度の高い、薫り立つミストのような趣きが対人関係から喪われて、その分、僕たちを取り巻く世界は騒々しくって乾いた、とても厭な空気が流入し、きつきつに充満した感じを受けます。


 “みそっかす”を受け入れ、“泣きみそ”を見守る大らかさを保っていきたいものだ、と、かつて間違いなく“みそっかす”だった僕は、谷崎本を一冊また読み終えて密やかに思っているところなのです。



(*1):「少将滋幹(しげもと)の母」 谷崎潤一郎 1949-50
(*2): 高山樗牛 1871~1902 「菅公伝」は1900年上梓
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/285.html(国会図書館)
(*3): 第九章 詩人菅公 より
(*4):「泣き味噌屋」 池波正太郎  初出「オール読物」1974年2月号
  「鬼平犯科帳(十一)」文春文庫 所載 なお抜粋したものがこちらにあります。
   http://www.asahi-net.or.jp/~an4s-okd/private/bungaku/buo14.htm
※最上段の写真は坂東玉三郎さん演じる北の方 玉三郎さんのファンの方の頁から拝借しました。http://chikotyan.blog84.fc2.com/blog-entry-41.html さすがに綺麗ですね。


2009年8月29日土曜日

望月三起也「ワイルド7」(1969-79)~みそっかすのユキ~


 当然のことながら“みそっかす”は末尾の“かす”に重心が置かれています。再び「大辞泉」(小学館)をここで引き寄せて“かす”について調べてみれば、③、役に立たないつまらないもの。最も下等なもの。くず。「人間の─」──とありました。やっぱり良い感じはしません。言われた当人は少なからず傷付くに違いなく、どのように声色を変えてみたって嫌な響きであることは避けられない。


 しかしながら、犬や家畜、唐変木に代表されるような“人に非ざるもの”に例えて相手を侮蔑するときとは若干趣きが異なるように感じます。おまえは負け犬だ、と蔑むとき、オレは勝ち犬だぜ、とは思っていないでしょう。あいつは豚よ、とあざけるとき、わたしは麒麟なのよ、とは思わない。言った側はすべからく自分を“人間さま”と思っているものです。貴様のような奴とは質も階層も違うのだと突き放した表現、人間という舞台からの抹殺が図られている。


 対して“みそっかす”は“味噌汁にならざるもの”の意です。“みそっかす”が半人前を指す蔑称ならば一人前に仕上がった者は“みそ”となる。口にする人間は己を“みそ”または“味噌汁”と同一視しており、“みそっかす”と呼んだ者とは似た者どうしになる理屈です。両者は階層を連ねて並んでいる。そこには多少の疎外感は生じても、拒絶反応じみた違和感はないのです。(ここでも日本人が“味噌(汁)”に自身を重ねていますね。とても興味深い形容です!)


 また、酒粕(さけかす)、粕漬(かすづ)けといった日本酒の生産工程で派生する残滓を上手く活用した調味料や料理法もある訳です。カスという言葉には徹底して忌み嫌う風の烈しい感情は付随しない、そんな生活面での寄り添いも見て取れます。英語の卑語で盛んに用いられる尾篭(びろう)な単語とは一線を画するものでしょう。


 ちばてつやさんの描く少女、茜(あかね)はタイトルをもって、幸田文さん自身は具体的に親戚からの声をもって“みそっかす”という響きに打ちのめされはしたけれど、彼女たちの表情が総じて明るく、劇の終幕では大きな仕事を成し遂げて晴れがましさに包まれます。そして、ここが重要なのですが、大いに傷付きはしたけれど自分が“みそっかす”であったことを彼女たちは否定していないように見えます。つまり“みそっかす”とは成長にともなう局面に過ぎないわけです。ひとは誰でも一度は“みそっかす”であらねばならぬ、ということなのでしょう。


 このように全否定ではなくって一部否定、もしくは一部肯定のニュアンスを帯びた柔らかさを内包する表現ゆえに、「わたしはみそっかすだから」と自分から笑顔で名乗ってしまう者すら出て来てしまうのです。たとえば──



 少年漫画誌に連載された望月三起也さんの「ワイルド7(セブン)」(*1)は、僕の世代の、特に男子にとっては欠くことの出来ない漫画でありました。小学校、中学校時分、教室にひそかに持ち込まれた単行本はとても人気があり、「アストロ球団」(*2)と共によく回し読みされましたね。


 選び抜かれた数名の元死刑囚が白バイチームを組まされます。続発する凶悪事件、組織犯罪と対抗するために編制された超法規集団です。捨て身の潜入捜査に端を発し、血ふぶき、粉塵、黒い煙にまみれた壮烈な闘いが延々と続きます。僕たちは完全に捕り込まれてしまい、固唾を呑んで頁をめくったものでした。


  息を呑んだ理由にはもう一つあって、望月さんの描く人物が独特の色気を放って目を射抜いたせいもあるでしょう。チームリーダーは二十歳そこそこの飛葉(ひば)という若者であって、いま読み返せば随分と青臭い会話が続くのですが、その当時は彼らの伸びやかな四肢や諦観を湛えた眼差しに大人の薫りを感じて恍惚となったものです。



 家族を殺された恨みを晴らすために単身オートバイを駆り、ショットガンを放って復讐の殺戮を繰り返していたユキという娘が「コンクリート・ゲリラ」という物語で捕まり、その度胸を買われて途中からチームに参入することになるのですが、彼女は自分で自分のことを“みそっかす”と称しています。



みそっかすでもワイルド7

みそこなっちゃ いやだわよ(*3)



 見損なったりしませんよ。八面六臂の働きに多くの少年がめろめろでした。ユキの気風、容貌、ファッションにうっとりと見惚れたものでした。


 十年間に渡った連載は、実にそんなユキの遠く去っていく姿で閉じられます。愛するひとの生還を願い、百にひとつの奇蹟を信じて天空に身を躍らせる。蒼い海原に身を投げて消えていくラストカットは胸に刻まれて、いまだに鮮烈です。


 もはやそこには“みそっかす”の片鱗は見当たりません。成長し切った人間、成熟したおんなとして大長編の物語を完結に導いたのでした。僕たちはただただ陶然として目を潤ませるばかりでした。そんな最終回が載った雑誌は黙々と休み時間に回し読まれ、誰もが感想を口にせず、ぶっきらぼうに、ほらよ、と隣りの机へ手渡されました。


 何につけても、どう足掻いても、誰もが最初は“みそっかす”。でも、大丈夫。羨望にまばゆく見える先輩諸氏は神さまでも偉人でもない、“味噌汁”に過ぎません。
 いつか自分も“味噌汁”になれれば、それで十分、それで上等。

 
 季節はいよいよ夏から秋へ。共に挫けず、騒がず、四季を駆けていきましょう。


(*1): 「ワイルド7」 望月三起也 「週刊少年キング」連載 1969-79
(*2):「アストロ球団」原作遠崎史朗 作画中島徳博 「週刊少年ジャンプ」連載 1972-76
(*3):第15話「運命の七星」より
最上段の見開きは第9話「緑の墓」、カラーイラストは第4話「コンクリート・ゲリラ」より。

2009年8月28日金曜日

幸田文「みそっかす」(1948-49)~棄てがたい~


 
 とうとう或る朝、正直にいやだといって廊下へとことこ逃げだした。

虫のいどころが悪かったのか父はおこって迫って来る始末に、家内中が

総(そう)に立って遂に便所の前でつかまえられた。(中略)


 強情っ張りのみそっかすは、この事件からオバ公さんによって文子の

冠詞として定着された。(*1)



 ちばてつやさんの漫画に先行すること十五年、別の「みそっかす」が上梓されています。明治から大正にかけて活躍した小説家幸田露伴の娘、文(あや)さんにより描かれたのは、ちばてつやさんの世界とどこか通底するひとつの家族の生々しい実相でありました。


 胸を病んで早世する母、河の氾濫により泥に浸かる住宅、祖母や叔母への愛着と重圧、美しかった姉の病死、継母との同居で一気に緊迫していく日常、いがみ合う父と母、火鉢から投げ付けられる鉄瓶、かかる熱湯、白く蒸気をあげる着物、露に濡れ茂る庭に独りきりで横たわる夜──。



 選び抜かれた言い回しがうつくしく、胸に迫る内容となっています。武家の末裔、文人の家といった特殊性はもちろんありますが、おとなたちの都合で翻弄され続ける子どもの苦痛や哀しみ、男女が一つ家に寝起きすることの難しさなど人生の普遍が切々と詠われていて、あれこれと考えさせられることしきりでした。


 幸田さんのこの本が、ちば漫画の原動力のひとつとして恐らくは機能したのでしょう。上条茜(あかね)という少女と幼い日々の文さんの姿が随分と重なって見えます。
もっとも、こちらの少女は叔母さんから“みそっかす”と具体的に呼ばわれる日々です。活きた言葉として“みそっかす”は頑然として在って、それが叔母さんの喉もとから発せられる度に少女はひどく萎縮し、かなしみの絵具で胸中を暗く染めていきます。



 アメリカの映画を観ていると卑語を随分と耳にしますよね。会話に抑揚を付けることが目的のように狂ったように連射されることもあり、意味らしい意味をすっかり失って聞こえます。大概の場合、字幕だって直訳を避けます。何てこった、ふざけんな、馬鹿やろう──と文字は並びますが、実際はとんでもない言葉が舞い踊っている訳です。例えば、そうですね───いや、止めておきましょう。まあ、ご承知の通りです。


 そのようにして卑語、蔑称は本来の意味合いを徐々に薄めていくものかもしれません。生き残っていくうちに叱責や侮辱、嘲笑する際の記号や刻印に化けてしまい、口にする方も聞かされる方も字面にいちいち左右されなくなる。

 ですからこの日本独特の“みそっかす”という蔑称を四角四面に受け止め、その意味や生い立ちを探ることは滑稽なことかもしれません。ほとんどの人は気にも留めないものでしょう。“馬鹿”と言われて馬と鹿はどっちがより馬鹿なんだろ、その頭や脚力の順列にうんうん頭を悩ます人はいません。


 ですが、幸田さんは血の所以なのか、当時も、そして、長じてからも大切にこれを自問し続けたのですね。連載されたものを単行本としてまとめる際に書かれた文章でしょうか。題名の由来に触れて幸田さんは、かなり実直な表現で“みそっかす”という言葉への印象を語っています。書き写してみます。


 『大言海(だいげんかい)』をあけて見た。そこにはみそっかすという

ことばは載っていなかった。そうか、無いのか、──重いその本をもとの

棚へかえして、なお余情がたゆたい纏(まと)わり、鐘の尾に聞きいると

きに似ていた。(中略)



 みそっかすなんていうことばは、もう無い方がいい。辞引(じびき)に

もない方がいいし、なくしてしまいたい。ほんとうに私はそう願う。現在

すでにこのことばは消えている。(*2)


 記憶を辿り、辞書を繰ってまで何かを掴もうとするなんて──。ちいさな胸をどれだけ痛め、どれほど悶々と苦しんだかがうかがい知れる何気なくも厚味のある所作です。口にした叔母さんにしても、まさかここまで姪っ子が思い悩んでいくとは想像もつかなかったでしょう。


 言葉はとてつもなく重たいものです。未来は幾らかなりとも変えられるかもしれませんが、過ぎ去りし過去は訂正がきかない。後悔先に立たず。心して暮らしたいものです。


 さて、それでは幸田文さんは怨嗟と苦渋に満ちた回想を繰り返すばかりだったものでしょうか。“みそっかす”は忌まわしき濁点となって彼女の記憶に残り、僕たち読者の気持ちも暗く捕えていくものでしょうか。呪われた言葉として文学史を汚したものでしょうか。


 とはいえ、──と暗く考える。そういう扱われかたでいじける児が一人

もいなくて済む世の中が、はたしていつ来るものだろうと思うと、私は

みそっかすの響に棄てがたい愛を感じる。はるかに遠く鐘を惜しむ心を

もって、あえてこの題をえらんで送るのである。(*2)



 味噌っかすはかすなりに味噌漉(みそこし)の目に生きのこって、から

くも父をみとり終り、強情っ張りはどうやらこうやら浮世に棹(さお)を

突っ張り通してやって来たとは、われながらめでたいことだったと、

みそっかすの弁である。(*1)



 幸田さんがめくった辞書には見つかりませんでしたが、その代わり見事に僕たちの国で育まれた“みそっかす”という言葉への立ち位置を示してくれている。身をもって証し立ててくれている。


 「落ちこぼれ」といった断定的で冷酷な口調でもなければ、たとえば「負け“犬”」と称して人をひととも思わない差別的で屈辱を上塗りするような響きを含まない。“みそっかす”は存在を真っ向から全否定する表現ではない。


 判官贔屓と笑われそうですが、僕は悪い印象を抱けないのです。慎ましく、独特の眼差しを含んだ言葉が“みそっかす”なのだと幸田さんは教えてくれています。

 
(*1):「みそっかす」 幸田文  単行本は岩波書店から出された 1951 
(*2): 「みそっかすのことば」 幸田文 1951
なお最上段の写真の出自は以下の頁 
http://oak.way-nifty.com/radical_imagination/2005/07/post_3d10.html

2009年8月27日木曜日

ちばてつや「みそっかす」(1966-67)~獣みたいな子~

 「あしたのジョー」(*1)、「のたり松太郎」(*2)等で知られる漫画家ちばてつやさんの作品に「みそっかす」(*3)というのがあります。


 お話はふたつの軸で貫かれています。ひとつは家族の集合離散、のたうつ葛藤の様子です。 病弱に産まれて長期療養を必要とされ、親元から四歳のときに引き離されてしまったひとりの少女、茜(あかね)が主人公です。紀伊半島の海辺の寒村で伯父草介(そうすけ)の手により育てられたのですが、放浪画家である草介の自由奔放な性格が茜に野性味を付与し、天性の利発さ、自由闊達さに磨きがかかっていきます。


 烈しさと慈愛、歓びと淋しさを交互に瞳に宿す少女の表情を作者は丹念に描いており、やはり子どもを描かせると上手いな、と感心させられます。いつしかこちらも気持ちがぐんぐん入って目が離せなくなっていく。


 そんな茜が久しぶりに上条家の大きな屋敷に戻ってきます。誰もが嬉しいはずの帰宅なのですが、実に六年間も音信や往来が満足にありませんでしたからね、茜と両親や姉妹とはいつまでも馴染むことが出来ずに衝突を繰り返してしまうのです。


 そうこうする中で上条家の営む商船業は破綻し、自殺を図って父親は海に飛び込みます。助けようとした育ての親たる草介も溺れた挙句に衰弱死して、残された家族は大混乱のなかで経済的苦境に立たされ解体寸前となるのです。茜はひとり悩み苦しみ、育った海辺を目指して家を出ます─────

 もう一つは茜が通うことになった学校での騒動です。折りしもその白樺学園には経営乗っ取りの陰謀があり、偶然にも謀議を耳にしてしまった茜が孤軍奮闘していくこととなります。



 家族やクラスメイトから煙たがられて孤立しつつも、少女は持ち前の気丈さで窮地を切り抜けていきます。手作りの人形や相手にされない老犬を友とし、泥で作った家族に語り掛け、学校ではやはり嘲笑の的となっているパッとしない男の子を援けながら懸命に考え、必死になって生きていく姿には静かな感動を覚えます。


 ところで面白いのは、タイトルに冠された語句が会話にもト書きにも現われて来ないことです。『大辞泉』(小学館)をあけて見ます。そこにはみそっかすということばが次のように載っていました。

みそっかす【味噌×滓】①すった味噌をこしたかす。②子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。みそっこ。


 母親の口からは「へんくつな子」「おりからはなたれた獣みたいな子」「敵意にみちた獣」と揶揄されるのですが、“みそっかす”とは呼ばれていません。誰もそのように少女のことを言い表さない。

 ひとつの興味深い現象が確認できます。この作品はアニメーション化されてテレビ放映されたのですが、そのタイトルは『あかねちゃん』(*4)と変えられているのですね。



 当時“みそっかす”という言葉が活きた言葉であったことの“証し”となるのか、それとも世間で通じない死語として却下されたものなのか、僕には正確な判断が付きません。でも恐らくは前者でないのかな。アンダーな印象を避けるために改変されたのじゃないかしらん。この作品が描かれた1966年には、十二分にそのタイトルの意が読者に酌まれていたことが推し量れる訳です。読者の身近にも“みそっかす”がいた、いや読み手自身がそもそも“みそっかす”であった。他人と違う自分、劣等意識にさいなまれる自分自身を田舎育ちの孤独な少女に投影して声援を送ったのでしょう


 思えば60年代後半から1970年代にかけて少年少女誌を彩った漫画作品の多くが、何かしらの黒い影を帯びていたように振り返ります。欠陥、不具、倒錯、精神異常、片親、身体的な傷などなど。実に奇態なデフォルメを定着させられ、世間からそれを包み隠そうと苦悩し、時に露わにされて絶叫し暴走していった主人公たちの姿はさながら百鬼夜行図のようで美しくも妖しい光芒が感じられました。

 読者がすんなりそこに自分を投影し得たことは“時代”なのでしょうか、それとも僕たちが真っ黒な影にまみれた鬼のごときものを抱えていたのでしょうか。振り返れば奇妙で懐かしい思いを抱きます。

 とにかくここでの“みそっかす”という題名には相当にウェットなものが潜んでおり、お世辞にも胸を張れるような言い回しではなかったのです。日陰者の宿命が刷り込まれていたことは違いありません。


 さて、目を現在に転じて僕たちの日常を眺めてみましょう。“みそっかす”という言葉はどうなっているのでしょうか。皆さんの周囲に“みそっかす”はおられますでしょうか。

 茜は四人姉妹の三番目でしたが、現在の家族において兄弟姉妹の数はいよいよ少なく、さまざまな年齢の子供たちが一同に会して遊ぶことは稀有な出来事になってもいます。僕の世代より下の人たちには“みそっかす”のイメージを固めること自体が困難で、首をひねってしまう方も多いでしょうね。

 地表にてパタパタパタと羽ばたくも飛び立つ力がなくなっている、そんな夏の終わりの蝉たちのように、“みそっかす”はもはや何処かに姿を消そうとしているものでしょうか。


 もう少しこの事については考えてみようと思います。


(*1):「あしたのジョー」 ちばてつや  原作 高森朝雄  1968-73
(*2):「のたり松太郎」 ちばてつや  1973-98
(*3):「みそっかす」ちばてつや  1966-67
(*4):「あかねちゃん」 東映動画 1968 フジテレビ系列で放映
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%AD%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93



2009年8月16日日曜日

斎藤茂吉「味噌歌十首」(1906)~聖(ひじり)~



 ふる里の ふる里人は あやしかも
   
   畑の豆より 甘き味噌つくる

 いにしへは 酒を聖(ひじり)と 歌ひけん
    
   われは味噌をし ひじりと言ふ可し



 東京帝大医科大学に入学した斎藤茂吉さんがその翌年の1906(明治三九)年、学芸の手ほどきを受けた郷里のお寺の住職へ向け手紙をしたためました。その頃茂吉さんは二十四歳の計算になりますね。ふるさとの味噌を東京へ送ってあげようという和尚さんの厚意に対して、謝意に添えるかたちにて味噌を題材とする十首が読まれました。(*1) 上に掲げた二首は、そのなかから僕が勝手に選ばせてもらったものです。


 この歌人ゆかりの寺院に足を運んでまいりました。正月と盆の年に二度、それも各々一日限り公開されている「地獄極楽の図」を一目見たくって、これまでずっと機会を伺っていたのです。歌人はこの十一幅の生々しい絵に影響を受け、後に「赤光」(*2)に収められた有名な十一首を作っています。盂蘭盆には似合いですから、書き写してみましょう。


浄玻璃(じょうはり)にあらはれにけり脇差を差して女をいぢめるところ

飯(いひ)の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口(えんく)のおどろくところ

赤き池にひとりぽつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ

いろいろの色の鬼ども集りて蓮(はちす)の華にゆびさすところ

人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ

罪計(つみはかり)に涙ながしてゐる亡者つみを計れば巌(いはほ)より重き

にんげんは馬牛となり岩負ひて牛頭馬頭(ごずめず)どもの追ひ行くところ

をさな児の積みし小石を打くづし紺いろの鬼見てゐるところ

もろもろは裸になれと衣(ころも)剥ぐひとりの婆の口赤きところ

白き華しろくかがやき赤き華赤き光りを放ちゐるところ

ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下(お)り来るところ



 広いお堂のなかでたった独り、四十分ほども返し返し凝視することとなりました。上の白黒の写真は図書館から借りた本(*3)から写させてもらったものですが、ほの暗いお堂のなかで見る実際の絵は美しく、深くこころを魅了するものがありました。贅沢な時間です。


 ひざまずいて顔を寄せ亡者や鬼の表情や肌を読み取り、立って離れては全体像を楽しみました。血を噴き、こん棒でつぶれた身体が無残です。鬼達は色とりどりに丁寧に塗られ、生き生きと仕置きにいそしんでいます。檀家らしき家族連れが現れてようやく一人きりの時間は終ったのですが、鬼哭啾啾たるリアルな地獄の光景に息を呑むまだ小さな娘さんに、因果応報を怖がらせることなく、やさしく笑いながら諭す若い父親の様子もまた微笑ましくって、まるで
絵画のようでした。

 足裏と膝に当たる畳表の感触も心地良く、時折近くの線路をタタタタ、と奔る列車の音も異次元じみて可笑しかった。


 そうそう、別な柱には赤子を抱く凄まじい顔つきのおんな幽霊の絵も!妖しげな薄い緑色の鬼火が地を這い、そこからまばゆい紅蓮の炎がぶわり生まれて燃え盛ります。その中に歯を剥いてすくと立つ痩せたおんなの白い姿。真黒く長い髪が乱れてわさわさと肩に落ちている──。ひゃあ、ステキ過ぎます!




 下段の写真は携帯で撮らせてもらったものです。ピントが合っていないように見えますが、実際の画像はそうではありません。帰り際に住職さん(若住職さん?)にブログ掲載の可否を伺いましたところ、茂吉さんを大事にしたいから遠慮してもらいたいとの仰せだったのです。もっともな事だと思われます。そこでフィルタを何重にも掛けてぼわぼわに崩してあります。


 光線の具合が尋常でないのがお分かりになりますでしょうか。闇にのっそりと浮かぶような具合です。これは掛け軸の背後が外に面した障子戸だからです。夏の陽射しを白い紙越しにステンドグラスのように背負っているので、より幻想的な光景が広がっています。宗教的な雷撃に打たれるほどではなかったですが、やはりこういう特別な光と影には弱い体質です。あれこれ想いをこらす濃密な時間になりました。


 罪の重量計が亡者の生前の行いを計測しています。僕のこれまでの罪はどのぐらいでしょう。もはや鬼たちも持ち上げられない程にも重く育ってしまったかもしれません。いっそ地獄の底をぶち抜くぐらいの重さにしてしまったら良いのでしょうか。────茂吉さんの歌った最後の二首には救われますね。ダンテの「神曲」を思い出します。



 さて、今回取り上げた“味噌”の歌は、そんな「地獄極楽図」と同時期に作られた初期の作品です。ただただ郷里のひとたちへの感謝をかたちにしたい一心、サービス精神が見て取れます。コマーシャルのコピーみたいな軽妙さが含まれており、笑いさざめく反応を期する気配があります。言葉をあえて選ばなければ、ちょっとあざとい薫りがしますね。あまり錯綜した情念は感じ取れません。


 ただ、十首も続けざまに味噌、味噌と連射される為もあるのでしょうが、遂には“聖なるもの”とまで言い切る様子はちょっと尋常ではない熱狂を感じさせます。遥か遠くにある巡礼地に跪拝するがごとき若き歌人の様子が瞼に浮かんで興味を誘います。故郷と自分とを結んでいる“いのち綱”かまるで“ヘソの緒”のような捉え方ではありませんか。


 “味噌歌”がポジフィルムならば、「地獄極楽図」はネガティブな重みと暗さを湛えており、容易に切り離せない双生児の様相を呈して見えます。極めて純真で、且つ物事に執着する歌人の精神的容貌を垣間見る気がいたします。同じ「赤光」に収められた「おひろ」(1913 大正2年 茂吉さんが三十一歳の作)の悲恋歌四十四首にも通じる“一途さ”が浮き彫りになっていますね。


 いま現在も似たような魂の綾取りは行なわれているものでしょうか。すなわち、味噌は“記号”となり親子、知人の間を宅配便に揺られて行き来しているものでしょうか──。僕が学生だった頃、同じアパートの二階に住んでいた長野出身の男のもとへ故郷から味噌が届けられたことがありました。タッパーに詰められた手作りのそれは、ずいぶん酸味を帯びてリンゴのような匂いがしました。素人目にもいささか未熟な感じを覚えたものでしたが、彼は産まれつき垂れている目尻をさらにぐにゃりと下げて、自信満々に僕に試食を促がし、ついには味噌汁まで作って振る舞ってくれたのでした……。安アパートの部屋に射し込む光と静かな時間をとても懐かしく思い返します。


 味噌を送る──思えば不思議で珍妙な行為です。ひそやかでありながらも濃厚な想いを秘めた、不自然で稀有なやり取りだと思います。





(*1):「みそ文化誌」2001 491-492頁
(*2):「赤光(しゃっこう)」初版 大正2年 1913
(*3):「東北の地獄絵─死と再生」 錦仁(にしきひとし) 三弥井書店 2003
なお斎藤茂吉先生ゆかりの寺に所蔵された“地獄極楽図”に関しては、上記の本よりも次の二点が詳しい。いずれも大空社「近代文学作品論叢書 斎藤茂吉『赤光』作品論集成」(全5巻 1995)に所載されている。・国文学解釈と鑑賞「地獄極楽図(斎藤茂吉『赤光』五)」 柴生田稔 至文堂 1958 8月号 ・教養部紀要 第14号「斎藤茂吉「地獄極楽図」歌綜考」 片野達郎 東北大学教養部 1971 3月号

ちなみに齋藤茂吉さんの“味噌”への執着は以下の頁によくまとまっていますね。
「羽州街道ゆけむり 郷愁写真館 茂吉翁の面影 茂吉と味噌汁」
http://www.yamagatakun.org/kyoushu/mokichi03.html

青臭い夜~日常のこと~



 世はいずこも盂蘭盆であります。妄言はつつしみ、僕たちを形づくった先祖に感謝の意を唱えなければならない。慎ましく夕を過ごし、おさおさ自重怠りなく、家族を愛し、全世界を愛して夜の闇を越さねばならぬ。ああ、それなのに、ただいま午後十時を回り、僕は独りで酔おうとしています。ワインを開けようと思ったら栓抜きがなく、誰かが開栓したままに見捨て置いた焼酎を飲み始めています。なかなか好い具合です。口当たりは悪くないです。

 
 晩酌して酔うという慣習をもたない僕ですが、少し酩酊したい気分の夜もあります。先程レイトショーで観たウディ・アレンの新作が尾を引いています。そんなもの観たってどうしようもないのに、答えが欲しくて仕方がない。生きることの答えがないから、人は生きていくのであって、何を見ても、何を読んでも仕方がない夜ばかりがあるのに、外れるに決まっている宝くじを買うようにして僕は映画館の客席に座り、本を探して読んだりしています。


 なかなかこれは、この原酒は効きますね。酔いが深まる前に書き写さないと!“地獄”について考えています。盂蘭盆だから、ではありませんが、偶然にもそういう時期にそういったことを考えることを愉しんでいます。


 1937年生れの映画監督実相寺昭雄が1970年に安定した職場を何もかも投げ捨て撮入したのが「無常」でした。引き算すると70-37で33、え、33歳だったんだ。ひゃあ!33歳!う~む。酔いが一気に醒めます。ウソ、やっぱり徐々に気持ちよく酔いが回っているよ。


 そのようにして若き実相寺が僕たちに撮って残した作品の一部に、次のようなくだりがありました。うまく打てるかな。まだ二杯目なのに、36%は確かに効きます(笑) よし、持って来ました、「アートシアター」79号です。田村亮と、えーと、これは誰だ、司美智子か。二人とも余計な衣を脱ぎ捨ててしかと抱き合っています。田村亮、俳優の方ですよ!顎髭と口髭が素敵です。(待ってろよ、いつか僕だって髭ぐらい生やしてやる。)


 人にはそういう愛する者と抱き合い、自身の在り様をしかと確認する時間が本当に必要です。それは生物としての揺るぎない仕組み、だと思いますね。そういう時間のない人生は、どこか狂っている──。まあ、いいでしょう。書き写しましょう。




96 古 寺
⑥坐り2FF移動左右に

正夫 子供の頃やった。誰が置いていったのか、家の倉庫に、一冊、地獄絵の古い画集が転がっていて、それも大掃除の時、偶然、見つけたのです。あの時の驚きは、今も忘れません。一体、あの世、この余に拘らず、こんな悲惨があるとは、どういう意味なのか?もし本当に、こんな世界があるのなら、人間なんかはじめから存在しない方が良いのではないか。……私は何度も自問しました。(中略)



 そのうち私は、地獄絵があるからには、極楽の絵もあるに違いない、と思って、そうです、あれは中学に入った頃でした。仏教画のうち、極楽に関する画を集めた本を手に入れたのですわ。……そして、驚きました。地獄絵が。阿鼻地獄、無間地獄、ありとあらゆる種類の地獄を克明に掻き分けてあるのに、極楽の絵は、実は単調なんですわ。アミダと蓮の葉と……それだけです。(中略)



 そしてハタと思い当たりました。こいつは当たり前のことや。極楽の画に快楽のあろう訳がない。……何故なら、快楽は欲を充たした時に得られるものやが、欲を充たす言うことは、正に、悪に他ならないからです。……極楽に快楽のあろう筈はない。(中略)



 ……極楽に快楽はありえない……じゃ、他に何があるのか?荻野さん、一体、極楽には何がありますのやろ。

 
 よかった、書き写せた。

 いやあ、酔いと拮抗するのは面白いですねえ。本音と建前が整理されて、すっきりするものがあります。酔ってはいけない思いと、酔いたい自分が真正面からぶつかって面白いです。

 以上が実相寺昭雄、脚本石堂淑朗の「無常」1970の禅問答のくだりです。




 ──ここで酔いつぶれて、寝てしまいました(笑)、ただいま起床、6時ちょっと前です。確かに焼酎は酔い覚めがいい。こうしてキーを叩いても軽快で嬉しいばかりです。今更すべてを観直す意義も感じないとっても青臭い内容の「無常」ではありますが、この地獄極楽論だけは気持ちに引っ掛かり、その後の読書を導くものになりました。不健全なものとレッテルを貼られるものにずっと惹かれてきたのは、幾らかそのせいかもしれません。


 先日、調べもののために図書館に行って、美術書の棚で「西脇順三郎の絵画」(1982恒文社)というのを見つけて手に取り、嘘や躊躇のない純然たる絵画を見詰めました。誰のためでもない、自分自身のために描かれたであろう風景や女性像に羨望を覚え、自由に生きることの大切さを教わったような気がします。


 末尾には彼の美術や絵画に関しての評論がまとまって載せられており、それを追う内に吸い寄せられるようにして目に止まった一文がありました。書いた当時70歳を過ぎていたらしい西脇なのですが、最近絵筆を持つことが少なくなってきた、とつぶやきます。自分の内側に“地獄”が無くなってきたからだ、と詩人らしい言葉で内面を解析している。


 蒼く柔らかなタッチで染められた山も町も、川辺に小さく描かれたぽつねんと座る若い男の影も、草原に精霊のようにたたずむ白いおんなたちも、何もかも皆が“内なる地獄”を発火点として描かれたものだと言い、老いてその“地獄”が薄らぎ、絵筆を持つ必要が無くなったと言う。


 生きるということ、創造するということは“地獄”を認識し、自然体で向き合うことなのだとさらりと言いのける詩人に深々と首を垂れたい気持ちでいます。聖人君子を装い、天国を無理矢理に演出する必要などない。地獄は地獄とありのままに捉え、その摩訶不思議な諸相を味わっていくのが生きていくことなのだと思います。



 さあ、バスタブにお湯を張って、素裸になって過ごそう。外はみんみんみんと蝉たちが盛んに鳴き叫び、彼らの生と性を懸命に全速力で唱えています。いい夏だと信じます。

2009年8月15日土曜日

死滅した街について~日常のこと~


  仕事の合い間に、というより、遊びの合い間に仕事をこなす日々なのですが、“古代カルカゴとローマ展”が行なわれている博物館に足を運んでまいりました。観客もほどほどで、またまたゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。


 公式ホームページはこちらになっていますね。これから全国を巡るようです。http://www.karutago-roma.jp/top.html ──小規模の展覧会ではありますが、何でしょう、色彩の為せるものか、とてものどかな気配が会場を包んでいますので、お近くにて開かれた際にはお散歩がてら寄られてみたらいかがでしょう。



 非情なるローマ軍の圧倒的な武力で文字通り死滅させられた古代の街に気持ちは飛びます。市民から畏怖と尊敬をもって戸口や墓石に描かれていた記号化された女神や、リアルな足指を持った若い女性が浮き彫りにされた石棺などにあれこれイメージが膨らんでしまいました。


 家族や自身の平穏を日々祈り、逝く者の魂を大事に見送ったであろう古代人の儚いと言えば誠に儚い、やるせない想いの堆積に惹かれてしまったのでした。

 魚醤ガルムかワインかはっきりは分からないのですが、何か液体を運搬するのに使ったらしい大きな素焼きの容器なども一緒に展示されてあって、それもちょっと面白かったですね。

 
 けれど、会場レイアウトから察するところのメーンディッシュでもあり、訪れるひとの誰もが目するのは新生されたカルタゴの街を彩った“モザイク”装飾壁のきらびらかさです。会場の出口付近をどーん、どーんと飾るモザイク絵画の大きさは確かに奇天烈で面白く、僕みたいな天邪鬼さえも完黙させるに足る見応えがありました。とてつもなくデカイやつもあって、これは入場料を払う価値はあると思いました。


 対岸に位置するイタリア半島のベネチアやフィレンツェでは、これはもう圧倒的にキリスト教の教義やイコンだらけの陰鬱なものになってしまうのですが、ここで展示されているモザイク壁画は裕福な貴族の私邸を飾ったものがほとんどです。眉間に皺を寄せるというより、人生を謳歌するために足元や浴室、食堂を覆っていたのですね。うふふ、と笑いを誘うような、のびのびとしたものが宿っています。


 ブレイクの水彩画を思い出される丸みを帯びた描線と軽快な色彩は、子どもの絵本の挿絵と言われれば、そのように信じてしまえるような暖かい仕上がりです。アフリカ大陸に位置し、魚介類が豊富に獲れる海に面した恵まれた風土が根本的に享楽的な、人生を肯定する前向きな表現に落ち着いたものでしょうか。訳の分からない(笑いを誘って見える)靴職人の壁画などもあって、なかなか味わいがありました。




 醤油や味噌からまたまた話題がそれていますが、備忘録と紹介を兼ねて記させていただきました。

2009年8月10日月曜日

池のほとりにて~日常のこと~ 




  いつもの味噌、醤油から話は脱線しますが、ちょっとだけ日常を書き留めておこうと思います。


  アマゾンから取り寄せたまま聴かずにいたCD4枚を、助手席にそっと座らせます。高速道路に乗って、思い切りアクセルを踏み込みました。標高1980メートルの高山の谷間を縫って快適に飛ばしながら、横目で周囲を見渡せば、前後左右の峰々は暗いエメラルド色のひだで覆われています。ところどころに白い霧がたなびいていて、薄もののショールを羽織ったような具合です。(なんて色香に溢れた光景──)


  どのように一瞬一瞬を感じるかで、世界は大きく変相するものです。この峠道を古人たちは幾昼夜もかけて己の足で踏みしめ越えていった訳ですから、彼らから見たらいまの僕など王族以上の道楽ぶりでしょう。まして窓の隙間から挿し入る涼しい風は、悪戯娘の指先や吐息となって僕の気持ちを慰めてもくれます。頬や首を撫でられ、髪はされるがままにさわさわと触られている。ささやかではありますが、考えようでは十二分に贅沢な時間となっています(笑)


  これまで耳を澄ませることのなかったジャンルの音楽に身をしっくり包まれ、既成概念が崩れていくのも可笑しく愉しいものでした。



 ふたつの美術館を梯子しました。都心のものと比べて地方の美術館はこじんまりとしています。特別展の規模も内容も小さなものですが、展示された作品を文字通り「独占」出来る時間が何より嬉しいものです。キスリングの花弁の唄うような躍動感、ドンゲンの白い肌に緑色の影を落としたおんなの密度ある情感、勅使河原蒼風の富士山の無限に奏で続ける色彩の旋律──。


 立ち竦み、行き戻りして、時にはソファに腰をおろして延々と向かい合うことが出来ました。それに館内の外向きに置かれた椅子に気兼ねなく座って(だって人が本当にいないんです)、庭や池、山々といった借景を気が済むまで味わえるのも実に爽快で、至極甘い時間となりました。



 帰路途中にある町に寄って、とある池を目指します。実はこちらがメインの目的地でした。先日図書館を訪れた際に写真愛好家の皆さんによるパネル展示があって、それがこの池を背景に撮られたものだったのです。調べてみたらこのような説明があります。「鶴岡市大山にある。太平山と呼ばれる丘陵は戦国時代に武藤氏の居城であった。(中略)人工灌漑用貯水池で1669年(寛文九)の古地図に記載されている。上池は周囲2.3キロ、面積1.4平方キロ、有効貯水量30万トン、八沢川土地改良区内の約19ヘクタールを灌漑する。」(*1)


 小学館の大辞泉によれば、上野の不忍池(しのばずのいけ)は周囲約2キロとありますからほぼ同じぐらいの広さです。不忍池も蓮が多いし周辺の喧騒が嘘のように静かでお気に入りの散歩コースとなっていますが、大きな違いは何か。美術館と同じで人がほんとうにいません。(おお、なんて贅沢──)


 折りしも雨がぽつぽつと降り出しました。一緒に眺めていた家族連れが駐車場へと急ぎ足で戻っていきます。天気予報は終日曇りであったので、誰も傘を用意して来なかったのです。ざざざ、ざざざざ、と向こう端まで池の全面を覆い尽くしている蓮の葉が雨に叩かれ打たれして、徐々に、やがて一斉に地鳴りのように低く鳴り出していくのを総毛立つ思いで聴きながら、いつしか黒い傘を差した僕だけがこの極楽の光景とひとり向き合っていました。

 一枚では収まり切らぬ光景を、何枚かの写真を合成して再現しました。クリックすると大きくしてご覧いただけます。下のものはオリジナルそのままです。重たいのでご注意ください。


 


  蓮の花は彫刻や絵画で仏の座に使われ、またインドでは女性器に例えられると聞きます。風にそよぎ、ふわりふわりと揺れている無数の桃色の花を見ていると、尊くも色めかしくって、瞳がどうしても離せなくなります。黒いツバメが数羽低く飛び交い、雨音の向うからは蝉時雨、しくしくしくと泣いています。生命を絶たれた魂が行き着く風景がこのようなところであるなら、それも悪くないな、と思います。


 なんとはなしに目を凝らすと、この夏に逝ったばかりの霊魂が薄っすらとひとの形をとどめながら、ついっ、ついっ、と爪先立ちにて花から花へと踊り歩いて見えます。


 それは冗談ですが、逝ってしまう魂たちの安らかな眠りが信じられる、そんな厳かさと優しさがありました。



 ひとには充電が必要ですね。僕は少しだけですが充電なりましたよ。

 みなさんも良い休暇を創って、元気に行く夏をお過ごしください。



(*1):山形県大百科事典 山形放送株式会社 1983



2009年8月8日土曜日

大原麗子「雑居時代」(1973-74)~花散りぬ~


 新聞(*1)の生活面の記事に目が留まりました。“インビジブルファミリー(見えざる家族)”“「集食」家族”──なんだそりゃ。見慣れぬ言葉が並んでいます。親世帯の近隣に子世帯が転居し、夕食などを共にする姿を指すらしい。不況下にあっての生活防衛が根底にあり、「一種の『シェルター』のように受け止められている」という博報堂の研究員の言葉で記事の最後はまとまっています。う~ん、またそんなヒネッタ言葉で煽っちゃって、なんか厭だなあ。


 いまの僕たちの生活は加速度をつけて分裂しています。ひとり一人が別々なものに気持ちを寄せていく時代となり、見るもの、聞くものはいよいよバラバラです。これに対してマスコミは、数個の言葉で無理に集束させようとする傾向があります。“大衆化”させることに心血を注いで見えますが、その方が自身にとっても広告クライアントの企業としても都合がいいからでしょう。百人百様の製品を送り出すより十人十色の型にはめた方が生産効率はずっと良いに決まっているからです。


 食の嗜好や衣装の流行に飽き足らずに、家族の生い立ちや在り様までも言葉で囲い、さも時代の先端で格好が良いように思わせていくのが彼らの術策です。なにも最近始まったことではなく、メディアが生まれて以来なだらかに生活を誘導し、薄い雨雲のように社会を覆ってきたように思います。(*2)



 家族の在り様を方向付ける、ということで言えば、例えばの話として常日頃思っているものがあります。僕は日曜の夕方の「ちびまる子ちゃん」(*3)と「サザエさん」(*4)がどうしても好きになれない。思春期もすれ違いもなく、大病や入院もなく、いじめも登校拒否もなく、成長も老いもない家族像を押し付けてくる姿勢には反撥が湧いてどうにも仕方がないのです。(*5)


 ちなみに長谷川町子さんの原作を読んでみると、テレビジョン上の様相とは趣きが随分と違うことに気付かされます。四コマという限られた空間特性がすべてを縛っている。限られた人数と限られたアクションを描くので手一杯な訳ですね。だから、いわゆる団欒と呼ばれる風景は原作にはほとんど見られない。家族が一同に会して座卓を囲み、ディスカッションドラマを為すのは構造上最初から無理があり、各人各様にバラバラに動き、バラバラな起承転結を生きている。読後の印象は極めて散文的なものでした。


 描かれていない言動が余白の前後左右に透けてありました。四コマという限られた空間特性はスタイルを縛っていたばかりでなく、逆に彼らに伸び伸びとした自由を約束していたのです。家族にあえて語らぬ嬉しき秘め事があり、打ち明けられぬ物狂おしい悩みがある。それが本来の大家族磯野家の在り様であったはずです。


 独立したエピソードを必ず家族に「と、いうわけなのよ」「そうだったんだよ」と“報告する”“告白させる”アニメーションの糊付け構成は、家族の総体と構成するひとり一人の人生を単調にし、想像力の翼を引きむしって捨てたように思います。


 うがった意見と笑われるかもしれないけれど、東芝という家電メーカーを長らく後ろ盾として放映されていったアニメーション「サザエさん」の世界は、家屋を絶対的な安息の地、それこそシェルターとして位置付け、白物家電で埋め尽くすに価する場所と夢を導いていったように見えます。家族が茶の間に群がり、ブラウン管を鏡面として群がる家族像を眺めて安心する。そのように日曜の夕方を演出して家族と家屋の圧倒的なモデル化が計られていったのではないかしらん。 静かに、何気ない態を装って、一部の企業にとって都合のいい形を、僕たちは押し付けられていたのではないか。


 日頃のそんな気持ちもあるから、類型化したホームドラマをここでは避けているところがあります。座卓があり、味噌汁があり、しょうゆ差しが確かに垣間見える。されど、そこに確固たるドラマがあって、味噌汁なり醤油の登用が何かしらの役割を担っているわけではない。僕は精神風土や心理描写と直結した味噌汁や醤油を探したい、そんな気分でいます。




 さて、ウェブ上でも熱心なファンページが見つかりますから、魅力に富んだ内容だったのかもしれませんけれど、今回取り上げる「雑居時代」(*6)を僕は一度も見ておりません。脚本は松木ひろしさん。彼の作品をろくに観たことがないのです。「おひかえあそばせ」「気になる嫁さん」「パパと呼ばないで」「気まぐれ天使」「気まぐれ本格派」「池中玄太80キロ」「結婚物語」──。ごめんなさい、どれも観ていません。「水もれ甲介」と「俺はご先祖様」が少し記憶にある程度だから、僕は語る資格が本当はない。


 劇中で見られる味噌汁に何かしら託されたものがあったのかどうか、それもわかりません。(正直に言えば、こういう絵に描いたような団欒は本当に苦手です。)


 ここで取り上げるのは、ひとえに大原麗子さん追悼の気持ちからです。



 
こうして椀を傾げて味噌汁を口にする彼女の姿を見ながら、日本女性の見目かたちがいかに小振りの漆椀に似合っているか分かります。眼差しをそっと相手から外して息を整え、ゆるやかに傾けていく所作は美しい。素晴らしい、と思うのです。

 西洋でも、海をちょっと跨いだ韓国であっても、こうして椀を口もとまで持ち上げる行為は奨励されずに来ました。軽い漆器の普及がこれを許し、独特の慣習に育っていったのでしょう。熱伝導を緩和する材質も幸いして、女性の白く細い指先でも容易に扱える食文化が花を開いていきました。

 当時二十代後半で花と咲いた女性が、千年を刻む食文化の花とまみえて像を結んでいます。世界の事象のすべては花、僕たちは誰もが花、懸命に生きる花なのだと感じます。


 大きな屋敷に独り亡くなった彼女を哀れむ声は多い。
ですが、二度の結婚を経ての選択があったのだし、不幸であったとは言い切れない。


 “見えざる家族”に翻弄されたり、翼もがれた団欒に埋没するのでなく、花として生き、花として散ったのは、渾身の、そして、なよやかな四季ではなかったかと想い、彼女の放ち続けた艶やかな香りを幻嗅として脳裏に呼び覚ましながら、静かに冥福を祈ってあげるのが同時代を生きた者としての最後の手向けだろうと思っています。


(*1):日本経済新聞 2009年8月3日 26面
(*2):例えば“婚活”なんて最たるもの。おいおい、そんな口車に乗っちゃ駄目だよ、と老婆心が
むらむら湧いて来ます。生きるということの最大のキモである男女の出逢いを、つまらない仕組みに委ねてしまうといずれ取り返しがつかないしっぺ返しを受けちゃうよ。
(*3):「ちびまる子ちゃん」フジテレビ系列にて放送 1990-1992、1995-放映中
(*4):「サザエさん」   フジテレビ系列にて放送 1969-放映中
(*5):子供向けの作品が嫌いというのではないのです。むしろどんなものを見せたい、体験させたい
と思いは膨らみます。想像をこえた事が起きるし、悩み傷つくことばかり、それが人間の暮らし。そんなとき「サザエさん」は味方になってくれはしないよ。もっともっと真摯な物語を友として、涙する自分を支えてくれる分身を作りなよ。そう伝えてあげたいですね。
(*6):「雑居時代」 ユニオン映画 日本テレビにて放送 1973-1974

2009年8月5日水曜日

細田守「サマーウォーズ」(2009)~食べなさい~


 最新のテクノロジーがどのように人のこころを変えていくのか、どの程度の歓びと哀しみをもたらすのか。根が臆病なせいもあるでしょうが、そういった未来予測型の映画を選んで観てしまう傾向がちょっとだけ僕にはあります。

 昔からそうです。たとえば「ブレインストーム」(*1)なんかは面白かったですね。25年も前の作品で新宿の大きな映画館で観たのでしたが、思い返せばパーソナルな端末を操作し、夜な夜なウェブの海に耽溺しがちな2009年の僕たちの姿を予見している箇所がありました。





 よく練られた作品には予言者めいた奇妙な風格があって、なかなか忘れられないものですね。こうして予告編を観ると、あれこれ鮮明に思い出すものがあります。



 先日のレイトショーで観た「サマーウォーズ」(*2)は風格こそ残念ながらありませんが、奇妙でちょっと記憶にこびりつくところがありました。まるで跡形もなく脳裏から消え去る軟派なお兄ちゃんみたいな作品が多いなかで、したたかな面立ちをした思春期の少年みたいな、無骨そのものの印象を残します。


 インタビュウで監督さんは主人公の設定もそうなのだし、やはりいちばんに「高校生に見てもらいたい」と明確に答えています。それなのに、いい歳こいた僕のようなおとなが感想を書くのは不粋以外の何ものでもありません。けれど、スクリーンに“味噌汁”の並ぶ食卓が大きく映された以上は敬意をこめて書き留めておきたい訳です。ムズムズどうにも落ち着かなくて仕方ないので、ごめんなさい、こうしてキーを叩いています。



 物語は現実世界とウェブ上の世界を交錯して描いています。同時翻訳ソフトの普及と高速度回線の津々浦々への敷設がなされた遠くない未来、世界に散らばり住まう人間の意識は“ひとつところ”に集結なっています。十億の人間(アバター)が寄り添い、400万といった途方もない数のコミュニティ(談話室)を内部に有し、銀行や自治体の窓口業務やショッピングはもちろんですが、携帯電話のセンサー機能を介して各人の健康管理まで担うようになったそんな巨大な仮想現実“オズ”が舞台に組まれています。肥大化し、人間社会がすっかり寄りかかってしまった“仕組み”が、この映画の見どころとなっています。



 蛍光色に彩られ、玩具箱をひっくり返したような、けたたましい仮想空間オズ。その対極として江戸時代から高台の畑地にあって眼下を睥睨している古い日本家屋も登場します。空転しがちな登用と捉えられそうですが、作り手なりの思いや計算があったようです。仮想世界のデフォルメされた世界を中和するようにして、縁側、夏戸、扇風機、朝顔の鉢といったこちらも相当デフォルメされた古めかしい日常がクローズアップされていく。記号と記号が綱引きをしているようで、こういう作劇上の“不自然さ”は実は嫌いじゃありません。



 加えて繰り返し描かれているのが“食べる”場景なんですね。それも“和食”を映画では随分取り上げています。朝食の際に座卓に並んだ“味噌汁”の丁寧な描写を見詰めながら、まだ“この未来”でも生き残っていたか、と単純に嬉しく思いました。不自然でも突飛でも、こうして大きなスクリーンに“味噌汁”が映されるのは、なんとはなしに元気が出てくるものです。



 プラスチック然とした仮想世界オズと対局するものとして古い家屋があり、さらにその核に“食べること”があったのです。考えてみればそりゃそうですね。ウェブ上で“食べる”という行為までは(今のところ)擬似体験出来そうにない。どんなにツールが浸透していったところで私たちは“食べ続ける”存在であり、軸足を仮想世界へと完全に移すことは難しい。それが(今のところの)人間の有り様なんですね。


 どんなに世界が変転を重ねても、味噌汁や醤油は日本人のこころを支える要素となって小説、映画、漫画の海のなかで粘り強く浮沈を繰り返してくれるのじゃないか、そんな風に「サマーウォーズ」を観ながら思いました。これから大々的に海外マーケットにも打って出る模様ですが、さてさてここまでの懐古趣味、極めて日本的な“内側”の描き方がどのように受け止められるものなのか。あの“味噌汁”のクローズアップを見詰める海外のひとのこころに、何かしらの化学反応が生じるものだろうか──。そういった点でも見どころは多彩なわけです。何じゃそりゃ、なんか無理があるなぁ(笑)


 でも、いろいろ考えさせられて、とてもいい刺激にはなりました。仮想現実の“仮想”って、実際にやり取りされていることからは随分とかけ離れた表現になっています。ウェブの世界を僕は“夢”とか“仮想”とはもう思えないもの。だから、間近でどんどん膨張していく“現実”の楽しさを静かに見詰め直すいい機会にはなりました。面白い時代ですよね、生まれてよかった、と素直に思います。ホントですよ。


(*1):「サマーウォーズ」 監督 細田守 2009
(*2): BRAINSTORM 1983 監督 ダグラス・トランブル

2009年8月4日火曜日

桃谷方子「百合祭」(1999)~興奮~


 並木さんが、短くなった煙草を灰皿にねじりつけた。

「三好さんが浮気をするからいけないのよ」

 唐突に大きな声で言い捨てた。三好さんの表情が一瞬消えた。

「三好さんが、いつ浮気をしたって言うの」

 とっさに、毬子の奥さんがからだを乗り出した。斜めへ向けた目は、

いつにも増して眼球が飛び出しているように見えた。ジバンシィの

スカーフの先が小皿の醤油に浸った。

「並木さん、三好さんが浮気をしているってどういう意味なの」

 横田さんが、箸を、箸置きに打ち付けるようにして置いた。

「浮気は、浮気に決まっているでしょ」

 並木さんはそう言うと唇を噛んだ。(*1)



 物語の舞台は賃貸アパートです。平屋の一軒家形式で、肩寄せ合うように棟が並び建っています。高度成長期によくあったカタチですね。この僕も似たような風景から幼児期の記憶をスタートさせていますので、ちょっと懐かしい気分です。


 町なかではあるけれど、近くには河が流れ、いまだに湿った土の匂いのする地所に在ります。住居者のほとんどが女性です。そこに、三好輝治郎という七十後半か、八十の前半くらいの年齢のお洒落な男が引っ越してきます。先住していた、七十を越え、最高齢は九十一才というおんなたちの胸の内に懐かしくも嬉しい恋情の焔(ほむら)がじりじりと再燃していき、春色の騒動が勃発するというちょっと可愛らしい物語です。


 可愛らしいと言っても、精神的にも身体的にも完熟し切った男女です。見詰め合い、抗い、許し合いして抱擁に至っていく行為の一部始終が驚くほど綿密に描かれおり、老いを露わにする残酷な描写も多分に含んでいます。



 男は既に性的な能力を失って久しいのですが、余命を目の当たりにして漠然とした焦燥に駆られています。女性を口説き、膝頭にそっと触れ、重なろうと藻掻く様子は痛々しい程です。受け手となる女性たちも同様です。蠢動して止まぬ不安や怖れを内に秘めて、切実な毎日をやり過ごしているのです。読んでいて随分と考えさせられるものがありました。



 ふと、ここで思い返したのは上野千鶴子さんの言葉です。朝日であったか読売であったか失念しましたが、いずれにしても新聞の人生相談に載っていたのでした。ひとには“性欲”と“性交欲”とがあり、これを同一と捉える単純な御仁も世の中にはいるけれど、ふたつの間には雲泥の開き、天と地の高低差があるという内容でした。独りよがりで自己愛に翻弄される前者と、相手を慈しみ“こころ”を抱き止める後者、といったように上野さんは区別し説かれていたかと思います。なるほどもっともだ、その通りだと感じました。


 身体と精神の双方が同時に充足し得るのであれば、それは確かに天上の歓びに等しくって、刹那しっとりと包み込まれる心地好さは何ものにも替えがたいものです。しかし、愛する仲には往往にして組み違いが起こります。ボタンの掛け違いだって在る。その結果として“こころ”を抱き締める“だけ”の関係だって世間には随分とあるわけです。


それ等が著しく劣ったものかといえば、僕にはまるでそうは思えないのですね。そういうのだってアリ、でしょう。“性交欲”とは確かにどぎつい言葉なのですが、内実は柔らかくって広がりがぐんとあります。とても大事な、人生の、そして世界の捉え方だと思っています。




 想いをこうして連ねて行けば、世に言う老人の域に到達した人たちの恋情、つまりは“こころ”を抱き締めることを根幹とする色模様だって、世に多い掛け違いのそれと同等に、切なく健気なものではなかろうかと思えてくるのです。これまで高齢者に向けて伏し目がちだった眼差しは、幾らか上を見据えて、ゆるやかに静かに昇っていく感じです。歳を経るって僕たちが思っている以上に、実は嬉しく愉しいことかもしれません。


 作者の桃谷方子(ももたにほうこ)さんがこの物語を紡がれたのは、四十四才になられてからです。収穫の年齢、といった感じがします。とても身の詰まった芳醇な果物、美味しかったですよ。ごちそうさまでした。読めて良かったです。



 さて、冒頭に紹介したのは“醤油”の登場する印象的な場面です。三好に各々強く惹かれるおんなたちが熱情の炎に焼き尽くされて、いよいよ平静さを失っていきます。男の歓迎会の席上、遂にひとりの喉元から堰き止められていた想いがほとばしってしまい、微妙な均衡の上に成り立っていたご近所関係が決壊を始める。その瞬間が描かれていました。


 “醤油”の色と臭いがおんなの衣服を穢す際にもたらす破壊的なパワーが、さりげなくワンカットで組み込まれています。興奮に陥ったおんなたちの、ぶくぶく、ぐつぐつと沸騰した心情を読者に伝播していて、見事としか言いようがないですね。


 このように“醤油”を“使える”ひとは少ない。桃谷さんというひとはとっても奥深いひとのようで、僕は強く興味を引かれているところなのです。


(*1):「百合祭(ゆりさい)」 桃谷方子 1999  「百合祭」 講談社 2000 所載